第4話

 見る限りの空に暗雲が立ち込めていた。その漆黒の雲が全て、たった一人の存在によって引き起こされた異常現象だと言って、信じる者が何人いるだろうか。


 彼の者が立つその領地には、優秀な人材がいた。国から様々な特権を得る代わりに、人類の平和のために貢献することを約束された、プロ勇者だっていたのだ。


 プロ勇者を筆頭にしたパーティも合わせれば、およそ百人。他の国に比べれば、少なすぎる精鋭。それがユーキルダクト領の評判を表していると言っても過言ではない。しかして、プロ勇者は一人が一軍に値するとも言われるほどの戦力である。それが百も合わされば、建国を目指しても分不相応ではないのだ。


 だが。彼らの輝きは刹那の間だった。


 魔王が現れた瞬間に息絶えたのが数人。続く一撃で十数人。魔族が現れたと聞いて、飛んで駆けつけ……瞬きをする間に大地ごと焼かれたのが五十人。ユーキルダクト領を守護してきたプロ勇者や兵士がいた森は……死屍累々の魔界と化した。


 領民は未だ正確には知らない。どれだけの脅威が現れたのかを。だが、もしこの魔王がその気になって魔法でも撃てば、ユーキルダクト領の領民全てが死に絶えるだろうことは明白だった。


 その脅威に即座に気付いたのは、皮肉にもユーキルダクト家に在住していた数十人のみだった。それはデインの活躍もあり、館に近い村の住民までは即座に警報が鳴らされた。


 戦えぬ者は荷物も家も放り出して、しかし子供の手だけは離さず、とにかく領外へ向かって走り出した。その道には想像もしたくないほどの数の魔物が、異常な闘気に包まれていた。戦える者はそのための警護に回された。そして、突如現れた魔族に戦いを挑んだ者は……皆死んだ。


「ほう。人間は随分と良い館に住んでおるではないか。ちょうど良い。ここから崩壊をもたらすか」


 そして、魔王はユーキルダクト家へと目を付けた。見栄のため、自らの欲のために飾り付けられ、改装し尽くした結果……哀れ魔王のお眼鏡に適うことになってしまったのだ。


『聞け、虫けら共よ』


 その中でも一番大きな部屋に陣取った魔王は、そこから満を持して魔法による声の拡散を行った……というより、自然と伝わってしまうのだ。魔王の余りに大きな魔力故に、その魔力に触れている者は皆、その声を拝聴することになる。


 そして、魔王が自然に体から溢れさせている魔力とは、ユーキルダクト領全土にまで広がるのである。


『この千年、待っては見たが……人間とやら。もう出がらしだな。文明の再興もせず、新たな勇者が現れるわけでもない。もう見飽きた。よって、我が支配する。これからの世界を動かすのは、魔族である』


 荘厳な声が響く。それを耳にした者はたとえ一つの森を支配する魔物でも数千里は先に逃げるだろうという圧倒的な強さを含んでいた。


 ただ漫然と暮らすだけだった領民はむせび泣いた。魔と戦うのだと剣を手にした者の中には、余りの実力差に鞘ごと地面に叩きつけた者もいた。


『繰り返す。数を増やすしか脳の無い繁殖動物よ。これからの時代は、魔族によって作られる。貴様らの時代は、終わったのだ』


 ――絶望が、舞い降りたのだ。


 ◇


「……お父様。あれは、一体……」

「静かに。おそらく、まだ私達には気付いていない……。だが、なんだ。この魔力量はっ……!どの文献に領地を丸ごと包むバケモノがいると書いてある!?」


 魔王が君臨した館には、多くは逃げ出したものの……まだ数人の人間が残っていた。気配遮断の結界を敷いている部屋に、彼らは逃げ込んでいた。


 そうすることが出来たのは救助に徹していたデインとミライ。そして、荷物が多すぎるために逃げそびれた当主とそれに付き合わされた侍従長のアネモアだけであった。


 その当主はというと顔を真っ青にしておいおいと泣き叫ぶだけである。


「お、お、お……お終いだ! あんな魔族が来るなんて聞いていない! ああもう、逃げるしかない! でもどこに行くというのだ! 帝国、そうだ。帝国へ行こう。あそこには最強の勇者達が揃っているはずだ!」

「貴様も黙っていろ! 今は一刻を争うんだ!」


 思わずデインは身分も恩義も関係も忘れて叱責していた。だが、彼の腕の中には濃厚すぎる魔力に当てられ震えている愛娘がいるのだ。命に代えても守り抜くと誓った少女である。それを思えば、脳がないだけが取り柄の当主への礼儀など、即座に切り捨てて当然なのである。


「お父様。でも、私達も逃げなければ……!」

「どこに逃げるか、それが大事なんだ。ミライ。私のスキル、『千里眼』で視た限りでは……その名の通り、千里において安全な場所などない。残念だが……あれに気付かれないように身を潜め、嵐が通り過ぎるのを待つしかないのだよ」


 デインはそれを思えば、なぜ自分は率先して領民を逃がしてしまったのか、と後悔の念に苛まれる。咄嗟のことで必死だったとは言え……プロ勇者まで一瞬で消し炭になるなど、考えてもいなかったのだ。


 かろうじて自分達は敵の足下……最も見えづらい位置に潜んでおり、国宝級の結界までついている。闇雲にここから抜け出すのは下策だ。しかし、もしあれの視線が不意に動くようであれば……指先をこする程度の力で、自分達は死んでしまうことだろう。


(どうする。どうする。どうする――。あんなものを前にして、打てる手など……!)


