壱 招かれざる鬼方士⑧

「白玲様……?」

 命令に従わない自分にげきこうしているだけではないと気づいたのか、冬惺が案じるような声をかけてくる。

 白玲は気力をふり絞って自身を奮い立たせ、冬惺をにらみつける。

 神経という神経が冬惺という存在を拒む。梟炎を前にしたこの状況下で、誰かがそばにいることが恐ろしかった。

 ひとりでいい。

 いいや、ひとりがいい。

 誰も要らない。誰もいて欲しくない。また誰かを失うのが怖くて怖くて仕方がない。

 思考が飛び交い、感情が乱れる。冷や汗が流れ、鼓動が高まっていくのを感じながら白玲は震える声で叫んでいた。

「駄目だ! 戦うなど、絶対に許さないっ」

 白玲は焦りとおびえに駆られながら、冬惺に指先を向ける。

 途端に、懇願を重ねようとした冬惺が大きく体を前に傾がせた。

 足に絡みつくものの正体を確かめようとして、今度は右手が捕らわれる。そうやって正体不明のものに引き倒され、冬惺は地面にひざをつく。右手は剣をにぎったまま地面に縫い止められて、寸分も上げることができないようだった。

「水ですか……!」

 腕や足に絡む、透明なひものようなものにあらがいながら冬惺がうめく。

 やはり、察しが良いと思いながら、白玲は視線を背ける。

 降り止んだとはいえ、地面はつい先程までの豪雨によって重く泥濘ぬかるんでいる。どんな状態であっても、水とあれば屍王は自在に操れる。

「そこで、じっとしていろ」

「お待ちくださいっ。これを……術を解いてください!」

 冬惺の必死の訴えに背を向けて、白玲は梟炎に近づいていく。

 白玲の身体に染みた春蘭の香りにあてられているのだろう。山猫の梟炎は毛を逆立てながら、いっそういきり立つ。

 翠霞娘娘の移り香は、並の鳥獣より高い知能を持つ梟炎をたけり狂わせる。それは梟炎が三界でただひとつ欲するものだからだ。

「騒ぐな、すぐに始末してやる……地に染むる雨滴よ。屍王の命に従え」

 白玲は梟炎に向かって両手をかざすと、ひやりとした声でうたう。

 ほぼ同時、梟炎も地をり、襲いかかってくる。

 梟炎は飛ぶ勢いで距離を詰め、白玲に喰らいつかんと牙をく。

 だが、寸の間を先んじて、地面から次々にそそり立った水のやいばが梟炎を穿うがつ。

 数多あまたの水刃にくしされ、梟炎は耳障りな叫声を上げながら地面に横倒しになった。

「終わりだ」

 白玲はぐっと右のこぶしをにぎり、うしろに引く。

 仕草に呼応するように、水の刃がいっせいに梟炎を覆い囲うように伸び、そのまま締めつける。短い断末魔と共に梟炎は切り刻まれ、四散した。

 白玲は散っていく梟炎のまつをしばし眺めていたが、やがて小さく息を吐くと、冬惺に向き直る。

 たったいま目にしたものが信じられない。

 そう語るように顔をこわらせながら、冬惺はこちらを見つめていた。

 白玲はかすかにまゆを寄せる。

 冬惺のそうぼうには疑いようのないほどの恐怖がにじんでいる。

 過去にたいし、身をもつてその脅威を知っているにもかかわらず、冬惺は再びまみえた梟炎にひるまなかった。

 しかし、そんな男がいま、白玲に対し恐れをあらわにしている。

 突きつけられた現実に、白玲の胸の奥がじわりとくらくなる。

 だが、すぐさまかげをはらい、再び冬惺に指先を向けた。

「足手まといの意味が理解できたか」

 白玲が指先を回せば、たちどころに冬惺の手足から水の縛りが解けた。

「俺に助けなど必要ない、ひとりで十分だ。わかったら、二度と玄冥宮に来るな」

「……私は──」

 この期に及んで、まだ何か言わんとする冬惺に白玲の堪えが切れた。

「うるさいっ、何も言うな。梟炎より、俺の方が化け物だと震え上がっているやつの言葉など聞きたくもない」

 冬惺は青ざめ、黙り込む。

 違うと言いたいが、できないのだろう。

 潤冬惺はその場しのぎの噓が吐ける人間ではない。わずかな接触だけでも、その人となりは十分に伝わっている。

 また、冬惺が怯えるのも理解できる。

 同じ屍王の白碧でさえ、白玲の力には驚きをのぞかせることがあったくらいだ。人である冬惺に動じるなと言う方が無理だろう。

