第24課題 クワガタカップ01

 クワガタカップ。


 アジサイカップのときと同様、30メートル級のクライミングウォールを登る大会だ。ただ今大会に初心者の部はない。つまり、これから僕たちは、ウォール・トゥ・クライムへの挑戦権を得られる戦いに参加すると言うことだ。

 前回は準備不足で初心者の部への参加がせいぜいだったけれど、今回は道具立ても出来たし実績も積んだ。

 しかも今回、鷹戯たかぎ紺瞳こんどうペアは出場してない。前回の大会で出場枠を勝ち取ったため、出る必要がなくなったのだ。

 代わりに優勝候補として上がるのは九度雨くどう水機みずきペアだけれど、体調不良なのか最近の大会には出場してない。その点を踏まえて、僕たちは充分一位を狙えるところにいると思う。


「ねぇ、一葉いちは。後ろから押してくんない?」


 彼女は足を伸ばした状態で座り、前屈ぜんくつの姿勢を取っていた。充分にやわらかい彼女の背中を押す意味があるのかは謎だ。


「これ、僕が押す意味ある? 燈香ともかさんすごくやわらかいじゃない」

「そうだけど、なんてーの? 背中押されると安心するって言うか」


 この間も体を密着させながら、そんなことを言っていたな。彼女の指を見ると将棋の駒が爪に配置されていた。それは僕が描いたものだった。



□ □ □ □



 シューズとパンツを買って初めての練習。休憩中、ベンチに座っている燈香ともかさんの隣でネイルアート用の筆を準備した。


「まだちょっと休憩するでしょ?」

「なになに? 一葉いちは描いてくれんの!」

「上手くできるかわからないけどね。この間、中途半端だなー。ここまで来たらガッツリやりたくなっちゃうって言っていたじゃない?」

「そだね」

「爪にストーンはさすがにダメだけど、ちょっとした絵なら大丈夫かなって」


 彼女は両手を開いて僕に向けてくれた。そこまで来て「しまった」と思う。


「どうしたの?」


 固まっていた僕を見て彼女は首を傾げた。


「いや、爪の形に合わせて将棋の駒を描こうと思ったんだけれど、逆向きだと描きにくいなあと思って」

「あー、そだね。あ、ならこれでいいじゃん?」


 彼女は背中を向けてベンチを跨いだ。確かにこれなら彼女の指を正面から捉えて描くことができる。けれど随分密着しないと描けない。


「ねー、早くしてよー」

「あ、ごめん。じゃあその、失礼します」


 後ろに座ったけれど、彼女の方が身長が高いから結局やりづらい。それを察してか、燈香ともかさんは僕にもたれかかるようにして背中を預けて来た。燈香ともかさんの凝縮された汗の匂いがして、心臓がトクトクと脈打つ。最後には頭が僕のお腹辺りに来るような形だ。いくらなんでも密着し過ぎなのでは。

 でもこれなら彼女の爪に描くことができる。今は恥ずかしさを押しやって、描くことだけに集中しよう。


 燈香ともかさんの手を取って、右手親指から小指にかけて、銀将ぎんしょう金将きんしょう飛車ひしゃ桂馬けいま香車きょうしゃ。左手親指から小指にかけて、銀将ぎんしょう金将きんしょう角行かくぎょう桂馬けいま香車きょうしゃと描いていく。

 本当は金将きんしょうが一番内側に来るのだけれど、一番使用頻度が高くかつ自分からよく見える場所に、彼女のイメージ駒である『銀将ぎんしょう』があった方がいいかなと思った。半ばファッション。半ばおまじないとして。


「わ! マジか。ヤバいじゃん! ヤバい。ヤバくね?」

「僕に聞かれても」


 完成したネイルを見てエメラルドグリーンの瞳がキラキラ光った。あ、人間の目ってこんな風に光れるんだ。


「ありがと、一葉いちは

「どういたしまして。でもその、そろそろ」


 先ほどから彼女は僕のお腹辺りに頭を置いたままだった。ネイルを施しているときは集中していたので忘れることができていたが、女子の顔が股関節付近にあるのは常識的に考えて非常にまずい。


