【似せ者】刑事・磯山和宏

桜坂詠恋

【似せ者】刑事・磯山和宏

 ええ。刑事さんの仰る通りです。

 東京に就職が決まった時は、その先に希望があるのだと信じていました。

 いずれ学生時代から付き合っていた彼女と所帯を持ち、幸せな人生を送るのだと。

 それがあんな些細なことで人生が変わってしまった。

 でもね、私、気が付いたんですよ。

 上手くいかなければ、ゲーム機のリセットボタンを押し、違うキャラクターでプレイすればいい。

 そうすりゃ、別の結果にありつけるのだと──。


 *   *   *


「こんにちはー!」

 磯山は、高井戸にある一軒家の玄関の引き戸をカラカラと開けると、そう言いながら靴を脱いだ。

 上がり框に片足を乗せたところで、奥からスラックスにポロシャツ、その上に「チョッキ」を着た白髪の男が現れた。

「おいおい、磯山。招き入れてもいないのにそれじゃあ、住居侵入罪だぞ」

 そう言いながらも、元刑事の男は、皺が刻まれ日焼けした顔を綻ばせている。

「安西さんちは、実家みたいなもんですからね」

「なに調子のいいこと言ってるんだ」

 そう言いながらも、トイレのドアを開けながら「茶の間に行ってろ」と、案内などする気もない安西である。

 磯山にとって安西の家は、まさに勝手知ったる他人の家。

 板張りの細い廊下を、ギシギシと言わせながら進む。

 どの家にもその家庭独特の匂いがあるものだが、この家は磯山の実家の匂いにどこか似ていた。

「今、智子のやつが買い物に行っててな。煎餅しか……あれ、確か煎餅がこの辺に……」

 安西は丸盆に乗った冷たい麦茶と熱い緑茶を卓袱台に置くと、戸棚の中をがさがさと掻き回している。

 そんな背中を眺めながら、磯山は茶を眺めた。

 はて。どっちを貰ったらいいのだろう。

「お前は麦茶だ。──あったあった」

 磯山の心の声が聞こえたのか、安西はそう言って煎餅を戸棚から引っ張り出した。

「肥えたやつは汗かきだから──ん?」

 言いかけて、磯山をまじまじと見る。

「お前、随分と痩せたな」

「分かります?」

 何しろ、安西が定年で警察を退官して以来、安西の後を継ぐ形で磯山はある事件を追っている。

 おかげで日々忙しく、気が付いたら10キロ以上痩せ、周囲から「最近磯山に首が生えた」と専らの評判である。

「まあ、俺みたいに暇なのよりはいいが、体には気をつけろよ? で、今日はどうした?」

 安西がずるずると茶をすすりながら聞く。

 磯山は頷くと、ずいと膝を詰めた。

「安西さん最後の、あの事件です」

 安西はぴくりと眉を上げた。

 安西の最後の事件とは、轢き逃げに遭った男と不倫関係にあった女が、共謀して男の妻を殺害したと言う事件である。

 しかも、そのひき逃げに遭った男が別人と戸籍を入れ替えていた為ややこしい。

 磯山は今、ひき逃げに遭った梶原(実際は木村)と戸籍を交換した『本物の梶原』の行方を『偽造文書作成』の容疑で追っていた。

「そうだったな。しかし、お互いに戸籍を交換していた訳だから、木村の戸籍を追えば、本物の梶原に辿り着くんじゃないのか」

 当初、捜査本部も安西と同じ見解であったが、そうは問屋が卸さなかった。

 なんと、梶原は次々と戸籍を交換していたのである。

「そんな訳で、僕は梶原と戸籍を交換して来た男たちを追っている訳です。

 服を着替えるように次から次へと名前が代わるので、そうこうしているうちに、自分は一体誰を追っているのか……分からなくなってきました」

 おかげですっかり疲れ果て、頭も回らなくなってしまった。

 それで安西の元に駆け込んで来たのだ。

 子供の頃からずっと太っていて、そのせいでいつも虐められていた。

 そんな自分を変えたくて警察官となり、そして安西と出会った。

 ポンコツでヒヨッコの自分を叱咤しつつも、根気よく付き合い続けてくれた安西。

 磯山にとって安西は、相棒であり、師匠であり、父だった。

「例のひき逃げ事件が明るみに出た事で、逃げているんだろうな」

 安西は嘆息すると言った。

「だと思います。しかし、梶原は何故戸籍を捨てたんでしょうね。梶原には田舎にルリ子と言う恋人もいて、東京の証券会社に就職も出来た。

 順風満帆だったはずです」

 戸籍を捨てると言うのは過去を捨てると言う事だ。一体何が梶原の身に起きたんだろうか。

「磯山」

 安西に呼びかけられ、磯山は顔を上げた。

「今の梶原が何者であるかを追ってもいたちごっこだ。梶原と言う青年が東京に出て来て、一体ここで何があったのか。

 そして、木村と言う男に何があったのか。そこを調べてみろ」

「はい」

 磯山は嬉しくなった。

