壱 招かれざる鬼方士⑦


               *


 そびえ立つ天縹萬樹を背にしながら、白玲は祭殿の最奥の壁に手をつく。

 翠炎のきらめきに消えるほどの小声で何事かささやけば、白玲の指先から光があふれ出し、瞬く間に壁面に大きな六角形を描いた。

 六角の光の広がりはつるりと透明で、鏡面と酷似している。

 これは〈すいきよう〉と呼ばれる屍王の霊魂に備わる力のひとつで、梟炎狩りには欠かせぬものだ。

 梟炎は闇と同化する能力を持っており、暗がりさえあれば完全に隠れ潜むことができる。神の代行者である屍王でもそれを見つけ出すことは難しい。

 わずかな例外を除き、基本的に狩りの機会は空腹の限界に達した梟炎が闇から抜け出し、にえを求める時に限られる。

 本来、梟炎の糧となり得るのは翠霞娘娘がその歌声で咲かせる春蘭だけだが、現世であがなうことはかなわない。故に、梟炎は贄を求めて彷徨さまよう。

 獲物にこだわりはない。獣でも鳥でも、はたまた人間でも。血肉とあれば梟炎は襲いかかる。天の下に姿をさらせば、梟炎は気配を隠せない。そうなれば、屍王は現世に存在する水という水を通して梟炎を察知することができる。

