第3話 手紙が来た
身体が軋む痛みで目が覚めた。
もう一週間は経とうというのに、レングナーさまがいらっしゃった日の折檻で受けた傷が、まだ痛む。お義母さまは、私が本気で歌ったのがよほど気に入らなかったらしい。
ドロテアもあれ以降、私の言うことを全く聞かなくなった。
それでも、私はあれでよかった。私の歌を、誰かに褒めてもらえた。それを思い出すだけで、胸がじんわりと温かくなる。きっとこれから先も、何度だって思い出すのだろう。
起きだして、使用人に混じって朝の掃除をする。周りからは、ひそひそと噂話をする声が聞こえてきた。
「アンナお嬢様の怪我、まだ治ってないのね」
「奥様がよほど酷くぶったらしい。ああ、怖い怖い」
「下手に手出ししたら、私たちにも火の粉が及びかねないものね……」
この屋敷の使用人は、大きく二つに分けられる。ひとつは、お義母さまの行いに賛成している人々。もうひとつは、私に同情的だけど、お義母さまを恐れて遠巻きにしている人々。
それでも、例外はどこにもいるものだ。
「おはようございます、アンナお嬢様」
はつらつとした声がして、ひょいと私の箒が取り上げられた。メイドのマーヤだ。取り上げた本人は一部の隙もなく制服を着こなして、笑い皺の取れなくなってきた、茶目っ気のある目元でウィンクをする。
「もう朝ごはんが出来上がる頃です。食堂へお行きになってくださいまし」
「ありがとう、マーヤ」
マーヤは私たちが都で暮らしはじめてから、ずっとうちで働いてくれている。使用人の間で彼女の人望はそれなりに厚く、それでお義母さまも、私に優しくするマーヤを簡単には首にできないらしい。
私がエプロンを外すと、マーヤがそれを受け取ってくれた。私は食堂へ向かって、沈黙を保つ家族たちの座る席に加わった。
私は一応、食事をとる席に加えてもらっている。だけど私の前に並べられるのは、粗末なパンと具を少なくよそったスープだけだ。使用人の食事より質素なそれを見て、お義母さまが甲高い声でお父さまに話しかける。
「アンナったら、まだレングナーさまの前での粗相を反省していないようですの。高貴なエフラー家の一員という自覚がないので、私は困っておりますわ」
ドロテアは私を睨みつけて鼻を鳴らした。お父さまはと言えば、無関心に「そうか」と頷くだけだ。
「しかし、あまり痩せては外聞が悪い。きちんと食べさせるように」
「いいえ、いいえ。とてもお客さまの前へ、この無礼者をお出しできませんもの。きちんと反省して、誠意を見せない限りは食べさせませんわ」
誠意とは、何なのだろう。私はうつむき、指を組んだ。お父さまはお義母さまの言葉に耳を貸さず、「いいから食べさせるように」と強引に切り上げる。
粛々と、儀式のように食事が始まった。私はパンをちぎって、ゆっくり咀嚼する。その間にも、お義母さまは私の欠点をあれこれお父さまへと吹き込んでいた。
お義母さまは、私のお母さまが亡くなってすぐにお父さまと結婚された。ドロテアは連れ子だ。
お義母さまのご実家は、下級貴族の家だと聞いている。豪商とはいえ平民のお父さまと再婚なさるなんて、きっと苦しい事情があったのだろう。
だけど私は、彼女からの折檻で受けた傷や痛みを許せそうにない。
こんなに心が狭いだなんて、亡くなったお母さまに叱られてしまいそうだ。
真っ先にドロテアが食べ終わり、席を立つ。私も次いで席を立とうとすると、お父さまが私を呼び止めた。
「アンナ。後で私の部屋に来なさい」
は、と顔を上げると、お父さまは空の皿に視線を落として口元を拭いていた。お義母さまは少し眉間にしわを寄せて、私を睨む。
「お父さまのお部屋で、しっかり反省なさい」
はい、と私はうなだれる。お父さまが立ち上がったので、私も彼に続いた。
お父様の書斎は、このお屋敷の中で、客間の次に豪勢な部屋だ。部屋に入ってすぐ、壁にかけられた鹿のはく製と目が合う。思わずぎょっと目を見張った。
お父さまは、お母さまが亡くなられてから、こういう派手な飾りを好むようになった。
足が竦んだ私に構わず、お父様は書斎机につく。私と同じはしばみ色の瞳で、じっと私を見つめた。
「アンナ。お前、レングナー閣下に何をしでかした」
「何もしておりませんわ」
私はつま先を揃えて、背筋を伸ばす。レングナーさまとのことなら、私に後ろ暗いところは一切ない。
そうか、とお父さまは興味なさげにおっしゃった。それから、引き出しから一通の封筒を取り出す。真っ赤な封蝋には、どこかの家紋が
すでに封は開けられていて、中から一枚の便箋が出てくる。
「レングナー閣下が、お前へ会いにいらっしゃるそうだ」
はぁ、と間抜けな声が漏れた。レングナーさまが、私へ会いにいらっしゃる。
現実味が、いまいちない。
お父さまは呆れるでもなく、ひらひらと便箋を振った。
「まあ、なんでもいい。今度の休日にいらっしゃるそうだから、レングナー閣下へ失礼のないように」
はい、と私はうなずいて、一歩下がった。
早くここから出たい。この部屋は、居心地が悪い。
「失礼します」
退出のために扉を開けるとき、ちらりと振り返る。お父さまは頬杖をつき、こちらを見ていた。
視線から逃げるように、私は扉を閉じる。ドアノブを離してすぐ、壁へ背中をつけて寄りかかった。状況を理解するにつれて、とくとくと心臓が速足に脈打っていく。私は大きく、息を吸い込んだ。
彼に、もう一度会えるらしい。
しかも、私へ会いにいらっしゃるのだという。
その日いちにち、私はまったく使い物にならなかった。だからお義母さまから何度も叱責されて、ぶたれて、でも不思議と全然痛くなかった。
私の毎日はあっという間に過ぎて、気がつけば、レングナーさまがいらっしゃる日になっていた。
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