後編

折角の花火大会の日だというのに僕の足取りは重たかった。ニイナが僕用に浴衣を選んであげようかとラインで言ってくれていたが、例の動画の件で頭を整理する時間が欲しかったので断っていた。前日になって慌てて買ったので恐ろしく似合っていないかもしれない。


 いつもの公園の近くに来たところで恥ずかしさに耐えられなくなって、下を向いてやり過ごすことにした。ここら辺は全く花火大会に向かおうとしている人はおらず、明らかにこの格好では浮いてしまっている。


 すぐに浴衣姿のニイナが到着した。髪をまとめているため、いつも隠れているうなじがはっきりと見えている。


「かわいい。」


「へ、」


 思わず声に出てしまったので目をそらした。


 ニイナも直接言われるのは予想外だったようで、変な声が出ていた。


「お、おぉ、素直でよろしい。似合ってるじゃろ。」


「うん、似合ってるよ。」


 そういうメイクをしているからなのか、夕日と相まって彼女の顔が赤く染まっている。


 最近ニイナが抱えているものがどんなものなのか、その片鱗が見え始めた。僕の前ではヘラヘラと振る舞っている様子が無理をしている様に見えて、余計に心配になってしまう。


 思わず普段なら素直に言わない言葉が先走ってしまう。後になって恥ずかしくなり、こっちも赤面してしまった。


「しばらく避けられてるなと思ったら、急に素直になるんだからびっくりする。」


「別に避けてないよ。」


「そう?・・・ならよかった。ハルも皆みたいに離れていっちゃうのかと思ってた。」


「僕は離れないさ。」


「・・・ならよかった。ハルも浴衣似合ってるぞ。」


 いつもの駅から電車に乗って会場に向かう。会場に近づくにつれて花火大会に行くであろう人たちが次々乗り込んできた。


「ねえやっぱり浴衣できてる人なんていないじゃん。」


「いやあ、いるよほら!隣の車両とか。着いたらもっといっぱいいるんじゃないかなあ。」


 大体十月に入ったというのに季節感は気にしなくて良いのだろうか。浴衣でいるには少々寒いような気もするし。


「やった。着いた着いた。ハル急いで、はぐれちゃうよ。」


 僕が少しぼうっとしている間に到着したらしい。ニイナが僕の手を引いて電車から降りる。すぐに離されると思ったが、彼女はぐっと強く握ってそのまま会場へ向かい、人混みの中で僕を引っ張って行く。


「あー人混みだからはぐれるといけないもんね。」


「うるさい。黙って繋がれてなさい。」


「・・・はーい。」


 なぜか彼女は上機嫌で、溢れんばかりのエネルギーを抑えることなく進んでいく。反対にされるがままの僕は、心のわだかまりが大きくなるばかりだった。


 刻一刻とあの動画が世に出てしまうタムリミットが迫っている。


 みくと会った日を境に動画を送る匿名アカウントが増えたのか、遂には僕の友人やニイナのことをあまり知らない祥吾の友人達にまで出回り始めた。僕らの注意喚起ですぐに消すように言っているが、今はもう僕らの手の届かないような所にも送られ始めているかもしれない。


 ニイナも既にこの事実は知っているのに、どうしてここまで明るく振る舞えるのだろうか。動画に写っている人物があまりにもニイナに似ているのだが、これだけ本人が落ち着いているのだから、やはり違う人なのだろうか。


「ニイナはあの動画に写ってる人とは違うんだよね。」


 僕らがもらったチケットに書かれていた位置にきたところで彼女がようやくこちらを向いた。すっかり暗くなった空と照明の逆光のせいで表情がよく見えない。


「こんな所にまで来てそんな話しなくて良いじゃん。ほら、もうすぐ花火が始まるよ。」


「誤解を解かないとこのままじゃ皆離れてくままだ!」


「しっ!」


 ニイナが僕の唇を、指で塞いだ。


「私は皆が疑うようなことはしてないから大丈夫。もしあれが私だったとしても信じてくれてるからハルは一緒にいてくれてるんでしょ?だからハルといるときは思いっきり楽しみたいの。」


