第2話 王子と侍女
2 王子と侍女
カナデが眉を顰めたのは――九百二十八個目の重要書類の代筆をしている時だ。
重要書類の代筆は、どこの国でも行われている。
まず専門部署が、特定の案件の草案を纏める。
だが彼等もまた、仕事が山の様にある。
その為、貴族以上の者達に見せられる様な文書は、作成できない。
また他国に送る書状も含まれている為、草案の文章ではやはり失礼に当たる。
そう言った理由から、カナデの様な代筆係が必要となるのだ。
多くの場合、まず草案に全て目を通してから、代筆作業となる。
カナデもそれは同じだったが、彼女の文体には人を惹き付ける何かがあった。
要点を上手く纏め、それでいて詩的でもある。
文才があると言えばそこまでだが、彼女の異常さは文才だけでは止まらない。
端的に言えば、カナデ・プラームは――一日に十二万文字の小説を十作品書く事が出来る。
とにかくカナデの仕事は早く、その熱意も確かな物だ。
これで一侍女だと言うのだから、彼女の同僚達はたまった物ではない。
侍女達は〝何でこの人は、出世しないのだろう?〟と疑問に思うばかりだ。
だが、前述通り、カナデには出世欲はない。
いや、或いは、彼女はこの世のあらゆる事がどうでもいいのかもしれない。
侍女達にしてみれば、そうとしか思えない無欲ぶりだ。
だが、そのカナデ・プラームが、初めて動きを止める。
カナデには悪癖があって、偶にブツブツと何かを呟く事がある。
彼女はこの時も口に手を当てながら、何やら呟く。
一分程そんな事をしてから――カナデは漸く仕事に戻った。
◇
カナデ・プラームがルーティンを破ったのは――九月二日の事だ。
今年十七歳になるカナデは、些か童顔と言える。
それでも背は普通に百六十センチ程あって、決して小柄とは言えない。
その彼女が台車を使って、件の書類を持って来た時、彼はまず驚いた。
「これは、代筆者殿自ら書類を提出して下さるとは、畏れ多い事だ」
けれど、彼ことビジャ・セイレインには、まだそんな冗句を言う余裕がある。
本来なら専属の執事が書類を持ってくる筈なのだが、その手順を破ったカナデは苦笑した。
「はい。偶には私も、力仕事をしたくなりました。
慣れぬ仕事ゆえ、多少手間取りましたが、だからこそ執事殿の苦労も分かるという物。
やはり私だけでは、この城の仕事はとても務まりません」
それはカナデの本心だったが、ビジャは苦笑を苦笑で返す。
「ご謙遜を。
代筆者殿は、一人で千人分以上は働いている。
貴女のバイタリティに他の者も連動できるなら、この国は今頃天下をとっているだろう。
惜しむべきはそこで、貴女は唯一無二の存在と言う事だ。
で、私にどんな御用かな――カナデ・プラーム?」
社交辞令を終えたビジャ・セイレインは、本題に入る。
彼は何の用もなく、カナデが自分の部屋を訪ねる事はないと確信していた。
現在彼の執務室には、ビジャとカナデしかいない。
机の上に書類を何枚も置いているビジャは、両肘をついてカナデを見た。
「はい、殿下。一つだけ、確認したい事がございます」
いや、この時点でカナデは、自分の分を越えていた。
何しろカナデがいま話している相手は――第三王子であるビジャ・セイレインなのだから。
セイレイン王国は現在、五人の王子と三人の姫が居た。
ただ、その内の三人は、正妻の子ではない。
ビジャもその内の一人で、今年二十七になる彼は側室の子である。
ビジャ・セイレインは、だからその分立場が弱かった。
それでも彼が主席執務官である理由は、その有能さ故だろう。
いや、彼にしてみれば、何時の間にかこの立場になっていたと言う方が正しい。
ビジャがカナデと初対面したのも、主席執務官となった時だ。
この城に〝有能な侍女〟が居るとは聞いていたが、それまで会った事はなかった。
同じ階で仕事をする様になったビジャは、興味半分でかの侍女のもとを訪ねた。
その結果、ビジャ・セイレインは、思わぬ行動に出る事になる。
ビジャ・セイレインは――カナデ・プラームにプロポーズしたのだ。
内々に身分を越えて行われたこの求婚は、誰もが羨む物だろう。
末席とはいえ王族に只の侍女がプロポーズされたのだから、当然だ。
しかも、ビジャの容姿は十二分に整っていた。
軍服が似合う彼は、美丈夫とさえ評せるだろう。
本来なら、カナデに拒否権などない。
王族が見初めた時点で、彼女は少なくとも妾以上の立場となる。
だが、バカゲタ事に――カナデ・プラームはこの申し出を固辞した。
いや、彼女は気が利いていて、まだ公になっていない内にこの婚姻話を潰したのだ。
仮にこの件が公になれば、ビジャとカナデは間違いなく結ばれる事になるだろう。
そうならなければ、ビジャの面子は丸つぶれになる。
王族がただの侍女にふられるなど、許される筈もないのだから。
仮にそうなればビジャは立つ瀬が無くなり、一生その屈辱を背負って生きなければならない。
だからこそカナデはそうなる前に、ビジャをこうふった。
〝その場合、私はこの城を去らなければなりません。
その時、あなたは私に対して追手を差し向けるでしょう。
そうなると、私の逃げ場所は最早この世のどこにもない。
どうかその意味をご理解くださいますよう、お願い申し上げます〟
逃げ場所が、この世のどこにもない。
つまりそれは、死さえも覚悟してカナデはビジャから逃げると言う意味だ。
そう察したビジャは、カナデの頑なさを痛感した。
〝ああ、勿論、今の求婚は冗談さ。
けど、一つだけ訊きたい。
なぜ私では駄目なのか?〟
その問いに、カナデ・プラームは答えなかった。
ただ困った様に笑うだけで、カナデは王子に対する無礼を貫き通したのだ。
いや、彼女はもしかすると、こんな日が来る事が分かっていたのかもしれない。
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