第38課題 ウォール・トゥ・クライム04——【鷹戯ひなの】

 ついに決勝が始まった。


 あたしの隣には最近注目を集めている火登かとう紗々棋ささきペアが居た。周りの人たちは「今だけだ」とか「ビギナーズラック」とか言っているけれど、わたしは全然そんなことは思わない。確かに火登かとうちゃんは雑な子かもしれない。でもそう言うクライミングにしないために、紗々棋ささきくんがちゃんと指示できている。なにより、火登かとうちゃんの足の長さと強さはすごいを通り越して異常だ。腕の力より足の力が必要って言われているこの競技で、それはもうほとんど反則に近い。


 6面から5面に減るとき、ギャル・和服ペアの二人がどんなルートを取るかわからないけれど、隣だから被る可能性はすごく高い。だったらなんとしてもわたしが前に出なきゃ。


『いよいよ始まりました! お待たせいたしました! 今年の大会は去年までとはなにかが違うぞ! さあ、日本一の頂に誰よりも早くマッチするのは誰なのか!』


 どこからか「ひなのちゃん頑張ってー!」と声が聞こえる。ファンの人たちの声援に応えるために振り返って手を振る。至るところから「かわいい!」「がんば!」と声が聞こえる。

 この声援もすべて、お母さんに届いているはず。


 壁を向いて、ふうっと大きく息を吐いて、吸い込む。

 クライミングベストを触る。


『試合開始まで10秒前!』


 カウントダウンが始まる。電光掲示板の数字が変わるたび、観客席から数字を呼ぶ声が上がった。


 あたしのクライミングベストは、ただのベストだ。

 これを知っているのは璃々りりちゃんだけ。10メートル以上の壁を登るときはクライミングベストの着用が義務付けられている。でも中のエアバッグは1200グラムもある。それは冬物のコートの重さに匹敵する。体重が30キログラムしかないあたしにとってそれは、重過ぎる枷だった。

 璃々りりちゃんが導き出してくれるヒナノルートも、あたしの体重だから行ける。1200グラムも重くなったら、登れなくなってしまう。

 このせいであたしはボルダリングを始めたばかりの頃、10メートル超級の試合でまったく勝てなかった。実力だけならあたしが一番なのに。昇乃しょうのちゃんの方が上って、そんなわけないよ。

 あたしの体の成長は止まっている。だから筋力も付けられない。1200グラムをなんとかするための筋力が付けられるなら、そうするための練習をする。でもそれは無理だ。なら、その1200グラムを初めからなくすしかない。


 あたしはクライミングベストからエアバッグを抜いた。璃々りりちゃんには内緒で。

 でも初めてクライミングベストからエアバッグを抜いて試合をしたあとに、璃々りりちゃんに怒られた。


「ひなちゃん。自分がなにをしたのかわかっているの!?」


 一発で見抜かれたのだ。それはあたしの動きをずっと見続けて来た璃々りりちゃんだったからわかったことだった。


「もう二度とこんなこと――」

「するよ」


 璃々りりちゃんの紺色の瞳が、ものすごく震えていた。


「勝つためには、なんだってする」

「どうしてそこまで」

「お母さんに、産んでくれてありがとうって言うため」


 ずっと泣いていたんだ。あたしの病気を知ったその日から、毎日謝っていた。


 朝食を摂るときもごめんね。

 学校へ行くときもごめんね。

 帰って来たときもごめんね。

 ケンカしたときもごめんね。

 なにかがあるたびごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。


 やさしくて誰よりも責任感のあるお母さんが、目の前で壊れていくのがつらかった。

 そんなお母さんを置いて、お父さんは出て行った。生活費は払うから。そんな言葉を残して。小学生の頃の話だった。

 あたしが守らないといけないと思った。謝り続けるお母さんに、「ありがとう」と言い続けた。


「でも、ありがとうって言うためにも、根拠がいるでしょう?」


 あたしは登って来た頂を指して続ける。


「だから勝つんだよ」


 当たり前の話をしただけなのに、璃々りりちゃんは膝から崩れ落ちた。


「わた……わたしはどうすれば」


 いつもは見上げる璃々りりちゃんの瞳を見下ろした。肩に手を置く。


璃々りりちゃんは、今まで通りオブザベーションをしてくれたらいいから」


 けれど璃々りりちゃんは首を振った。あたしを止める気だろうか? もしもそうなら、ペアを解消しなくては。勝てないあたしに意味はない。勝たせないペアにも意味がない。璃々りりちゃんのことは好きだから、ケンカはしたくない。


「これまで通りのオブザベーションはしない。ひなちゃんが勝って、絶対に落ちないためのオブザベーションをする。たとえこの目が、使えなくなっても!」


 真剣をその目に宿していた。言葉通りの覚悟があった。


「でも、璃々りりちゃんは目の病気なんだよね? 無理はしなくても――」

「わたしは怖くない! ひなちゃんのためなら、この目が潰れても構わない!」


 真っ直ぐ見上げて来た瞳は、血走っていた。それは雷雲みたいで、どういうわけだか胸が高鳴った。


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