「どうであるか、うまいであろう?」


 マツオはニヤリと微笑みながら、聞いた。


「ええ、うまいと言うかなんというか」

「ほぉ、なんというか?」


 問われて、ダークエルフはもう一度舌の上に神経を集中させる。


 色と同じく、味も淡く薄い。


 なにも言わず、ただいつもの食事のように食べていたらば、一体今何を食べたかすらわからないだろうほどに、微かな味。しかし、その微かな味は、たどればたどるほどに豊穣な大地を思わせる。


 かと思えば、ほのかにして羽毛のひと撫での如き優しい甘さを、舌の上にほんの一瞬だけ、ふわっと立ち上らせてくる、小憎らしさ。


 それは、大地に根付いて生きる無邪気な田園の少女。


 ダークエルフは、しみじみと味わって、真剣な面持ちで答える。


きよい」

「清い?」

「ええ、そんな感じです」

「ハッハッハ、清いか」

「ええ、汚れなき乙女のように」


 言いながら、ダークエルフはゆっくりと鼻で呼吸する。


「しかも、これは、なんという香りだ」

「わかるかね?」

「エルフは狩猟の民、鼻は他の種族より効きますので。ただ、これは肉でも乳でもない⋯…いや、まさか」


 食べたことがある味。しかし、それを口にするのは憚られた。


 というのも、ダークエルフ自身、それを食べたのは家庭の食卓でも料理屋でもないのだ。それは、彼女が極貧の底であえいでいたときのこと。旅の空、一泊の宿を取るのも叶わない寒い夜に馬車屋の馬房に忍び込んで寝ていたその時。


 そこにいた同宿の馬から拝借した。


 飼料の味だ。


「その、気を悪くされては困るのだが、これはその⋯…」

「気にせず申せ」

「ソヤ豆、の、香り、の、ような」

「ははは、正解だ」


 言うまでもなく、ソヤ豆とは大豆のこと。


 そしてこの世界において、ソヤ豆は飼料になっているのだ。


 なぜなら。


「滋養豊富で油を含み、旨いがゆえに飼いが良く、さらには腹にたまって便通も良い」


 そう、まさにそれは、飼料に適した植物である。ただそれならば、まったく同じ理由から、この世界の人間も人の食べ物としてもいいようなものだが、この豆には、それらのメリットを覆す欠点がある、それが。


「しかし硬い」


 そう、だからこそ、食用になっていないのだ。


 ただ、そんなことは、マツオにとってはなんでもないことで。


「水に浸してふやかせば柔くなる。茹でたり蒸したりでも、な」

「しかし、それは手間なのでは?」

「そのとおりであるな。ただ、こやつは手間に値する作物であるのよ。食うてみて、そうは思わんかね」


 マツオに言われて、ダークエルフは大きく頷いた。


「ええ、驚きです、あの飼葉豆がこんな素晴らしいものになるとは」

「かいばまめ?」

「あ、地元ではそう言うもので」

「そうであるか、もったいないことよな」


 マツオは小さく呟くと、リリーに目配せした。


「あれを」

「はぁい」


 この世界に来てから、豆腐を作り、そして、ここであらゆる異世界人に供してきたマツオとリリーだ、もう言葉はなくともこれからなにをどうしてどう振る舞うか、お互い言わずもがなで通じ、わかっている。


 よくわからない顔をしているのはダークエルフひとりだけ。


「えっと、待っていたほうがいいのでしょうか」

「そうであるな、しばし待たれい」

「は、はぁ」


 訝しげに匙をカウンターに置くダークエルフ。


 そこに、リリーがスッと近寄り豆腐の隣に小さな陶器の小瓶をおいた。ガラスではないので中は見えない、まあ、料理屋がガラスを使うなど、ありえないことなのではあるが。


「これは?」

「タレだよ」

「え、タレ……」

「醤油っていうんだ」

「はぁ」


 ダークエルフは顔を曇らせた。


 この細やかな味の料理にタレだと?


