花の都、歌姫は田舎の歌で成り上がる。〜私を見つけてくれた閣下の期待に報います〜
鳥羽ミワ
第1話 伴奏もへたな私
義妹のドロテアが高らかに歌う曲の終わりのロングトーンに、私は拙くピアノの鍵盤を押し込んで最後の和音を鳴らした。
私が指を離すより早く、お義母さまが「素晴らしかったわ」とドロテアに拍手を送る。まだ十三歳のドロテアはあどけない顔で微笑み、ちらりと青い瞳で私を見やった。咄嗟に顔を背けると、お義母さまが責めるように声のトーンを高める。
「アンナの伴奏がもっと上手だったら、ドロテアももっと自由に歌えるのにね。
「申し訳ございません」
「卑しい身の上のあなたにとっては、ピアノを習えることも、伴奏をすることも、身に余る光栄なのですよ。しっかり精進なさい」
「申し訳ございません……」
お義母さまはやっと機嫌が直ったのか、ドロテアの頬にキスをする。彼女は無邪気な笑みを浮かべて私を見下ろし、「お母さま」と甘えた声を出した。
「この後のお食事会では、大切なお客様がいらっしゃるのでしょう? せっかく私が歌を歌うのに、こんな伴奏で本当にいいのかしら」
「いいのよ。エフラー家の歌姫のあなたには、伴奏なんかに左右されない素晴らしさがあるわ」
私は黙って鍵盤の手汗を布でふき取り、蓋を閉じた。お義母さまとドロテアは早々に部屋を出ていって、私はそっと窓の外を見る。
音楽をはじめ芸術に長けることは、この国の富裕層や貴族たちにとっては自分の高貴さの裏付けだ。私は豪商の娘だけど、その「高貴さ」を持つことを、許されていない。
文化の都、ブルーメン。長い冬真っただ中の今はどこもかしこも雪化粧をして、早々に日が暮れようとしている。
使用人も女主人たちが出ていったのを見計らって、ストーブを片付けてしまった。それでも私はひとりでいたくて、まだピアノ椅子に座っていた。暮れる部屋の中を、最近お屋敷に取り付けられた電球が煌々と照らしている。
「ピアノは、あなたたちから教わったものじゃないわ」
ぽつりと呟く。ろくな教師をつけず、怒鳴りつけて鞭打つばかりのあれが、ピアノのレッスンだとはとても思えない。
私の音楽の先生は、亡くなったお母さまだけよ。貴族出身のあなたたちが、田舎生まれの卑しい女と蔑む彼女が、私に歌を教えてくれた。楽器の手ほどきをしてくれた。
六年前の女神祭のことを、ぼんやり思う。お母さまが生きていた頃に、一度だけ行ったことがあった。
あのお祭りは、たくさんの人に開かれていて。プロの演奏家のステージは満員で入れなかったから、私とお母さまは外で遊んだ。そのとき、街の人たちが楽器を演奏していて、歌で飛び入り参加させてもらったことを、よく覚えている。
楽しかった。いろいろな人たちが私たちに手拍子をしてくれて。十二歳の女神祭が、きっと、私の人生の絶頂だった。
音楽は、上流階級だけのものではない。
夕焼けをぼんやり眺めていると、だんだん手がかじかんできた。使用人のするのと同じ、掃除や洗濯の雑用を言いつけられて、手指は荒れ放題。そのかさついた指を組ませて、私はうなだれた。
しばらく経って、私は顔をあげる。部屋の明かりを消して自室へと向かった。
使用人棟にある、隙間風の吹き込む粗末な部屋。蝶番の壊れかけたドアを開けて、ランタンに火を灯す。お母さまの形見の古いドレスに着替えて、私は本館へと戻った。
食堂へ向かうと、ドロテアが既に席へ着いていた。彼女は私をちらりと見て、ふんと鼻を鳴らす。私は「ドロテア」と、たしなめるためにまだ幼い彼女を呼んだ。
「誰であろうと、そんな態度をとってはいけないわ」
「いいじゃない。誰も見ていないわ」
使用人たちがくすくす笑う声が聞こえてくる。私は首を横に振って、「ドロテア」と強く呼んだ。
「いけないわ」
彼女は不服そうな顔をしながら、「はぁい」としぶしぶ居住まいを直した。私はほっと息を吐く。
幼いドロテアのこういう素直なところが、私はどうにも憎めない。私も彼女の隣に座る。
しばらく待っていると、お父さまとお義母さまの声が、ドアの向こうから小さく聞こえてきた。
「今ブルーメンで飛ぶ鳥も落とす勢いの閣下が、我が家の晩餐会に来ていただけるとは。実に光栄なことです」
「あなたの評判は常々お伺いしておりますわ。ぜひ、我が家の自慢の歌姫の声を聞いていただきたいものです」
耳を澄ませる。お父さまとお義母さまの早足な足音と、もう一つ、比較的ゆったりとした足取りの足音が聞こえた。靴底が絨毯を踏む鈍い音が、一定の速さで、静かに堂々と、テンポを刻むようにこちらへ向かってくる。
使用人が、食堂の扉を開けた。ゆっくりと、プラチナブロンドが向こうから覗く。
深い彫りの下にある、輝く緑の瞳と目が合った。明かりを受けた細い髪の流れがひとつひとつ、星のように見える。
ぱちん、と彼が瞬きをしたときに、はっと私は我にかえってうつむいた。顔をじっと見つめるなんてはしたないことをして、恥ずかしい。
「君たちがエフラー家の娘か」
落ち着いた、男性らしい甘さのある声で彼が言う。お父さまを振り返るだけの動作だけでも、彼の洗練された身のこなしが分かった。
ふと、目が合う。彼の瞳が一瞬、見開かれた。私が疑問に思うことなく、すぐに視線は逸らされる。
なんなのかしら。ただ、胸が音を立てて跳ねた。
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