第4話 さっそくのレッスン

 到着の知らせは、その日のお昼過ぎにやってきた。

 私とお父さまはエントランスに出て、レングナーさまを出迎える。


「ようこそいらっしゃいました」


 お父さまがにこやかにお出迎えになる。レングナーさまはそつのない仕草で、かぶっていた帽子を脱いだ。


「お出迎え、ありがとうございます」


 たったそれだけの仕草が、絵になってしまう人だ。私の視線に気づいたのか、レングナーさまがこちらを向いてにこりと微笑む。


「またお会いできてよかったです。お元気ですか?」


 はい、と私は頷く。お父さまが割り込むように、「はやく中へお入りください」と促した。

 レングナーさまは私に手を差し出した。咄嗟にその掌に手を重ねると、彼は流れるように私をエスコートする。

 私は半分ぽかんとして、半分驚いて彼を見上げた。お父さまはと言えば、「おやおや」と含み笑いをしている。

 その表情に、恥ずかしさより冷たいなにかが勝った。私は背筋をしゃんと伸ばして、レングナーさまに寄りそう。

 彼はお父さまへ向き直って、「さっそくですが」と口を開いた。


「音楽室をお借りできますか」

「はい?」


 レングナーさまの言葉は、お父さまが求めていたものとは全く違ったらしい。私はレングナーさまを見上げて、「おんがくしつ」と繰り返した。


「ええ。休日まで、つまらない事業の話をするのはよしましょう。アンナ嬢の歌声を、もっと聴きたいのです」


 彼の唐突な要求に、お父さまも私も目を丸くした。お父さまは手揉みをしつつ、うろうろと視線をさまよわせる。


「そ、そういうことでしたら。おい!」


 メイドがひとり、お父さまの側へ控える。彼女の背中を叩いて、お父さまがレングナーさまへ向かって腕を広げた。


「このメイドをつけますから、なんでもお申し付けください。鍵はかかっておりません」

「ありがとうございます」


 急展開だわ。私が目を白黒させている間に、私たちは音楽室の前に立っていた。扉の向こうからはピアノの音と、ドロテアの歌声が聴こえてくる。練習中なのだろう。


「あの、レングナーさま。今は妹が使っているようです。春の女神祭めがみさいのステージに向けて、ドロテアは練習を……」


 その続きを言うより早く、レングナーさまはドアをノックした。歌はやまない。もう一度、強めにノックする。

 そこでピタリと歌声がやみ、ドアが勢いよく開いた。


「なんですか! せっかくドロテアが歌っている、の、に……」


 ドアを開けたお義母さまの顔色が、どんどん悪くなっていく。ピアノの前に立っていたドロテアは、私たちをあっけにとられた顔で見ていた。

 レングナーさまは素知らぬ顔で「失礼。ノックが聞こえていないものかと」と、紳士的な笑みを浮かべる。


「素晴らしい技巧の歌声でしたが、ドロテア嬢と夫人がお使いだったとは。いつ頃までここにいらっしゃいますか?」

「いいえ、今ちょうど終わろうと思っていたところでしたの」


 お義母さまは早口に言い切って、「ドロテア」と呼んだ。彼女はびくりと肩を震わせて、「はい」と甲高く返事をする。


「行くわよ。ささ、レングナーさま、どうぞご自由に」

「でもお母さま、お祭りの曲の練習がまだだわ!」

「駄々をこねないで行くのよ。ほら!」


 戸惑うドロテアは、お義母さまが強引に引っ張っていった。私たちが口を挟む暇もない。

 彼女たちはあっという間に廊下の奥へ引っ込んで、姿は見えなくなった。


「そんなに焦らずとも……」


 レングナーさまは眉を曇らせつつ、「急かしすぎたな」と苦笑した。私がまだぽかんとしている間に、彼は蓋が開きっぱなしのピアノの前へ座る。

 手袋を外して、素手で鍵盤に触れた。その両手が軽いタッチで音を鳴らして、ポンと音が跳ねる。


「妹さんが出るなら、きみも女神祭へ出るのかい」