  ダークエルフの胸にそんな思いが浮かんでくる。というのもダークエルフの、いやこの世界の人間の常識では、タレなどというのはそのままではとても食べられないものにかけて食べるごまかしの調味料。


 ダークエルフは逡巡する。


 たしかに、ここの店主はすごい。


 しかしだ、一度かけてしまえば、多分あの豆腐の清い味は永遠に遠ざかって戻ってこないはずだ。汚された乙女のごとく。純朴な笑顔を奪われた田舎の娘のように。


「タレ……か」

 

 その言葉で、ほんの一瞬手が止まった。


 しかし、それをリリーは見逃さなかった。


「へたれ乳エルフめ、貸しなさい」


 そう口走ると、なんと勝手に小瓶をひょいと持ち上げて、問答無用で豆腐に醤油をかけてしまったではないか。


「な、なにをす……ぬぬっ!」


 繊細な豆腐にタレをかけるという愚行、更にその行為を森のエルフにやられてしまったという失望、そして、出てきたそのタレの色が。


「真っ黒……だとっ」


 あまりにまずそうな黒色であったという絶望。


「なんだ、この匂いは」


 しかも、なにやら、とてもくさい。


 ただ、その匂いに、ダークエルフは眼尻をピクリとさせて言った。


「いや、待って、これって、まさか」


 その言葉にマツオは嬉しそうに少し目を見開いて驚くと、ゆっくりと静かに微笑んだ。


「ほぉ、鼻がいいとは聞いたが、そこまでとはな」

「じゃぁ、やっぱりこれはソヤ豆の……」

「ああ、発酵液だ」

「なんと……」


 発酵、それは当然こちらの世界にもある概念だ。


 この世界にはチーズがありヨーグルトがある、当然酒もあるのだから言うまでもないことなのだが、それでもダークエルフは眼の前の液体に驚きを禁じ得なかった。


「黒く発酵したら、普通は腐敗だと」

「そうであるな、しかし、それは間違いなく発酵、まあ、四の五の言うてもはじまらぬわ、とく、食うてみるとよい」

「はい」


 ダークエルフは恐る恐る匙を入れ、そして黒く染まった豆腐をすくった。そして、下品ながら、その匂いを嗅ぐ。


 やはり、くさい。


 しかし、確かに言われたとおり、これは発酵臭であって腐敗臭ではない


「それでは、いただきます」

「うむ」

 

 ちゅるりと口に滑り込ませて、最初の衝撃は。


「塩辛いっ」


 塩辛いが、これは。


「なんという旨味だ」


 その強烈な刺激を伴う塩味の間隙を縫って、口腔くまなく覆い尽くすような旨味の波状攻撃。


 たしかにこれは旨い、しかし。


 ダークエルフは、驚きの表情から、少しだけ顔を曇らせた。


 これでは、匂いも塩味も旨味も、そのすべてが強すぎる。


 たしかに醤油は素晴らしい。しかし、この強烈さでは、幽玄の極みに到達しているであろう豆腐の清い味をすべてかき消してしまう。いや、それどころか、これでは醤油を味わうために豆腐で味を薄めているような……。


 と、そこで、ダークエルフの瞳がカッと開いた。


「なんだとっ!」


 そう叫んだそのダークエルフの口内にて、今、異変が起こっていた。


 なんと、あの控えめで大人しかった豆腐の味が、真っ黒で強烈な醤油をその身にまとった途端、まるで、舞踏会デビューを果たした少女の初々しくも一層眩しい輝きのように、一気に豊穣かつ典雅な甘みと香りを放ったではないか。


 それはまるで、華やかなドレスの中でこそ輝く、清楚な乙女の魅力。


 究極にして最高のアンビバレンツ。

 

