第17話シュレディンガーの恋
あの会合から、三日が経過した。
俺は今夜も自宅の食卓に座り、エプロン姿の三津島クロエが作ってくれた弁当箱を前にして、ゴクリ、と喉を動かした。
「さぁさ、今日も味見お願いね。たんと召し上がれ、零宮?」
三津島クロエはまるで新婚さんのような口調で言ったが、これは――。
俺は黄色と白色の二色しかない弁当箱を凝視した。
桜でんぶの乗った白米、梅干し、卵焼き、卵焼き、卵焼き、卵焼き――。
黄色い。異様に黄色い。
まるで春先の菜の花畑のような彩りの弁当を指さして、俺は妹のえるを振り返った。
「え、える、もう卵焼きはいいんじゃないか? お兄ちゃんとしてもたまには唐揚げとか食いたいと言うか……」
「ダメです。ただでさえこれは荒療治なんですから。クロエさんには何としても短期間で卵焼きをマスターしてもらわないと」
えるは断言する口調で言った。
「たった数週間でちゃんとしたお弁当を作れるようになるには、手の込んだお惣菜はなるべく冷凍食品を多用するのがコツです。その代わり、卵焼きやおにぎりなどの手作りレシピはしっかりと手が込んでいなくてはなりませんから」
「おおっ、そういう理論があるんだね! よーし、メモメモ」
三津島クロエは妹のえるの前だというのに例の悩殺ノートにメモを書き足していっている。
コイツ、努力家であることは俺も認めるが、あの気色悪いノートには一体どんな内容が書かれているのだろう。
省ける手間は省き、力を入れるべきレシピはしっかりと。その理屈はわかるけど、しかしこれは……。
この三日間、夕食のおかずが全て卵焼きである俺は恨めしく妹を見た。
「し、しかし、流石に卵焼きはもういいだろ。クロエもずいぶん上達したじゃないか。そろそろ次のステップに……」
「わかってませんね、お兄様は。お弁当において卵焼きはいわば不動のセンターです。そして卵焼きには混ぜる、焼く、切る、盛り付ける、料理の基本が全て詰まってます。基本をおろそかにしていてはどんな料理も成り立ちませんよ」
「そうだよ零宮、えるちゃん、いや、師匠の言う通りだよ! これを食べた八百原が一発で私と結婚したくなる味になるまで付き合ってもらうからね!」
「一発で結婚したくなる味ってなんだよ。それなら卵焼きに媚薬でも盛っとけよ……」
「お兄様は本当にわかってませんね。どんな媚薬よりも強力な媚薬、それは料理に込められた愛情なんですよ」
えるが何もかも達観した賢者のような表情で俺の発言をたしなめ、瞑目して偉そうに腕を広げた。
「そう、それは私が常日頃お兄様に感じている、まるで海のように深く優しく、空のように広く大きい愛――それはどんな薬物よりも人を夢中にさせるものなんですよ?」
「そうそう! いいこと言うわね師匠! そう、これは愛であり恋の味。愛と恋は似て非なるもの。恋とはまるで炎のように身を焦がすもの。私はこの卵焼きで八百原を燃やすのよ!」
「お前ら短期間でどんだけ仲良くなってんだ! 最初はバチバチだったくせに今は小劇場開けるまでになってんじゃねぇかよ!」
「うるさいわねぇ、いいからアンタはただ黙って味見してくれればいいの! それが私たちとの約束でしょ!」
こうも溌溂とした表情で言われると、これが断りにくい。しかも三津島クロエはラブコメのヒロインらしく、とんでもない美少女なので尚更だ。
ちっ、わかったよ、と応じて、俺は箸を手に持ち、この黄色一色の弁当箱を攻略しにかかった。
◆
「まぁ、卵焼きの方はもう十分合格点だと思うけれど、欲を言えばご飯はもう少し硬めの方がいいかな。それと個人的に卵焼きはもう少し甘くなくてしょっぱい感じがいい。八百原は帰宅部だけど男子は濃い目の味付けが好きだと思うから……」
すっかりと空になった弁当箱を前にして、俺は多少卵臭いゲップをしながらお弁当の感想を述べた。
メモメモ、と呟きながら例の悩殺ノートに俺が述べた感想を書き留めた三津島クロエが、「……よし、メモった!」と言いながらノートを閉じた。
「よーし、段々と作るべきお弁当の形が見えてきたわね! 師匠、八百原には割と彩り重視よりも肉や揚げ物中心のガッツリ系がいいと思うんだけど……!」
