第34課題 二人の行方04

「おっ。ペア再始動か?」


 郷兎さとうさんが近寄ってきた。


「良かったなあ燈香ともか一葉いちはが戻ってきてくれてよ」


 郷兎さとうさんはどうやら事情を知っているようだ。


「戻るもなにも、前の大会でミスしたのは僕なので、燈香ともかさんが許してくれるならそれで」

「お? そうなのか? なんかコイツすげー焦ってたぞ? 一葉いちはにイライラ全部ぶつけちゃった! どうしよう嫌われちゃう! どうしよう! アタシ一葉いちはのこと大大大好きなのにってぐほぇぉおおっ……!!」


 みぞおちに燈香ともかさんの肘打ちが炸裂していた。


 頬を染めて視線を逸らしているけれど、つまりそれは郷兎さとうさんの言っていることの信憑性を物語っているわけで。え? 大好きって言った!? 大大大好きって!?


 なんだか嬉しくなってしまった。僕のことをそんなに思っていてくれたなんて。


「ちょ、なに泣いてんの!?」

「ごめ、嬉しくて、つい」


 僕がそう言うと益々彼女の頬は赤くなった。

 燈香ともかさんは、スキンシップは表情も変えずに平気でしてくるけれど、精神的に距離が詰まると恥ずかしいみたいだ。


「それで、出るんだろ。ウォール・トゥ・クライム」


 呼吸を整えた郷兎さとうさんが言った。


「みんなお前らの出場待ちわびてんぞ。昇乃しょうの八馬堕やまだペアに勝つんだろ?」


 燈香ともかさんは大きく頷く。


「もち。今度こそ勝つよ。アタシ、スローパーもハリボテも練習する。アタシが登れる道が増えたら、一葉いちはも考えるのが楽になるっしょ? 今まではアタシが登るために一葉いちはが頑張ってくれてたけど、今度は一葉いちはが考えるためにアタシが頑張るよ」


 燈香ともかさんができることが増えたら、僕も最短ルートの計算が楽になるだろう。けれども八馬堕やまださんの爆速オブザベーションには敵わない。


「どうやったらあんなに早くオブザベーションを完了できるんだろう。やっぱりデータを取っているとそれだけ早くできるものなのかな」

「ほう。八馬堕やまだは努力家なんだな」

「そうなんですよ。でも、データのことを僕が知ったらすごく怒っていました」

「怒ってた?」

「ええ。他の人に告げ口をしたらただでは済まないって。それで僕は、データを取ることはダメなことじゃないですよねって言い返したんですけど、これ以上首を突っ込むなって怒られてしまったんです」

「そりゃ変だな。バレーやバスケットみたいに相手選手のデータが自分の勝敗を分けるような競技ならともかく、ボルダリングペアなら別に他の選手が知ったところであいつらが不利になるような話でもないだろうに」


 燈香ともかさんは「あー」と思い付いたように言葉を発した。


「なんか隠し事してるときだそれ。アイツ、アタシが浮気疑ったときとかスゲー怒ってたもん。結局昇乃しょうのと付き合ってやがったしー」


 隠し事……か。


 自分のペアのデータを取ること。過去の対戦。ルート選択。どれもこれも隠す必要のないものに見える。全部自分たちのことなんだから。

 けれど、データを悪用することを前提にしていたら……。


 自分の中で一つの可能性がはじき出された。もちろんただの憶測だ。しかしこの憶測が、八馬堕やまださんが隠していることなのだとすれば、辻褄が合って来る。


 いや、今は目の前のことに集中しよう。燈香ともかさんだって、八馬堕やまださんを悪く言われるのは嫌だろうし。


「そう言えば、お願いがあんだけど」

「なに?」


 燈香ともかさんのお願いだったらなんでも聞く。


「この間してくれたネイルをさ、足の指にも描いてほしいんだよね。登ってるときにこれ見えるとスゲー頑張れんだけど、見えないとこにもほしいなって。ほら、一葉いちはが足元を支えてくれてるって思えるじゃん?」


 それはとても光栄なことだ。

 燈香ともかさんの練習が終わったあとに描くことになった。着替えて来た燈香ともかさんがベンチに足を下ろす。


「よろしく」


 前から描こうとするとまた無理があるので、僕は燈香ともかさんの後ろに回り込んでベンチを跨いで座った。彼女にはそのまま立っていてもらうことにした。


「あ、ちょっと待って。ヤバいかも」


 そう言ってサッと前に出て遠ざかってしまう。


「どうしたの?」

「いや、汗かいたなーって」

「大丈夫だよ」


 僕は近付いて彼女の足を捕まえる。脹脛の横から爪に狙いを付けて描き始める。彼女が言う通り汗の匂いはしたけれど、悪臭なんかではない。


「やっぱ臭くない?」

「臭くないよ。強いて言うなら運動後の燈香ともかさんの匂いがしているだけだよ」

「それヤバイ匂いじゃん!」

「ヤバくないよ。無臭ではないと言うだけだから。どっちかって言うといい匂いに分類されると思う。そうだな。燈香ともかさんは焼き肉の匂いをどう思う?」

「あれはフツーにいい匂いじゃん」

「だよね。でも、よく考えたらいい匂いなわけがないんだよ。だって死体を焦がしている匂いなんだよ?」

「おー、確かにそーかも。じゃーなんであれあんないい匂いに思えるん?」

「それは、焼いたあとの肉のおいしさを知っているからだよ。多分焼き肉が嫌いな人が嗅いだら嫌な臭いになるんじゃないかな?」


 僕は言いながらも描き進める。燈香ともかさんも落ち着きを取り戻してくれたので、描きやすくなった。


「って納得しかけたけどやっぱおかしくね? アタシ食い物なの!? 食べる気!? って言うか食べたことあるの!?」


 しれっと論点をずらしたのがバレてしまった。僕はそのまま否定も肯定もせず、「あともうちょっとだから我慢して」と言って続けた。


 やっぱり燈香ともかさんはスキンシップ以外での羞恥心は人並みにあるようだ。僕はなんだかそれが嬉しくて、思わず笑ってしまう。僕だって足の匂いを嗅がれるのは恥ずかしい。だから燈香ともかさんの気持ちもわかる。僕と燈香ともかさんが同じ価値観を持っていると確認できる。あれだけわからなかった彼女を、一部分だけでもわかると言うのが嬉しい。

 そのうえでとぼけてみたりして、彼女の反応を見るのは楽しい。それは僕がいつもされていること。多分彼女も、僕を見て楽しんでいるんだろうから、たまにはこうやってやり返すのもいいんじゃないかなと思う。それこそ、友達として。お互いにからかい合うことができるのは、尊い関係なんだと思う。


「できたよ」


 そう言って顔を上げる。と同時に爆速で顔を下げてベンチに顔面を打ち付ける。


「おごっ!」


 鼻が逝った音がした。


「ちょ、なにやってんの!?」


 言えない。言えないよ。スカートの中のパッションオレンジが「こんにちは」していたなんて。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る