第8話
昼休みのオフィス。静かな休憩室では、魔堂零士がコーヒーをゆっくりとかき混ぜていた。窓から差し込む陽光に目を細めながら、彼は何かを考え込んでいる様子だった。
「零士さん!」
突然、ドアを勢いよく開けて飛び込んできたのは、若手社員の佐藤だ。
「どうした?」
零士は動じることなく、淡々と聞き返す。
「クレーム対応の件で…今度は部長が怒鳴られてまして…」
佐藤は肩を落とし、深いため息をつく。
「またか。」
零士はコーヒーを一口飲むと、机に静かに置いた。
「それで、相手は誰だ?」
佐藤が少し口ごもりながら答える。
「例の新規顧客の井口さんです。話が全然通じなくて、もうお手上げで…」
「お手上げか。」
零士はわずかに眉を動かすと、立ち上がった。
「行くぞ。」
その一言に、佐藤は少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに安堵の笑みを浮かべた。
会議室に入ると、そこには険悪な空気が漂っていた。スーツ姿の井口という中年男性が机に拳を叩きつけながら部長を追い詰めている。
「いい加減にしろ! おたくらのせいでうちは損害を被ってるんだぞ!」
井口の怒声が部屋中に響き渡る。
「井口様、どうか落ち着いて…」
部長は必死に宥めているが、その声は彼の怒りにかき消されていた。
零士はその様子を一瞥すると、机の端に立ち止まり、静かに井口に話しかけた。
「井口さん、少し冷静になりましょう。」
その低く落ち着いた声が部屋に響く。全員の視線が零士に向けられた。
「冷静に? お前、何を言ってるんだ!」
井口がさらに声を荒げた。
零士は、ポケットから飴を取り出すと、無言で井口に差し出した。
「……これは何だ?」
井口が困惑顔で尋ねる。
「飴だ。舐めろ。」
零士の一言に、部長と佐藤の目が見開かれる。
「何をふざけてる!」
井口が怒りかけたが、零士は静かに続けた。
「怒りはエネルギーを消耗させる。正確な判断を下すには、まず冷静さが必要だ。」
零士はまるで当然のことのように言った。
井口は一瞬言葉を失ったが、零士の真剣な目に押されるように、飴を受け取った。
飴を舐め始めた井口は、徐々に態度を和らげていった。零士は彼をじっと観察し、適切なタイミングで口を開いた。
「さて、具体的なお話を伺いましょう。」
零士は井口の目を見つめながら言った。
「貴社の対応が遅れたせいで納期が間に合わず、うちは大損害を被った。それが問題だ!」
井口が声を張る。
「納期遅延の原因を整理させていただきたい。」
零士は冷静に言葉を返す。
「弊社の手配ミスと貴社の確認プロセス、双方に問題があった可能性を検討すべきです。」
「双方に問題だと?」
井口は眉をひそめた。
「はい。我々が改善すべき点は誠意を持って対応いたします。しかし、全ての責任を弊社に帰する形では、根本的な解決にはなりません。」
零士の言葉は、まるで動かしがたい真実のように響いた。
井口は一瞬考え込み、やがて小さく頷いた。
「…分かった。まずは問題点を整理しよう。」
部長と佐藤が息をついたのが、零士の後ろからでも分かった。
会議を終えた零士が休憩室に戻ると、佐藤が駆け寄ってきた。
「零士さん、マジでかっこよかったです! あの井口さんをあんなに冷静にさせるなんて!」
佐藤は目を輝かせて言う。
「飴を舐めさせただけだ。」
零士は飄々と答えた。
「いやいや、それだけじゃないですよ! 零士さんの落ち着きと説得力、僕も真似したいです!」
佐藤は興奮気味に言った。
零士は肩をすくめながら、コーヒーを一口飲んだ。
「ただ、事実を整理し、伝えただけだ。それで十分だ。」
佐藤は感心した様子で頷きながら、零士の背中を見送った。
その日の帰り道、零士は公園を通りながら小さな声で呟いた。
「空気を読む必要などない。真実を伝えれば、状況は自ずと動く。」
彼のその言葉には、自信と達観が宿っていた。
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