第5話初めての経験は左投手で…
俺は夜中まで実家の庭で投げ込みをして投手としての感覚を取り戻していた。
速球も変化球もあの頃と同じとは言わないが。
かなり使い物になるぐらいには感覚を取り戻していて。
夜中まで掛かった投げ込みを終えると風呂に入り配信の準備をした。
そこからワチャワチャと視聴者のコメントと会話をしながら。
殆ど朝方まで配信をして。
そこから疲労感に任せて泥のように眠りにつくのであった。
目覚めた時にハッとして慌てて布団から這い出た。
高校生の頃の夢を見ていたようで。
朝練に遅刻する夢を見てドキッとして目を覚ます。
身体はあの頃よりも成長しているのに気持ちがあの頃に戻っているようで。
いち早く身支度を整えてグラウンドに向かおうとして。
姿見に映る自らの現在の姿を目にして。
「あぁ。俺はもう卒業して数年が経っていたんだ。懐かしい夢を見たものだ」
自室の時計を確認すると時刻は14時を指していて。
俺は15時からの剣との自主練の予定を思い出す。
「少しは身支度を整えておかないとな。
少年と一緒に練習しているのが俺みたいのだと変に勘ぐられそうだ」
自室を出ると階下に向かう。
そのまま洗面所にて出来るだけ丁寧に身支度を整えていた。
今となってはヒゲがトレードマークになっている配信者の俺がそれを剃ることは出来ず。
しかしながらしっかりと寝癖を整えて顔を洗い歯を磨く。
残されている時間で母親が作っておいてくれた昼食を食べると本日の練習メニューを頭の中で思い浮かべていた。
そんな事を考えながら数十分。
時刻は15時になる頃で俺は家の外に出ると剣の姿を探すように。
彼が来るのを心待ちにしていたのであった。
「こんにちは。今日からよろしくお願いします。
それで…逆井さんの事はなんて呼べば良いんでしょうか?」
剣は道具を詰め込んだであろう大きすぎるバッグを持って空き地に現れた。
そんな彼に挨拶の返事をするように俺は左手を持ち上げて応える。
「おはよう。お兄ちゃんで良いんじゃないか?
逆井さんなんて…くすぐってぇからやめてくれよ。
その他にもコーチとか大層な名称で呼ぶのもやめてくれ。
それ以外だったら何でも良い」
「じゃあ…お兄さんで。
練習に付き合って貰う立場ですし教えてもらうこともあるでしょうから。
さん付けで呼ばせてください」
「この間も思ったが…本当に子供らしくねぇな。
もっと子供らしく振る舞ってもいいと思うんだがな。
今何年生だ?」
「いえ…小学一年生です」
「はぁ…俺がガキの頃は…ってそんな昔話しても意味ねぇな。早速練習しようぜ」
「はい!ありがとうございます!」
俺は剣についてこいとでも言うように仕草で応えると先を歩く。
そのまま空き地の眼の前の実家の庭に入っていく。
「空き地で練習するんじゃないんですか?」
庭に入ると剣は遠慮がちな表情を浮かべて周りを確認していた。
怖ず怖ずと問いかけてくる剣を安心させるように下手くそな笑みを浮かべて見せる。
「俺の実家だよ。ここでなら遠慮なく投げられる。
キャッチャーの定位置から打席を囲むようにネットのケージが張ってある。
逸らしてもボールが何処かに行くこともない。
他人の家の窓を割ったりするような心配もないし。
俺も遠慮なく投げられるし剣も心配なく練習に取り組めるだろ」
「わざわざネットを張ってくださったんですか?」
「はっ。そんなんじゃねぇよ。過去の遺物だ。
取り壊すこと無くそのままだったってだけだ。
だから気にせずに使ってくれ。
それこそ剣は子供なんだ。
何かに遠慮したり配慮する必要なんてねぇよ。
だから気兼ねなく使え」
「はい…ありがとうございます」
「本当に感謝されるようなことじゃねぇんだけどな。
とりあえず肩を作りてぇ。
キャッチボールから始める。
暖まって来たら座って構えてくれ」
「はい!防具はどうしたら良いでしょうか?」
「お?そのデカ荷物に防具が入ってんのかよ。チームのものか?」
「はい。捕手は僕だけなので。整備と管理は僕の担当なんです」
「そうか。それは好都合だな。ミットは?もちろん少年野球用だよな?」
「はい。最近両親に買ってもらいました」
剣は目を輝かせて新品のキャッチャーミットを俺に見せてくる。
俺はそのミットを受け取るとしっかりと眺めて。
ちゃんと大事に扱っていることを一瞬で察知すると口を開いていく。
「なるほどな。ちゃんと整備の行き届いた良いミットだ。
だからこそそのミットは使うな。
兄貴の硬式用のミットがある。
それを貸してやるから使え」
「えっと…硬球でやるんですか…?」
「あぁ。当然だろ。中学に上がったらシニアリーグに進むんだろ?
