第5話

「………ん」


 涼し気な風に頬を撫でられる感覚があって、瑞希はゆっくりと目を開けた。

 夢の中で思い出した、いじめのきっかけ。そんなくだらないものだったのかと気がついて、言葉が出なかった。


 そんなことのせいで、私は左腕を失ったのか。


「……あれ?」


 思考が晴れてきて、瑞希は現実に目を向ける。目の前には知らない天井。寝かされているその場所は、瑞希が全く知らない場所だった。


 起き上がろうとして気づく。自分の左腕を見下ろした。


「……あぁ……」


 肘から先が、無くなっていた。


「……えぇ、ぇぇ……ぇぇええ………」


 抑えきれない喪失感に、幾度となく降りかかる災厄に、瑞希は泣かずにはいられなかった。


~~~


「うぅ……」


 涙と辛さでくらくらする頭を抑え、部屋の中を進んでいく。ガラス張りの壁に掛けられた『CLOSE』の看板。並べられた家具や製品を見る限り、ここは喫茶店のようだ。


 何故ここにいるのかは、もうどうでもいい。とにかく、これ以上なにか失う前に、家に、帰らないと。


「どこに行くの?」


 扉を開け、外に出ようとするその背中に、聞いたことのある声が掛けられた。

 肩を跳ねさせ振り返ると、そこに居たのは、月光が映える黒髪を持つ、見惚れるような美貌を持つ少女──


「黒峰、さん……」


「白亜でいいわよ。瑞希」


 その少女、白亜は鋭い目付きで瑞希を見つめていた。決して睨んではいないが、射止められるようなその視線が、朝の微笑みとは違う美しさを持っていた。


「起きたのはいいけれど、すぐに動くのは感心しないわ。もう少し寝てても良かったのに」


「……ダメ、なんです……私、家に帰ら、ないと……」


 地獄へ向かわないと地獄を見る。八方塞がりな瑞希は、その狭い鳥籠の中で生きている。


「そんな必要なんてないのに。あなた、自分から地獄に踏み入ってるのよ。分かってる?」


 窘めるような白亜。美しい瞳が細められた時、その問いに射抜かれた心が、沸騰したような気がした。


「……そんなの、分かってる!!」


 熱くなる胸が激情を吐き出させる。普段大きな声を出さないから、肺が破裂しそうな程に痛んで、それでもそれが眼中に無いほどに胸が熱い。


「あなたには何も分からない!!私みたいに汚くなくて!可愛くて!一人ぼっちじゃなくて!みんなに愛されてるんでしょ!!私は、私は……私はぁ!!」


 なりたくてこんなのになったわけじゃない。生まれた時から決まっていたような運命からなんど逃れようとしたことか。


 非力な瑞希に出来ることなんてたかが知れていて、一人でダメならと思っても、誰も瑞希を助けなかった。


 その理解したふうな慰めが、人生で一番、瑞希を怒鳴らせた。


 そしてその勢いはすぐに鎮火する。怒りによるエネルギーの暴発など体験したこともないのだ。


「ひぐ……うぅ……」


 怒り続けることもできない弱い自分に自己嫌悪。心をついに自分で痛めつけ始めて、また涙が流れ出す。


 そんな瑞希に白亜は歩み寄り、瑞希の顎を優しく手の甲で上に押し上げた。


 憧れの少女の顔が目の前にあって、その眩さから目を逸らすことができない。ただ、向けられている視線に強い怒りが込められているということだけが伝わってきて。


「あんた、本当にお人好しなのね」


「え……」


「私だったら殺してるもの。そんな人間達」


 吐き捨てるように言った白亜は、瑞希の残った右腕を掴むと強く引っ張っていく。


「は、白亜さ……!?」


「着いてきなさい。───見せてあげる」


 振りほどくこともできないほど強く掴まれた腕。本当にその腕のどこにそんな力がと疑いたくなるほどに、白亜の握力は凄まじかった。


 喫茶店の裏へ続くドアを開き、下に続く階段を引きずられるように降りていく。


 壁の素材が木からコンクリートにかわり、随分と長い階段の先には、駐車場のような広いコンクリートの空間があった。


「ぅ……!?」


 その空間に足を踏み入れた途端、目の前に広がる光景と鼻を突き抜ける悪臭に瑞希は顔を顰めた。


「こ、これは……」


 コンクリートの部屋には、沢山の血痕が残されており、壁までも赤く染め上げられていた。悪臭は主に血の匂い。その中に少しだけ排泄物のような匂いも混じっている。


