第6話

 ミライだけは見ていた。もう十数年にして人生を終えてしまうと本能で感じた際。誰よりも強者の象徴であった父が、何もかも終わりだと嘆いた際。無力であることを後悔しつつ散ろうとしていた際。


 誰よりも馬鹿にされていた少年が、敢然と魔王の灼熱に立ち向かい、その一身では足りぬとばかりに幾本もの深緑の蔓を伸ばし、自分達を庇ったのだ。


 数瞬と数えるのも馬鹿らしいほど短時間で、彼は消えた。消えたはずだった。だが、次の瞬間にはまた彼は現れた。その度に魔法はせき止められ、ついにはミライ達を五体満足にしたまま魔王の攻撃は終焉を迎えたのだった。


「カ、ズラ……様……」

「ミライ。お前は言ったな。人類の平和のために勇者になると。その言葉、間違いだったとは言わせんぞ」


 ミライ達にのし掛かっていた魔力を、カズラの放った蔓が一瞬で呑み込んでしまった。だけど、デインもミライもまだ動けなかった。それほどに目の前の現実が信じられなかった。


「当たり前、です。私は、領民のために……」

「そして言ったな。我が領地を侵略すると。ならば、西に居る領民達はもう、お前達のものだ。せいぜい良くしてやれ。奴らはそうでもしないと生きていけない、弱い存在なのだ」

「カズラ様、一体何を……」


 まるでミライにそれ以上の言葉を許さないとでも言いたげに、カズラはミライの顔を抱き込むように抱えた。不覚にも、ミライの胸は人生のどの瞬間よりも跳ね上がった。


「これは、『蔓』の紋章だ。領民に見せれば付いてきてくれることだろう。ああ、それと……これも渡しておこう」


 やがて、それが離れれば……ミライの耳元には、先日カズラが着用していた、旧時代の遺物。かつてはイヤホンジャックと呼ばれていたものが差し込まれていた。その先からは魔法でも紡げないような荘厳な音楽が鳴っていた。


 ――何も怖くないよ。僕なら大丈夫。何も怖くないよ。信じてるから。


 城下の楽器隊が奏でるようなものよりポップな音が、そんな小さな遺物から流れ出ていたのだ。それは、ミライだけに止まらず、おそらくはこの時代の人間にとっては初めての経験だった。


「カズラ様。これは……?」

「旧時代の遺物も、たまには役に立つだろう。音量を上げればもう、何も聞こえなくなる。紋章とこれがあれば、ユーキルダクト家を討ち取ったと言っても信じてもらえるはずだ。どうせなら、魔王を退けたと報告するといい。領地を拡大させる程度の報酬はもらえるだろう。俺の領民達を……頼んだ」


 そう言ってカズラはミライから離れる。


 その時、ミライはこの先、どうあっても彼と交わることはないような……絶対的な運命を感じた。だが、自らの叫びさえも、カズラの渡してくれた遺物が阻害する。


 ――何も怖くないよ。僕なら大丈夫。何も怖くないよ。信じてるから。


 繰り返し、繰り返し鳴り続ける。ミライは魔王の攻撃とそれから逃れたという安堵。そして、音楽の持つ魔力によって黙らさざるを得なくなった。声の出し方を忘れてしまったかのように、ミライの口は重たくなっていった。


「デイン氏」

「……カズラ君」

「見たでしょう。僕なら大丈夫です。どうか、その子をあなたの領地まで」

「君は、本当は……何者なんだい」


 その問いに、カズラはそれまでの儚さなど霧散させて、皮肉気に口元をつり上げた。


「最弱の、ダメ領主の馬鹿息子ですよ。それ以上でも、それ以下でもない」

「……」

「そう時間もありません。さあ、疾くお逃げください。あなたの娘には輝く未来がある。きっと、大勢の人々の心に平和と正義をもたらすことでしょう。あなた自身もそうです。あなたの言葉で、領民を一人でも多く救えるかもしれない。どれも僕にはできないことばかりです。ですが、僕にも死ぬことくらいはできます。ここからは……俺の戦いです」


 魔王への対峙など……。自殺以外の何物でも無い。だというのに、この少年は嗤った。この期に及んで大きく嗤ったのだ。まるで、末期の剣闘士が終わりのない戦いに生きる喜びを感じているように。


 デインの背筋がぞっと冷たくなる。それは魔王へ対するものとも違う、かつて出会ったいかなる悪人に対するものとも違う。ただただ圧倒されるような、純然たる畏怖だった。


 後は言葉も無く、カズラは再び魔王へ視線を向ける。もうそれ以上、デインにもかける言葉は無かった。だが。


「……君という真の勇者に出会えた事を、誇りに思う……!」


 その言葉だけを残し、デインもミライを抱えて隠し通路の中へと。人間の叡智は伊達ではない。しばしの時間さえ稼げば、魔王の絨毯爆撃も届かぬほどの距離を稼ぐことはできるだろう。