 そこにはまだ刑事デカの目をした師の姿があった。


 *   *   *


 今からおよそ35年前。

 梶原信二は、東京の証券会社に就職した。

 これまで北陸の田舎で暮らしてきた梶原にとって、とても刺激的で魅力的な街だった。

 会社で言葉を交わす女子社員、接待で出入りする店の女。

 東京では、これまでTVでしか見た事の無いような美しい女が当たり前のようにゴロゴロ転がっている。

 当時、証券会社で働いていた梶原は、初めて都会で手に入れた成功。そして恋しくなる人肌を求め、いつしか女に溺れていった。

 そうなると、田舎にいるやぼったい恋人から届く手紙も鬱陶しい。

 しかし、離れているのだからと、わざわざ別れを告げることもしなかった。

 面倒臭かったのだ。

 そんな時、とある店で飛び切りのいい女に出会った。

 これが梶原の転落の始まりだった。美人局だったのだ。

 案の定、何度となく男に付き纏われ、金を搾り取られ、命を脅かされ、路地裏でボロ雑巾のように痛めつけられた梶原は焦った。


 このままでは本当に殺されるかもしれない。

 

 木村治と言う男に出会ったのはそんな時だった。

 当時、なんとか会社には通っていたものの、恐ろしくて自宅に戻る事もままならず、梶原はカプセルホテルを転々としていた。

 その日も宿を求めふらついていた所、踏切に飛び込もうとしている木村を咄嗟に助けたのが切っ掛けだった。

 そのまま居酒屋へ連れ込み話を聞けば、男は株取引に失敗し、財産を全て失ったのだと言う。

 梶原は呆れた。

 それくらいなんだというのだ。

 他人に命を狙われる事を考えたら屁でもない。

 その時だ。ふと、梶原の脳裏にとんでもない思いつきが浮かんだ。

 

 この男に自分の人生を背負わせてしまえ──。

 

 梶原は酔ってくだを巻く木村の肩を叩き、「分かるよ」と何度も言った。「いっそ、違う人生をやり直したいよな」と。

 そして周囲を見遣り、声を落としてそっと呟いた。

「ここだけの話なんだけど、俺は実は戸籍ブローカーなんだよ。あんたに新しい戸籍を都合してやれるよ」

 木村は驚いたように梶原を見た。その表情には疑念の二文字が見て取れる。

「嘘じゃないよ。信じられないと言うなら、俺の戸籍と交換すればいい。今ここで免許証を交換したっていいよ。

 俺は証券会社勤めだし、あんたの能力も生かせるだろう。あんたはまだまだやり直せる」

「どうやってあんたの会社に潜り込むんだよ」

 梶原はにやりと口の端を上げた。

「整形手術だよ。俺が会社に事故って1か月休むと連絡する。その間に手術するんだ。

 事故で顔が多少変わる人も多いし」

「だけど、俺はもう一文無しだ」

 梶原は木村の背中を力強く叩いた。

「こんな運命的な出会いをしたんだ。俺たちはもう他人じゃない。費用は要らないよ。

 なんなら術後の生活費も、俺が幾らか都合してもいい」

 男はあまりにうますぎる話を訝しんだが、今のままでは明日をもどうなるか分からない。

 結局、二つ返事で乗っかった。

 梶原は直ぐに準備を行った。全ての身分証を交換し、貯金をいくらか木村にくれてやり、男の顔を梶原に似せて整形した。

 これにより、梶原は「木村」と言う新しい人生を手に入れた。

 証券マン・梶原として蓄えた資金もある。梶原はひっそりと人生のリスタートを開始した。


 しかし、誤算だったのは、殺しに来るであろうと思っていた男が、未だに木村を襲っていない事だ。

 それどころか、木村はとんでもない事件を起こし、その素性を警察に知られた。

 おかげでまた、梶原は戸籍を移らねばならなくなってしまった。


 *   *   *


 安西に助言を貰った磯山は、徹底的に梶原と木村を洗った。

 すると、当時梶原がキャバクラのある女に入れ上げていた事、その女が筋ものの男の情婦であったことを、その当時の店のママから聞くことができた。

「かわいそうに。随分とその男に嬲られていたわねぇ」

 現在、自称還暦というそのママは、未だ現役で店を続けているらしく、この日も朝から昨夜の酒の残り香をプンプンさせながら、古いマンションの玄関ドアにもたれ、掠れた声で言った。

 これだ。

 きっと梶原は、自分の命を脅かす男から逃げたかったのだ。

「でもその彼氏──」

 メモを取る磯山の手を眺めながらママは続けた。

「そのあと直ぐにカチコミにあって死んじゃったのよね。だけどあの梶原って子、二度と見なくなったわ」

 自分が覚えているのはそれくらいかしらねと言うと、ママはまじまじと磯山を覗き込んだ。

「刑事さん、よく見たら可愛いわね。ちょっと上がってお茶でも飲んでく?」

 磯山は慌ててその場を辞した。

 