「いいえ。私なんか、とても」


 苦い笑みを浮かべる。

 女神祭。この都の春の到来を祝う、大きなお祭り。

 お母さまが存命だった頃に、一度行ったきりだ。


「そうか。それじゃあ、行ったことは?」

「あります。みんなと一緒に、歌って、踊って……」


 レングナーさまがそれを聞いて、花がほころぶような笑みを浮かべた。


「お転婆だった頃のアンナ嬢か。かわいかったんだろうな」


 その言葉に、私はすっかりのぼせてしまった。

 彼からの「かわいい」という言葉は、きっと生まれてはじめて聞いた落雷くらいの、大きな衝撃があった。


「さあ。何はともあれ、僕たちの時間だ」


 我に返って、私はピアノの近くへと寄る。レングナーさまが流行りの歌の冒頭を弾いて、「違うな」とすぐに指を止めた。


「これか?」


 和音を鳴らす。その明るくて穏やかな響きに、私は目を瞬かせた。


「きみが、前に歌っていたあれを聴かせてくれ」


 音が長く揺れて、部屋の中に響いている。私はちいさく息を吸い込んで、小声で口ずさんだ。

 レングナーさまはそれを促すように、穏やかにピアノを鳴らす。ペダルを踏みこんで残る音が、私の胸をくすぐった。だんだん、声を大きく出しても、許される気がしてきた。


 私は大きく息を吸い込んで、最初から歌いだす。


「そうだ。それが聴きたい」


 レングナーさまの声が弾む。私の胸が高鳴って、だけどあくまで穏やかに声を響かせた。

 私の歌い終わりを、レングナーさまがピアノで鳴らす音が彩る。静かな余韻に浸る私を、レングナーさまが「次だ」と促す。


「次ですか」

「ああ。もっと聴きたい。きみの好きな曲は? どんなのが好みなんだ?」


 そう言われると、答えに困った。私がちゃんと知っているのは、故郷の音楽の楽しさくらいだ。この都の上流階級が嗜む音楽は、ほんの基礎しか分かっていない。


「……あの、流行りの歌を」


 精一杯の見栄を張りたくて、知っているふりをした。レングナーさまは「いいよ」と鍵盤を叩く。

 ドロテアが歌っていたのを思い出して、私は一生懸命歌った。だけど曲が最高潮を迎える寸前で、「違うな」とレングナーさまの手がぴたりと止まる。

 私が肩を震わせると、レングナーさまがこちらを見上げた。その目は好奇心の輝きに満ちていて、だけど、気遣いの優しさも含んでいた。


「さっきの方が、ずっと楽しそうだった。ああいう音楽が好きなのかな」

「は、い。故郷の、音楽で」


 ふむ。彼は少し思案げにした後、再び鍵盤へと向かう。

 そして奏ではじめたのが、ちょうど故郷の辺りで歌われる舞踊曲だったので、私はすっかり目を丸くした。

 たん、たん、とつま先で床を叩いてリズムをとる。ずっと忘れていた記憶が、少しずつ色彩と音を伴って、あふれだしてくる。


 私は歌った。胸をかきむしるような郷愁と、沸き立つような嬉しさを込めて。私の声は野兎のように跳ねていい。犬の遠吠えよりも遠くへ響いてほしい。だんだん身体が火照って、私の声はもっと響いていく。


 最後の一節を高らかに歌えば、それに応じるようにピアノが陽気に和音を散らした。


「すごかった……」


 私が茫然と呟くと、レングナーさまは「そうだな」と手を叩いた。


「素晴らしかった。今この瞬間、ブルーメンでいちばんの歌姫はきみだ」

「ありがとうございます」


 大げさな誉め言葉だけど、謙遜する気には不思議とならなかった。私はスカートをつまんで裾を持ち上げ、礼をする。


「もっとやろう」


 レングナーさまは再びピアノへ向かった。また響き始める音色に、私の胸が弾む。やっとの思いで「ええ」と頷いて、また息を吸い込んだ。

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