「……アネモア。君も逃げるといい。父上みたいに。今までよく仕えてくれた」


 敢えてデインも語らなかったが、その千里眼には、きっと視えていたはずだ。地下通路へ逃げ込んで、遙か彼方までなけなしの隠し私財を取りに行った当主の後ろ姿が。彼は応援など端から呼ぶ気がなかった。領土も領民も投げ捨て、最期まで彼らしく生きたのだった。


 何はともあれ、もうこの少年には何も守るべきものがなくなったということだ。


 では、この先彼はどうやって魔王と戦うと言うのだろうか。先ほど見せた防御術が無限に使えるなら話は分かる。だが……これはもう、そういう話ではない。


「あなたの姿は……もう、どの領民にも見えておりません。ヒールキラメ家の方々が向かったのならば、心配はないでしょう。誰もがあの方々を支持するはずです。自らの救世主だと」

「そうだな」

「魔王相手です。世界が滅びたとしても、あなたのせいではありません。いえ、魔王が目覚めたのならば、どこかには伝説級の勇者が生まれているかもしれません。あなたの戦いは、無駄死にかもしれないのですよ?」

「そうかもしれない」

「あなたの蛮勇を、讃えてくれる御当主様も、もういないのです……!」

「そんなもの、居た記憶がないな」


 ならば。ならばならばならば。一体何のために、彼は戦うと言うのか。アネモアには分からなかった。十年の月日を共に……いや、違う。無能な子供になど、アネモアは興味が無かった。彼に仕えたことなど一度もなかった。分かろうとしなかった。この少年の心根を、理解しようなんて思わなかった。


 だから。カズラがなんのために死ぬのか、理解できないのだ。ただそれだけが、アネモアには辛くてたまらなかった。


「それでも俺は、この領地を任された、勇者なんだよ。守るべき平和のために、最後まで背を向けない。それをして、人は勇者と呼ばれるんだ」


(この先の一生でも捧げます……。ですからどうか、この子に……このお方への無礼を、ほんの一部でもお許し下さい……!)


 アネモアは後悔した。これまでの屋敷での無愛想だった自分を。一時でも当主を見放し、ヒールキラメ家に寝返ろうとした自分を恥じた。


「……そろそろ、戯れ言は終えたか?」


 魔王の声。その瞬間。地面が爆ぜた。数万の地雷が弾けたように揺れ動き、大地までもがカズラの敵となるかのようにそびえ立った。


「久しぶりの勇者の物語と思い……。しばし聴いていたが。理解できんな。これほど相手のしがいもない敵も久方ぶりよ」

「ご期待に添えなくて結構だ」

「そこの。我の一撃を耐えた褒美として、貴様だけは生かしてやる。その代わり、我と会話せよ。なぜ戦う?」

「語る言葉などない」

「そうか。では、やはり死ね」


 気がつけば、カズラの周囲には大小様々な刀剣が浮かんでいた。ありとあらゆる文献を読み込んだカズラには、その一本一本が魔剣と呼ばれる名刀なのだろうと想像がついた。


 それだけ……。億千万の刃を防ぐ術など、カズラは持っていない。


 轟音と共に、カズラの足下から天まで億千万の刃が突き刺さり、爆ぜた。魔王が使ったのは……今までのような手抜きの灼熱とは質が違う。天使の翼すら射貫いた必殺の魔法である。


「……ぐっ。ごほっ」

「なぜ、なぜ貴様程度が生きている……?」


 だが。肌はただれ、手足を一本ずつ失い、内蔵も零れているような様で……カズラはまだ、そこに立っていた。


 彼は、出来損ないの勇者と呼ばれた少年だった。小さな村の中でも最弱、いくら学び鍛えようとも埋まらないほどの才能の差を持った、勇者を目指すことすらもおこがましいと言われたか弱き存在だった。


「我は魔王。この世の闇を統べる王よ。すなわち、この世界の半分を手にしている神である。その我の前に……お前のような脆弱な輩が立つとはなんたることだ!」


 魔王がただ口調を強めただけで、向こうにそびえる山が砕けた。それほどの圧。


「……俺は、カズラ。蔓の紋章を受け継ぐ、誇り無き勇者のなり損ないだよ」


 それほどの魔力を前にして、なおカズラという少年は前に、魔王の方へと走った。その間にも、失った手足は再生していく。


 そして、あくまで不遜に嗤う。そして呆気にとられる魔王の顔面めがけて、拳を振り切った――。

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