天使様とおじさん

天然王水

天使様とおじさん

 黒のコンクリートで出来た大きな正四面体を、下段に四つ、上段に三つ積み上げた様な形の、平屋の建物。

 その内上段の一つ分欠けた部分はそれなりの広さのベランダになっており、そこの床及び屋根にはスレートが用いられ、雨が降った際の水捌けを良くしている。

 中々見ないデザインだなと思い観察していると、ベランダに面した立方体から、一人の人間が出て来た。

「ひぃ〜寒い寒い。最近めっきり寒くなっちまったなぁ」

 ぶるぶると震えながらそう云う彼は、ボサボサとした髪によって目元が隠れている。

 ひとちる時に口元から覗いた歯は、鮫の様に鋭利な形をしていた。

 深緑色のダウンコートを羽織っていながらも寒そうに自分の身体を抱き締める彼は、ベランダの角辺りに寄り掛かり、懐から長方形の何かを取り出す。

 更にその長方形の中からは、円柱状の小さな物体も出て来た。

 あれは何だろう。

 僕の知らない物だ。

 町を飛んで回った時には見られなかった物に、僕は好奇心を掻き立てられる。

 解らなければ、解る人に訊くのが早い。

 僕は、彼を驚かせない様に、ゆっくりと彼の傍に降りて行った。


  ◇


「こんにちは」

「んあ?」

 煙草を口に咥え、ライターで火を点けようとした時、背後から鈴の様な、軽やかな声がした。

 二次元の美少女からでしか聞かない様なそれに振り向くと、俺の眼の前には……

「お邪魔しています」

 天使が居た。

 まず眼を引いたのは、瞳だった。

 高純度のアクアマリンの様な、綺麗に透き通ったホリゾンブルー。

 本物の宝石をめ込んだのかと見紛みまがう程の美しさは、それが仮に宝石として存在していたなら、一体どこまでの値が付いていたか判らない。

 次に、髪。

 汚れを寄せ付けない純白のボブカットはまるで絹糸の様な艶を持ち、サラサラと、僅かに吹く立冬の風に揺れている。

 可愛らしい丸みを帯びながらも、どこか気高さや気品もうかがえる白と調和している姿は、奇跡の体現と云う言葉を想起させた。

 最後に、肢体。

 髪と同様に純白の長袖長ズボンを纏う目測十歳程のそれは、磨き抜いた大理石の様に白く滑らかだ。

 一層いっそ病的と称する事も出来そうな程の白さだが、それが却って天使と云う存在を裏付けている様にも思えてしまう。

 天使の輪や翼は無いが、俺は確信した。

 この子は天使だと。

「…………はい?」

 三秒程硬直した後、殆ど回らない頭で訊き返す。

 寒さとはまた違った要因で、俺は理解が遅れていた。

 しかし、そんな俺を見て天使は、聞き取れなかったのだと解釈したらしい。

 2m程開いていた距離を50cm程まで縮めて、口元に両手を添える。

「こ ん に ち は !」

 そうして、以前より少し大きな声で、僅かに間隔を開けながら、もう一度挨拶をしてきた。

「あ、うん……こんにち、は……」

「お 邪 魔 し て い ま す !」

「あ〜、うん……よう、こそ?」

 ……いや、そうじゃない。

 曖昧に返答をしてから、そう思った。

 聞こえなかった訳じゃ無いし、いつの間にかお邪魔されている事も良い……いや良くは無いが。

 取り敢えず、そうじゃない。

「えぇ〜っと……まず、君は誰かな?」

「僕 は 天 使 で す ! 名 前 は あ り ま せ ん !」

「あ、大丈夫だよ……ちゃんと聞こえてるから」

「解りました」

 一つ大きく頷いて、天使は両手を下ろした。

 でも、ある意味大丈夫だが、ある意味大丈夫じゃないんだ。

「じゃあ、天使……くん? ちゃん? 判んないけど、何をしにこんな所に来たのかな……?」

「人間観察の一環です。貴方に一つ、質問がありまして」

「質問……?」

 人間観察って何だ……? 趣味か……?

 それより俺、何かやらかしたか……?

