第36課題 ウォール・トゥ・クライム02——【紗々棋一葉6】

「わかった。アタシはアタシとして、アタシができることを精一杯頑張るよ」


 控室での燈香ともかさんは、完全に吹っ切れているように思えた。昇乃しょうの選手に勝ちたいとかそれ以前に、ボルダリングペアを楽しみたいと思っているようだった。

 だから予選である準決勝は危なげなく勝てた。僕の導き出したルートに100%応えるような形で。

 決勝でも燈香ともかさんは勝てると思う。相手が日本王者だとか関係なしに。でもだからこそ、僕は八馬堕やまださんに会って確かめておかなければいけないことがあった。


 一度燈香ともかさんから離れて八馬堕やまださんが居る控室の方へ向かった。近くまで行ったところで目が合ったので会釈をすると、手招きをされた。

 誰もいない控室に入れられる。


「なにか?」


 八馬堕やまださんの表情は冷徹だった。これから僕が言おうとしていることをある程度予想しているのかもしれない。


「この間、僕がデータ取りの話をしたとき、八馬堕やまださんが怒っていらっしゃった理由がわかりました」

「心外だな。怒ったなどと。私は他の選手の戦い方に立ち入るべきではないと教えてやったまでだ」


 あれが無意識的な怒りだとすれば、やはり燈香ともかさんが言う通り隠し事をしていたと言うことなのだろう。


「AIを使っているんですね」


 僕がズバリ言うと、八馬堕やまださんはため息を吐いた。


「やはりあのときすでにわかっていたのに、しらばっくれていたのか」

「いいえ。あのときは気付いていませんでした。クライマーのデータを細かく取っている八馬堕やまださんのことを素直に称賛していました。ですが、八馬堕やまださんがあまりに怒るので、なにかやましいことがあるのではと思ったんです」


 八馬堕やまださんは椅子の背もたれに背中を預けて腕を組む。


「それで? 脅しに来たのか?」

「いいえ。お願いをしに来ました」

「お願い?」

「そうです。どうか、正々堂々と戦ってください」

「なぜそんなことを願うのかな?」

「僕は別にあなたの不正を白日の下に晒してやろうなんて思ってない。ただ真剣勝負がしたい。あなたの元カノの燈香ともかさんは、あなたのことがまだ好きなんです。昇乃しょうのさんとの勝負にこだわるのも、勝ってあなたを見返してやれば寄りを戻してくれるかもしれないと思っているからだ。初めて好きになった人なのだと言っていました。僕は女の子の気持ちとかよくわからないけれど、でも、それくらい強く好きだと思えることはすごいことなんだと思います。僕も燈香ともかさんが望むことなら叶えてあげたいと思う。でも、不正をおこなうあなたと付き合うことは許しがたいんだ」


 八馬堕やまださんは眉をひそめる。


「それを燈香ともかが知ったら、さぞ悲しがるだろうな」

「ですから、彼女には言っていません。不正の事実は明らかになりません。だからせめて、正々堂々と戦ってください」


 彼は肩を落として深々と息を吐いた。

 それから僕を見上げる。


「大人の世界がわかってない坊やに社会のことを教えてやろう。まず、正々堂々なんてものはエンタメ競技である以上有り得ない。なぜなら、勝者は確定しているからだ」

「どういうことですか」

「今回のこの大会でなにか不満はないか?」

「不満?」

「シード権はなぜ存在するのかね?」

「それは人数の関係で仕方なく」

「それなら予選で勝ち上がれる選手の数を調整すればいいと思わないか? 母数が初めから決まっていたり事前に調整が不可能だったりするならまだしも、この大会の特性上、それらは問題なくクリアできるはずだ」

「じゃあなんでシード権が」

「体力温存。前回王者にもう一度勝ってもらうためさ」


 八馬堕やまださんは組んでいた腕を解いて広げる。


「言ったろう。エンタメなのだよ。みな絶対的王者の存在を欲している。

 スポーツ番組を見たことがあるか? 確かにすべての選手がバランスよく強ければ、試合は見応えがあるだろう。だが、試合の見応えがあるだけでは意味がない。エンタメ競技としてやっている以上、金を生まなければ。

