第2話 本気で歌いたい

「ええ。こちらが下の娘のドロテアで、あちらが上の娘のアンナですわ」


 お義母さまがドロテアを先に紹介すると、「ふむ」と彼は思案げに目を伏せた。しばらくあって顔を上げ、私たちの顔を交互に見る。


「お嬢さん方、はじめまして。ゲオルク・レングナーと申します」


 私は「アンナと申します」と微笑んだ。隣のドロテアが惚けてレングナーさまを見上げているのを、「ドロテア」と小声でたしなめる。

 ドロテアも慌てて名乗り、レングナーさまも席に着く。食事が運ばれてきて、晩餐会が始まった。


 どうやら、彼は青年実業家らしい。名門貴族レングナー家に生まれながら、自ら働き稼ぐ、時代の寵児。

 そして自らの懐を肥やすことなく、惜しみなく、芸術の保護に財産を注いでいらっしゃる。


「平民にも芸術を教えてあげようというのが、閣下の広いお心の表れですな。そういえば、閣下の主催される音楽サロンがおありだとか」

「はい。私の友人たちを招いて、新進気鋭の音楽家に演奏をしてもらっています」

「素晴らしい。ぜひ、私も参加したいものです。いかがですかな」


 お父さまの媚びを売るような視線に、レングナーさまが「考えておきます」と微笑んだ。


「万人に、芸術は開かれるべきですからね」


 彼の持つ人脈を利用しようとしているのが、私から見ても分かった。経営している商店の、販路拡大の足がかりにしたいのだろう。

 都へ来る前の、優しいお父さまはもういない。私は目を伏せて、口元を拭った。


 デザートが運ばれてきた頃、「そうですわ」とお義母さまが高い声を出す。


「うちのドロテアの歌を聴いていってくださいまし。あの子はエフラー家の歌姫ですの」


 途端に、ドロテアが得意げに胸を張る。お父さまは無関心な様子で「それもいいな」と食後のお酒を煽った。

 お義母さまは率先してドロテアを連れて立ち上がり、レングナーさまを促した。私が立ち上がろうとしたところで、「早くなさい」ときんきんした声を出してお義母さまが顔をしかめる。


「申し訳ございません。上の娘はどうものろくて……」

「申し訳ございません、お義母さま」


 レングナーさまはにこりと微笑み、お義母さまへ首を傾げた。


「いいや、謝ることは何もありませんよ。比べてあなたは、随分と俊敏なようだ」


 ちくりと刺すような口調だった。お義母さまは、あくまでにこやかに「そうでもございませんわ」と口元を手で覆っている。


 私は立ち上がり、彼らに続いた。レングナーさまの隣にはドロテアがべったりついて、あれやこれやと話しかけている。

 まだ幼い彼女だから許されていることだった。まだ許されているうちに、どうかその振る舞いを直してほしい。このままでは、ドロテアのためにならない。


 私がそんなことを考えている間に、ピアノのある部屋へとついた。真っ先にお義母さまが入り、部屋の明かりをつける。ドロテアは得意げにピアノの前に陣取って、私はピアノ椅子に座った。

