第39課題 ウォール・トゥ・クライム05

『3、2、1——』


 プォオン!


 レーススタートの電子音。あたしはゆっくりと壁に近付いて行く。その後ろをドローンが上昇していく。150メートルの長期戦。オブザベーションもそう簡単には行かない。


『おぉおおおおっと! なんという速さだ! 昇乃しょうの選手がもう登り始めたぞ。やはり八馬堕やまだ選手のオブザベーションは人知を遥かに凌駕している!!』


 いくらなんでも早過ぎる。絶対なにかインチキをしている。彼がしているインチキとあたしの安全無視はどちらが重いルール違反だろうか。仮にあたしのクライミングベストの件がバレたら、八馬堕やまだくんの不正も暴いてもらわないといけない。大丈夫。あたしにはファンがいる。感動したがりの人たちが。きっと挙ってあたしを守りに来てくれる。そいつら全員まとめて、利用してやる。


 あたしは焦らず璃々りりちゃんの指示を待つ。


『青で行くよ。右上。足は左下の二つね』


 指示通りに指と足を掛けた。

 次々に指示通りに手足を出していく。あたしの手足は短い。身長も低い。だから届かない場所もたくさんある。それに筋力も少ないからランジやサイファーみたいな技もそんなにはできない。けれどあたしにはあたしにしか行けない道がある。


『左上、ハリボテに左側の肋骨を引っ掛けて、右斜め上の膨らみを掌で押さえて、ほんの少しだけ傾いているから、右足で蹴って、上に行けるよ』


 ——ヒナノルート!

 璃々りりちゃんが導き出してくれた、あたしの行く道。玉座への航路。


『出して来たヒナノルートぉおお! こんな道筋、考え付く人間がいるのか! 答えはイエス! この世で唯一、紺瞳こんどう選手が考え付きます!』


 歓声が上がる。


 璃々りりちゃんの指示出しより先に、あたしの指先は動き始めている。どこに行けば良いのかがわかるわけじゃなくて、璃々りりちゃんの指示が耳に届くより先に聞こえて来ている感じだ。あたしは璃々りりちゃんと一つになろうとしているのかもしれない。あたしのことを理解してくれたあの日から、あたしたちはどんどんと近付いて行った。


 50メートル地点を超えようとしている。


『他の選手は来てないから気にせず行って』


 第二ステージに入った。

 璃々りりちゃんの声と一緒に、璃々りりちゃんが見ている映像が頭の中に入って来る。小説を読んだときに、文字から得た情報が映像になるみたいに。

 声が映像化されていく。あたしの姿がどんどん俯瞰的になっていく。


「羽が、あるね」


 璃々りりちゃんの瞳に映ったあたしの背中には、羽が生えていた。


『そう。ひなちゃんは、空を飛び回る鳥なんだよ』


 あたしの体は、どんどん軽くなっていく。重力が溶けていく。気を抜けば、上昇気流に体を持って行かれそうになる。

 あたしは翼で風を受けてさらなる高みへ向かう。


『またまたヒナノルート! そしてついについに! 鷹戯たかぎ選手が昇乃しょうの選手を抜き去りました! スタートの差をものともせず! なんという番狂わせ!』


 番狂わせ? ううん。これが本来あるべき姿なんだ。それをみんなにわかってもらわないと。


 75メートルを超えた時点で、不意に風がやんだ。

 そして同時に押し寄せて来る、下降気流……じゃなくてこれは、重力?


『大丈夫!?』


 璃々りりちゃんの声に我に返る。


「……ふぇ、なにが?」

『ひなちゃん、すごい息が荒いよ。それに、今ズームしてみたら、すごい汗かいてる』


 言われて初めて自分の息が上がっていることに気付いた。


 75メートルを超える高さに来たのは初めてだ。先の予選でも75メートルまでだったから。それにいつもは30メートルくらいまでしか登らない。いつもの倍以上の高さに居るんだ。


 考えないようしていた現実が次々に溢れて出て来る。

 そして、辿り着いてはいけない予想に辿り着く。


「落ちたらどうしよう」

『ひなちゃん!?』


 あっ。


「違う。違うよ。大丈夫。あたしは落ちないから。次はどこ?」


 璃々りりちゃんの声が聞こえない。


璃々りりちゃん?」


 一呼吸、二呼吸、あたしの荒い息と、風が通り過ぎていく音だけが聞こえた。


『……降りよう、ひなちゃん』


 暗闇が鼓膜から入って視界を覆った。


「なんで、そんな……! あたしは大丈夫だよ。璃々りりちゃん、あたしを裏切らないで!」

『裏切りじゃないよ。わたしがひなちゃんとこれからもボルダリングペアを続けるための選択だよ。この大会で優勝しなくてもいいじゃない。また次頑張れば』

「次の大会で同じことになったら? またその次頑張ればって? 同じことを何度も何度も繰り返すの!?」

『お願い、冷静になって』

「もう知らない」


 弱音を吐いたのはあたしの方だ。でも、それはついうっかりだ。まだ登れる。指先の震えも、止まる。止まれ。止まれって。まだ行けるでしょう? 行ける? いや、行かないと。あたしが行かないとお母さんがまた壊れちゃう。あたしのせいでお母さんが壊れちゃう。


 お母さんの「ごめんね」という言葉が頭の中で繰り返される。


 ごめんね。


 黙れ。


 ごめんね。


 黙れ黙れ。


 ごめんね。


 黙れ黙れ黙れ!


「うぁぁああ!」

『ひなちゃん!』


 あたしは飛んだ。

 瞬間、両肩から音がした。


 ——ポキッ。


 折れたのだ。いとも簡単に。あたしの、翼が。

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