 渡水鏡の役割は出没した梟炎のもとに屍王を導く、いわばみちをつなぐことにある。

 梟炎狩りはほぼすべてが渡水鏡を通じて行われるため、屍王はいちいち楼門を通る必要がない。冬惺が門前で待っても白玲と会えなかったのはそのためだ。

 ついさっき、霊魂の奥で梟炎の出現をしらせる水響が鳴った。そのため、白玲は急ぎ渡水鏡を開いた。

 そこに映るのは、白玲の姿や天縹萬樹をはじめとする室内の様子ではない。鏡面には薄闇に包まれた山中の風景が広がっている。

 路は通じた、あとは狩りに赴くのみ。

 いつものごとく、白玲が鏡面の向こうに踏み出そうとした瞬間だった。

 扉が開け放たれる音がしたかと思うや、確実に凜々や宵胡のものではない足音が近づいてくる。

 にわかには信じ難いながらも、白玲が嫌な予感を覚えた通り、天縹萬樹の向こうから冬惺が姿を現した。

「おまえ、誰が入っていいとっ……出て行け! いますぐだ!」

 白玲の怒声にもひるまずに、冬惺は詰め寄ってくる。

「申し訳ありませんが、従えません。罰はあとでようにも。白玲様、ここで──」

 冬惺は驚きに言葉を止めて、渡水鏡が映し出す光景を見つめる。

 しかし、ろうばいは束の間。せつのうちに理解したらしい。

「……成る程。屍王はその神力で路を開くことができるのですね」

 冬惺の察しの良さに舌を打ちながら、白玲は必死に怒りを、そしてそれ以上の動揺を押し殺しながら告げる。

「……おまえは何も見ていない。いいな? すべて忘れて、玄冥宮から去れ」

 白玲は顔を背けると、再び渡水鏡に指をあてる。

 やにわに、鏡面が輝きを放ち、次いで白玲の身体も淡い白光に包まれていく。慣れんだ、越境の感覚に全身が浸される寸前だった。

「──っ、お待ちください!」

 いきなり冬惺に右腕をつかまれ、白玲は目を見開いた。

「なっ……は、放せ!」

 叫んだが、冬惺は退かない。それどころか、にぎる手にいっそうの力を込めてくる。

 こんしんの力でふりはらおうとしたが、間に合わなかった。

 身体から重さが消え、五感がぷつりと絶える。

 白玲は冬惺を引き連れたまま、発動した渡水鏡に導かれ、玄冥宮をあとにした。



 消えせた身体の重さが戻り、続いて膜をぐように白玲の視覚や聴覚が次々と開かれていく。

 実際は精々一拍か二拍、わずかな間であるはずなのに。感覚のすべてが途絶するせいか、いつもひどく長いような錯覚に陥る。

 土を踏む感覚、肌をよぎる風、雨に蒸れた木々の匂い……玄冥宮から一転、大きく切り替わった状況をひとつひとつ感じ取りながら白玲はあたりを見回す。

 屍王は夜目が利く。鬼方士も霊力や修練で暗中でも戦えるだけの可視を保つことができるが、生来その力を得ている屍王は日中と変わらないほど鮮明にとらえられる。

 すでに雨はんでいて、風に押し流されていく黒い雲の合間には半身の欠けた月が浮かんでいる。となると、ここは皇城より東に位置しているのだろう。

 もっとも、ここが何処か。それはさして重要な問題ではない。

 現世に累を及ぼす事態をできるだけ避けねばならない白玲にとって、他を巻き込む恐れがなければ何処であろうと構わない。

 梟炎は潜む場所が多い山峡を好むので、狩場は人里から離れていることが多い。

 夜のやまあいとなれば人と遭遇する危険は低い。だが、狩りや採取で出向く者もいると聞く。幸いにも白玲は出くわしたことはないが、かといって注意を怠る訳にはいかない。

 周囲に人の気配がないことを素早く確認し、白玲は眼前に視線を据える。

 二丈(約3m)ほどの距離を挟み、山猫に似た巨大なようが低いうなり声をあげている。もうもうと黒いくすぶりを全身から漂わせるそれこそが梟炎、屍王が狩るべき敵だ。

「あれは梟炎……」

 不本意にも連れ立ってしまった冬惺がかたわらでつぶやく。

 性懲りもなく、その右手は白玲の腕をつかんだまま。白玲は力の限り、いまいましい男の手をふりはらった。

「これはご無礼を」

びて済むか。不法侵入に命令違反、おまけにろうぜき。梟炎がいなければ、問答無用でたたきのめしてやるところだ」

 白玲は吐き捨てつつも、いまはそちらが大事とばかりに話を切り替える。

「……おまえ、梟炎を見たことがあるのか?」

「はい、三年ほど前の討伐の際に。一度きりですが」

 ちょうど白碧が黒玄府を開いたばかりの頃だ。その時分は梟炎の狩り漏れが多く、鬼方士たちが遭遇する確率も格段に高かっただろう。

「狩れたのか?」

「……二体同時に現れたのを、三隊がかりで辛うじて。七名が犠牲になりました」

 痛みをこらえるような声で冬惺が答える。

 鬼方士は五人で一隊を成す。

 通常は一隊で動くが、対象がごわいと知れている場合は複数隊で臨む。三隊のうちの七名というと全体の半数にあたる。如何に梟炎が人の手に余る脅威であるかが知れる。

 基本、梟炎も穢鬼も人にすれば凶悪な妖異、生命を脅かす危難という意味では同等の存在だ。

 めいけがれを喰らう神獣、梟叫と呼ばれていた頃、その姿は鳥面と翼を有する、巨大なみずちであったという。

 しかし、九玄大帝に切り刻まれ、万余の梟炎に分かたれた梟叫は、その姿形も種々様々に変じた。見た目はや虎、牛や蛇、鳥、魚、いま目の当たりにしているような山猫といったように、現世の鳥獣をほうふつとさせるものが多い。

 だが、見上げるほどの巨体や、複数の角や眼球。硬い体毛や頑強な爪、もしくは翼といった、明らかに異形と映る特徴を持つ。そして、それは穢鬼も同じくするところで、外見に関して言えばふたつに大きな差異はない。

 では、なにがふたつを隔てるのかと言えば──放つ気配。これが決定的に違う。

 梟炎は穢鬼にはない、神力をはらむ黒炎をまとっている。それは刃とも盾ともなり、狩る者を阻む。その元神獣としての力が梟炎を穢鬼よりも厄介な難敵たらしめるのだ。

 悲痛な冬惺の横顔に胸のうずきを覚えながらも、白玲は努めて冷たく言い放つ。

「梟炎の力を知っているなら話が早い。下がって、おとなしくしていろ。そもそも、梟炎は屍王の獲物だ。人が骨を折る必要はない」

「我が身の至らなさは認めます。ですが、妖異の討伐は鬼方士の責務。たとえ誰に命じられようと、それを放棄することはできません」

 冬惺は断固として言い放つと、剣を抜く。

 鬼方士特有の黒衣をまとった者が剣を構える姿を目にした途端、白玲の脳裏が白く染まり、同時に激しい動揺が全身を駆け巡る。

 心の隙を突くように、過去の記憶の奔流が次々に襲いかかってくる。

 虎の姿をした五体の梟炎。

 戦場の緊迫感にされて、動けなくなった自分のせいで隊列が乱れた。

 梟炎たちのきばに、爪に、次々と裂かれていった北斉、明磊、天凱、礼駿、青江……最後に白碧の首が引きちぎられ、一緒に白玲の心も砕かれた。

 白玲は胸を押さえ、飛び出しかけた悲鳴を死に物狂いで押し戻す。

 耐えなければ。正気を保ち、梟炎を狩らねば。

 屍王の使命、それだけが唯一白玲の手の中に残った意義としよくざいなのだから。

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