夏の終わりは朱く滲む
一夏茜
第1話
アブラゼミがやかましく鳴り響き、夏の始まりを告げる。ジリジリと太陽の日差しが照りつくような午後。全てを溶かしそうなほどの熱気が教室を支配していた。クーラーはあいにく故障中。扇風機が一生懸命微かな風を送ってくれるが、後ろの方の席にはそれは届かない。うんざりする。
前に取り付けられた黒板には白いチョークで書かれた数式が並んでいる。見ていて頭が痛くなる。窓際近くに腰掛けた私は授業についていくのを早々に諦めて、頬杖をついた。ぼんやりと視線を窓の外に投げる。空の青さが目に痛い。随分晴れている。
教師の説明は右から左へ念仏のように流れていく。就業の鐘が鳴り、教師が出て行ったのと同時に私は学校机に頬をつけてもたれかかった。木の匂いがした。
「ああ、つまらん……なんて退屈なんだろう」
全開に開いた窓から風がかろうじて吹き込み肌を撫でる。じっとりと汗ばんだ肌に心地いい。私は窓の外を向き、目を細めて生ぬるい風を受ける。窓の外には初夏の空がどこまでも青く澄んで、真っ白な入道雲がダイナミックに湧き立っていた。
これを見ると今年も夏がやってきたと実感する。季節の中でも夏は好きな方だ。なぜって、やはり夏は冒険の季節だから。夏の香りにワクワクするのは子供の頃から変わってない。夏が終わる頃の寂しさと言ったら……。
その時、呆れたような声がした。少年の声だ。
「どうせ
「そんなこと言うのアオだけだって。あんなの面白くもなんともないよ」
私は身を起こすと、気だるげに言う。私の通うこの高校は、今ようやく休みに入り賑やかな喧騒が満ちていた。ガヤガヤと様々な声や響きが、遠く近くで交差する。それぞれが友達のところに向かいお喋りに興じているその時のことだ。一際高い笑い声が耳を打った。
「みた? また
「髪の毛も堂々と染めちゃってさ、カラコンでしょアレ」
「もう聞こえたらどうすんのよ、ふふ」
「かまいやしないって」
ひそひそしているけど、微かに聞こえるという絶妙な声量だ。……これだから人間は嫌なんだ。
「地毛だし、カラコンも入れてないし……」
「晴……」
私は若干赤紫がかった灰色の髪をつまんでいじった。兄さんが綺麗な薄梅鼠色だと褒めてくれたこの髪だけど、やっぱり嫌いだ。明らかに周りと浮くんだもん。窓の薄い反射に映る、私の瞳は血のように真っ赤だ。普通の日本人ではないカラーリングの、きつそうな顔立ちの女がこっちを憂鬱そうに見ている。それもこれも私の生まれが関係するのだが……。
こちらをチラチラと見ながらおかしそうに笑っているのは三人ほどの女子生徒だ。教師にバレないように薄く化粧をして、スカートを校則で定められたギリギリまで折っている。まあいわゆるクラスカーストで上位に入るような子たちだ。私のような者とは一ミリも縁がない人種。
私はため息を吐くと席を立った。ああ言う相手とはさっさと退散するに限る。このまま見せ物になるのはごめんだし、それにもう授業を真面目に聞く気力も失せていた。ま、今日は十分頑張っただろう。勉強は明日の自分がやってくれるさ。
それにしても同じ年頃の子供達と同じ場所に押し込められるのは、苦手だ。何を話せばいいのか分からないし。この年になった今でもうまくやっていける自信がない。
「行こうアオ」
「おう、わかった」
頭から猫のような獣の耳を生やした少年が返事をして、腰掛けていた机から飛び降りた。藍色の甚平の袖口から、真白い腕がヒョロリと伸びて、爪の長い手が頭の後ろで組まれる。ズボンの尻の方から出ている二又の尻尾がゆらゆらと揺れた。右手の甲から肘にかけて桜の花びらのようなアザが散りばめられていた。艶やかな黒髪の下には、生意気そうな表情と共に、利発そうな晴天のように澄み渡る青い瞳がある。
人気がない、寂れて埃だらけの階段を登る。トントンと小刻みに靴音が響いていた。屋上につながる扉を拘束する錆びた鎖は切れて地面に落ちている。私は気にせず扉を手のひらで押した。ぎい、と掠れた音を出して扉はゆっくりと開く。
「晴! アオも! 待ってたぞ」
「遅かったじゃない」
まず目に入ってくるのは群青の青空。開けた屋上に集まっているのはこの学校やここ霧絵町に縄張りを持つ低級妖怪たちだ。ふわふわと浮かぶのはボロボロの真っ赤な提灯に目玉がついた化け物。ゾッとするほど青白い肌を持った、おかっぱに切り揃えた黒髪の女の子。赤いスカートが風もないのにふわりと靡いている。人体模型がカタカタと揺れて目玉がグリンとこちらをみる。青い人魂が頭上でひらひらと揺れていた。
妖怪。それは妖、物の怪とも呼ばれる、古来から日本で信じられてきた民間信仰。まあ、現代では忘れられた昔話だ。実際、今も妖怪を信じている奴はなかなかいない。よほどの変わり者か、オカルト好きか……もしくは見えている奴か。
妖怪なんて私に言わせれば珍しい存在じゃない。よく目を凝らして真に見ようとすればどこにでもいるものだ。手のひらサイズのかわいらしいものがいれば、人を一人丸呑みできそうな大きなものまで。大きさも姿形も様々。しかしその全てが命なき彼岸の住人だ。
「情報はあった?」
私が聞くも、妖怪たちは顔を見合わせると眉を下げて首を振った。
