夢みたいだけど心臓に悪い状況――3

 俺は思考を巡らせた。


 マンガ初心者の彩芽には、異世界転生みたいに、暗黙の了解があるジャンルは向かない。メタ要素を含む作品もよくない。女の子に勧めるんだから、お色気展開もアウトだな。だとしたら――


「これなんていいんじゃないかな?」


 熟考の末、本棚に向かった俺は、ある作品を手に取った。


「『甘噛みニャンコの塩むすび』。通称『甘ニャン』。わかりやすい王道ラブコメだから、初心者でも楽しめると思うよ。女性人気も高い作品だし」

「わあ! イラストが素敵ですね!」

「イラストだけじゃなくて話も面白いよ。よかったら読んでみて」

「貸してくれるんですか!?」

「ああ。読み終わったら感想を聞かせてよ」

「はい! ありがとうございます!」


『甘ニャン』を手渡すと、彩芽はニコニコしながら受け取った。もしも尻尾が生えていたら、きっとブンブンと振りたくっていただろう。


 こんなにも喜んでくれたら、こっちまで嬉しくなっちゃうなあ。


 頬を緩める俺の前で、彩芽がソワソワしはじめた。チラチラと落ち着きのない視線。その先にあるのは、手にしている『甘ニャン』だ。


 どうやら彩芽は、『甘ニャン』を読みたくてしかたがないらしい。


 微笑ましい様子に笑みをこぼし、俺は勧める。


「せっかくだし、いま読んでみたらどうかな?」

「いいんですか!?」


 彩芽がパアッと笑みを咲かせる。しかし、すぐにハッとして、申し訳なさそうに肩をすぼめた。


「でも、哲くんの課題がまだ終わっていませんし……」

「ちょっとくらいなら大丈夫だよ。彩芽が手伝ってくれたおかげで、時間に余裕もあるしね。それに、勧めたマンガを読んでもらえたら、俺も嬉しいからさ」

「そ、それでは、お言葉に甘えますね?」


 やはり読みたかったらしく、彩芽はいそいそとクッションに座る。見るからにウキウキしている表情は、遊園地に連れていってもらえる子供みたいだった。


 おしとやかなイメージが強かったけど、お近づきになってみたら、思った以上に可愛いよなあ、彩芽って。


 ほっこりした気持ちでそんな感想を抱いていると、彩芽が自分の隣をポンポンと叩く。


「哲くんも一緒に読みませんか?」

「はぇ?」


 思わぬ誘いに、の抜けた声が漏れた。


「え? 一緒に?」

「はい。はじめてマンガを読むので、わからないところがあるかもしれません。そんなとき、哲くんに説明してもらえたらありがたいんです」

「な、なるほど?」

「それに、哲くんもこのマンガが好きなんですよね? 好きなものは、誰かと鑑賞したほうが、より楽しめると思いませんか?」

「た、たしかに?」

「ですから、一緒に読みましょう!」

「そ、そうだね?」


 半ば流されるかたちで、彩芽の隣に腰を下ろす。


 満足そうに微笑んで、彩芽がページを開いた。




 三〇分後。


 読み終えた『甘ニャン』を、彩芽がパタンと閉じる。


「とっても面白かったです!」


 俺を見上げる彩芽の瞳は、星をちりばめたみたいにきらめいていた。


「絵が綺麗ですし、登場人物がイキイキとしていますし、それだけじゃなく、お話も素晴らしかったです! 甘酸っぱくて、キラキラしてて、ちょっとだけ切なくて、胸がキュンキュンしちゃいました!」

「気に入ってくれたなら、嬉しいよ」

「はい! こんなにも素敵な作品を読ませてくれて、本当にありがとうございます!」


 興奮気味に語る彩芽に微笑みを返す。


 平静を取り繕っているけれど、実のところ、彩芽の隣に座ったそのときから、俺はずっと緊張していた。


 頭を傾ければ触れてしまいそうなほど近くに彩芽の美貌があるうえ、くっついた肩からは体温が伝わり、桜みたいに上品な匂いが鼻をくすぐってくるのだ。女性慣れしていない俺には、あまりにも刺激が強すぎる。


 こういうシチュエーションに憧れたことはあるけれど、現実に起きたら戸惑いしかないんだなあ。作品の内容が、まったく頭に入ってこなかったよ。


 彩芽と過ごすようになってから、ことある毎にドキドキさせられている。嬉しいけれど、心臓に悪い。


 贅沢な悩みを得るなか、彩芽が『甘ニャン』を胸に抱き、ふにゃりと頬を緩めた。


「哲くんの好きなものを好きになれて、よかったです」


 心を許しきったようなその微笑みは、はじめて目にするものだった。


 俺は思わず見とれてしまう。


 散々ドキドキさせられてきたけど、いままでで一番ドキッとさせられた。

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