第5話
おれ達が川辺に行くと、女性たちが集まって、大騒ぎしていて、ひとりの女性が泣きながらわめいていた。
子供が溺れたようで、指の先に、流れていく頭が見えた。
おれは駆けていって、川に飛び込んだ。
泳ぎはまあまあできるけど、川は海と違って流れるから、そこが問題だけど、子供を救うのはそれほど大変ではなかった。流されていたのは5歳くらいの男子で、恐怖で暴れるものだから、沈んでしまって水を吸っていたが、このくらいなら大丈夫だ。
おれは子供を抱えて岸に上がってくると、みんなから英雄みたいな目で見られて、何度もお礼を言われた。こういうのは初めてだ。
「ありがとう。My people(国民)を助けてくれて」
とクリスティナが言ったから、「my peopleね」とおれが笑った。
おれは自転車に積んであったバッグからシャツを取り出して着替えようとしたが、やめた。
「今度はクリスティナが泳ぐ番だ。教えてあげよう」
「もういいです」
「どうして」
「流れが強いみたいだし」
「そんなことない。大丈夫。ほら、こっち」
おれはクリスティナの手を掴んで水際に連れて行った。
「8月だからね、濡れても、すぐに乾く」
「どうすればいいの?」
「力を抜いて、あごを引いて、ゆっくりと。沈まないから、パニックにならないで」
「わからないわ。もうよいです」
おれはクリスティナを抱えて川の中にはいっていき、水の中に投げ込んだ。
「おれがついているから、大丈夫だって。顔を水につけるのをおそれるな」
クリスティナはしばらくは暴れていたが、やがて身体が水に浮いたから、おれが下から支えた。
「運動神経、あるね」
「タロウのばか。一度は張り倒してやりたいと思ったけど、今は」
「今は……」
「楽しい」
おれは小枝を集めて川原に火を焚いて、服を乾かした。クリスティナはおれのシャツを着て、頬をピンクにして楽しそうに炎を見つめていた。
「今日は新しいことがたくさん経験できました。数えきれないくらい」
クリスティナがあまりにうれしそうなので、おれも幸せな気分になった。
クリスティナがおれの好物を聞いたから、おれは紙にかつ丼の絵を描いてみせた。
「それ、食べてみたい」
「日本に来たら、連れていくけど。もう会えないんだろうな。明日からは女王なんだし」
「会いたいわ。タロウにまた会いたい」
「ねっ、その紙に書いて」
「何を」
「今の気持ちを。それを秘密の場所に埋めておいて、ふたりがふたたび出会えた時、そこに行って読むのよ。どう?」
「いいね」
「サインも忘れないで」
おれ達は紙に何か書いて、それを髭剃り道具をいれてあったハーモニカ型のブリキ缶に折って入れた。
あそこ。
クリスティナがブロッコリーみたいな緑の木を指さした。左のほうがたわわで、傾いているように見えるけれど、よく見ると2本の木なのだ。
おれ達はその木まで歩いていって、ふたつの木の間に、缶を埋めた。
自転車を取りに川原に戻ると、おぼれかけた子供の母親が熱いお茶とパンをもってやってお礼にやって来た。
「あなた様は」
母親がクリスティナを見て震える指で口を抑えた。
「私ですよ。結婚するまで姫のところで働いていたセシリアですよ。覚えておられますか」
「ああ、セシリア。もちろんです」
「どうしてこんなところに。明日は戴冠式ではないですか」
セシリアが慌てて迎えを手配してしまったから、おれ達はそこで、あっさりと別れることになってしまった。
「タロウ、あなたにもう一度、会いたい」
おれも会いたいと心の底から思った。
「会いにきて」
「このおれがどうすれば会えると思う?」
「方法があるわ」
「どんなこと」
「タロウが外交官になれば会えるわ。大使になって会いにきてほしい」
「それまで、タロウ、よい人生をね」
「クリスティナも」
そう言って、おれ達は別れた。
その後、日本に帰ったおれは学校に入り直し、猛勉強して、外交官になった。南米某国の大使にはなれたけれど、グァテコンテルナーゼ王国の大使にはなれなかった。
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