「いや、まったく、その、素晴らしいですね、これは」

「清いかな?」

「ええ、全体に艶やかで華やかながら、やはりその芯は清い」


 ダークエルフはそう言うと、ホォっと一つ息を吐いた。


「素晴らしい料理です」

「はっはっは、嬉しい言葉ではあるがな、まだ終わらんよ」

「本当ですか?!」


 驚くダークエルフの顔を見つめながら、マツオはなにかの植物をトントンと小気味良く刻むと、それをつまんで豆腐の上にパラパラとふった。


「なっ、いやこの匂いは、オネイルですか」


 答えたのはリリーだ。


「そう、オネイルの新芽だね、詳しいなぁ」

「わ、私の郷は、その、自然が乏しいため、土とともにある、の、です」

「へぇ、楽しそうね」

「はぁ?」


 リリーの返答にダークエルフは、表情を強張らせて、戸惑う。


 というのも、エルフ族にとって、土は汚れの象徴。そんな土をいじって作物を育てるなどというのは卑しい仕事とされているからだ。


 だからこそ早いうちに公表する必要がある。


 というのも。


「土エルフが気安く話しかけるな、穢れるわ!」


 といった具合に、内緒のまま言葉を交わせば、下手をすれば一触即発から、血で血を洗う争いにさえなりかねない。


 だからこそダークエルフは、先程まで憎まれ口を叩き合っていた相手であるリリーにさえ恐る恐るに真実を明かしたのだ。ところがそんなダークエルフの決心も虚しく、リリーは、まるでいつもの挨拶のように、特別な感情をなにも込めずあっさりと答えた。


「なんで? 美味しいものは無敵よ、オネイルの新芽もね」

「そうなの、ね」

「うん、ていうか、そのオネイル私が育ててまーす」

「なっ、そうか、そうだったのか」


 ちなみに、オネイルとは、ご想像どおりネギのことだ。


 厳密にはどうも違った植物のようだが、オネイルの特に新芽は、いわゆるアサツキのような万能ねぎのような小ネギそっくりなのだ。


 だからこそ、当然、匂いも強く、クセも強い。


 この世界では、もちろん食材ではあるが、その用途は肉の臭い消しがほとんど。つまりその効能は、匂いを消し去るほどにくさいその一点にあるはずなのだが。


 ただ、ダークエルフは、もう、疑いはしない。


「いただきます」

「うむ」


 ダークエルフは、そっとそれを口に運ぶ。


 そして、三度みたび驚愕した。


「魔法、ですね、もはや」


 辛味の強いオネイルの味、そして強烈な匂い。


 間違いなく、そのままなら豆腐の味も香りも消し去っていただろうその個性の強すぎる特徴だが、その直前に醤油がかかっていることですべてが変わる。


 言うなれば、それは、大粒のダイヤ。


 豪華なドレスの上につけるからこそ、まとった乙女の清純さを更に押し上げてくれる、蠱惑的で刺激的な宝石。


 醤油のドレスの上に飾られた大粒のダイヤ然としたオネイルの新芽。そして、このクセの強いオネイルを振りかけることでさらに増す、清らかなる柔肌の乙女の、純白に輝くその清さ。


「参りました」

「ねえねえ、まだ清い?」

「ええ、潔さだけでは到達できない境地まで、味そのものをグッと押し上げつつも、すこしも清らかさを失わない」


 ダークエルフはリリ-を見る。


「すまなかった森エルフ、この豆腐は貴女のようだ」

「じゃぁ、醤油はあなたね黒エルフ」

「ふふ、黒いと言われてこんなに嬉しかったのはじめてだ」


 ダークエルフはそう言って微笑むと、残りの豆腐を一気にチュルリと放り込んでホォっと息を吐くと、急に表情を引きしめた。


 そして、豆腐を食べる前とはまるで違う、凛とした雰囲気を漂わせて同じセリフを口にした。


「実は店主殿に頼みが……ございます」

「ふむ、聞こう。良いなリリー」

「おっけー、いいよ」


 そしてここから、飯屋『誠』のもう一つの仕事が。


 始まるのである。

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