そこで上級生の変化球をしっかりと捕球したいって話だったはずだ。
それならば硬球でやる必要があるよな?
シニアリーグは硬球を使ってプレイするんだ。
それにだな…俺も今更軟球を使ってプレイできないんだよ。
その感覚は忘れてしまったし。
多分だが軟球で変化球を投げたら可笑しな変化をするだろう。
硬球の時とは異なった軌道や変化を生むだろう。
だから俺のためにも剣のためにも硬球を使用したほうが良いだろう。
理解してもらえたか?」
「えっと…分かりましたが…初めてでして…」
「そりゃそうだ。誰にだって初めての瞬間はやってくる。
それが早いか遅いか。
それだけの違いだろ?
恐怖を感じる気持ちは十二分に理解できる。
俺だってシニアでプレイした初日は怖かったし緊張もした。
でもすぐに慣れるさ。
確かに軟球よりも固いし重たいし。
軟球用のミットで硬球を捕球したら手が痛んで仕方がないだろう。
でも幸いなことにミットは兄貴の硬式用がある。
本当なら防具も硬式用があればよかったんだが。
剣の体格に装備できる防具はお前が持ってきたものしか無くてな。
次の機会までに用意できたらしておくが。
それが無いと怖くて仕方がないって言うなら今日はやめておくか?」
「いえ…大丈夫です…」
「心配そうな顔すんな。初めのキャッチボールでしっかりと慣らしてやるよ。
座って構える頃には恐怖心なんて無くなるさ。
もちろん俺の投手としての実力もわからない現状では不安に思って当然だ。
何もかもを簡単に信用しない姿勢は買うが。
とりあえず俺とキャッチボールしてからでも良いだろ?
恐怖や不安に思うのはよ。
怖がってばかりじゃ一歩前に進めねぇぜ?」
「はい…じゃあとりあえずキャッチボールからお願いします」
「あいよ。兄貴のミットだから好きに使ってくれよ。
この間まで倉庫で眠っていたんだ。
俺が整備してきれいに使いやすいようにしておいたからよ。
そのミットも久しぶりに使ってもらえて喜ぶだろうさ」
「ありがとうございます。大事に使わせていただきます」
「剣にとっては幾らか大きく感じるだろうが。
軟球用のミットを使って怪我でもされたら俺が困るからよ。
不便に感じたとしても努力の量で埋めてくれ」
俺は兄貴のミットを剣に渡すと倉庫で眠っていた比較的きれいな硬球を手にしていた。
剣はミットを受け取るとその硬さに驚いているようだった。
「初めはかなりキャッチングに苦労するだろう。
軟式用のミットの様に柔らかすぎないからな。
初めは固いとすら感じるだろう。
しかし硬球を受けるにはこれぐらいの硬さでなければ手が痛くて仕方がないだろう。
まずは慣れるようにゆっくりとキャッチボールとしよう」
「はい!」
剣が返事をした所で俺は硬球をゆっくりと山なりの緩いボールで投げていた。
それをしっかりとキャッチする剣。
「上手いぞ。思ったよりどうにかなりそうだろ?」
「はい。少しずつですが慣れていけそうです」
剣の答えに笑みを浮かべて頷くと返球を待つ。
思ったよりもしっかりとスピンの掛かった球が胸元に飛んできて俺は驚いていた。
(剣は絶対に良い選手になるな。
後にも先にもキャッチボール一球でそう思わせてきたのは剣だけだな…
そんな剣のライバルって誰なんだ?)
俺は脳内でそんな事を思いながら次の投球の動作に入っていた。
先程よりも速度を上げて山なりではない球を投げていた。
剣はその球をしっかりと捕球していて。
俺は確信を得ていた。
(本当に硬球を使用した経験がないのか?