「おお、クロエさんもそこまで言えるようになりましたか。確かに私も同意見です。クロエさんは飲み込みが早いですね」
決してお世辞ではない、真剣な口調でえるが言うと、えへへ、とクロエが少し頬を赤くした。
いや実際、三津島クロエの料理の腕は、修行を始めてまだ三日目だというのに早くも結構な上達を見せている。
最初に出された卵焼きは焦げる寸前のまっ茶色で、巻くのに失敗してスクランブルエッグ同然だったけれど、今や味はもちろん、色艶、焼き加減共に十分料理と言えるものになってきている。
最初こそ、この人は意外に器用なんだなぁと感心していたのだが、どうもそうでもないらしい。
俺はえるに色々とアドバイスを貰っている三津島クロエの指先を見た。
全く、今どきベタだなぁ。絆創膏だらけの手なんて。
三津島クロエの白魚のような指には、絆創膏が五、六枚も張られていて、その枚数は日に日に増えていっていた。
俺がそれを見るともなく見ていると、えるが言った。
「よし、それじゃあ今夜の特訓は終わりですね。クロエさんは食器のお片付けをお願いします。私はお兄様のためにお風呂を沸かしてきますね」
えるがそう言ってキッチンを出てゆく。
その姿を見送り、エプロン姿の三津島クロエが俺の食器を流しに持っていってくれたタイミングで、俺は口を開いた。
「なぁクロエ」
「なに?」
「あんまり根を詰めすぎるなよ。お前の手、ボロボロじゃないか」
俺の言葉に、最近ではすっかり洗い物も上達したらしい三津島クロエが「どうしたのよ、急に心配なんかしてくれて」と半笑いの声で応じる。
「お前さ、最近帰ってからよく寝てないだろ」
「なんでそう思うの?」
「お前の化粧がいつもより濃いから」
「ぶっ飛ばそうか? 拳でこめかみの辺りをゴリッと――」
「いや、割と真剣な話」
俺が途中で遮ると、ん? というように三津島クロエが俺を振り返った。
「お前さ、肌の色薄いから、お前が思ってるよりごまかせてないぜ。目の下のそれ」
俺が指摘してやると、少し返答に困ったような素振りを見せてから、「ああ……」と三津島クロエが苦笑した。
「やっぱバレてた?」
「家帰ってからも相当修行してるだろ? 料理。お前がいくら器用だって言っても、一週間やそこらでここまで上達出来ると思えないからさ」
「まぁ、それなりには。パパもママももうあと一年ぐらい卵焼きは食べたくないって言ってるよ」
「お前、グラドルの仕事の方もあるだろ。たまにはゆっくりたっぷり寝ないとダメだぜ」
「それでも、強力な恋のライバルたちは待ってくれないからね」
きゅっ、と、蛇口を止める音がして、代わりにスポンジで食器を擦る音が聞こえてくる。
三津島クロエはサバサバとした口調で言った。
「私さ、一葉さんみたいに頭も良くないしカリスマ性もないし、二階堂さんみたいに包容力も女子力もないじゃん? 身体つきは多少自信あるつもりだけど、逆に言えばそれだけだし。メスとしての魅力と彼女としての魅力って異なると思うんだよね」
そりゃそうだけど――俺はなにか言葉を返そうと思って言葉を探してみたが、それより先に三津島クロエが言葉を続けた。
「今までは色仕掛けぐらいしか思いつけなくてさ、人としてはしたないことばっかりしてたけど、今は違うよ。料理を勉強してそう思えた。――今はなんというか、本気でさ、一葉さんと二階堂さんと競ってみたいんだよね、彼女としての魅力、ってヤツをさ」
ああ、凄いなぁ。
本当にこの人は、俺の頭の中で生まれた人とは、とても思えない。
これで何度目かわからないが、また三津島クロエという人の圧倒的な正のパワーを感じてしまった俺は、そうか、と短く返して、視線を俯けた。
「ん? どうした零宮。なんか元気なくない?」
三津島クロエが俺を振り返った気配がしたけれど、俺は視線を上げなかった。
ふと、なんだかたまらない気持ちになった俺は、少しの間、無言で考えた。
もし、この場に八百原那由多がいて、三津島クロエのボロボロの指を見たら、なんと言うのだろうか。
俺なんかのためにどうしてそこまで、とでも言うだろうか。
それとも、あまりの感動に言葉を詰まらせたりするのだろうか。
いや――俺が考えたのは、今の三津島クロエを見た八百原那由多が何と言うか、ということではない。