 そしてその劣悪な環境の部屋のど真ん中には、コンクリートの柱が一本たっていて、その傍で泣きじゃくる誰かがいる。


 頭にエコバックを被されており、顔は見えない。椅子に体を縛りつけられ、エコバック越しに伝わってくるその人物の緊張感がこの部屋の空気を最悪にしていた。


 その人物へ白亜が歩み寄り、頭に被されているエコバックを乱暴に取り払った。


「ひ」


 隠された顔が晒された瞬間、瑞希は息を呑んだ。


 その人は『瑞希』、瑞希をいつもいじめてくる、内田瑞希という女子生徒だった。


「こいつよ、あんたの左腕消し飛ばさせたの」


 白亜がその『瑞希』を指さして言うと、『瑞希』は猛犬のように食ってかかった。


「ち、違う!あれは、そんなつもりなくて……いっ!?」


 そのうるさい口を閉じさせるため、白亜は『瑞希』の耳を引っ掴んで上へと引っ張りあげた。


 ミチミチと音を立てる耳が今にもちぎれそうだ。


「痛い痛い!あんた、こんなことして……誘拐よ誘拐!」


「誘拐、ね。あんた、甘やかされて育ったでしょう?」


 白亜の女神開かれ、『瑞希』の顔を覗き込む。鋭い眼光は、瑞希をここに連れてくる時よりも強い激情を宿していた。


「ちょ……何するつもり──」


 その強すぎる圧に怯えた『瑞希』。今も引っ張られ続ける耳を、白亜はじっと見つめた。


「こんなもの、あなたには勿体ないわ」


「──へ?」


 裂ける音がして、『瑞希』の頬を何かが伝う。生暖かいその液体がなんなのか理解した時、その現実は脳を揺さぶった。


「い、たぁぁあああいい!!!」


 思わず涙する『瑞希』、頬を伝う血の根源は、たった今切り裂かれた耳の付け根からだった。


「な、何して──」


 瑞希は困惑し白亜を見た。その左手には切り取られた耳が、右手にはいつの間にか取り出していたナイフが握られていた。


「何って、瑞希へのいじめのお返しをしてるだけよ。私の気に入った子に手を出していいのは私だけだもの」


 あっけらかんと言ってのける白亜は、綺麗に切りとられた耳を地面に落とすと、それを肉片になるほどの力で踏み潰して、白亜は血のついたナイフの刃を持った。


 そして真顔のまま振り返ると、そのナイフの持ち手を、瑞希へ差し出した。


「さぁ、主役はあなたよ。好きにしなさい」


「え、え……」


 血のついた綺麗なナイフ。それを見下ろして、握りしめようとする自分の右腕が止まらないことに驚いた。


「ふー、ふー、ふー……」


 息があがって、心臓の鼓動が増して、目の前で泣きじゃくる『瑞希』へその切っ先を向ける。


「ま、待って、待って!!ごめんなさい!謝るから、謝るからやめて!!」


「はぁ、ぁぁ、あ………」


 必死な訴えに、瑞希は怖気付いた。せっかく握りしめたナイフも、地面に落ちそうになって震える。


「こんなことしちゃったら、あなたは日本で生きていけない!そうでしょ?ほら、犯罪者になっちゃうんだよ!?そんなのダメでしょ!!!」


 強い否定の言葉に瑞希の心が決壊する。緊迫した状況に堪えきれず、ナイフは地面に落ちて甲高い音を立てた。


「こ、こんなの……無理……無理だよぉ……」


「……やらないの?」


 白亜は蹲る瑞希と同じ高さにしゃがんで問いかけてくる。その美しい声音に凄まじいほどの圧を感じて、瑞希は耳を塞ごうとして……手が足りずに塞ぎきれなかった。


「もう、何も、失いたく、ない……」


 現実逃避を重ねて、震える体すら抑えられずに、うわ言のように理想を並べる。


 生まれた時から変わらぬ周りからの扱いに、反抗する気力も腕も失い、これ以上家を空けると母親がヒステリックを起こしてくる。


 次に失うのは四肢のどれかか、もしくは命だけだ。


「これをしちゃったら……私は、人間じゃなくなる……」


 それが怖くて、生きていく権利を捨てるのが怖くて、瑞希はナイフを拾えなかった。


「──瑞希」


 白亜の呼び声に何も言わずに顔を上げる瑞希。白亜の細い指が顎を這い、その高さを決められた。


 真っ直ぐに見つめられる白亜の目が閉じられた時、瑞希も自然と目を閉じてしまった。


「──ッ?」


 その直後に、自分の唇に重なる暖かく柔らかなものを感じて、瑞希は何が起こったのか分からなかった。