俺が中学生の頃の同級生だって…
初めての日はもう少し腰が引けた捕球をしていたがな…
才能なのか決意の固さがそれを可能にさせているのか。
とにかく様になった捕球だわな。
やっぱり将来に期待できる選手だ。
俺が教えられることなんて少ないだろう。
中学になれば有名なシニアに入団して。
経験値の高い指導者のもとで指導を受けてほしいな…)
続いて剣が返球をして。
かなりのスピードで鋭いストレートが投げ込まれる。
「剣。お前…投手の経験は?」
俺の純粋の疑問に剣は首を傾げて応える。
その反応で経験がないことを理解した俺は余計な一言かもしれないが。
それを伝えていた。
「お前はきっと投手でもいい線いくと思うぞ」
俺の一言に剣は何故か苦笑の表情を浮かべてぎこちない感謝の言葉を口にしていた。
その反応の意味がいまいち理解できない俺だったが。
きっと剣には剣なりの事情があるのだろう。
もしかしたら投手をやりたくない理由があるのかもしれない。
またはどうしても捕手をやりたい理由があるのかもしれない。
剣がその理由を話す気になった時。
俺はそれを聞くことになるのだろう。
いつになるかはまるでわからないことだが。
もしかしたらそれは剣が高校生になった時にでも打ち明けてくれる事かもしれない。
いいや…その時まで俺達の関係が続く保証など無いが。
そんな事を思いながら俺達はキャッチボールの続きを行っていくのであった。
キャッチボールが終わりマスクを被った剣は定位置で座り構えを取っていた。
そこから五割程の力で投球練習を行って。
しっかりと肩が温まった状態で変化球に移行した。
「じゃあシニアリーグの投手で良く投げられるカーブ系の変化球を幾つか投げる。
大きく分けて三種類ほどの変化軌道や変化量や変化スピードの違いだって思ってくれたら良い。
もっと上のステージに行けば多種多様になっていくし。
投手によって変化は全て異なると思った方が良いだろう。
一つとして同じ変化球は無いと覚えてくれると柔軟にキャッチングの対応も出来るだろう。
今はとりあえず俺がシニアリーグで良く見られる様な変化球を投げるから。
それも絶対正しいわけじゃないし。
ただの模倣でしか無いから。
参考程度に思ってくれ。
とにかく今日はキャッチングの練習だから。
柔軟に対応してくれな」
俺の前置きに対して剣は深く頷くと緊張しているのか黙ってつばを飲み込んでいるようだった。
それとも深く集中していただけかもしれない。
とにかく俺は一般的なカーブと分類される変化球から始めて。
ドロップカーブやナックルカーブやスローカーブやパワーカーブを順繰りに投げていった。
初めから捕球できるわけもなく。
それでも剣は徐々に柔軟に対応していく姿を見せてくれていた。
「まずはとりあえずカーブ系だけに絞ろう。
しっかりと完全に捕球できるようになってから次に進むとする」
「はい。思った以上に難しくて…何度も逸らしてすみません…」
「何で謝る?
初めての経験をミス無く出来る人間なんて存在しないと言っても過言ではない。
時々居たとしてもそれはそいつが潜在的に得意な分野だっただけだろう。
もしくは他の出来事で似通った経験をしたことがあるんだろう。
だから習得するのが早いってだけだ。
誰しも初めての経験はミスがつきものだ。
それを謝る必要はない。
必要以上に凹む必要もない。
とにかく今はミスを繰り返してでも回数をこなすんだ。
それで徐々にでも上達して上手くなれば良い。
それに付き合うぐらいしか出来ないが。
俺には時間がたっぷりあるからな。
何球でも投げるさ。
だから気にしすぎるな。
剣は自分の成長のことだけを考えろ」
「はい。何から何までありがとうございます」
それに下手くそ過ぎる笑みで応えると引き続きカーブ系の変化球を投げ続けるのであった。
18時になる前に自主練習を終えた俺達だった。
暗くなる前に家まで送り届けなければならないと大人としての責任を感じながら。
練習を終えると防具をしまっていた剣に家の冷蔵庫から飲み物を持っていった。
「根を詰め過ぎだったか…俺も教えるのは初めてでな…あまり思い至らなかったが…疲れただろ?」
飲み物を受け取った剣は一つ頷くとそのまま飲み物を喉の奥に流し込んでいく。
「でも凄く意味のある練習だったと思います。また明日もお願いしていいですか?」
「あぁ。明日までにもう少しメニューを考えておく」
「ありがとうございます」
「とりあえず車乗れよ。家まで送る」
「え…でも…」
「大丈夫。こんな夕暮れに小学生を一人で帰す訳にはいかんだろ」
「じゃあ…お言葉に甘えさせていただきます」
「ふっ。本当に子供らしくねぇ態度だな」
そんな悪態の様な言葉を不器用過ぎる笑みを浮かべて口にする。
そのまま剣を車に乗せると彼の家まで送り届けるのであった。
一人で帰宅する車内で俺は少しだけ剣の将来を思っていた。
「初めての変化球が左投手の俺か。なんか変な癖が付かなければ良いんだがな。
でも逆に左投手が得意になるか…?
なんて都合のいい考えだろうが…
俺よりも優れた左投手に出会った時…
剣はどれだけの覚醒をするんだろうか。
その時まで今日の初めての経験を覚えていてくれるだろうか…」
自宅が見えてきて。
ガレージに車を駐車して家の中に入る。
そのまま風呂に入り自室に戻ると。
本日も本業である配信スタートのボタンを押したのであった。
次回も変化球を捕球する特訓へ…!
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