 それを機に、磯山は次々と情報を釣り上げた。

 同じ頃にトレーダーだった木村が株取引で失敗していたこと。

 梶原が、会社に「事故に遭った」と入院の為1か月の休みを取っていたこと。

 戻って来た梶原は少し雰囲気が違ったように見えたが、その後も美味く仕事をこなしていたこと。

 磯山は想像した。

 梶原は殺されるよりマシだと木村に戸籍を譲ったのかもしれない。

 木村は木村で、梶原の仕事や家、恐らく幾許かの金にありつき、運のいい事に命を狙われる事もなく生き延びた──。

「いいぞ、和宏!」

 磯山はひとりグッとガッツポーズを取る。

 その横を、同僚が顔を顰めて通り過ぎていった。


 更に調べていくと、一方の木村(入れ替わった梶原)に不自然な点が見えて来た。

「なんで株で文無しになったはずの奴が商売を始めてるんだ」

 磯山は驚いた。

 なんと木村はテナントを借り、不動産屋を営んでいたというのである。

 その時、磯山は次々と梶原が戸籍を交換していた男たちの供述を思い出した。

 皆、身を隠したい、逃げ出したいと願った者たちばかりである。

 そんな彼らは「不動産屋で仲介された」と話し、口を揃えて梶原を「似せ者」と呼んでいた──。

 不自然過ぎぬよう、出来るだけ似た者をマッチングしてくれるため、その界隈ではそう呼ばれていたというのだ。


 夜逃げする彼らには、次に住まう場所が必要だ。

 その場所を求めて不動産屋へ行き、そこで「似せ者」に会った──。

 

 「個人でやっている不動産屋を虱潰しにするしかない!」

 磯山は来る日も来る日も不動産屋を訪ね歩いた。

 途方もない作業だが、きっと安西も、地道にこうやって足で稼ぐに違いないと思ったのだ。


 そしてついにその日が来た。

 犯罪加害者家族に、戸籍交換を持ちかけて来た不動産屋の情報を掴んだのである。


 *   *   *


 狭い取調室で向かい合った梶原は、実年齢よりかなり若く見えた。

 しかしこれも、戸籍を変えるために自ら交換相手に合わせ顔を変えたからだ。

 新しい顔、新しい名前。

 この時、梶原は松島一夫と名乗り、町田の小さな商店街の一角で不動産屋を営んでいた。

 最早これまでと思ったか、梶原は抵抗もせず、容疑を認めた。

 そして磯山が差し出した供述書にサインをすると、力無く言った。

「刑事さん。梶原信二の人生は轢き逃げで終わったんですってね。

 捕まっちまったけど、こうやって生きているだけ、私はマシなんだな。あの男も早々に梶原信二の人生を誰かと交換していれば良かったんだ」

 梶原の、事の重大さを欠片も理解していないその態度に、磯山はギリギリと奥歯を噛んだ。

「刑事さんも、今の人生が嫌になったら──」

「ふざけんな!」

 磯山の手が取調室の小さな机を打つ。

 梶原は飛び上がった。

「違う……梶原さん、それは違うよ」

 磯山はメガネの奥から梶原を真っ直ぐに睨め付けた。

 体の横で握りしめた拳がぶるぶると震えている。

 そして静かに深呼吸を繰り返すと、磯山は絞り出すように言った。

「あれは……木村治の人生です。あなたの人生じゃない。

 人の人生は、名前や戸籍に付くわけではありません。

 どれだけ名前を変え、どれだけ戸籍を変えたところで、あなたの後ろについているのは、梶原信二の足跡だ」


 取調室についたマジックミラーの向こうで、安西が鼻を啜った。

「磯山のヤツ……」

 その肩を一課長がそっと叩く。

ヤスさんが育てたんだよ」


 取調室では磯山が梶原の肩に手を伸ばし、優しくさすって言った。

「梶原さん。あなたがずっと歩んで来たのは最初から今まで、そしてこれからも変わらず、あなたの──

 梶原信二の、人生です──」


 その瞬間、梶原は崩れ落ちた。

 刑事・磯山が、容疑者を本当の意味で落とした瞬間だった。


 *   *   *


「こんにちはー!」

「おいおい、まだ入れとは入ってないぞ?」

 高井戸の安西の自宅の玄関で交わされるいつもの言葉。

 安西が顔を綻ばすのも一緒なら、磯山が返す言葉も一緒だった。

「安西さんちは、実家みたいなもんですからね」

「なに調子のいいこと言ってるんだ。茶の間に行ってろ」

「はーい」

 磯山は廊下をギシギシ言わせながら茶の間へと歩いていく。

 そんな弟子の背中を、安西は頼もしそうに眺めた。

 磯山は随分と痩せたが、その背中は以前よりずっと大きく見えた。


 ──了。

 

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