 だが、それでも正直に恐れを認める冬惺の態度に心が乱される。わかっていてもいらちが抑えられず、白玲は荒ぶるままにせいを吐き出していた。

「図星か? 神の代行者といったところで、菓子で懐柔できる程度だと甘くみていたんだろ。残念だったな、俺はおまえが思っているようなものじゃない。俺はっ……」

 白玲がさらに叫びかけた、そのとき。

 背後で梟炎の気配がうごめく。

 危機を察し、ふり返るなかに、白玲は瞬く間に四肢を生やし、牙を剝いて飛びかかってくる梟炎の断片の姿を視界の端でとらえた。

 術を放とうと構えるも、遅れは決定的だった。

 駄目だ、間に合わない。

 そう感じると同時、白玲は冬惺に抱え込まれていた。

 背を向けていた白玲と違い、正対していた分、早く動けたのだろう。冬惺は白玲を抱えながら横に飛び、梟炎の断片の突撃をかわす。

 冬惺はすかさず身を翻すと、その勢いのままに剣をふるい、再び襲いかかってきた梟炎の断片を斬りはらう。

 真っ二つに裂かれた梟炎の断片は今度こそ息絶えたのか、空中で散り散りとなり、消えていった。

 無事に退治できてあんしたのか、冬惺が短い息を吐く。

 しかし、それとは反対に白玲の精神は恐慌をきたしていた。

「…………めろ。やめろ! 放せ、このっ!」

 白玲は大声でわめきながら身をよじり、冬惺の腕の中から抜け出す。

 胸の奥底から、身体が壊れそうなほどの恐怖がせり上がってくる。先程感じたものの比ではない。本当にどうにかなってしまいそうだった。

「白玲様? 落ち着いてください。顔色が悪い、少し休まれた方が」

 案じる冬惺の声も白玲の耳には届かない。肩で息をしながら、ひたすら冬惺の右腕を凝視していた。

 白玲をかばったせいで、梟炎の欠片かけらの牙を避け切れなかったのだろう。冬惺の右上腕部の衣服が裂け、傷が覗いている。

 傷から流れる血を目にした途端、胸郭が締め上げられる。鼓動が耳をふさぎ、視界が暗くゆがむ。ひどい吐き気を覚えながらも、白玲はどうにか声を絞り出し、叫んだ。

「おまえは本当にっ……どこまで勝手をすれば気が済む! 何故、言うことを聞かない! 頼まれもしないのにかばって、怪我をして、そのせいで死んでも、役目だから構わないと? ふざけるのもいい加減にしろ! 残された俺がどんな思いでっ……」

 徐々に語勢を弱らせながら、白玲は胸元をつかむ。

 どうしたことか、呼吸をしようとしても息が吸えない。困惑と苦しさでぐらりと意識が傾ぐ。手足までしびれてきて、立っていることさえつらい。

 けれど、倒れるより先に白玲は再び冬惺に抱え込まれ、強引に地面に座らされた。

 血の臭いを近くに感じるのが嫌で、白玲は冬惺から離れたい一心でもがく。

 だが、満足に呼吸ができず、力もまともに入らない状態では冬惺の腕をはらうことはできなかった。

「これは過剰呼吸です。深く吸わず、浅くゆっくり呼吸してください。大丈夫、すぐに治まります」

 冬惺はなだめるように白玲の背中をさすりながら、静かに声をかけてくる。

「……るさい。誰のせいだと、思って……」

 なけなしの気力をすべて投じて、白玲は毒づく。

 しかし、それ以上は身体がついていかず、力尽きるままに冬惺にもたれかかった。

「一度吸ったら、二度吐いて。吐くことに意識を集中してください」

 おつくうで返事こそしなかったが、白玲は冬惺の言う通りに呼吸を繰り返す。しばらくすると、徐々に身体からこわりが抜けていき、息が楽になってきた。

「落ち着いてきましたか?」

「…………随分と手慣れている」

「え?」

「おまえの対応だ。よくすぐに過剰呼吸だとわかったな」

「幾度か経験がありますから。はじめて討伐に赴いた際、耐え難い緊張や恐怖から過剰呼吸を起こす鬼方士は少なくありませんので」

「そうか……」

 白玲は深く息を吐く。

 いまに限らず、この男は常に身をていして他者を守ってきたのだろう。清廉で真面目で、そのうえ善良。改めて思う、こんな人間をそばに置くなど、恐ろしくてできない。なにより、それは自分が手にして良いものではない、と。

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