 天使からの質問と云う、返答によっては神の力とやらで断罪される様な絵面を連想してしまう事態に、全身に力が入り始める。

「ああ、大丈夫ですよ? 貴方が何か罪を犯したと云う履歴は見た事が無いので」

「はぁ……」

 心を読んだかの様な言葉に、曖昧な返事を返す。

 罪を犯した履歴なんて物があるのか。

 浄玻璃じょうはりの鏡だったか。それがあるから閻魔様に嘘は吐けないと聞いた事はあるが、神様にも同じ様な物はあるのだな。

 と云うか、天使に存在を知られていたのか、俺は……。

 俺一人だけ認識していると云う事も無いだろうし、大方人間は皆、全てを把握しているのだろう。

 そう思うと、プライバシーも何もあったものではないが……。

「それで、本題ですが……」

 云いながら、彼(性別は判らないが、まぁ一人称が僕だし、小さな男の子っぽい服装だし、男の子なのだろう)が足元の煙草を持ち上げる。

 いつの間にやら、口元から零れ落ちていた様だ。

「これは何ですか?」

 煙草を持つ手を俺の眼の前まで持って来て、彼はそう尋ねてきた。

「え……煙草……だけど……」

「煙草とは、どういう物なのですか?」

「……えっと……煙草、知らないの……?」

「はい。まだこちらに来て日が浅いと云う事もありますが、見た事がありません」

 煙草を知らない。見た事が無い。

 およそ人生で聞いた事の無い言葉に、困惑を禁じ得なかった。

「う〜んと……あ、そうか」

 少しばかり考えて、結論が出た。

 所謂天界とか天国と云う様な所は、全てが満ち足りている場所であるが為に、煙草の様な娯楽用品が存在しないのだろう。

 確かに、それならば知らなくても仕方が無い。

 更に云えば、最近は喫煙者に対する視線が厳しく、喫煙所や喫煙可能な屋内でしか吸わなくなっている。

 町を飛び回った程度では、見られない事もあるだろう。

 そうして無理矢理に自分を納得させてから、俺は説明を始めた。

「えぇ〜っとね……これは煙草。所謂、娯楽用品って奴でね」

 彼の手から煙草を取り、口に咥え、ライターで火を点ける。

 そうして深く息を吸い込んだ後、息と共に、空へと煙を吹き出した。

 煙は不規則に広がりながら、澄んだ青空へと溶けていく。

「こうやって火を点けて、煙を吸い込み、吐き出す……それによって、これの中にあるニコチンを摂取するって商品だよ」

「ふむ……ニコチンとは何ですか?」

 顎に指を添えて頷いた彼が、更に質問を重ねてくる。

 その質問に、俺は言葉に詰まってしまった。

「あ〜……ええっと……」

 不味い、気持ち良くなれる物質と云う事しか知らない。

 考えてみると、そんな得体の知れない物を自分から吸い込んでいると云うのは、少々危ないのではないかと思えてくる。

 ……今更だが。

「実は、俺も良くは知らないんだよ……摂取すると胸がス〜ッとする様な感じがして、心地良くなれる物ってぐらい。あ、身体には悪いんだけどね」

 気持ち良くなれる物質である事と同時に、動脈硬化による心筋梗塞だとか、脳卒中だとか。挙げ出すと切りが無い様な危険をもたらす猛毒でもある。

 不用意に吸うと他者への副流煙の恐れもあり、それによってか、世間からの当たりはかなりきつい。

「何故身体に悪い物を自ら摂取するのですか? 理解が出来ません」

「ぅぐっ……いやぁ、ご尤もで……」

 本当に、ご尤もですとしか云えない。

 自分からそんな物を摂取していると云う事は、緩やかな自殺にも似ている。

 胸に鋭く突き刺さる物に苦笑しながら、俺は続きを話した。

「えっと、何故そんな物を摂取するのか、だったね。結論から云ってしまうと……そんな身体に悪い物でも、すがってしまうんだよ……この世界は、とても苦しい物だから」

「……貴方は、苦しんでいるのですか?」

 俺の言葉に悲しそうな顔をする彼に、思わず頭を撫でてしまう。

 気持ち良さそうな顔をしながらも、彼は困惑の表情を浮かべた。

「おじさんは、そんなに。ただ……この世の中には、これが無いと生きて行けない、なんて人も居るって事は確かだと思うよ」

「そうなのですか……」

 彼は、俺に頭を撫でられながらも、自分の事の様に悲しんでいる様子だった。

 この子が天使である事もあるだろうが、こういう優しい子には、優しい子のままで居て欲しいものだ。

「おじさん自身、昔は仕事をしてたんだけどね。所謂、ブラック企業ってのに当たっちゃったみたいで……激しい務めに上司からの圧力、部下の尻拭いに、色々な人達の御機嫌取り……それ以外にも、面倒な事が多くて……肩身が狭過ぎて厭になって、もう辞めちゃったんだ……この煙草は、その時の名残」