「……父上。お任せ下さい」


 その声を発したのは……あまりに自然で穏やかな声を発したのは、いつからそこにいたのか、カズラだった。既にその身は満身創痍の様相。魔王が現れた余波で傷ついたのだろうか……とデインは哀れみの気持ちを抱いた。


「お、おお。なんだ。いたのか」


(……)


 この窮地において、傷だらけの自分の息子に対して、この態度。やはり、ユーキルダクト家に愛はなさそうだと現実逃避めいたことを考えるデイン。


 当のカズラはあくまで自然体で、上位の者に対しての最大限の礼をし、腰を折った。


「ごらんの通り、僕はもう逃げることも叶いません。せめて、かの魔族の気を逸らします。どうか、父上達はその隙に魔力範囲の外へ。領民には指示を出して、既に西方へ固めてあります。後を頼みます」

「……カズラ君。それは……」


 あまりに現実の見えていない発言だった。どこからやってきたかは知らないが、デインの考える限り、まだ外の惨状を見ていない。


(……ん? 本当にこの少年、どこからこの結界の中に入ってきたのだ?)


 非常用の特別製結界である。持ち主の臆病さが見て取れるほど頑丈なそれは、不用意に人が通ればかき消えてしまうほどの繊細さも持つ。コンマ数量の魔力の組み合わせによってギチギチに魔方陣を固めてあるようなものなのだ。


 それを乱すでもなく、壊すでもなく、なんてことはない顔で結界内に侵入する。そんな芸当ができるのは、デインの知る中では宮廷魔道士となった旧友か、自身の興味のために魔王の住む暗黒大陸へ赴くような気が触れた魔法職人くらいだった。


(……いや、気がつかないほど気配がなかっただけか。この状況で私も混乱していると見える)


 デインは密かに額にかいた汗を拭い、説得を続けようとした。その瞬間だった。


「いい加減なことばかり言わないでください! カズラ様、今この屋敷には未曾有の大危機が襲っているのです。いつまでもそんな夢みたいなお話をされている場合ではないのです。私達は、もう……」


 言葉の尻に行くにつれて、ミライの花が咲いたような瞳からは熱い滴が零れていた。デインは声をかけるべきだった。大丈夫だ、と。ただ一言そう言うだけでもミライの気持ちは変わっていたことだろう。


 だが、それこそそんな夢物語。今にも死んでしまうかもしれない綱の上で、虚勢を吐くわけには行かなかったのだ。


 愛娘との最期の会話が、嘘となるなんて……そんなこと、デインにはできなかった。


 だが、少年は続ける。瞳に常にない炎を燃やし、病人めいて見えた頬には朱が差し、声

には明確なまでの殺意が籠もっていた。


「あれはただの魔族だ。慢心して力の上にあぐらをかいている俗物。付けいる隙があるなら突くべきだ」

「世迷い言を……!」


 なおも食い下がろうとするミライに向かって、カズラは無礼にも人差し指を顔に突きつけ、言い聞かせるように深い声を出す。


「ならば、聖女であるお前は、なぜこんな箱の中に引きこもっている? 文句があるなら、その恵まれた光のスキルでもなんでも使って、奴を殺せばいい。それができないなら、お前こそが黙っていることだ」

「……」


 怒りと混乱のあまり、ミライはついに何も言えなくなった。だが、それはカズラの言うことがある意味正鵠でもあったからである。


 弱きこそは、無力こそは悪だ。ならば、今この場において……魔王という最強の存在に何もできないのならば、カズラもミライも立場は同じ。いかにミライにSランクのスキルが備わっているとて……。それはただ、在るだけだ。その使い方も、大きな魔力量の適切な出力も知らないミライは、戦力ではない。


「失礼ながら、カズラ様。それは屁理屈です。魔物一匹倒すことができないあなたに、それこそミライ様を傷つける権利などありません」

「おや、我が侍従長はいつの間にヒールキラメ家の家臣になったんだい? まあこんな家、見放して当然だが」

「……ご自分の家でしょう。今魔王が座っているのは、将来あなたが継ぐべき椅子なのですよ。今焼かれている街は、あなたの故郷なのですよ」

「だからこそ、俺が出ると言っている」


 あくまで疑問を持たず進言するカズラに、アネモアは常のポーカーフェイスも忘れて苛立った。


 確かに、常ならばそれでいいのだ。そう、普通ならば。自分の領地における脅威に対して、領主が出てくるのは当然のこと。領主とは最強の存在でなくてはならず、貴族とはそういうものだ。


 だが……ここはユーキルダクト領。慧眼を持つデインに没と言わせしめた腐った領地。そして、そこに訪れたのは魔王という大陸最悪の悪夢。


 ならば……何が正解だとか、言葉の上では結論が出ることはないのだ。だが、そういう時ほど人間は正論に、正しいと見える方向へ飛びつく。


「Gランク程度のあなたが。この領地において最弱のあなたが、出る幕では無い。と……そう言っているつもりです。ですが、あなたは恐れ多くもユーキルダクト家長男。この先、路頭に迷った領民を見捨てるおつもりですか?」

「路頭に迷う? 馬鹿かお前は。もうそういう段階の話じゃないだろう。断言しよう。この先一日とこの領地に魔王が居座れば、大陸が滅びる。そうした災事において、領民の命など、犠牲者としてまとめられる数字でしかない」

「カズラ様……!」

「だけど、Gランク程度のたかが雑魚が命を懸けるだけで、その危機が回避される可能性がコンマ数パーセント存在する。それを無視するのか?」

「それならばこの私が!」


 ミライの目から見て。どう考えてもカズラの物言いは狂っていた。どの視点に立とうともアネモアの言っていることの方が正しかった。


 カズラの言い分なら、Sランクスキルを持つ同じ年齢のミライの方がコンマゼロゼロゼロ数パーセント、勝率は上がるはずだ。つまりは詭弁。自殺の口実とでも言ってくれた方が気が休まるという話だ。

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