第3話

「はぁ……はぁ……はぁ……」


 毎朝、学校に向かう途中が一番精神が辛い。今日も一日地獄だよと、昇る太陽が教えてくるから。


 真上から見下ろして、瑞希の哀れな人生を嘲笑う、明るいだけの惑星が、瑞希は大っ嫌いだった。


 そんなことを考えながら、ぼーっと歩いていたその時、


「あぅっ」


 曲がり角で、誰かにぶつかってしまった。


 体重の軽い瑞希はふっとばされ、硬いコンクリートに倒れていく。


──あぁ、このまま地面に頭を打って、死んでしまえたら自殺にはならないのだろうか。


 迫る地面を横目に、自分の命を守る意味を見失っていると、不意にその体は誰かに支えられた。


「───ぇ」


「大丈夫?ごめんね、私考え事してて、前見てなかったわ」


 瑞希を支えてくれたのは、たった今ぶつかった少女だった。


 黒く長い髪を揺らし、キリッとした目に柔らかそうな唇。そして瑞希を見つめる心配そうな顔。

 そのどれもが、この世界で一番美しく見えた。


「ぁ、あっ、ごめんなさい……!」


「いいのよ、私が見てなかったのが悪いんだから」


 体を優しく起こしてくれる少女。見た目に反して力が強く、瑞希を軽々と持ち上げてきた。しかし抱き上げる腕は優しげで、とても暖かく感じた。


 ずっと触っていたい。ずっとこの暖かさを感じていた──いや駄目だ。


「じ、じゃあ、私はこれで……」


 直ぐに意識を現実に引き戻し、瑞希はすぐにその場を去ろうとする。しかしその少女は「待ちなさい」とその腕を掴んできた。


「あなた、顔色が悪いわよ?その様子だと、朝ごはんも食べてないんでしょう?それに額の傷も……」


「い、いえこれは……!」


「何をそんなに急いでるの。あなた知らない制服だけど、中学生でしょう?まだ朝七時なんだから、そんなに急がなくたっていいじゃない」


 少女は行こうとする瑞希を引き止める。しかし瑞希はこれ以上この少女と一緒にいたくなかった。


 もっと一緒に居たいと思ってしまうから。


「ごめんなさい、急いでるので……!」


「──駄目よ。今は私の言う通りにしなさい」


「ぇ──」


 力強く、されど優しい声色に、瑞希は体が固まった。人の動きを無意識に止めるほどの迫力が、その少女の言葉にはあった。


 その少女は微笑むと、自分のスマホを取り出して瑞希を横に抱き寄せた。


「せっかく出会ったんだし、あなた可愛いから、一緒に写真撮ってくれない?」


「え、え、写真、ですか……?」


 意味がわからず、これが世間の普通なのかと瑞希が目を回しているのを無視して、少女は瑞希の顔に自分の顔を添えてカメラに向かって笑った。


「はい、笑って」


「ぇ、ええっと……」


「そういう時は、『はい喜んで』って言って私の言う通りにするの。いい?」


「……は、はい、喜んで……?」


「はいおっけ」


 仕方なく言う通りにした瑞希の困り顔が、スマホの画面にバッチリと撮られていた。瑞希は自分の顔の隣に並ぶ可愛い顔が眩しくて、その写真から目を逸らした。


 しかし少女はその写真を見下ろしてずっと微笑んでいた。


「まだ名前言って無かったわね。私は黒峰白亜くろみねはくあ。あなたは?」


「……か、上水戸、瑞希……」


「上水戸瑞希ね。いい名前じゃない。気に入ったわ」


「えぇ……」


 傍若無人な少女、白亜の言動に戸惑う瑞希。しかしようやく解放されそうなこの隙を逃す訳にはいかない。


「も、もういいですか……?電車が来ちゃうので……」


「え?あぁそういえば通学の邪魔してたわね。ぶつかって悪かったわ。またどこかで会いましょう。瑞希」


「……は、はい」


 瑞希はそそくさとその場を去っていった。そして、頭にこびりついて離れない白亜の微笑みに頬を赤らめながら、千鳥足で学校へと向かった。


「………」


 その背中を見えなくなるまで眺め、白亜は先程の写真を友人へ送信した。


「『この子のことを見ておいて』っと」


 連絡を終え、白亜もその場を後にした。


~~~


 その日、いつも以上に陰口が多いような気がしていた。


 しかし意外なことに、朝の時間に昨日と同じように社会科の課題を集めて運ぶ瑞希へ、女子生徒はいたずらをしてこなかった。


「……黒峰さんが、守ってくれたのかな……」


 なんて気持ち悪い幻想を口にしながら、瑞希は再び職員室の中にいるであろう間際先生の元へ向かおうとしていた。


 が、


「今日も一度に持ってきたのか。君は真面目すぎる」


 間際先生は職員室の前で待っていてくれていた。小柄な瑞希が大量の課題を運ぶのが不憫に思えた彼は、その課題を全て受け取って、職員室の中へ招き入れた。


 今日は間際先生のデスクではなく、少し裏の応接間のような場所へ連れ込まれた。


「座りなさい」


「……は、はい」


 なにか悪いことをしたのかと、想定していなかった対応にドギマギしていると、対面に座った間際先生は溜息をつきつつ口を開いた。


「君……他の生徒からいじめを受けていないか?」


「……ぇ?」


「私の杞憂だったらいいんだが……君はいつも表情が暗い。それに加えて、いつも何かに怯えているように見える」


 強面に詰められて、瑞希は拳が震えてしまった。言われていることはほとんど当たっているし、彼が瑞希を心配してくれていることも分かっていた。


 しかしどうしてもあの一言が頭をよぎる。


『もしかしてさ……あいつら、そういう関係なんじゃねぇの?』


 その一言を思い出す度に泥に沈んでいくような気分に吐き気を催す。視界が段々と歪んで、頭が重くなる感覚に包まれた。


「君、大丈──」


「こら!そこ!職員室の前で騒ぐな!」


 黙りこくった瑞希を心配して肩を優しくおさえてくれた間際先生の言葉を上書きするように、他の先生の怒鳴り声が響いた。


 直後、職員室の前で何人かの男子生徒の笑い声が聞こえてきた。強面の間際先生は瑞希の肩から手を離し、外を覗いてからまた先程のように腰を下ろした。


「すまない。突然すぎる質問だったね。もう授業が始まる。教室に戻りなさい」


「──は、はい」


「もし、私の言ったことが杞憂ではなく事実で、それが君を辛くさせているのなら、すぐに私に言いなさい。私は生徒を守る教師、君の味方だ」


 その嬉しい一言に、瑞希は素直に笑えなかった。


 ただ真顔で振り返り、間際先生を見下ろして、


「大丈夫です。私は問題、ありません」


 本当のいじめは、助けてと声を上げることすら、できないのだ。

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