第40課題 ウォール・トゥ・クライム06——【紗々棋一葉7】

 声が聞こえる。


『お願い。誰かひなちゃんを止めて』

紺瞳こんどうさん?』

『えっと、紗々棋ささきさん……? お願い、ひなちゃんを助けて!』

『なにがあったんですか?』


 どういう理屈かわからないが、会話ができた。頭の中で直接話しているような感覚だ。

 目の前の壁のオブザベーションをしつつ燈香ともかさんに指示を出しながら、紺瞳こんどうさんの言葉に耳を傾ける。


 どうやら鷹戯たかぎさんはクライミングベストのエアバッグを抜いているらしく、つまりは落ちたら死ぬと言うことがわかった。

 なぜそんなことをするのかまで説明されたけれど、正気の沙汰ではない。


 鷹戯たかぎさんは燈香ともかさんの隣の面からスタートしている。つまり真上に居る公算が高い。


『何色を登ってますか?』

『青色』


 青か。だとすると赤を登る燈香ともかさんからは離れている。落ちたときにも最悪接触事故はない。


『ひなちゃん!』


 悲痛な叫び声。なにが起きた。落ちた? 最悪の事態が頭を駆け巡る。僕はほとんど無意識で、瞬間的にドローンを操作して壁に突っ込んでいった。


 ——上から燈香ともかさんが降ってくる状況があるならともかく——1.2秒後の落下速度は時速42キロ——お守り程度のもの――それでもないよりは——いざと言うときのために水平方向のセンサーはすべてオフにしてある——


 視界の端に影がすべり落ちて来る。


 間に合うか。


 落下してくる鷹戯たかぎさんを眼前に捉え、突っ込む。


 間に合え!


 機体が体に接触。


 Air3エアスリーの先端に取り付けられたセーフティボールが展開。


 視界が真っ白に包まれた。


 行けたか!?


 なにも見えない。


 FPVゴーグルの側面のボタンを押して、前方視モードに切り替える。

 壁が映る。そこにはゆっくりと落下してくる白い球体があった。よくよく見ると鷹戯たかぎさんらしき人影が中に入っていることが確認できた。良かった。間に合った。


「ふぅううううう」


 とてつもない疲労感に襲われて大きく息を吐きながらその場に崩れた。そしてその横にAir3エアスリーが落ちて来た。機体はひしゃげて、プロペラガードが折れていた。セーフティボールの展開のすさまじさを物語っている。これはさすがにもう使えないだろうな。


 周りがやかましい。実況の声もいっそう大きかった。鷹戯たかぎさんや僕の名前を呼んでいる。でも、今はそんなことは右から左に抜けて行った。


一葉いちは、大丈夫!?』


 その言葉でハッと我に返る。


「ごめん、燈香ともかさん」

『なに?』

「ドローン、壊れた」


 しかし彼女は安堵したようなため息を吐く。


『良かった。一葉いちはが倒れたりしてなくて。あ、でもなんで壊れたの? もしかしてさっき落ちてった白いのって、一葉の?』

「うん。セーフティボール」


 僕は先ほどの紺瞳こんどうさんとのやり取りを説明した。そうしている間に、大会主催者の救護班が現れて、鷹戯たかぎさんを担架に乗せて担いでいった。紺瞳こんどうさんもそれについて行く。


『そうだったんだ。危なかったじゃん。一葉いちはが間に合って良かった』

「でも、ここからオブザベーションができない。ごめん」

『謝んなってー。アンタの男気でアタシもテンアゲしたし、こっからは一人でも行けるからさ。あ、別に一葉いちはが必要ないってことじゃないよ?』

「うん、大丈夫。そこはわかっているから。ありがとう」

 燈香ともかさんは登り始めた。僕の視界の外側で。僕はただ、見上げるしかない。

「あの、紗々棋ささき、さん」


 荒い呼吸の紺瞳こんどうさんがいつの間にかすぐそばに居た。


「はい。あ、鷹戯たかぎさんは?」

「命に別状は、ないそうです。ただ、今は、意識を失っていて」

「そうなんだ。まずは良かった。早く目が覚めるといいですね」


 僕が笑顔を向けると、彼女は眉をハの字に曲げて、それから深々と頭を下げた。


「本当にありがとうございました! それと、ごめんなさい。ひなちゃんを助けるためとはいえ、あなたたちの邪魔をしてしまった」

「そんなの、あの状況じゃ仕方ないですよ。まあ、本当はちゃんと安全に登ってほしかったですけど、今騒ぐようなことじゃないですし」


 彼女は大きく深呼吸をして整えると、顔を上げ、持っていたFPVゴーグルとプロポ、それからドローンを渡して来た。


「バッテリーも新しくしておきました。使ってください」

「いいの? というか、ルール違反ではないですか?」

「オブザーバーの道具についてはルールの明記がありませんから。それにさっき医務室に行った帰りに、審判に事情を話して、他の選手に道具を貸しても大丈夫かどうかの確認を取りました。道具は途中で変えてもいいし、道具を使わなくてもいいと。ルールを犯したわたしたちが言うのはおかしな話ですが、ルール上はなんの問題もありません。だから、わたしとひなちゃんの分まで頑張ってください」


 僕は素直に受け取るとFPVゴーグルを装着した。ゴーグルもプロポもドローンもペアリング済みだ。


「ありがとうございます。紺瞳こんどうさんは鷹戯たかぎさんのそばに居てあげてください。目覚めたときに、あなたがいないと寂しいでしょうから」


 発作を起こして何度も倒れたことがあるからわかる。目が覚めたときの混乱を一番落ち着かせてくれるのは、近しい人の声だ。


 紺瞳こんどうさんは「ありがとうございます!」と叫んで駆けて行った。


燈香ともかさん、聞こえていた?」

『うん。来れんの?』

「行ける。すぐに向かうから」

『じゃ、待ってるね。なんかアタシ詰んだっぽいから』

「いよいよ僕の出番ってわけだね。腕が鳴るよ」

『頼りになるぅ! そんじゃヨロ!』

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