第5話 『光明の月兎』
自分の落ち度とはいえ、自分の考えていたことの全てが裏目に出るとは思っていなかったエイルは、目に見えて分かるほどに肩を落としていた。
いや、実際は治療院にかかる代金が浮いたが、それ以上の出費がこれから待っている可能性を考えれば、自然とため息も溢れてしまうものだ。おまけに、ティエラとは治療してもらってサヨウナラのはずが、結局一緒にご飯を食べることになったと来たもんだ。
「これから何処に食べに行くんですか? あ、私としては全然高そうなレストランとかじゃなくても大丈夫ですよ? それこそ寂れた酒場とか味があって良いと思うんです!」
「…………そもそも、ここはスラムだぞ? 高いレストランなんて探したところである訳ないだろ」
目を輝かせているティエラにツッコミを入れる。それに対して、ティエラは「そうですかね? 案外探せばありそうですけど……」と、不思議そうな顔で言った。
とてもお気楽そうで何よりだ。既にこれから向かう店のご飯に期待を寄せているようだが、このスラムに於いて『食事』は最低限生きるためだけのものという認識だ。
少なくとも、貧しい暮らしをしていた訳ではないであろう彼女が期待するような、見た目良し味良しの『美食』などある筈がない。
「とにかく。これから行く場所の飯は不味いからな。俺はもう慣れたけど、もしかしたらお前は涙目になって吐き出すかもしれないぞ」
「構いません! 私としては美食というのもそれはそれとして捨てがたいですが、結局は胃に入ってしまえば一緒だと思ってますから!」
ムフーッ!という擬音が付きそうなドヤ顔を披露するティエラに、若干の苛立ちを覚えながらもエイルは彼女を先導して歩いた。
どうやら作戦は失敗したようだ。エイルから提案したわけだが何とかしてご飯の奢りを回避したかった。不味い飯を食わされると知れば、自然と話がなかった事になるかと期待したが、そんな事はなかった。
というか、短い付き合いではあるが、ティエラという少女はどうにも頭のネジが全て外れているらしい事がエイルにも分かってしまった。
初対面の時点でネジの数本ぶっ飛んでるとは思っていたが、まさか全部だとは考えていなかった。普通の人間なら忌避感を覚えるだろうという事を、この少女は全然嫌がらない。
人攫いに遭ったことも、奴隷になりそうだったことも、不味い飯を食うことも。
全てティエラは楽しもうとしている。危機感が欠如しているというか、危機感そのものが存在しない可能性がある。これで良く今日まで生きて来られたものだ。
「ところで、今は何という名前のお店に向かわれてるのですか?」
「え? あぁ……言ってなかったか。店の名前は……まぁもう分かるか。ほら、この道の突き当たりに見える店だよ」
そうしてエイルが指差す先にあるのは、一軒の少しボロい建物だった。店の扉の隙間から漏れ出す橙色の光と、鼻をくすぐる食欲を誘う香り。なにより、少し離れた位置からでも聞こえる人のドンチャン騒ぎする声が、どんな店なのかを推察する決定的材料となる。
エイルが連れてきたのは――酒場だった。
それも先程までティエラが味があって良いと言っていた、どこか寂れた雰囲気のボロっちい酒場だ。スラムで暮らす冒険者御用達の大衆酒場である。
「店の名前は『光明の月兎』って言うんだ」
「良い名前ですね。それにとても、美味しそうな香りがしてますよ! とてもエイルの言うようなご飯が不味いお店に思えませんが……?」
「……まぁ、入れば分かる」
エイルの含みのある言い方に首を捻りながらも、ティエラは大人しく彼の後ろを歩いていく。
そうして店の前に立てば、酒場の喧騒がより大きく聞こえた。扉の隙間から覗き見れば、ほとんどの座席が埋まっており、その大半を占めるのは薄汚れた防具に身を包んだ男の冒険者たちだ。
互いに酒を酌み交わし、机に置かれた美味しそうな料理に齧り付きながら、大きく高笑いを決め込んでいる。とても明るい雰囲気の酒場だ。
「じゃ、入るぞ」
「あ、はい」
淡々とした様子でエイルは酒場の扉を押して、中へと入っていく。木が軋む音が店内に響き渡ったかと思えば、先程までの喧騒が消えて扉の前に立つエイルたちを複数の視線が刺し貫く。
冒険者たちの視線は最初はエイルに向けられていたが次第に目は移ろい、彼のすぐ後ろに控えていた絶世の美少女へと向けられた。
物の価値を見定めるように、じっくりと舐めるように観察される目に晒されれば、普通の少女なら厭悪を覚えても仕方ないが……
「わぁ! こういう酒場を待っていました! 見てください、これだけの人が雑多に集って酒を飲み交わす光景を! とてもとても楽しそうですよ!」
「あ、うん、そうだね……」
既にティエラは冒険者たちの事など眼中に無かったらしい。それよりも酒場の様子に興奮して、テンションが上がりまくっているらしい。
目を輝かせている少女に呆れつつも、エイルは空席が無いか顔を左右に振って確認する。
「あ、エイルだ! いらっしゃい!」
すると、エイルの目線よりも下から女子特有の高く細い声が聞こえてきた。
声の主を確認しようと、エイルは下を向いた。
