第9話 夜会へのお誘い

 レングナーさまが我が家のお屋敷へ通う頻度は、すこし上がった気がした。

 私の歌を聴きにきたのだと、彼は言う。お父さまは、レングナーさまが、我が家の事業に興味を示しているからだと言う。

 我が家とビジネスをするために、私を通じて、お父さまと縁を結ぼうと思っているのだとか。


 私にお父さまの事業のことは分からない。だけど私の歌を聴きにきただなんて、そんな熱烈な言葉は、簡単に信じられるものではなかった。これまで練習を重ねてきたドロテアのほうが、ずっと素晴らしい歌声を持っている。そんな彼女を差し置いて、私が選ばれるだなんてこと、あるのかしら。


 だけど、レングナーさまがお父さまへ近づくために、私と仲良くしてくださると思うのは。なんだか虚しい気持ちになってしまうのだ。

 レングナーさまと楽しい時間を過ごせたからって、私なんかが、随分と思い上がってしまっているみたい。


 今日もレングナーさまは、我が家へ遊びにきていた。

 ピアノの前に座って私の伴奏をしてくださる。私は導かれるままに歌った。

 レングナーさまは、いろいろなことをご存じだ。私にたくさんの歌を教えてくれた。

 今も、レングナーさまに教えてもらった曲を歌って、私はレングナーさまの背中を見つめている。


 ふと、彼がちらりと振り返った。視線が交錯して、私はぎくりと固まる。

 レングナーさまはピアノを弾く手を止めて、身体ごとこちらを向く。私が所在なさげに俯くと、「アンナ嬢」とレングナーさまが私を呼んだ。

 その声が甘くて優しいものだから、私はゆっくりと顔をあげる。


「不安なことでもあるのか?」

「い、いえ。何もございません」


 首を横に振る。図星でどもってしまった私に、レングナーさまは笑みを浮かべた。


「何でも言ってくれ。僕は、あなたの望むことなら、なんでも叶えたい」


 私はどうしたらいいのか分からなくなって、「過分ですわ」とあいまいに微笑んだ。

 レングナーさまは立ち上がって、私へと近づいてくる。私がじっと彼を見上げると、その唇からふっと笑みが消える。


「アンナ嬢。僕は本気だ」


 どきり、と心臓が跳ねる。どうして、彼はこんなことを言うのだろう。身体中が熱く火照って、掌にじんわりと汗がにじむ。

 レングナーさまは私の顔をじっと見て、ふっと表情を緩めた。


「真っ赤だね」


 その声が随分と優しくて、私はますます茹だってしまう。どうしよう。

 視線をさまよわせる私の顎に、固い指が触れる。そのまま上向かせられると、本当に、どうすればいいのか分からなくなった。


「たすけてください……」


 目をつむって、小声で囁く。レングナーさまの指が、ぴたりと止まった。気配が少し遠ざかって、「すまない」とわずかに沈んだ声が聞こえる。


「調子に乗りすぎた。その、こういうことがしたかったわけではなくて」


 目を開けると、わずかに顔を赤らめたレングナーさまが、必死に弁明している。すまない、とまた繰り返して、「からかっているわけでもない」と言い募っている。

 私はすっかりおかしくなってしまって、思わず笑ってしまった。はしたないと思いつつ、こみあげる笑いを我慢できなかった。


 笑う私を見て、レングナーさまは「笑ってくれよ」と拗ねたように言った。それがなぜだかかわいく見える。

 私の心にある、誰にも触れられたことのない――自分でも知らなかった領域に、レングナーさまの声が届いた。


「ええ。申し訳ありません」


 私が悪びれた様子もなく謝ると、「いえ。こちらこそ」と彼はすまし顔で私の謝罪を受け入れた。


「それで僕たちは、まだ本題に入れていないんだけど」


 本題とは。私が首をかしげると、レングナーさまは懐から一枚の封筒を取り出した。


「今度、祖父の屋敷で夜会が開かれることになってね。そのパートナーを探しているんだ」


 思わず顔をあげると、レングナーさまの瞳と目が合った。

 彼は真剣な面持ちで、私を見つめていた。


「一緒に来てほしい」


 心臓が早鐘を打つ。そんなことを頼む相手は、結婚相手か、婚約者か――。

 慌てて首を横に振りかけて、ためらいに動きが止まる。彼は「よく考えて」と、どこか切実な声色で言った。


「きみに、思い人はいるのか」

「……いいえ。まだ、誰も」


 どうしてこんな、含みを持たせるような答えをしてしまったのだろう。恥ずかしくて黙り込んだ私に、「そうか」とレングナーさまはほっとしたように呟いた。


「僕は、きみがいいと思って申し込んでいる。だけど最後は、きみが決めてくれ」

「私が決めることなのですか?」


 恐る恐る尋ねてみると、「そうだよ」とレングナーさまは言った。


「僕は、きみを誘うことを決めた。誘いに乗るかはきみが考えて、きみの意志で決めてくれ」


 それから苦い笑みを浮かべて、「もしくは」と続ける。


「……きみの家の意向を聞いてもらってからでも、かまわない。僕の言うことは、なんでもエフラー氏のお気に召すだろうし」


 その唇が皮肉げに吊り上がるのを見て、私は反射的に顔を上げた。


「行きます」


 私は叫ぶように返事をした。

 レングナーさまは目を丸くして、頷く。


「分かった。後は全部、僕に任せてくれ」

「私にもできることはありますか?」


 いいや、とレングナーさまは首を横に振る。


「こういうところで、僕にいい格好をさせてほしいんだ」


 そういうものか、と私は頷いた。

 レングナーさまは「楽しみだな」と弾んだ声で呟いて、私を見つめた。

 これまで感じたことのない恥ずかしさと、それだけじゃない胸の高鳴りでいっぱいいっぱいになって、私はまた目を瞑った。

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