第48話 乾坤一擲

 呪文を詠唱するリューリとフレデリクは、瞬く間に膨大な量の「魔素」に覆われた。

 集積した「魔素」が、限界まで引き絞られた弓につがえた矢の如く、二人の前で圧縮されていく。

 その気配に気付いたのか、不意にネモが振り返り、リューリたちに顔を向けた。

「おやおや? 最後に殺してあげると言ったのに、待ちきれなかったようですねぇ。いいでしょう、それほど死にたいのなら順番を繰り上げて差し上げますよ!」

 彼の右手がリューリとフレデリクを鋭く指差した瞬間、二人による呪文の詠唱が終了した。

 途端に、ネモを中心として、周囲の大気が、たまゆら不可思議な揺らぎをはらんだ。

「リューリちゃんたちに手を出すなッ!」

 ネモが攻撃態勢に入ったのを見て取ったジークとアデーレ、そしてバルトルトが跳躍し、それぞれの剣でネモの身体に深々と斬りつける。

 更に、ウルリヒやミロシュら魔術師たちの放った火球やいかづちが炸裂した。

「『仲間』を守ろうという心意気、泣かせますねぇ! どの道、無駄ですけどね!」

 相変わらず、ネモは余裕綽々よゆうしゃくしゃくたる態度を見せている。

 しかし、今度は、数秒経っても、先刻の攻撃で彼の受けた傷は修復されないままだ。

「……『魔素』が……動かない……?」

 異変に気付いたネモの声に、焦りの色が混じる。

 同時に、彼の「入れ物」である「かみうつわ」が、外側から薄皮を剥がす如く崩壊し始めた。

 糸の切れた操り人形のように力を失い、姿勢を保てなくなった「かみうつわ」は、地面に降りたかと思うと膝から崩れ落ち、地響きを立てて倒れ伏した。

「きッ貴様らァ! 何をした?!」

 これまで見せていたおごりと傲慢さに満ちた態度は一転し、ネモは恐慌状態に陥った様子だ。

 その間にも、「かみうつわ」は編み物がほどけていくかの如く崩壊を続けていた。

 彼の身体から剥がれ落ちた破片は、瞬く間に塵となって空中に霧散し消えている。

 気を付けて見ると、破片の間からは、赤や青、黄色など様々な色をした無数の淡い光が空へと昇っていく。

 ――やっと……解放された……

 ――感謝する……

 ――おねえたん……ありがと……

 淡い光たちが自身の傍を通り過ぎていく時、リューリはかすかな温もりを感じると共に、様々な人間の声を聞いたような気がした。

「あの『かみうつわ』の材料は、『生きた人間』や、その魂だと、ネモは言っていたな。この光は、囚われていた人々……なのか」

 空へ昇っていく光たちを見上げて、リューリは呟いた。

「あの中には、きっと、私が関わった人たちも含まれているのだろうね……」

 言うと、フレデリクは泣きそうな顔で俯いた。

「気休めかもしれないが、彼らも、私のように生まれ変わることがあるかもしれないぞ」

 リューリは、いたわるようにフレデリクの腕に触れた。

「……そうであって欲しいね」

 フレデリクが、何度も頷きながら言った。

 二人の眼下で崩壊していく「かみうつわ」の中から、「土台」となっていた「ヴィリヨ・ハハリ」の身体が露出し始めている。

 連合軍の面々は不安げな面持ちで、その様子を遠巻きに見ていた。

 これまで誰も目にしたことのない状況に、どう対処すべきかが定まっていないのだろう。

 リューリは、フレデリクと共に地上へと降り、力なく横たわっている「ヴィリヨ・ハハリ」――その身体に入っているネモの傍へと近付いた。

「……貴様ら……私に何をしやがった……?」

 リューリの気配を感じたのか、ネモが薄らと目を開けた。

「『魔法封じの呪文』を、貴様にだけ作用するよう調整して打ち込んだ。『魔素』が動かなくなれば、『かみうつわ』の再生や行動を封じられる可能性があると考えてな。それにしても貴様、だと存外ガラが悪いんだな」

 素っ気なく答えるリューリに、ネモは不快そうに顔を歪めた。

「それで……『魔素』の力で組み上げた『かみうつわ』が、存在を保てなくなったというのか……『魔法封じの呪文』は……暴走した魔導具を強制停止させるものに過ぎないと思っていたが……こんな使い方をされるとは……」