 しかし目は開けず、ただ抵抗もできずに流れに身を任せた。


 すぐに唇の暖かいものは離れてしまって、瞼を優しく撫でられたので目を開けると、瑞希がナイフを拾い上げて再び瑞希へ差し出していた。


「私は今人間よ」


「え……?」


「耳を斬った。踏みつけて地面の染みにした。でも普通に生きてるし、笑えるし、食べれるし、あなたにキスもできる。私は今、人間なのよ。今日も明日も、その次もそのまた次の日も。」


「───」


「あなたがすることはただ、人に似た肉を斬るだけ。あなたがずっとしたかったことを、ただするだけだもの」


 瑞希の心臓が強く跳ねた。心も体もボロボロな瑞希に差し込む一筋の光が、最初から白亜だと決めつけられていたかのように、この現実を受けいれた。


「さっきも言ったでしょ。好きにしなさい」


「───」


「返事は?」


「──はい、喜んで」


 瑞希は立ち上がり、ナイフを受け取った。もう何も躊躇する必要は無い。今の瑞希には、白亜がいる。白亜がいてくれる。誰よりも美しい光が、瑞希をずっと照らしてくれている。


「ね、ねぇ、本当にやるの……ダメダメだよ、そんなの許されない!あんたはそうやって妄想に浸って……そういう所が嫌いなんだよ!!」


 『瑞希』は騒ぎ立てる。椅子がギシギシと揺れて、コンクリートの部屋で反響する。


「謝るから助けよ!!それ以上のことだってしてあげる!!みんなに謝らせるし、仲良くさせたげる!!だから、だか──」


「──うるさい」


 喚く『瑞希』の声が嫌いだ。泣きじゃくるその、世間から見て可愛い顔が嫌いだ。小さな理由でここまで追い込むその性根が嫌いだ。髪の毛も、まつ毛も、心臓も、肌も、唇も、瞳も、舌も、耳も、鼻も、足も、股も、腸も、胸も、肩も、何もかも嫌い嫌い嫌い嫌い───


 全部、汚ったない。


 だから、これ以上汚れたって変わらない、よね。


「き、ぁぁあぁぁああ!?!?」


 ナイフは嘘のように、『瑞希』の左肩を貫いた。流れ出る血はドロドロで、性根が腐ると血まで腐るのかと瑞希は感心した。


「ね、ねぇやめて──ぎゃッ!?」


 今度は右肩。お揃い。


「ごめんなさ──ぎぃ!」


 太ももに突き刺して手前に引っ張ってみた。白い肌に溢れる血が伝う。ここも腐ってる。


「助け──ぐぅ!」


 『瑞希』の座っている椅子ごと地面に乱暴に倒した。その顔を踏みつけ、白亜が切ってくれた耳の傷を靴底で削いでみた。


 面白いくらいに想像通りの悲鳴をあげてくれる。


 ──あぁ、いじめるってこんなに楽しかったんだ。


「──ふふ」


 楽しくて楽しくて、こんなことを延々とされていたんだと哀れな自分の今までの人生が滑稽で仕方なくて、何が面白くて笑ったのかも覚えていない。


 それでも、ナイフを振り下ろす力は強まるばかりだった。


「あぁあっ!?いぎぃ!!ぎゃ!!」


 こちらを見あげる涙目。助けを求める声。その一切合切を、嗜虐心と怒りで無視してナイフを振り下ろし続けた。


「うわぁぁぁああああああああああ!!!!死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね!!!!」


 椅子に縛りつけられて抵抗できない『瑞稀』の腹を裂いた。たくさんの血と内臓が出てきて、それを乱暴に踏み潰す。


 ただ繋がっているだけの汚い肉なのに、踏みつける度に『瑞希』は悲鳴をあげてくれる。

 もっと痛がって欲しくて、踏むのをやめてナイフで切り刻んだ。悲鳴はうるさかった。


 何度も突き刺し、引き裂き、内臓も目の前で握り潰して、怒りのままにその体を荒らし続け、


「あぁああぁあぁぁぁああ!!!!」


 最後に大きく振り上げたナイフを、『瑞希』の眼球へぶち込んだ。


 奥まで刺さったナイフに『瑞希』は悲鳴をあげることなく、バグった機械みたいに母音と血だけ零して、動かなくなった。


「はぁ……はぁ……はぁ……ぁ」


 右手が血だらけだ。生暖かいその血を実感して、瑞希は悟る。


 人を殺してしま──


「それは人じゃないから、大丈夫よ」


 覆い被さるように抱きしめてくれた白亜が、生まれ始めた思考を否定してくれた。

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