第3話

 その日は8月4日だった。


 おれは自転車に荷物を積み、駅前の道を漕いでいくと、いつの間にか古い石畳になっていて、大きな屋敷の前に来た。周囲をバッキンガム宮殿のような金と黒の頑丈なフェンスで囲まれていて、王宮のようだ。誰が住んでいるのだろうか。ここ、見学させてもらえるのかな。


  おれは自転車を下りて、フェンスに沿いながら歩いていった。すると、そこは屋敷の裏側になるのだろうか、ピンクの薔薇が目立つ庭園があった。


 庭には漫画の世界から飛び出してきたようなドレスを着たプリンセスのような少女がいて、薔薇の匂いをかいでいた。あまりにかわいいので見ていたら、その子がにこにこしながら薔薇の籠を抱えながら近づいてきた。


「英語できますか?」

 と彼女が聞いた。上品な響きだ。


「できます」

「これ、さしあげます」

 柵の間から、白い腕が伸びて、赤い薔薇をさしだした。

「ありがとう。薔薇をもらうなんて、初めてです」


「私の名前はクリスティナ」

「おれはタロウ」

「どこから」

「日本」

「ああ、アジアの国。一度、行ってみたい国です」


「この国は初めてですか?」

「そうです」

「騒々しいでしょ。どこもここも、今日はとても騒がしいのよ」

「そうですか。誰も見えなかったですけど」

「まぁ、タロウったら、何を見ていたのかしら?」

「そうですか。クリスティナも忙しいのですか」

「私はいいの。私のお仕事はもう完了しました。明日までは自由」

「いいですね。自由はいいです」

「そうよね、自由はすばらしいわよね」


「ところで、これから何をするのですか」

「あちこち見学したいのですが、お薦め、ありますか」

「あるに決まっているじゃないですか」

「そうですよね」

「そうだわ。私が案内してあげます」


 クリスティナはちょっと待っていてと言って、屋敷の中に消えてしまった。しばらくすねと、彼女が服を着替えて戻ってきた。茶色の質素な服に、灰色の頭巾をかぶっている。

「この服どうかしら」

「前のほうが似合っていますけど」

「タロウは正直ね。正直な人はいいわ。でも、あまり目立ちたくないから」

「それは、そうですね。あのドレスなら、みんなが振り返るでしょう」

 クリスティナがうれしそうに笑った。ああ、この少女ときたら、なんて優雅で、美しいのだろう。


「どこへご案内しようかしら」

「おまかせします」

「じゃ、私の行きたいところに行ってよろしいですか」

「おれもそれがいいです」

「じゃ、まず市場に行きましょう」


 なんかすごく楽しい気分だった。ぼくが自転車を押しながら市場に行くと、いろんな屋台が並んでいて、国中から集まったかのように大勢の人で混雑していた。

 いたるところに、この国の言葉で書かれて現地語で書かれたらしい旗がひらめいていた。

「あの旗は何かのセールですか」

 クリスティナがおかしそうに笑った。「明日、戴冠式があるのです。だから、みんな忙しいのよ」

「おれは画期的な日にやってきたことになる」

「そうなのよ」


 クリスティナの瞳が輝きながら、一点を見つめている。

 目の先には、長い串にさされた丸いものが売られていた。

「あれは」

「果物飴といって、果物を飴でコーティングしてあるらしいの」

 おれは見ただけで、口の中がすっぱくなってしまった。

「みんな、おいしいって言っていたから、食べてみたいと思っていたの」

 待っていろ。おれは目で合図をして、屋台に行ってその飴を1本買ってやった。

「すごい」

 何がすごいのか知らないけれど、クリスティナが飛びつくみたいにして噛みついたら、パリッという音がして赤い汁が流れた。彼女がポケットを探したがハンカチがないので、手でそれを拭いて、恥ずかしそうに笑った。


「食べてみます?」

 おれは食べたい気持ちはなかったけれど、旅の思い出に、ひとつ食べてみた。悪くはないが、おいしくもない。

 おれが首を傾げたが、クリスティナはうれしそうだ。少し涙を流している。

「そんなに、おいしいの?」

 クリスティナはパリパリと食べながら、鼻をすすった。


「タロウのほしいものは何?」

「別になにもないよ。持って帰れないし」

「でも、何か言ってみて」

「どうして」

「お金を使ってみたいの」

 クリスティナはポケットからぱりぱりの札を出した。ぼくはその札を手にとってまじまじと眺めた。

「大金だよ」


「そうなの?一番大きいのをもってきちやった」

「大きいって、どのくらい大きいの?」

「ほら、あそこにある白い家具、あれが買えますよ」

「すごい。タロウ、何かほしいものを言って」


「そうだな、あれ」

 ぼくは屋台に並んでいた三角形の赤い帽子を指さした。あれは、羊飼いのかぶる帽子みたいだ。

「わかりました。行ってきます」


 クリスティナはひとりで行きたいみたいだったから、おれは自転車の横であぶなっかしい買物姿を見ながら、笑っていた。彼女がはじける笑顔で戻ってきた。

「やったー」という満足感があふれている。この子は市場で買物をしたことがないのだろうか。

クリスティナは帽子をおれに渡し、もう一方の手でおつりを見せた。

「1枚から、20枚に変身。すごいでしょ」

「魔法だね」

 おれも調子を合わせながら、帽子をかぶってみせた。

「よく似合っています」


「ほかにほしいものはない?」

「ないけど、クリスティナは」

「それに乗ってみたい」

 クリスティナがおれの自転車を指さした。


「乗ったことないのよ。馬なら、ありますけど」

「馬は生き物だけど、自転車は……」

「死んでいるの?」

「いや、そういう意味ではなくて、自転車は自分でバランスを取らないとならないんだ」

「教えてくださいます?」


 おれ達は市場の外れに行って、練習を始めた。

「ハンドルをしっかりもって、まっすぐ前を見て、あとは懸命にこぐ。わかった?」

「はい。懸命にこぎます」

 20分くらい練習すると、少し乗れるようになった。


「クリスティナは覚えが早い。こんなにすぐに乗れるようになった人、見たことがない」

「うれしい。こんなにうれしいこと、初めて」

「初めてなんて、オーバーだろ」

「嘘ついたわけではないのよ。本当にそう思ったの」

「嘘なんて、思っていないよ」

「でも、考えたら、3番目くらいにうれしいことだったかも」

「それでも、すごいよ」


 おれが自転車の後ろを抑えて、時々ふらふらしながら、それでも転ばずに、山の方角に向かった。

 周囲が畑ばかりのところに出ると、クリスティナが漕ぐのをやめた。

「疲れたのかい」

「違いますよ。もうひとつ、やりたいことが見つかりました」

「なに」

「ここに乗せてほしいの」

 クリスティナが自転車の前方を指さした。


「後ろじゃなくて、ここね。できます?」

「できることはできるけど」

「問題がありますか」

 おれは胸に空気を吸い込んだ。おれも男だ。

「問題はないです。行きましょう」


 おれはクリスティナを前に乗せて、森のほうに漕いでいった。ブロンドの長い髪が揺れて、シャンプーの匂いの名前は知らないが、甘くて切ない香りがした。

 おれはなぜかわからないけれど、とつぜん、これが青春だなぁと思った。

 これからは、こういう明るい道をまっすぐに歩いていきたい。


 道が昇り坂になったので、ぼくが自転車を押し、クリスティナが先を走って行って 時々、振り返った。クリスティナははぁはぁ言いながら、楽しくて仕方がないという顔をしている。

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