 念じるだけで「魔素」を操作し様々な事象を起こせる彼にとって、呪文の細かい操作方法などは、却って盲点だったのだろう。

 話しているうちに、ネモの「入れ物」にされている「ヴィリヨ・ハハリ」の身体も、徐々に崩壊し始めている。

「『かみうつわ』に結合させる為、この身体も改造してある……『魔素』を取り込めないと崩壊してしまう……」

 弱々しい声で言いながら、ネモは這いずるようにして、崩壊しつつある手をリューリに向かって伸ばした。

「貴様の所為で……! その身体を寄越せ……この糞餓鬼クソガキが……ッ!」

「断る。二度も貴様に身体をくれてやる義理など無い」

 リューリは冷たく答えた。

「こ、この身体は……前世の貴様の身体だぞ……このままでは……消えてなくなる……『魔素』を寄越せ……呪文を……解除してくれ!」

「私は、『ここ』にいる。とっくに死んだ抜け殻など必要ない」

 無様に懇願するネモに、リューリは肩をすくめた。

 時間の経過に比例して、ネモの肉体の崩壊は進んでいく。

しろがなければ……死ぬ……! 私が消えてしまう……!」

 半分近く崩れ落ちた顔を歪め、もはやうわ言のように、ネモは呟いている。

「私が……消える……! 嫌だ……死にたくない……!」

 最期の言葉と着ていた衣服のみを遺し、ネモ――「ヴィリヨ・ハハリ」の肉体は、地上から消え去った。

 前世の自分の肉体が崩壊し霧散するのを見つめていたリューリは、奇妙な感覚を覚えていた。

「リューリちゃん、大丈夫かい?」

 フレデリクに声をかけられ、リューリは我に返った。

「ああ。何だか変な気分だが、すっきりしたというのもある。これで、知らん奴に、前世のものとはいえ、自分の身体を好きにされることもなくなった訳だからな」

 言って、リューリが、くすりと笑うと、フレデリクも釣られたのか微笑んだ。

「二人とも、よくやってくれた」

 いつの間にか近付いてきていたジークが、リューリたちに声をかけてきた。

「君たちには、助けられてばかりだったな」

「いや、みんなが諦めずに戦ってくれたから、『奴』に隙を作らせることができたんだ。それにしても、みんなズタボロじゃないか……」

 ジークやアデーレ、バルトルトは、身体の其処此処そこここに傷を負っているのが見て取れる。

 ウルリヒと、疲労困憊ひろうこんぱいの様子でスタッフすがって立っているミロシュも、着ているローブは半ば襤褸切ぼろきれ同然だ。

「なに、この程度の怪我は、昔のいくさなら当たり前だったぞ。ツバつけとけば治るさ」

 バルトルトが、豪快に笑った。

「しかし、結局、あのネモという奴は何がしたかったというんだ」

 地面に遺されたネモの衣服を見下ろし、ジークが呟いた。

「とにかく、奴が『死にたくなかった』というのは、よく分かった」

 リューリは、小さく息をついた。

「あいつは『死なない』為に、記録も残っていない程の昔から生き続けてきたらしいが、それだけの理由で、何百、何千年も一人で生きるのは、私なら御免被ごめんこうむるところだ。もっとも……」

 彼女は、仲間たちの顔を、ぐるりと見回した。

「そんな風に思えるのは、みんなに会えたからかもしれないな」

 リューリの言葉に、一同の表情が和らいだようだった。

「あ、あの、僕は、アデーレに言いたいことが……」

 唐突に、ウルリヒが声を上げた。その顔は、熟れたリンゴのように赤くなっている。

「偶然だな。私もだ」

 アデーレも、何故か頬を染めながら言った。

「アデーレ、ずっと君のことが好きだった。僕と、一緒になって欲しい」

 ウルリヒはアデーレの手を握ると、ひと息に言った。

「リューリちゃんが言っていたように、死ぬ時になって後悔したくないんだ。さっきの戦いの最中も、ずっと思ってた……君に拒まれたとしても、自分の気持ちを伝えるまでは死ねないって」

 そこまで言って、彼は恥ずかしそうに俯いた。

「ずるいぞ」

 アデーレが、ぽつりと呟いた。

「全部一人で言ってしまうなんて……私の言うことがなくなってしまうじゃないか」

「えっ?」

 驚いて顔を上げたウルリヒを、アデーレが潤んだ目で見つめながら言った。

「私などでよければ……こちらこそ、お願いしたい」

 予期せぬ展開に、リューリたちは、あんぐりと口を開け、ただ二人を見ていた。

 と、ウルリヒとアデーレは、はっとしたようにバルトルトの方を見た。

「父上、反対されるなら、私たちは駆け落ちします」

 娘に、そう言われて、バルトルトが頭を掻いた。

「いや、別に駆け落ちなんぞしなくても、反対する気はないぞ。そんじょそこらの男では、お前の相手にはならんだろうが、しっかり者のウルリヒなら安心できるというもんだ」

「よかったねぇ、ウルリヒ。君がグズグズしているから、いつ私から口添えしようかと思っていたけど、必要なくなったね」

 ミロシュも、弟子についての心配事が解決した為か、にこにこしている。

「駆け落ち……しなくていいのか」

 少し残念そうなアデーレに、ウルリヒが呆れた様子で言った。

「駆け落ち、したかったの?」

「……ちょっと、憧れていた」

 赤くなって俯くアデーレを見た一同から、笑い声が上がる。

 皆と笑い合っていたリューリは、幸せで満たされた気持ちになると同時に、何故か泣きたいような気持ちも湧き上がってきて、戸惑うのだった。

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