第05課題 二人の出会い05

 駅から会場に向かうまでの道で迷わないか心配だったけれど、杞憂きゆうだった。ものすごく高い壁が天を突くように一本だけ建っていてすぐにそれとわかったのだ。ウォール・トゥ・クライム。その壁の天辺は高さ150メートルに至る。東京タワーのメインデッキと同じ高さだ。見落とすわけもない。

 あれに登るだなんて正気の沙汰とは思えないが、これからそれを見に行くのだ。


 踏んでいた地面がアスファルトから赤橙色せきとうしょくのタイル張りへと変わる。ボルダリング競技場の敷地内に入った。


 ボルダリングは室内競技なのだけれど、壁が20メートルを超えて来るとその限りではなくなる。コストパフォーマンスを考えると屋根がない方が良いのだ。まして150メートルともなれば屋根を付ける方が難しい。


 ゲートでチケットを渡すと代わりに首から下げるタイプのカードケースとバーコード付きのカードを渡された。これがあれば本日中は出入りが自由なのだそうだ。

 競技場なのだから特に見るものもないだろうと思っていたけれど、コンビニや飲食店、アウトドア用品店の他に物販ブースもあった。藍人あいとが言う通り、結構……いやものすごく有名な競技なのだと言うことがよくわかった。僕が知らないと言って驚かれるのも無理はなない。


 物販ブースでは選手の名前が織られたタオルや選手の写真のクリアファイルなどが売っていた。いろんな人の名前や写真があったけれど、どこに行っても必ず見かけるし置いてある量が圧倒的に多い選手があった。


 昇乃しょうの佳奈美かなみ


 やさしそうな瞳が印象的で、肌が白くて清楚な雰囲気だった。僕よりも年上だしお姉さんのような包容力もあるように思えるのだけれど、同時に年下に感じるようなかわいさもある。その上、いろんな大会で優勝して、日本一のクライマーと称されている。

 これだけかわいくて実力もあるのだからさぞファンも多いことだろう。グッズもたくさん売れるからあんなに多く置いてあるのだろうし。

 昇乃しょうの選手の隣にはペアの八馬堕やまだ尚輝なおき選手のグッズと共にプロフィールが書かれた紙が飾られていた。僕がそのプロフィールを見ている間にも、何人かの女の子が八馬堕やまだ選手のグッズを手にレジへと向かって行った。


 試合が始まる前、選手たちが控室から競技場へと向かうところを見ることができた。全然知らない人たちばかりだけれど、有名人を生で観られたという事実に謎の興奮を覚える。

 選手たちと一般客の動線が交わることはない。代わりに、選手たちを上から見下ろせる構造になっていた。ファンの人たちはしきりに自分が推している選手の名前を呼んでいた。選手たちはこちらを見上げて笑顔で手を振っていた。

 そんな中、僕と燈香ともかさんだけはただなにも言わず見下ろすだけ。少し異質だなと思った。


燈香ともかさんは推しの選手とかいるの?」


 僕が言い終わるのと同時くらいに周りから歓声が巻き起こった。歓声の届く先には一人の茶髪の女性。初めてお目にかかるけれど、この距離でもわかる。昇乃しょうの選手だ。遠くから見てもかわいい。もはやスポーツ選手と言うより芸能人のようだった。その後ろに背の高い男性が続く。金髪サイドバックのこれまた絶世のイケメンだ。そこでまた歓声が上がる。今度は女性の声が多いようだった。

 彼は先程物販コーナーの写真で見た昇乃しょうの選手のパートナーの八馬堕やまだ尚輝なおきさんだ。プロフィールによると、まるで機械のように精密かつ素早いオブザベーションは他の追随を許さない。昇乃しょうの選手と常勝不敗を築き上げている、日本屈指のオブザーバーだ。僕がもしもオブザーバーになるなら、いつか彼と勝負すると言うことだ。

 そんな彼の視線が不意に上がった。


 え。こちらを見ている? いや、隣だ。

 視線の先には燈香ともかさんが居た。


 黄色い声援がこだまする中、それでも僕の鼓膜に届くくらいの舌打ちが聞こえる。彼女は不機嫌そうな表情を浮かべていた。こんな顔をする燈香ともかさんは初めて見た。


 僕が心配していたことに気が付いたのか、彼女はハッと我に返ったようにこちらを見た。それからニッと笑って僕の手を取り引っ張った。突然のことに体勢が崩れる。さらに腕をぎゅっと抱きしめられる。やわらかな胸が押し付けられる。心臓が跳ねあがる。


「え? え!?」


 動揺する僕のことなど意に介さず、彼女は歩き始める。


「さあ、行こ行こ!」


 僕はヨタヨタと半身を引っ張られるようにして歩いた。

 腕を組んで歩くなんてカップルみたいだけれど、楽しむ余裕はない。彼女の足取りがあまりに早いからだ。


 喧騒から離れたところで歩調が弱まり、近くにあったベンチの前で止まった。燈香ともかさんの力が抜けて、僕は体勢を崩しながらベンチに雪崩れるように座った。すぐ隣にトスンと彼女のお尻が落ちて来る。距離が近くて、また体が熱くなる。


「さっきアンタさ、推しの選手がいるかって聞いたじゃん?」

「うん」


 俯いていた彼女の顔がおもむろに上がる。


「いないんだよね」


 中分けにした髪の毛はエメラルドグリーンの大きな吊り目を一切隠さない。意志の強さは、なににも邪魔されず、僕の瞳を穿つ。


「でも、どうしても勝ちたい奴なら、いる」


 彼女が勝ちたい相手。言わないでも伝わってくる。


昇乃しょうの選手?」


 僕の言葉に目を丸くして、それからまなじりを持ち上げた。


「わかってんじゃん」


 彼女に張りつめていた空気が緩んだところで場内アナウンスが流れた。予選が始まるらしい。僕たちは促されるままに会場へ向かった。


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