 そのために王者が必要なんだ。とてつもなく強い王者が君臨するからこそ、ファンが生まれる。ファンはたくさんの金を落とす。王者のクライミングシューズやクライミングウェアを皆欲しがる。王者が買い替えるたびに、クライミング関係のグッズが売れる。だからスポンサーになりたがる。スポンサーは大会を開く。

 そしてこの大会の主催者は佳奈美かなみのスポンサーだ。佳奈美かなみが負けたらどうなる? 自社のクライミング用品が売れなくなるよな。だったら絶対に勝たせないと」

「シードくらいで勝ちは確定しないでしょう。確かに体力は温存できるけれど、その分ウォーミングアップになったって燈香ともかさん言っていましたよ」

「もちろんそれだけじゃあ勝ちかくにはならない。だが、先も言ったように、この大会は主催者が佳奈美かなみのスポンサーなんだ」


 組んだ足の上に組んだ指を置いて続ける。


「このウォール・トゥ・クライムでは徐々に壁が減っていくのをご存じかな?」


 最高峰の戦いの舞台は6角形の塔。この塔は、麓から50メートル地点で一面、以降25メートル進むごとに一面が減って行って、最後は二面になる。最初のリードが覆りにくい仕様となっている。そして最後の二面は天辺で繋がっている。これまでの大会では別々の頂上を目指していたが、最後の二人は同じ頂上を目指して登ることになる。


「この壁の面数が減っていくと言うのは駆け引きを生み出す、大会を盛り上げるために作られたものだが、実はそれだけじゃあない。どんどん減っていくが、最初に用意された壁は一人一面。基本的にはまったく同じ壁の傾斜と凹凸、ホールド、スローパーが用意されている。が、ほんの数ミリだけホールドが大きかったり小さかったり、或いはほんの少しホールドの向きが違ったりして、勝たせたい選手が登りやすいように細工されているのだとしたら?」

「そんなの選手たちはすぐに気付……あ」

「察したようだな。そう。気付かないのさ。この競技は二度と同じオブザベーションができないように、毎回壁のホールドのセットが変わる。つまり、他の選手が登った壁を改めて登ることは一生ないんだからな。些細な違いは視聴者にはわからないし、プロでもカメラ越しにはわからないだろう。もし仮に君がこのことを言ったとしても誰も信じないし、弱者の僻みにしか思われないだろうな」

「一見公平に見える、第二ステージ以降も、公平だと錯覚させるためのトリック……?」

「その通りだ。最初の一面は自分専用。だが二段目からは五面に減る性質上、自分で壁を選ぶことができる。しかし、わざわざ反対側に回るメリットなどない。基本的には自分の登っていくルートで一番近い壁を選ぶ。となれば、当然佳奈美かなみのルートになり得る壁が登りやすい壁と言うわけだ」


 燈香ともかさんと昇乃しょうのさんは逆側だ。必然、燈香ともかさんの壁は登りづらい設定になっている。


佳奈美かなみの両サイドには準決勝で成績が悪かった二人が並んでいる。燈香ともかが対極に居ると言うことは、準決勝のタイムは一番良かったと言うことだ。これも一応、タイムが近い者同士が隣を登ったら二段目三段目に上がるときに接触事故の可能性が高まることから、リスク回避のために離していると言うことにしているが、実際は佳奈美かなみを守るための忖度だ」


 八馬堕やまださんの言葉を元に邪推するなら、一番早い燈香ともかさんの壁が一番登りづらくなっている可能性がある。


「そこまで有利なのに、さらにAIで不正までするんですか」

「不正……ね。君はルールブックを見たことがあるか?」

「はい。一応目を通しています」

「ならそこにAIの使用を禁ずると一文でも書いてあったか?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る