「あっ。嫌だった?」

「いやいやいやいや!」

「嫌?」

「嫌じゃない嫌じゃないです寧ろご褒美って言うかありがとうございますって言うかだからなに言ってんだよ僕はぁああ! ……え? はあ!?」


 狼狽する僕を見て、燈香ともかさんはきゃらきゃらと笑っている。


「相変わらず面白いねー」


 まなじりに涙が浮かぶほど笑っていた。指先で楽しそうにそれを拭った。


「前から不思議だったんだけど、燈香ともかさんってすごくスキンシップするよね。もちろん嫌ではないんだけれど、逆にこういうのって女の子の方が嫌がらない? 燈香ともかさんは大丈夫なの?」


 この問いに彼女は固まった。意外や意外。真剣に考えている素振りを見せる。


「男の人の体を触ったり逆に触られたりすると、なんか安心するんだよね。これっておかしいのかな?」


 問いを返されて今度は僕が固まる。おかしいかどうか。それはわからない。それぞれの物差しがあるだろうから。


「おかしくはないよ。でも、珍しいかもしれない」

「そっか。これ……多分、ウチが片親なせいなのかもって思ってんだよね。パパいないんだ」

「そうなんだ」


 今時珍しくもないけれど、今まで知らなかった事実。


「予想なんだけど、パパに守ってもらう感覚がないから。だから男の人と触れ合ってると安心するのかも。アタシ、昔から彼氏がいないと不安でさ。小学生の頃からずっと彼氏いたんだ。でも別に好きとかそう言うんじゃなくて。ただそばに居てもらえれば良くて。だからかな。長続きしなかった。ま、そりゃそうだよね。近くに居てくれる都合のいい人を彼氏って呼んでるだけだもん。結局男なら誰でもいいのかも」


 そこまで言ってハッとしてこちらを見る。


一葉いちはは違うよ! 特別なパートナーだから。誰でもいいとか思ってないから!」

「ありがとう」


 安堵したのか、彼女の表情は穏やかになった。それから一呼吸置いてから、滔々と語り出す。


「中学の頃までは本当の好きがわからなかったんだけど、高校に入って付き合った男は、なんか今までと違ったんだよね。それで、あーこれ、もしかして本当に好きってやつなのかもって思ったんだよね。でも、せっかく自分の方から長く続けられるかもって思ったのに、振られて。なんか無茶苦茶腹が立ったんだよね。アタシがせっかく好きになってやったのに、って。ま、それも勝手な話かもなんだけど。だから、『アンタが振った相手はスゲーんだぞ』ってわからせてやるためにボルダリング始めたの」

「この間、昇乃しょうの選手に勝ちたいって言っていたけれど」

「そ。アイツの方がいいって言うからさ。目にも見せてくれようって感じ?」


 仕返しみたいなものだろうか。しかしそんな理由で日本一を目指すなんて、目的と手段の平衡感覚がぶっ壊れている。それだけ燈香ともかさんにとってショッキングな出来事だったということだったのだろうけれども。

 僕には想像できないような、複雑な心理事情を想像する。そもそも、好きがわからないのに不安を解消するために好きでもない人と付き合って来たなんて言うのが僕の価値観の外にいる。これ一つとってもかなり歪んでいるのに、それが正されるチャンスまで奪われてしまったのだ。平衡感覚がぶっ壊れるのも無理ないのかもしれない。

 昇乃しょうの選手に勝って、彼女の歪みが正されるのなら、ぜひとも手伝ってあげたい。まともな恋愛ができる、普通の女子高生にしてあげたい。



□ □ □ □



 この間の決意を思い出して、気持ちが改まる。僕の補助が要らないストレッチに移行し、離れていく。

 ストレッチを終えた燈香ともかさんを見ていると、視線を感じ取ったのか、彼女は両手をパッと開いて爪を見せてくれた。


一葉いちはってすごく器用だよね。センスも良いよ」

「ありがとう」

「今日もアタシを連れてってね」


 彼女が指さした先はクライミングウォールの頂。その先の空は灰色に包まれていた。

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