いつもはおしとやか、弱ると甘えんぼう――2

 あのあと、彩芽を呼ぶ俺の声に気づき、美影が駆けつけてくれた。


 ふたりで彩芽を彼女の自室に運び、ベッドに寝かせて体温を測る。


 体温計に表示された数値は、37.8℃。


「おそらく風邪でしょう」


 彩芽の体温を確認した美影は、そう判断した。


「林間学校の際にお話ししましたが、彩芽様はお体が弱いです。なので、よく体調を崩されるのですよ。今回は、林間学校での疲れが影響したのでしょう」

「なるほど。重篤じゅうとくな病気じゃないなら、よかったよ」

「ひとまずは様子を見ましょう。二、三日経ってもよくならないようでしたら、医者に診てもらうのがよろしいかと」

「そうだね。俺も、それがいいと思う」


 美影の判断は納得のいくものだ。首肯を返す俺に、美影が頼んでくる。


「よろしければ、彩芽様の看病を手伝っていただけないでしょうか? 神田さんが面倒を見てくださると、彩芽様が喜ばれると思うのです」

「もちろん大丈夫だよ。彩芽にはいつもお世話になってるし、厳さんからも、『バイトはいいから彩芽の面倒を見てやってくれ』ってお願いされたからね」

「ありがとうございます」

「……ん」


 美影が頭を下げたところで、彩芽が目を覚ました。


 彩芽の顔をのぞき込みながら、俺と美影は尋ねる。


「具合はどう? 彩芽」

「苦しいことやつらいことは、ございませんか?」


 心配する俺と美影をぼんやりと眺めて、彩芽が一言。


「……お腹がきました」

「「…………」」


 俺と美影は目をしばたたかせる。


 緊迫感とかけ離れた彩芽の発言に、ハラハラしている自分がバカらしく思えてきた。おかしくて、プッ、と吹き出してしまう。


 俺と同じく安心したようで、美影も頬を緩めていた。


「そうだね。朝ご飯がまだだったからね」

「食欲があるようですので、病状は重くないでしょう。神田さん、なにか作ってきていただけないでしょうか?」

「わかった。腕によりを掛けるから、楽しみに待っていてね、彩芽」


 ニッ、と彩芽に笑いかけて、朝食の用意に向かうべく、きびすを返す。


 その折り、彩芽が服の裾をつまんできた。


 振り返ると、捨てられた子犬みたいな目で、彩芽が俺を見つめている。


「行かないでください」

「え? けど、それじゃあ、ご飯を作れないよ?」

「やだぁ。一緒にいてほしいです」


 こんなふうに聞き分けのない彩芽は、見たことがない。風邪の影響で、気持ちが弱っているのだろうか?


 だだをこねられているけれど、迷惑だとは欠片も感じなかった。なにしろ、甘えんぼうモードの彩芽は、膝から崩れ落ちてしまいそうなほど愛らしかったのだから。


 あまりの可愛さに、彩芽のおねだりを聞いてあげたくなってしまう。役目を放棄してでも、そばにいてあげたいと思ってしまう。


 ど、どうしよう? 朝ご飯は由梨さんに頼むか? でも、厳さんから休みをもらった以上、俺が面倒を見るべきだよね……。


 庇護欲と責任感がせめぎ合う。


 俺が葛藤するなか、裾をつまんでいる彩芽の手に、美影がそっと触れた。


「神田さんの代わりに、わたしがお側にいます。それではいけませんか?」

「……本当に側にいてくれる? どこかに行ったりしない?」

「どこにも行きません。約束いたします」

「……じゃあ、我慢する」


 美影になだめられて、彩芽が裾を放す。


 言うことを聞いてくれた彩芽に、「ありがとうございます」と美影が微笑みかけた。穏やかで優しい、聖母みたいな微笑みだ。


 はじめて見る美影の表情に、俺は目をパチクリさせる。


「そういう顔もできるんだね」

「はい?」

「いまの美影、スゴく優しそうに微笑んでいた」

「そうですか?」


 本人には自覚がないらしく、美影は首を傾げて、自分の頬をペタペタと触っていた。


 その仕草が微笑ましくて、思わず口元が緩む。


「いつもの凜々しい表情もかっこいいけど、いまみたいな優しい顔も、魅力的だと思うよ」

「な……っ!?」


 黒真珠の瞳をまん丸にして、美影が頬を赤らめた。


 だが、それも一瞬のこと。美影の顔つきは、すぐさまブスッとしたものになる。


「ふざけたことを仰る暇があるのでしたら、早く朝食を用意してきてください。彩芽様はお腹を空かせていらっしゃるのですよ?」

「ゴメンゴメン。わかったよ」


 ぶっきらぼうな態度が照れ隠しであることは、一目瞭然だ。しかし、下手にからかうと、ひどい目に遭うだろう。


 笑いをかみ殺した俺は、ジト目で睨んでくる美影に謝って、彩芽の部屋を後にした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る