第2話
ぼくは
多野山家はたいてい普通人が多いが、祖父だけができる人。父方の祖父の多野山太郎は外交官で、3ヵ国の大使になった人だから、まぁ、すごいだろ。
その祖父が、88歳になった。
2年前からベッド生活だったのだけれど、長男に命じて、子供と孫全員を家招集がかかった。
祖父はひとりひとりを部屋に呼んで、それぞれに何かを伝えた。遺言のつもりだとみんなわかっていた。
ぼくは三男の長男、一番年下だし、できも一番よくないから、たぶん、もっと勉強して、よい大学に進みなさいくらいのことを言われるに決まっていた。
ぼくの番が来た時は、夕方になっていた。エアコンが消してある部屋の窓があいていて、白いカーテンが揺れて、初春の生き生きとした緑の庭が見えた。おじいちゃんは土いじりが好きだったのに、もう庭にも出られないのかと思ったら、悲しかった。
「おじいちゃん、疲れてないかい。みんなと人と話したから」
と言ったら、祖父は笑顔を浮かべた。にやり、という感じの笑いで、布団の下から赤いものを取り出してかぶった。
「おじいちゃん、寒いの?」
「太朗はいくつになる?」
「来年は18です」
「受験勉強は忙しいか」
「はい。いや。みんなみたいに、そんないいところ、狙っていませんから」
祖父は沈黙したから、やっぱりがっかりしているのだろう。
「夏休みに、太朗の時間を1週間ほど、この爺にくれないか」
「それはいいですけど。何をするのですか」
「旅行だよ」
「おじいちゃんと旅行ですか。うれしいなぁ。どこへでも行きますか。ぼく、おぶってあげますから。温泉ですか」
「いやいや、温泉ではない」
と祖父が笑った。
「爺に代わって、太朗がひとりで行ってほしい」
「どこですか」
「外国だ」
「ぼく、グアムにしか行ったことないんですけど」
「大丈夫だ。太朗なら、できる。詳しいことは紙にかいておくから」
「はい。できるかな。そこに行って、何をしてくればよいのですか」
「それも、書いておく」
「はい」
「太朗は爺と似ているし、爺が一番信頼している」
まさか。
祖父とぼくが似ているのは「太郎」と「太朗」という名前だけだ。
「ぼくは信頼できる男じゃないです。勉強だってできないし、やる気がないと言われているし、ダメな」
そこまで言ったら祖父が手招きしたので、ぼくが顔を近づけると、
「おれは、昔は不良だったんだ。高校辞めて、さんざん荒れていた」
と耳元で言った。
「おじいちゃんが不良ですか」
「そこは太朗とは違うけど、太朗は爺によく似ている。だから、頼むんだ」
「まさか。どこが似ているんですか。ぼくは真逆の人間です」
祖父はまた微笑んだ。観音みたいだ。
「少し休むとしようか。今日は疲れた」
その時、祖父の目のはしに涙が光った。それって、なに?目が疲れたのかい。
「太朗が約束してくれたから、今日はうれしい日だ」
「ぼくも」
「この続きはまたゆっくり話そう」
「また来ます」
必ず、来てくれよという顔をして、祖父が頷いた。
応接間では、みんなが心配して待っていた。ぼくとの面接時間が一番長かったから、さぞ説教されているのだろうと心配していたらしい。
その2週間後に祖父が入院した。
ぼくがお見舞いに行った時には、祖父はなぜか赤い帽子をかぶり、管につながれて眠っていた。そして、1月後に旅立った。
祖父が行ってほしいと言った国はどこだったのだろうか。その国に行って、ぼくに何をしてこいというのだろうか。
しかし、祖父の死により、その約束も消滅した、と思っていた。
夏休みが近くなった頃、祖父の弁護士からぼく宛てに封筒が届いた。
そこには、グァテコンテルナーゼ王国への航空券とホテルを用意したいから、パスポートを持参して、事務所に来訪してほしいと書かれていた。
ぼくはそんな国の名前は聞いたこともなかったから、さっそくググってみると、スイスの近くにあり、女王が君臨していた国だが、昨年暮れに崩御し、現国王はその息子であるという。
封筒の中には、別の便箋がはいっていて、祖父の字で、「この木の下に缶が埋まっているから、この封筒をいれてきてほしい」
とあり、その下に手描きの地図が描いてあった。
何かよくわからなかったが、祖父がぼくのことを覚えてくれたことがすごくうれしかった。祖父のために何ができるのがうれしかった。
*
弁護士が祖父の指示に従って航空券やホテルの手配をしてくれた。ぼくはまずスイスに行き、そこから鉄道で、グァテコンテルナーゼ王国に向かった。
その電車には人が乗っていたと思うけれど、車窓からの風景に心を取られていたせいか、不思議に、何も覚えてはいない。
駅を出ると、空気が新鮮すぎたのか、冷たい空気を吸い込んだ時みたいに呼吸ができなくなり、頭が痛くなって、しばらくしゃがんでいた。
でも、それはすぐに治った。うそみたいに気分がよくなった。
空は絵葉書みたいに青くて、遠くに低い石垣が見え、山羊が遊んでいたり、白い山が見えたりして、中世の騎士が現れても不思議でない風景で、ヨーロッパのイメージそのものだった。
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