そこに居たのは銀雪のような肩の高さほどまで伸ばされた髪を後ろで束ねている、エイルよりも頭一つ分以上背の低い少女がいた。
「クリシアか。今空いてる席あるか?」
「空いてる席? あるよあるよ! それはもう沢山ありますともさ! いつも通り一席で良い? まぁ、エイルが誰かと食べにくるなんて想像できないけどね!」
クリシアはとても特徴的な柘榴色の丸い瞳を揶揄うように細めた。口元に手を持っていき、笑いを堪えるような素振りをしている。
少し、ほんの少しだけムカついた。
何故今日は二人に揶揄われなくてはならないのか。今日が厄日だとでも言うのか。少しストレス発散にクリシアを揶揄ってやろう。
エイルはニマニマとしているクリシアの頭に手を置き、とびっきり嫌味ったらしく笑ってみせた。
「なぁ、クリシアよ。お前はとてーも背が小さい。まるでお伽話に出てくる『小人さん』くらい背が小さい。そんなお前だから、きっと恐らく多分俺が邪魔で見えてないだろう。だが、聞いて驚け! 今日の俺は連れがいる!」
「な、なん……だと?!」
「信じられないか? そうだよな、そうだろうともさ! だが、俺の後ろをゆっくりと見てみるが良い! 俺が嘘を吐いていないとすぐに分かるはずさ!」
「あ、有り得ない……! まさか、エイルに連れなんて……!」
クリシアは恐る恐ると言った様子で、エイルの横から顔を出して後ろを確認した。
「どーも!」
「んなぁっ!?」
クリシアに電流が走る。
エイルの後ろに控えていたのは美少女も美少女。手を振り、人懐っこい笑顔を浮かべるティエラに見惚れたのか、クリシアは目を見開き口をあんぐりと開けながら硬直してしまう。
「な? 言っただろう? 俺には今日連れがいるってさ」
「え、あ、え……?」
クリシアが壊れてしまった。エイルが連れ――それも絶世の美少女と来たもんだ――を連れてきたことがそこまで衝撃的だったと言うのだろうか。
酒場のウェイトレスとしての職務は大丈夫なのだろうかと心配になるほど、クリシアは「う、は、ま、へぇ……?」と言葉にならない声を上げてしまっている。
「おい、大丈夫かぁ〜? おーい、クリシアぁ〜?」
目の前で手を振ってみたり、耳を引っ張ってみたり、頬をむにむに摘んでみたりしたが、まるで反応が見られない。
仕方ない。こうなれば秘策を出すしかあるまい。
エイルはクリシアの頭頂部に聳え立つとても立派なアホ毛へと手を伸ばす。中指を親指に引っ掛けて、力の衝撃を中指へと伝播させる。そして、フリフリと揺れ動くアホ毛を指で弾いた。
「――びゃい!?」
アホ毛に神経でも通っているのか、クリシアはアホ毛を押さえながら涙目になりながら、エイルをキッ!と睨みつけてきた。
「何すんですか! いつも言ってますよね?! アホ毛だけは絶対に触るなってさぁ!」
「いや、だって何してもこっち見ないしさ。じゃあ仕方ないじゃん? 別に触りたくて触ってるわけじゃないしさ」
「むぅ……!」
頬をむくれさせるクリシアに、エイルはなんでもないような態度でそう言ってのけた。
「そんなこと言われても――――むぎゅっ!?」
クリシアが何かを言おうとした時、彼女の頭に大きな拳骨が落ちた。雷のような轟音が響き渡ったと同時、頭骨が陥没したのではないかと思えるほどの衝撃が、当人ではないエイルにも伝わってきた。
「なにノロノロしてんだい、この馬鹿娘ェ!!!」
「お、お母ざん――!?」
大きなたんこぶを作った頭を両手で摩りながら、自分に拳骨を落とした張本人をクリシアは涙を流しながらに見た。
クリシアに『お母さん』と呼ばれた恰幅の良い女性が、とても逞しい腕を組んで仁王立ちしていた。
「今日もお邪魔します、アニスさん」
「おう。今日もたんと食べてきな、エイル」
彼女は土の民――ドワーフの出であり、この『光明の月兎』の女店主であるアニス・ガイアス。たった一人でこの酒場の厨房を担当している為、その料理の腕はかなりのハイレベルだ。
加えて、スラムという《クノッソス》の中でもとびきり治安の悪い区画、その中でも更にガラの悪い冒険者相手に店を守り続けてきた豪傑である。冒険者たちもアニスの言うことには逆らえない。
エイルが彼女に『さん』を付けて、敬語を使っているのもその昔、まだまだエイルが冒険者として駆け出しだった頃、彼が『アニス』と呼び捨てした際に
『――さんを付けな、クソ坊主! 私はアンタに呼び捨てにされるのも、敬語無しで話すことも許可してないよ!』
と拳骨と共に怒鳴られたことにトラウマがあるからだ。今でも覚えているが、殴られた頭頂部はその後一週間以上は痛むくらいには重かったし、痛かった。
それ以降、エイルはアニスには逆らうまいと心に誓い、敬語と敬称を欠かす事は無くなった。
「ほら、クリシア! 早く、客を席まで案内しな!」
「は、はい〜!?」
クリシアは情けない悲鳴のような声を上げながら、エイルたちを空いていたカウンター席の、一番奥の席へと案内した。
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