こんなに必死になって世界に一つだけのお弁当を作ってくれている女を、最終的に八百原那由多はフるのだろうか、という疑問そのものだ。
幾ら三津島クロエと同等、いやそれ以上の美貌を持つ美少女に囲まれているからと言って、最終的に八百原那由多は誰か一人を選び、その他の人にごめんと言わなければならない。
それは言わばハーレムラブコメの宿命とも言える流れなので仕方がないとはわかっているものの、三津島クロエの絆創膏だらけの指を見ていると、なんだかそれがとても残酷なことのように、俺には思えた。
いくら努力しても、いくら振り向いてくれと言っても、ダメなものはダメ。
選ばれない運命の人間は、最初から選ばれない。
そう、それは最終選考で落選したこのラブコメ世界『シュレディンガーのラブコメ』のように。
もし、俺やえるの助力虚しく、三津島クロエが八百原那由多に選ばれなかったら。
ならば今、三津島クロエがしている努力は、この想いは、この世界のどこに消えてしまうのだろう。
もし、八百原那由多が最終的に三津島クロエを選ばなかったら。
そうなったら、誰が彼女のこの努力に価値を認めてやることができるのだろう。
俺が少し暗澹とした気分で虚空を見つめていた、その時だった。
「うわ――!?」
ビチャ、という水音とともに短い悲鳴が上がって、俺は物思いを打ち切った。
「ど……どうした?」
「いや、大したことじゃないんだけどさ……お玉洗ってたら水が跳ね返って濡れたわ」
そう言って、三津島クロエは苦笑しながらこちらを振り返った。
三津島クロエのエプロンごと制服のシャツがべっとりと水に濡れ、髪の毛からも水が滴り落ちている。
あっちゃあ、などと三津島クロエは渋い顔をし、濡れてしまったエプロンを外した。
エプロンを外すと――濡れて素肌に貼り付いたワイシャツの下に、くっきりと水色のブラジャーが透けて、俺はウッと呻いて視線を逸らした。
俺のうめき声に三津島クロエが不思議そうにこちらを見る気配がした。
「え、何? どうしたの?」
「いや――ほら。水に濡れたから色々透けてるし――」
「え? ああ、いいよ別に気を使ってくれなくても。そういう視線には慣れてるしさ」
「おっ、俺が慣れてないんだよ――!」
俺が気まずく言った辺りで、とたとたと足音が聞こえ、えるが戻ってきた。
頭からびしょ濡れの三津島クロエを見て、えるが驚いた声を上げた。
「く、クロエさんどうしました!? びしょ濡れですけど……!」
「ああ、ちょっと洗い物してたら水が跳ねただけだよ。ごめんなさい、タオルかなんかある?」
「ありますけど……いけませんよ、洗い物の水には油汚れも混じってるんですから。そのシャツはすぐ乾燥させた方がいいと思います」
「あー、そうなの? でも着替えとか持ってないし……」
「今洗濯機を回してるんで、それと一緒に乾燥すれば大丈夫です。今ちょうどお風呂も沸かしてますから、クロエさんはウチでお風呂に入っていってください」
その言葉に、えっ? と俺はえるを見た。
「え……ふ、風呂?」
「何を素っ頓狂な顔をしてるんですかお兄様。このままクロエさんを帰したら風邪引いちゃいます。お風呂に入ってる間にワイシャツを乾燥すればちょうどいいじゃないですか。構いませんよね?」
「ま、まぁ、そりゃ構わないけど……」
「決まりですね。ということでクロエさん、お風呂へどうぞ」
「え、えぇ――? 零宮、本当にいいの? 私としては有り難いけど……」
「いいよ、遠慮するなよ。それにお前も最近ゆっくり風呂になんか浸かってないだろ? どうせならくつろいでいってくれ」
「あー……じゃあ、甘えちゃおうかな。零宮、一番風呂いただくね」
おう、と応じると、三津島クロエは我が家のバスルームへと消えていった。
◆
「面白かった」
「続きが気になる」
「いや面白いと思うよコレ」
そう思っていただけましたら、
何卒下の方の『★』でご評価、
または
『( ゚∀゚)o彡°』
とコメントください。
よろしくお願いいたします。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます