水溜まりを踏みしめた少女

快魅琥珀

第1話

「痛い」


 漏れた声が面白かったのか、周りはそれ以降も攻撃を続けてきた。


 目を開けることすら嫌になるほど、エスカレートしてきた攻撃は重く辛くのしかかって、ついに地面に膝をついてしまった。


 目はもう開けられない。痛くて痛くて仕方がない。もう、自分は血塗れだった。

 そう錯覚するほどに、罵詈雑言を浴びせられたのだ。


「また泣いてる。そうやってまた逃げるんだ」


 心無い言葉が、見えない心を突き刺してくる。

耳がある以上、不可避の攻撃は幾度となく傷をつける。そして、その傷が言えることはもう、ない。


「やば、チャイムなったよ」


「早く戻ろっ。授業始まっちゃう」


 周りを取り囲んでいた同い年の人達は、チャイムの音に反応して教室に戻っていく。しかしこの子は、この少女は動けなくなってしまった。

 心をズタボロにされて、体が動くわけない。動かしてはならない。ここで、なんと言われようとも、落ち着くまで動いてはならない。


 でも動かなきゃいけない。次の授業が始まるから。


「………行かなきゃ」


 昨日は雨だった。だからか、地面はぬかるんでいて、少女の膝から下は泥まみれになってしまった。


 涙と泥に塗れた少女は立ち上がる。そして、自分がへたり込んでいた泥の中に咲いている小さな花を見つけて───教室へ向かった。


「………行かなきゃ」


 それが、この少女、上水戸瑞希かみみとみずきの日常であった。


~~~


 始まりは覚えていない。


 何が悪かったのか、誰も教えてくれないまま、瑞希は中学二年生となった。


 彼女は彼女なりに普通に暮らしていたのに、小学校でもいじめられて、そのまま中学校に上がってしまった。


 自分だけ上手くいかないなんて生まれつきで、誰かより嫌われてるなんて自明で、誰も助けてくれないなんて当たり前だった。


 親でさえも頼りにならない。


 そう、被害妄想でもない現実を認めながら、瑞希は暮らしていた。


「じゃあ、この係やりたい人ー?」


 今日は二学期に入って最初の日。クラスの係決めをしていた。残っていたのは社会科の手伝いのみ。社会科の教師は厳しく面倒な人だと有名だったので、誰も名乗りを上げなかったのだが、


「上水戸さんでいいんじゃない?」


 クラスの端っこで集まって話していた女子の一人がそういった。瑞希は顔を上げて目を見開いたが、その女子はそんな瑞希の反応を楽しむように笑った。


「まぁ確かに何も役職ないしね、じゃあ上水戸さんで決定ね」


「あ、え……」


 淡々と決められてしまい、瑞希は何も言えなかった。元々人見知りで反論もできない優しい性格なので、ここで皆の前で反対意見を申し立てるなんてことできなかった。


「じゃあこれ持ってって、上水戸さん」


 無関心な担任教師は、社会科の教師に提出しなければならない課題の山を瑞希に丸投げした。


 だいぶ量があり、一人で持てる量じゃない。なので分けて持っていこうとしたが、


「お前、次の授業遅れたら欠席にするからな。遅れないように持ってけよ」


 こちらを見ずに言われた一言に心がひび割れる。少しでも敵意が混じっている言葉を聞くと、体が震えてしまう。

 それに気づいたのか、近くの生徒達は瑞希を笑っていた。


 仕方が無いので、瑞希は前がギリギリ見えるくらい課題を積み上げて持っていく。


「あれー?上水戸さん大変そーじゃん?」


 先程瑞希を社会科係に指名した女子が白々しく言ってきた。瑞希は無視したい気持ちを抑え、恐る恐る目を合わせると、その女子生徒は途端に真顔になって、


「やっぱあんた顔悪いよね。見てるとムカつく」


 そういって持っていた自販機で買ってきたお茶を課題にぶっかけた。


「あぁ……!?」


「あー!課題びしょ濡れじゃん。一番上の人可愛そー」


 女子生徒とその取り巻きは笑いながら瑞希の横を通り過ぎて行く。


「今のはやりすぎだったことない?」


「いいのいいの、あいつ人間じゃねぇから」


「……うぅ」


 瑞希はびしょ濡れになってしまった課題を見下ろして泣きそうになるのをグッとこらえて、職員室へ向かった。


「し、失礼、します……」


 転びそうになりながらドアを必死に開けると、近くに座っていた教師が瑞希を睨んだ。


「声が小さい!やり直し」


「うぅ……し、失礼します……!」


 なんとか頑張って声を絞り出し、目的の教師の近くまで課題を持って行った。


「ま、間際まぎわ先生、課題を……」


「あぁ。君は……」


「に、二年、三組……上水戸、瑞希、です……」


「そうか。一度に持ってこなくとも、友達と分けて持ってくればいいだろうに」


 瑞希の心に突き刺さるような一言を添えて、間際先生は課題を受け取ると、一番上のお茶のシミを見て怪訝な顔をした。


 その瞬間、瑞希の腹の底がジリジリと熱くなったような気がした。


 怒られると思った。


「この生徒、こんな状態の課題を提出して……失礼なやつだな」


「あ、いぇあの、それは違くて……」


「違う?」


 こちらに振り返る間際は眉間に皺を寄せ、鋭い眼光で瑞希と目を合わせた。その強面に内心焦りながら瑞希は必死に伝えた。


「そ、その……私が零しちゃって……どうにか、なりませんか……?」


「君が?」


「………はい」


 正直に話してしまうと後で女子生徒に報復を受けてしまう。ここで怒られた方がマシだ。そう思って、瑞希は自ら罪を被った。


 間際先生は課題をじっと見つめて、重々しく口を開いた。


「嘘だろう」


「……え?」


「君は慎重な子だろう?私はね、担当したクラスの生徒のことは皆覚えているんだ。君がお茶をこぼすことなんてしない」


「で、でも……」


「君、誰かにいたずらされたんだろう?」


 間際先生は瑞希に真剣に向き直っていた。瑞希はそのことが理解出来ずに、ずっと手を震わせていた。


「このことは気にするな。そもそもこの課題は出した時点で満点判定だ。君が危惧しているような事態にはならない。それよりも、よくこんな重いものを持ってきてくれた。ありがとう」


「………は、はい」


 ありがとうなんて言われたのいつぶりだろう。瑞希は怒られなかった安堵と感謝の意味の理解の難解さに苛まれながら、職員室を出て教室へ戻った。

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