 煙草を持つ左手を、ゆらゆらと揺らしてみせる。

 憐憫れんびんの情に満ちた眼をするこの子の前では、少し後ろめたかった。

「では、その煙草はどうやって手に入れたのですか?」

「今は不労所得ってのがあるからねぇ。受け取れるまで時間が経ってから細々と貰える年金とは違って、ちょっと工夫をすれば、困らないくらいのお金は稼げるんだよ。あ、ちゃんとクリーンなお金だからね」

「法を侵していないのであれば、良いのですが……」

 何だか釈然としない顔で、彼は俺の手を両手で優しく退かした。

 そうして少しの間、俺の右手を両手で持ったまま思い悩んでいる様子だったが、唐突に「そうだ!」と声を上げた。

「ど、どうしたの……?」

「それ、心地良いんですよね?」

 彼が、俺の手を指差した。

 正確に云えば、俺の持つ煙草か。

「ん? ああ、まぁ……今はもう、そんなに。物足りなくなっちゃったんだろうね……それでも、吸わないよりはマシな気分にはなるから、惰性だせいで吸ってるって感じだけど」

「では、僕が止めさせます」

 止めさせる。

 止めさせるとは、どういう事だろうか。

「……と云うと?」

 訊くと、彼は俺の持つ煙草を掠め取り、頭上に掲げて見せた。

「僕が貴方と一緒に居て、貴方を心地良くさせます! そうして煙草を止めさせるんです!」

「…………」

 外見相応の発想に、口を半開きにしたまま、声が出せなかった。

 その姿は聖剣を引き抜いた勇者も斯くやと云う雰囲気で、最早陳腐とすら称せるレベルだった。

「……ふはっ、ははははは! はははは……」

 漸く口から出た声は、あまりの可笑しさに吹き出した事によって出た物だった。

「ええっ! 何で笑うんですか!? 駄目ですか!?」

「いやいや、駄目じゃない、駄目じゃないよ。何だか、『らしい』なぁって思っちゃってね」

 驚愕する彼に手刀てがたなを切りながら、その手に掲げられた煙草を右手で取る。

 そうして、それを勢いのままに握り潰した。

「良いと思うよ。天使様と一緒に居られるなんて、夢みたいだ」

 開いた掌には、火傷が出来ていた。

「でも、良いのかい? 人間観察って云っていたけど、おじさん一人に注力していたら、それも出来ないんじゃない?」

「そこは大丈夫です! 貴方と一緒に居れば、必然的に人間と関わる事も増えるでしょうから! それに、まずは一人目を助けて、出来たと云う自信を付けるんです! そうすれば、皆助けられます!」

 自信満々に胸を叩く姿に、笑みが零れた。

「そっかそっか。それなら、こっちからも頼んで良いかい?」

 屈んで目線を合わせ、一呼吸置いてから口を開く。

「おじさんの禁煙の為に……いや……俺の心を、癒してもらえないかな? 俺一人じゃ、治せないみたいだから」

「はい! お任せ下さい!!」

 差し伸べた左手を両手で包み、彼はにっこりと笑った。

「あ、でも……」

「ん?」

 彼が、左手から手を離し、右手をもう一度包む。

 数秒程そうしてから、彼は手を離した。

 何をしたのかと右の掌を見ると、煙草によって出来た火傷が、跡形も無く消えていた。

 強く握り込んでも、痺れる様な痛みはやってこない。

「自分を傷付ける様な事は、控えて下さいね」

 はにかむ様に笑う彼に、苦笑する。

 格好を付けようと思ってやってみたが、思ったより熱くて痛かったし、心配までさせてしまった。

 斜に構える様な事は、やはり似合わないらしい。

「あはは……ごめんね」

 頭を撫でると、彼は気持ち良さそうに眼を細める。

 その時、唐突に強い風が吹いた。

 風が吹いてきた方に眼を向けると、澄んだ青空の雲間から太陽が顔を覗かせていた。

 昨日よりも冷え込んでいる所為か、普段見る物よりも爽やかに感じる。

「綺麗ですね」

「うん……」

 微笑む彼の瞳に宿るホリゾンブルーが、夜空の星の様に煌めいた。

 その愛らしい姿に、笑って頷いてみせる。

 本物の天使様と一緒に過ごすと云うのも、悪くない。

 今年の冬は、前よりも温かく過ごせそうだ。

「あ、そういえばですが」

「ん?」

「僕、女の子ですよ」

 また、身体が硬直した。

「…………えっ?」

「僕 は 女 の 子 で す !」

 また口元に両手を添えた彼……いや、彼女は、にっこりと笑った。

 その様子は、悪戯に成功した幼子にも似ている。

「こ れ か ら 宜 し く お 願 い し ま す !」

「あ……うん……」

 訂正しよう。

 今年の冬は、何だか良く解らない事が多く起こりそうな予感がする。

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