第13話 治療院のひととき
閉じられた瞼の隙間から、眩い光が瞳を焼く。
それに伴って、エイルの意識は覚醒した。まず、最初に感覚を取り戻したのは『鼻』だった。
芳醇な花の香りがする。いや、それだけではない。花の香りに混じって、普通の酒よりも強いアルコールのような匂いが鼻をくすぐる。この匂いの正体にすぐに気付いた。
――消毒液の匂いだ。
『――――――!』
次に感覚を取り戻したのは『耳』だった。
だが、まだ上手く音を聞き分けられない。誰かが大きな声を出しているという程度でしか聞こえない。ただ、その声は最近――特にここ二日間くらいよく聞いていた声だ。
「――エイルッ!」
次ははっきりと聞こえた。
先程まで共に死地に居た少女の声だ。涙混じりの鼻声ではあるが、その声を聞き違えるわけがない。
手に伝わる熱。ティエラに手を握られているのだと気付くのに、そこまでの時間を要さなかった。
「…………ここは、どこだ?」
ようやく取り戻した『視界』が捉えたのは無機質な岩の天井ではなく、人工的な白い天井だった。見るところ素材は大理石だろうか。清潔感のある天井には違和感がある。
それに頭の下にある感触も硬い岩のものではない。ふかふかとしたなにか――綿のようなものの上で、エイルは寝ていた。
「…………天国? 死んだのか?」
「ここは治療院で、貴方は生きてます」
「そっか……」
エイルの頬に熱が集まっていく。
譫言のように出てしまった言葉に対して、ティエラが間髪入れずにツッコミを入れたせいで恥ずかしさが一入染み渡っていく。
少女から目を逸らすと、左手に備え付けられた窓が目に飛び込んできた。外から覗く景色はいつものスラムの情景だ。迷宮内の暗がりではなく、陽の下の明かりが室内を照らしている。
「生きて……出られたんだな……」
「えぇ、なんとかかんとか。本当に必死でしたが」
今はただただ生の実感を噛み締めていたい。正直、どうやって自分を外まで運んだのかとか、ドーランの動向についてだったり、色々と聞きたい事はある。だが、それらは後回しにする。
難しい事は後で考えれば良いのだ。今は、今だけはこの得も言えぬ解放感に浸っていられれば、それだけで良いのだ。
エイルは頬を緩ませながら、外の景色をぼーっと眺め続けていた。
「感傷に浸っているところ申し訳ないけど、ちょっとだけお邪魔するね〜」
すると、新たな声が割って入った。扉を開けて、入ってきたのは見た目二十代前半くらいの
「リズか……」
「久々だね、エイル〜。ここ最近は全然治療院に来てくれなくて寂しいな〜って思ってて、久々に顔を合わせてみれば死にかけってさぁ……。どんな冒険してんだって小一時間くらい話したくなったよ?」
間延びした声の持ち主の名はリズ・テルナット。スラムにある治療院に勤めている『治療師』だ。目元にある隈は日々の激務が理由。彼女以外にもこの治療院に治療師はいるが、その数はほんの僅か。
他の区画の十分の一以下であり、日々舞い込む仕事を処理するのにも一苦労であるにも関わらず、スラムの環境が嫌になって逃げ出す治療師は後を絶たない。
つまるところ、常に人手が不足しているのだ。そのせいでリズはほぼ毎日の出勤を強要されている。
「…………それで金の話でもしにきたのか?」
「アハハ! さすがに病み上がりの病人に対して、すぐに代金の話をするほど私は鬼じゃないよ! ただ治療師として今後の生活についてのお話をしに来ただけさ」
そう言って笑うリズはとても胡散臭い。ただこれで腕の立つ治療師ではある。
「まずとして、今日一日は絶対安静ね。一応、治癒魔術は使って、折れてた骨とかは繋いでおいたから。ただ完全に繋がってるわけじゃなくて、まだ不安定だからあまり動かないように。わかった?」
「わかったよ。俺も今は動き回る気力なんてないし」
「なら良し。それとだけど、今日は一日この部屋を貸し出してあげる。だから、この部屋で大人しくしておくように」
つまりは一日だけ入院していけという事だろう。この提案自体はありがたい。流石にまだ、目覚めたばかりで身体中が怠くて仕方がない。
「ちなみに、どれくらい寝てた?」
「ん? まぁ、大体二日くらいかなぁ……」
「そっかぁ……」
二日も寝ていたことにエイルは衝撃を受けた。二日も寝泊まりしていたとなれば、請求される金額は如何程のものになるだろうかと想像して、胃が痛くなってしまう。
まぁ、今はリズも気を遣って代金の話はしないだろうが……。
「あ――そうそう、代金についてだけど」
「待て。ナチュラルに金の話に移るなよ」
エイルが手でリズの話を遮った。リズはと言えば、急に話を邪魔したエイルに対して首を傾げて固まっている。
「……お前、病み上がりの病人に金の話はしないって言ったよな?」
「うん、言ったね」
「じゃあなんで金の話をしはじめた?」
「だって受け答えもできてるし。もう病み上がりじゃないでしょ?」
なにを当たり前のことを言っているんだ、と言わんばかりにリズは訝しげに眉を顰めた。
リズの言い分もエイルは理解できる。ただ文句は言わせて欲しい。絶対に代金の話を切り出すタイミングは今じゃなかった!
「それじゃあ、代金についてだけど……。はい、これね」
「……ありがとう」
そう言って領収書を手渡すと、リズはそそくさと病室を出ていってしまった。
「値段はどれほどですか?」
「まぁ……ゼロが四つくらい並んでるかなぁ……」
リズから手渡された領収書を見て、エイルはげんなりとしてしまう。これでも他の治療院の値段と比べたら、破格に安い治療費である事は否定しない。
他の区画の治療院を利用すれば、これの十倍以上取られることになってしまう。
それだけ治癒魔術の利用価値というのは高いのだ。
「ま、これから稼ぐとするかぁ……」
「そうですねぇ……」
ズズ……ッ、とどこから取り出したのかも定かではないティーカップを啜っているティエラを見て、エイルは迷宮内での話を思い起こしていた。
「なぁ、一つ聞いても良いか?」
「はい? なんですか?」
きょとんとした顔でエイルを見つめる少女の顔は、やはり美しかった。精緻に作られた人形のように、神懸かっているほどのバランスで整った顔立ち。まさに、神の最高傑作とも言える美貌だ。
黄金色に光り輝く夕陽のような髪と同じ色の、澄み切った瞳にエイルの姿が映っている。大きい瞳だなぁ、とエイルは思った。
少しだけ熱を持った思考を振り払って、エイルはティエラに対して気になっていたことを質問した。
「《
「はい、言ってましたね」
「《
「正確には、その前に一度アソコに居たことはありますけどね」
頷きを返すティエラに、エイルは至極当然の疑問を投げかけた。
「仮の二級ってなんのことなんだ? それに《
あれがただの妄言だったとは到底思えなかった。ティエラは確かに頭がおかしいが、嘘を吐く事はしないと何の根拠もない確信がエイルにはあった。
だそれにこれだけ美しい少女が何故スラムに居たのか。誘拐されてきた……にしては不自然すぎる。そこら辺のごろつきに攫われる『二級冒険者』など聞いたことがない。
エイルはティエラの目を真剣な眼差しで見る。少年の瞳をしばらく見つめ返していたティエラは、過去を思い返すように空を仰いだ。
「アレは……今から一週間ほど前のことです」
そうして、少女は語り始めた。
自分が《
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