「そっか……」
アオは心配そうに私を見る。私は息を吐くと、どかっと地面に腰を下ろした。そして背をつけて寝っ転がり頭の後ろで腕を組む。目を細めて、晴れ渡る青空を眺めた。気持ちのいい景色とは裏腹に心は薄暗い不安が渦巻いていた。
「兄さんどこ行っちゃったんだろ」
兄さんが私になんの説明もなく突然失踪してから一ヶ月が経った。兄さんは普段とてもじゃないがそんなことするような人ではない。優しくて私よりもうんと弱い兄さん。妖怪に襲われていないか心配だった。
この体には脈々と人と似て異なる血が流れている。私と兄さんは妖怪の血を引いているのだ。
祖父は酒呑童子という有名な妖怪だった。私は詳しくは知らないが……昔相当力を持っていた妖怪で、今恨みがある妖怪も多いらしい。おまけに祖父の血を色濃く引き継いだ私は妖力が多いため、野心のある妖怪は食ってその力をものにしようと年中襲いかかってくる。なんでも妖力の多い私を食えば手っ取り早く強くなれる、らしい。本当かどうか知らないが。
祖父の一人息子だった父も莫大な妖力を持ちよく妖怪に狙われていたが、それを全て一人で跳ね返してきたのだと。……ま、どうでもいいけどあんなやつ。女にだらしないやつで外に女を作っては、母さんをよく泣かしてた。家にも滅多に帰ってこなかったし。10年前、死んだって聞いても私は泣くこともできなかった。
私は寝っ転がったまま青空に伸ばした手を翳した。その手には真紅と紫、黄金の糸が編み込まれたミサンガがついている。
妖力を抑えるために特別な術を編み込んだのがこのミサンガだ。母にもらった最後のミサンガ。これがあれば妖力目当ての妖怪に襲われることはない。
もう母さんがミサンガを作ってくれることはない。作り方を私に教える前に死んでしまったからだ。
どんなに傷つけられても心底父さんに惚れてた母さんは、父さんが死んだことで一気にやつれて死んでしまった。
そうだ、これまで私は兄さんと力を合わせて二人っきりで生きてきた。もう、私には兄さんだけだ。
兄さんさえいてくれれば、それだけで私は満ち足りていられる。この世の誰よりも幸せに生きていける。でももし、もし兄さんがいなくなったら……少しだけでもそれを考えた私は底のない暗闇に落ちていくような心地がして、私は勢いよく起き上がると首を振った。
「ま、ウジウジしててもしょうがないよね。兄さんもそのうちひょっこり帰ってくるかもしれないし」
いつまでもくよくよしてたら兄さんもよくない顔をするだろう。私の取り柄と言ったら元気なことくらいだもんな。
「親分〜」
その時赤提灯がベロを出しながらぴょんぴょんとこちらによってきた。私は赤提灯に視線をやる。
「聞いてくれよひどいんだぜ〜! この学校の裏山にある万年桜は俺の縄張りだったのに、嫌味な妖怪が奪い取ったんだ! どうにかしてくれよ!!」
「まあ、妖怪の世界は弱肉強食だしな。しょうがないんじゃない?」
残酷なようだが、所詮
「そんなこと言わないでくれよ〜。俺は晴のためにいろんな妖怪に兄の情報を聞き回ったんだぜ〜?」
私はうぐっと固まった。そうだ、そういえば私はこいつらに恩があるのだった。私はガリガリと頭を掻く。その間も赤提灯は鼻水まで垂らしながらワンワン泣いている。
「わかった、わかったよ!! 倒すよ、そいつを。万年桜のとこだね?」
「本当か! やったーありがとな、晴!」
それまでの様子とは一変、赤提灯は嬉しそうにその場をぴょんぴょんと跳ね回った。アオはピシャリと額を手で打つ。
「あーあ、出たよ。晴の俺たちに甘いとこ。いい加減にしないと痛い目見るぜ?」
花子も腕を組んでジト目で私を見た。
「晴はちょろすぎるんじゃない? あんたは妖怪とは違う、すぐに死ぬ人間なのよ」
「分かってるよ……でも私もそろそろ体動かしたい気分だったしさ。アオ、靴箱から運動靴とってきてくれる?」
「わかったよ……」
アオを待つ間、私は軽く飛び上がったり、腕や足を伸ばしたり準備に取り掛かった。
「はいよ、運動靴」
「ありがと……じゃ行ってくる、先に家戻ってていいよ。倒してすぐに帰るから」
私は手すりに立った。見下ろした景色には緑豊かな山がどっしりと構えている。ポケットに入れているのはスマホぐらいか。身軽でいい。体が前に倒れ始める。私は壁を蹴り、地面に向かって垂直に駆ける。風でかみが背後になびき、私は口角を上げた。やはり体を思う存分動かせるのはいい。ウキウキと胸の辺りから笑いが込み上げる感覚がする。
砂に塗れたグラウンドの地面にダン、と音を立てて着地する。私は駆けて高く跳躍し、金網が張り巡らされたフェンスを飛び越える。草木が生えた地面に足をつけると前傾に倒れたまま力一杯、手加減なんかせずに地面を蹴った。まっすぐ裏山に向かって駆けてゆく。景色が流星のように流れ、草の匂いが鼻先に香った。
私はフッと息を吐いた。私はきっと生まれる時代を間違えたのだと思う。こうして全力で体を動かしたり、妖怪をぶちのめしている時が一番楽しいのだから。
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