第2話

 授業中、後ろの席からの陰口は聞こえ続ける。


 クラスのカーストというものはやはりあって、その上に位置する女子生徒達が何をしていても、クラスの皆は逆らわない。


 面白ければどれだけ倫理観がなくても許される。


 ダメと言われているこの世界でも、結局人は面白いものが好きなのだ。ブラックジョークとか、怒られている人を見るのが楽しいとか、泣いている人を見ると心が踊るとか、そういう気持ちは誰しも持っている。


 もちろん差異はあるが、瑞希の陰口を言い続ける生徒達はその気持ちが大半を占めていた。


「ねぇねぇ、あいつ時間通りに戻ってきたってことはさ、怒られなかったってことっしょ?」


「あーね確かに。なんで?間際ってマジ厳しかったよね?」


「さぁ?機嫌よかったのかな、運悪ー」


 嫌でも聞こえてくる会話が嫌で、瑞希は耳を塞ぎたい気持ちをぐっと抑える。耳を塞いでしまえば聞こえているということがバレて、更に陰口がエスカレートする。


 早くこの時間が終わって、放課後になって、誰も目を向けない自分の部屋に隠れたい。なにも波風立てず、今日もあまり傷つかずに生きていたい。


 その気持ち一心で堪えていた瑞希。その心に釘を打つように、鋭い一言が聞こえた。


「もしかしてさ……あいつら、そういう関係なんじゃねぇの?」


 瑞希の目は見開かれた。


~~~


 授業を終えてから直ぐに帰宅し、用意されない夕食に期待することもなく、コンビニでおにぎりをひとつ買って自分の部屋に駆け込み、ようやく攻撃されないセーフゾーンに戻ってこれた安堵に深く息を吐いた。


「……辛い、辛いよ……」


 膝を抱えて蹲り、しかし涙をこらえ続ける。涙を流してはいけない。瑞希が涙を流していいのは、もっともっとずっと先のことなんだ。


 今日の授業の終わり際に聞こえたセリフが頭から離れない。駆け足で逃げるように帰る瑞希の背を嘲笑う声も頭の中で鳴り響く。それが嫌で嫌で、ずっと水の中にいるみたいに息苦しい。


「もうヤダよ……どこにも行きたくないよ……」


 辛さが募る。募る募る。逃げられない。


「──死にたい、よぉ……」


 そんな勇気もない。度胸もない。やる気が起きない。何も起きず、このまま消え去ってしまえたらいいのに。こんなに辛い思いをする謂れなんてないのに。


 そうして電気もつけないで蹲り続けていた。


──そして再び顔を上げた時、時計は夜八時半を示していた。


「───ぁ」


 まずい。そう思った時には、この家で聞こえる音の中で一番怖いそれが鳴った。


「ただいま」


 玄関のドアが開き、不規則な足音が聞こえてくる。その足音はゆっくりと階段をのぼってきて、瑞希の部屋の前で進路を変え、ベランダに向かった。


 ───足音が突然止んだ。


「──ぃや」


 思わず声が漏れたのと同時に、ドタバタと大きな足音が瑞希の部屋目掛けて猛進してきた。


 鍵も付いていないドアをノックなしに開け放たれ、月明かりが差し込む部屋の隅で蹲る瑞希を見て、足音の主はその場に崩れ落ちた。


「なんで……なんで洗濯物取り込んでないの!?!?ねぇ!!私言ったわよね!?!?取り込んでおいでって!!!毎日!!毎日言ってるわよね!!ね!!瑞希!!」


 目の下に沢山クマをつくった、瑞稀の母親が、持っていたカバンを瑞希に向かって投げつけてきた。


 金具が額に直撃し、肌がえぐれて血が流れ出た。しかし母親の怒りは収まらず、口を閉じないで呼吸する母親は、自分の顔に手を当てて、甲高い泣き声をあげ続けた。


「なんでよ!!なんであなたは私の言うことを聞いてくれないの!!なんでなんで!!私こんなに、頑張ってるのにぃ!!」


「ご、ごめんなさ──」


「うるさい!!そうやって可哀想なフリして!!いつもいつも、私を加害者にして!!こんの親不孝者!!!」


「───ぁ、ぁあぁ、ぁぁ……」


 浴びせられる罵倒と耳を劈く泣き声が、治らない心の傷を、更に深めた。


~~~


 瑞希に父親はいない。生まれるきっかけになった男性はいる。


 夜職だった母親を孕ませ逃げた、遺伝子的に繋がった男性は元気にしているだろうか。その事実は激昂する母親から意図せず聞かされたことだ。


 母親は昔から瑞希のことを、その人との繋がりになる肉の塊としか捉えておらず、言うことを聞かないと現実逃避を始めて鳥のように鳴き続ける。


 そんな惨めな母親の姿は、瑞希の心の成長を歪め、恐怖心に怯えて縮こまる性格を形成させてしまった。


「……うぅ……」


 毎日毎日母親に怒られて、しかし母親の幻想にいる完璧な肉の塊を演じなければ、また怒られて、一度反抗しようとして殺されかけたことだってある。


 瑞稀の救いは、どこにもなかった。


「……明日、明日が、来なければ、いいのに……」


 母親も寝静まった深夜一時。ようやく絞り出せた一滴の涙で枕を濡らして、気絶に近い眠りに落ちた。

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