第5話 次の約束

 私たちのセッションは、日が暮れるまで続いた。レングナーさまは暗くなった外を見て、「これくらいにしようか」とピアノの鍵盤を拭いた。

 随分と久しぶりに、心ゆくまで歌えた。私はくったりと椅子に座って、「ええ」と頷く。


「今日のところは、これでお暇するよ。食事の用意で手を煩わせるのも悪いしね」


 レングナーさまの言葉に、私は慌てて立ち上がる。メイドが扉を開けて、私たちは部屋を出た。

 彼は私の隣で歩調を合わせてくれる。私より大きな歩幅で、ゆったり歩いていた。


「アンナ嬢。次はいつ会える?」


 私はぱちりと目を瞬かせる。つぎ、とおうむ返しにすると、「ええ」と彼は頷く。


「……お父さまにも、聞いてみませんと」


 あいまいに濁すと、「それなら、きみ自身の気持ちは?」と、彼がいたずらに笑った。

 私自身の気持ち。思わず答えに詰まる私に、彼は目を細めて、少し顔をこちらへ寄せる。ふわりと、重たくて甘い香りがした。


「嫌ではなさそうだった。それともやりにくければ、もう少し強引な手段でいくけど」


 私はすっかり、その言葉にのぼせてしまった。


「そうですね……、きっと、うれしかったのかも」


 ぼんやり答えると、レングナーさまは顔を離した。その端正な顔から、すこんと表情が抜け落ちている。

 気分を損ねたのかもと、私の身体が固まった。だけど不思議とその姿に目が惹かれて、彼をじっと見上げる。緑色の瞳が電灯の光を浴びて、私にばかり輝いていた。


「僕は、とても楽しかった。だからまた、遊びにくるよ。絶対に」


 ぱちん、と緊張が弾ける。にこ、と微笑む顔は、いつもの表情だ。ほっと息を吐く私を、レングナーさまはじっと見つめている。

 その視線が甘いような気がして、どうにかなってしまいたい。


 そうして、レングナーさまは、本当に私へ会いに来てくださるようになった。

 ほぼ毎週、休日に時間を見つけてこちらへいらっしゃる。それで私と音楽室にこもって、私の歌に伴奏をする。


 お父さまは彼の来訪に大喜びして、お義母さまの折檻は酷くなった。

 ドロテアはかんしゃくが増えて、物を壊すことが多くなったらしい。


 そんな日々が一か月ほど続いて、私はもともとの癖だったため息が、さらに重たくなってきた。

 レングナーさまの前でため息をかみ殺すと、「どうかしたのかな」と彼がピアノを弾く手を止める。


「いえ、なんでもないですわ」


 私が慌てて首を横に振ると、「ふむ」と彼は思案げに顎へ指を当てる。


「どうやら、あまり明るい気持ちではなさそうだ」


 ぎくり、と私が身じろぎすると、「声で分かる」と彼は低く笑った。


「申し訳ございません」


 謝罪も、すっかり癖になっている。私がうなだれると、「あなたが謝ることはない」と、彼は鍵盤を布で拭き始めた。今日は、早々に音楽の時間が終わってしまうらしい。

 私が肩を落とすと、「次はもっと別のことをしよう」と彼はいたずらっぽく笑った。


「実は、ずっとアンナ嬢を連れていきたい場所があったんだ」


 彼はピアノの蓋を閉じて、立ち上がる。少し身体を屈めて私と視線を合わせた。

 緑色の瞳には、吸い込まれそうな暗さがあった。だけど彼自身の意志が明るく輝いて、私を見つめる。


「ゲーティン公園へ行こう」


 そこは、この都でいちばん大きな公園の名前だった。大きな催事の会場になることが多くて、女神祭もそこで開催される。

 そこにどうして、私なんかと行きたいのだろう。首を傾げると、彼は指をぱちんと鳴らす。


「休日の朝市へ出かけて、朝食を食べたら、公園の中を散歩したいんだ」

「お外で、ご飯を食べるのですか」


 驚いて目を丸くすると、彼は無防備な仕草で頷く。私はどうしたらいいのか分からなくて、「でも」とうつむいた。


「……未婚の男女が二人きりで出かけるだなんて、外聞が悪いでしょう」

「おや。僕は」


 一拍置いて、私と彼の視線が交わる。


「構いませんよ」


 心臓が、大きく跳ねた。その理由にたどり着くよりはやく、彼は唇に笑みをはいて「楽しみにしてる」と言った。

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