第8話 夢のような…
夢のような時間はあっという間に過ぎてしまう。
「暗くなってきたね」
レングナーさまの声に、窓の外を見た。気づけばすっかり日が傾いて、そろそろ家に帰らなければいけない時間のようだった。
「ええ。帰らなければなりませんわね」
私が重い腰を上げると、レングナーさまが手を差し出す。その手をとって立ち上がり、私は楽器を演奏してくれた彼らに向かって、丁重に礼をした。
「本日はありがとうございました。大変楽しい時間でしたわ」
彼らは照れるような笑みを浮かべて、私に手を振ってくれた。私はレングナーさまに連れられるままお店を出て、通りへと戻る。
「楽しんでもらえたようで、何よりだ」
レングナーさまの言葉に、私はこくりと頷いた。まだ身体には、素晴らしいセッションへの高揚が熱として残っている。
「夢のような時間でした」
私の言葉に、彼の緑の瞳がきゅうとすがめられる。くらりと首を傾げるのが随分と蠱惑的で、私は思わず目を逸らした。
「夢だなんて言わないで。きみの素晴らしい歌声が夢だったなんて、僕は惜しい気持ちになるから」
「まあ、……」
お世辞でも嬉しい。だけど私が彼を見上げると、思いの外真剣な緑の瞳と目があって、さっと目を逸らしてしまった。
「こ、光栄ですわ。また、お誘いくださいませ」
すぐに目を逸らすなんて、失礼な態度をとってしまった。だけどレングナーさまは気分を害した様子もなく、「本当にお誘いするからね」と大人げなく念を押してくる。
それがくすぐったい。口元に手を当ててくすくすと笑っていると、「今日は、本当にいい日だった」とレングナーさまは穏やかに言う。
「僕は、……きみの歌声を、もっと聴きたい」
随分と、真剣な声色だった。どきりと心臓が跳ねる。彼の隣にいると、心臓がまるで休まらない。
咄嗟に彼を見上げると、どこか熱っぽい瞳で私を見つめている。
「いつまでも、きみの歌声を聴いていたい。もっと……」
そして全てを見透かすように、「あなたは歌いたいのだろう」と言った。私は、思わず固まる。私の秘めた欲望に触れられて、かっと頬が熱くなった。
そして私の返答を聞かず、レングナーさまは「僕のためを思うなら」と続ける。
「歌ってほしい。僕は、きみの歌声にとりつかれた、哀れなとりこさ」
少しおどけた言い方に、緊張がゆるむ。私はほっと息をついて熱を逃がした。ええ、とうなずいて、私はレングナーさまに寄り添う。
「ぜひ、またお誘いください」
「ああ。絶対に」
そのまま私たちはレングナーさまが用意した馬車に乗り、彼は私をお屋敷へ送り届けてくださった。
馬車を降りるとき、レングナーさまは私の手を握った。その男性的な骨ばった指に、私の心臓がどきりと跳ねる。硬い掌が私の手を包んで、彼はどこか熱っぽい口調で言った。
「これまで、女神祭に出たことはある?」
どうして、急に女神祭のことを言うのかしら。私が戸惑っていると、彼は「僕は……」と、少しためらいがちに続ける。
「あなたの歌を、女神祭で聴きたい」
は、と私は息をのんだ。彼は真剣な目つきで私を見据え、「あなたは……」と、唇を開いた。
だけど彼はすぐに口を閉じて、代わりにニコリと微笑む。
「アンナ嬢。またお誘いします」
私の顔色をうかがいながら、だけど、私の答えは聞いていないみたいな調子だ。少しだけ強引な響きがあった。私がそれに縋りたくなるくらい、力強さを感じるような。
私が答えに詰まると、レングナーさまは「強引ですまない」と私の手の甲を撫でた。
いやらしさは全くなくて、不思議と切実さを感じる仕草だった。私はやっと「ええ」と微笑みを返して、頷く。
彼ともっと一緒にいたい。歌をもっと聴いてほしい。
「また、ぜひ、お誘いください。……次は、もっとまともな格好をして参ります」
おどけたように言うと、レングナーさまの眉間に少しだけしわが寄る。機嫌を損ねてしまったかしら、と私がひやりとするよりはやく、彼は首を横に振った。
「きみは、今日も素敵だった。けして変ではなかった」
一呼吸分だけ、狭い馬車の中に沈黙が降りる。その緑の瞳に見惚れる私へ、レングナーさまは「今日も美しかったよ」と微笑んだ。
そこから先の記憶は曖昧で、私は夢みごこちのままお屋敷へと戻った。
レングナーさまは出迎えにきたお父さまと何事かを話していて、お義母さまとドロテアは私を遠目に睨んでいた。
だけどその日は、それ以上何かあるわけでもなかった。私は穏やかな気持ちでベッドに入って、うっとりと目を閉じる。
レングナーさまを思うたびに、胸が甘く高鳴る。きゅうと苦しくなるような、でももっと欲しいような、不思議な感じ。
こんな風に思う相手は初めてで、私は自分に戸惑いながら眠りについた。
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