 都で流行っている歌の冒頭を軽く弾くと、「それじゃないわ」とドロテアが勝ち気に言う。


「そんな簡単なのじゃ、張り合いがないもの」


 私はペダルから足を離して、手のポジションを直した。ちらりとレングナーさまに視線をやると、座るでもなくこちらをじっと見ている。

 なんだか嫌な汗をかくようで、私は鍵盤へと視線を落とした。


 私は意を決して、鍵盤を叩く。速いテンポで音符が並ぶこの曲は、伴奏の難易度もそれなりに高い。

 だけどドロテアは、この曲で自分の技巧を見せつけるつもりのようだ。


 ドロテアが歌いはじめる。まだあどけなさの残る声が、音域を縦横無尽に駆け回る。ドロテアの歌の素晴らしさは、疑いようもない。


 最後に、ドロテアの声が高くたかく駆けあがっていく。最後の鍵盤の連打に私の指がもつれて、ワンテンポ音が遅れた。

 間違えた恥ずかしさに俯くと、大きな拍手が聞こえる。振り返れば、レングナーさまが手を叩いて「素晴らしい」と頷いていた。

 お義母さまはきっと私を睨んだあと、「そうでしょう」と猫撫で声で彼にすり寄る。


「上の娘と違って、ドロテアは出来がいいんですのよ」


 ドロテアがにこりと微笑む。私は、唇を引き結んだ。


「ええ、まだ十三歳とは思えない技術をお持ちだ。よほどお母さまの教育が行き届いているようです」


 レングナーさまが指を鳴らす。


「それで。その上の娘さんは、歌わないんですか?」


 え、と私は思わず顔を上げる。歌えるのかもしれない。期待に輝く私の目を見て、お義母さまは一瞬顔をしかめた。


「いえ、この子は……、酷い音痴ですの」


 だけど、すぐに残酷な笑みを浮かべた。彼女は私の肩に手を置くふりをして、思い切り私の足を踏む。悲鳴を押し殺す私の耳元で、お義母さまが囁いた。


「あなたは歌も下手だものね。姉として、ドロテアを引き立ててあげてちょうだい」


 私は震える吐息を飲み込んでうなずいた。お義母さまは満足げに目を細め、私から離れる。


「では、アンナ。歌いなさい」


 屈辱とは、こんなことを言うのかしら。一瞬の怒りの波が引いたあと、私の心を重くてにぶい諦めが包む。

 お義母さまたちが来てから、ろくに歌の練習もさせてもらえなかった。本気で歌っても、上手に歌えるわけがない。

 それに上手に歌ったら、この後に待っているのは酷い折檻だ。


 私はうなだれたまま、息を吸い込んだ。歌うのは、都で流行っている歌だ。

 わざとリズムを外して、音も調子はずれにする。お義母さまは「もういいわ」と私を遮って、得意げに笑ってレングナーさまを見た。


「お聞き苦しいものをお聞かせしてしまい、申し訳ございませんわ。お口直しに、もう一度ドロテアの……」

「いや。いい」


 彼は手を振ってお義母さまを遮った。すこし考える素振りを見せると、私をじっと見る。怯む私の足元を、彼が指差した。


「まず、肩幅に脚を開いて、背筋を伸ばして」


 おずおずと、私は言われた通りに脚を開いた。背筋を伸ばすと、彼は「そのまま」と頷く。


「もう一度歌って」


 ぴたりと、彼の緑の瞳が私を見ていた。お義母さまは蔑むような、勝ち誇ったような顔で私を見ている。ドロテアも、こちらを馬鹿にしたように私を見ている。


「きみの実力は、そんなものじゃないだろう」


 彼の声色には、少しも馬鹿にしたような響きがなかった。


「……どうして、そうお思いになるのですか」


 私が尋ねると、彼は「霊感だ」と言った。そうか、霊感か、と私は頷いた。

 彼の緑の瞳は、期待で明るく光っているように見えた。


 私は、意を決して息を吸い込む。

 亡くなったお母さまが教えてくれた、生まれ故郷の子守唄を、ゆっくり歌い出した。たっぷりとした声量で、身体を使って声を響かせ、朗々と歌い上げる。

 しばらく練習していなかったから、上手くは歌えていない。だけどずっと、こうしたかった。


 私が低く歌の終わりを口ずさむと、ため息をつくように「素晴らしい」とレングナーさまが言った。

 惜しみのない拍手に、私は深く息を吐く。


「よかった。聴いたことのない歌だったが、見事だったよ」


 男性らしい甘い声が、私の心臓を持ち上げて撫でさするように、私の胸を高鳴らせた。

 お義母さまは屈辱に顔を歪ませて、ドロテアは呆然としている。私は彼女たちを視界から外し、「光栄ですわ」とスカートの裾をつまんだ。


「……まあ、ドロテアの方が、ずっと上手ですけれど」


 お義母さまは負け惜しみのように言って、「さがりなさい」と私を睨んだ。私はうなだれて、でも、久しぶりに気分が晴れやかだった。私がドアを開けるよりはやく、レングナーさまが自らドアを開ける。


「では、また来ます」


 驚く私に、彼はいたずらに片目を閉じた。


「上手い歌手はいくらでもいるけれど、きみのような歌姫はなかなかいない」


 彼は、含みのある顔で微笑んでいた。

 私をエスコートするように扉を抑えて、「本当によかったよ」と艶めいた声色で言う。

 その綺麗な笑みに、私は臆することなく微笑み返すことができた。

 だからそれからの酷い折檻も、傷の痛みも、なんてことはなかったのだ。

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