第二幕後半

第28課題 月見杯01——【紗々棋一葉5】

 月見杯。


 ここのところ連続で試合に出ているし、ウォール・トゥ・クライムへの挑戦権はすでに獲得しているのだから今回はスキップしようと言ったのだけれど、燈香ともかさんの希望で出ることになった。

 と言うのも、この大会には昇乃しょうの八馬堕やまだペアが出場する。彼女の目的は昇乃しょうの選手に勝つことで、なにも日本一になることではない。八馬堕やまださんにいいところを見せられればそれで。


 彼女はそれで良いのだろうけれど、僕はそれで良いのだろうか。もちろん大会に出ること自体はやぶさかではない。けれど、もしも燈香ともかさんがこの戦いで昇乃しょうのさんに勝って八馬堕やまださんから寄りを戻そうと言われたら、どうすればいいのだろう。次のウォール・トゥ・クライムは八馬堕やまださんと出場したいと言われたら? 僕はおとなしく身を退くべきだろうか。

 彼女は彼のことを、初めて好きになった男だと言っていた。それくらい他の元カレとは別格なのだ。前回のウォール・トゥ・クライムでの八馬堕やまださんを思い出す。超絶イケメンだった。高身長だし、肩幅もあって、頼りがいのある体格だった。すごいのは見た目だけじゃあなかった。正確無比なオブザベーション。僕なんか比べ物にならない。

 と言うか、そもそも僕はただのペアだ。身を退くもなにもないじゃないか。

 余計なことばかりを考えてしまって試合前だと言うのに全然集中できてない。アップをしている燈香ともかさんはいい感じで集中できているようだ。

 僕は気分転換に散歩をすることにした。


 しばらくあてどもなく歩いていると昇乃しょうの八馬堕やまだペアの控室に辿り着いた。一般の客は入れない仕組みになっているのでファンが列を作っていると言うことはない。改めて自分も選手側の人間なんだなあと、それでも他人事みたいに思った。


 特になにをするわけでもないし帰ろうとしたとき、テーブルにパソコンを置いてコーヒーを飲んでいる八馬堕やまださんを見つけた。ちょうどパソコンの画面がこちらを向いていたので、見るともなしに見えてしまう。

 そこには昇乃しょうの選手の身長、体重、腕の長さや足の長さなどと言ったデータがものすごく細かく記載されていた。のみならず、これまでの大会で使ったルートやそのときに掴んだホールドの大きさや角度まで。ありとあらゆる豊富なデータがそこには蓄積されていた。

 こんなに多くの情報を取り扱っていただなんて。そりゃあ正確無比なオブザベーションができるだろう。


 僕は自分を省みて恥じ入った。

 燈香ともかさんが銀将ぎんしょうに見えたり桂馬けいまの動きができると憶測立てたりできるなんて言うのは全部見た目からの直感に過ぎない。バックデータなんてありはしない。最近仲良くなれて、いろいろ知った気でいたけれど、その実彼女の掌が何センチかなんて知りもしないでいる。彼女の方から手を差し伸べてくれたと言うのに、僕はそのやわらかさしか知らないのだ。


 八馬堕やまださんは、燈香ともかさんを振った酷い人だと思っていた。けれど、その前に彼女が惚れるだけのことはあるんだな、やっぱり。


 ロッカールームから外に出た廊下のベンチに燈香ともかさんが座っていた。ベンチを使ってストレッチをしているようだった。僕は彼女の後ろに座って背中を押した。


「ありがと」

「これくらいしかできないからね」

「いつもベーションしてくれるじゃん」


 先の八馬堕やまださんのデータを思い出す。比較すれば自分のオブザベーションがいかに拙いものかわかる。お礼を言われても申し訳ない気持ちになってしまった。


八馬堕やまださんに比べたら、全然だよ。彼、すごく昇乃しょうの選手のことを調べてデータ化してた。試合が始まる前からオブザベーションをしているようなものだよ。真面目なんだね。燈香ともかさんが惚れるのもわかる気がする」

「え、あ、あー? そんなに真面目だったかなあアイツ。まあでもさ、一葉いちは一葉いちはでいいところあるから。今日のベーションも気合入れてヨロ!」

「うん」


 燈香ともかさんの言う通りだ。今さら比べても仕方ない。僕は僕にできることを精一杯すればいいんだ。

 試合が始まる前の最後のトイレ。その帰り道に聞きなれない声に呼び止められる。


「ちょっといいかな?」


 振り返るとそこには八馬堕やまださんが居た。声もカッコ良くて渋い。いわゆるイケボと言うやつだ。

 向こうから声をかけて来ることは想定外だったので思わず固まってしまった。彼は周りをきょろきょろと見回したあと、僕の手を強引に引いた。


 彼に連れて行かれるままに歩いて、ロッカールームに入る。ほとんどの選手が着替え終わっているので、ここには誰もいなかった。さらに奥まった場所まで行くと彼の歩みが止まった。

 振り返った彼の形相は真剣そのものだったけれど、その奥から怒りのようなものが滲んでいた。


「見たのかい? 私のデータを」

「なんの……」

「とぼけなくてもいい。さっき燈香ともかと話しているのを聞いたのだ」

「あっ」


 隠すつもりはなかった。単純に、ピンと来なかった。彼が今醸し出している雰囲気と問いが合わなかったから。あれは彼の努力の結晶であるはずだ。誇っていいし、他の人に見られてまずいものではない。けれど今の八馬堕やまださんの表情はまるで、銀行口座の暗証番号を見られてしまったようなそれ。焦りと苛立ちが介在している。しかもそれを押し隠しているようにも思える。


「すみません。見る気はなかったんです。ただ目に入ってきてしまって。でも、すごいなって話をしていただけなので」

燈香ともか以外には言ってないのだな?」

「ええ」

「……他の誰かに告げ口をしたらただでは済まない」


 きっぱりと言われてしまった。なにがそんなにいけないのだろうか。


「あの、ダメなことじゃないですよね。データを取るのって」

「そうか。君は知らないのか。まあ、知ったところで変わらない。君が言ったところで証拠はないからな」

「さっきからなんの話をしているんですか。だいたい、証拠もなにも、パソコンに全部入ってるじゃないですか」

「うるさい! とにかくこれ以上首を突っ込むんじゃあない」


 いよいよ怒りを剥き出しにしてきた。

 きっと、僕の目に映った情報以外に、なにか口外してはならないデータが入っていたのだろう。それを僕が見てしまったと勘違いしているのだ。だが見ていないと言う証拠は提示することはできない。僕は誰にも言わないと約束をしてその場をあとにした。

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