 周りがざわざわし始める。今にも花火が始まろうとしているのだ。ライトアップが消え、足下を照らす最小限の照明しかつかなくなった。


「ハルも今日は忘れて、楽しい思い出作ろう。」


彼女の指が僕の指に絡んだとき、ひゅーーっという音がして最初の花火が昇っていった。


 ライトアップが消えてから静寂に包まれていた会場が期待のこめられたどよめきでいっぱいになる。


 ばーん。


 胸まで響く大きな音と共に、真っ暗な夜空に火の花が咲いた。瞬く間に拡がっていき、火の粉は無数の流星のように姿を変えて降り注いでいる。大勢の歓声が上がり、次々と花火が打ち上げられてゆく。この瞬間は圧倒されてしまい、今直面している問題がちっぽけなものの様に感じてしまった。


 だから油断してしまったのだ。


 すでに膨れ上がってしまって、爆発してしまいそうな所まで来ていたのに、危機感が足りていなかったのだ。


「あれ、人殺しじゃね?」


 少し前の方を移動していた数人がこちらを指さしている。


「ああ、二時間くらい前のツイートだろ?この辺に住んでるって聞いてたけどマジでいるじゃん。」


 周囲の聞いていた人たちが一斉にこちらを見た。しかしすぐに花火に夢中になる人が多かったが、数人はスマホを確認したりこちらにカメラを向けたりするような様子が見られた。


「ニイナ、どうする?もうSNSにあげられてる。」


 彼女の方を見ると俯いて震えてしまっている。


「大丈夫?一回人の少ないところに行こう。」


「うん・・・。」


 目立たないようにかがんでニイナを連れ出すと、先程のグループから心ないヤジが飛んでくる。


「お、帰っちゃうのー?まあ人をベランダから突き落としておいて暢気に花火なんか見れないわな。それとも五年も経ってて忘れてましたー?おーい!」


 あいつらもしっかり昔に出回った方の動画を見ていたのか。かなり有名なっていたから再び拡散されるのも早いのだろう。


「もう耳塞げ。何も気にしなくて良いから。」


 屋台が出ている道から外れ、街頭の灯りだけの駐車場まで来たところにニイナを座らせた。


「ちょっとツイッターを確認してみよう。ニイナは絶対に見ないで。」


 恐る恐るアプリを開くと、二時間前に投稿されていた動画が既に百万回も表示されている。今回出回ったのが、ピンポイントでベランダから落ちている人の顔だけにモザイク処理がされており、後はすべて鮮明に映し出されている。モザイクのぼかしが無くなったことで、曖昧だった少女の行動は突き落としている様にしか見えなくなっていた。その少女は、ニイナそのものだった。


「やっぱり出回ってる。あれだけ広まったら誰かが拡散するのも時間の問題だったか。」


 逆に良くここまで晒されなかったものだ。彼女の人望がここまで厚い物だったとは思わなかった。


 彼女のことを拡散していたのはよりにもよって以前モザイクありの動画を拡散したアカウントと類似していた。常日頃から迷惑行為や交通事故のような動画を晒しあげているため、かなり有名になってしまっている。そこに集うリプライも低俗なものが多く寄せられており、とにかく見るに堪えない有様になるのだ。


「今日は一旦帰ろうか。また変な奴らが色々言ってくるかもしれないし。」


「待って。今日は全部忘れて楽しむって言ったよね。」


「そんなこと言ったって・・・。」


「こんな理不尽なことで自由にできないなんて嫌なの。ねえ、ここからでも十分だから最後まで見させて。」


 真っ直ぐな瞳で見つめられた僕は、その通りに従うしかなかった。南さんが倒れたときはあれだけ泣いていたのに、全く同じていないような振る舞いをしようとしている。人のためにしか涙を流さない彼女の強い精神に感心した。


「わかった。折角来たんだから楽しまなきゃね。たこ焼きでも買ってあげるよ。」


「やったあ!」


 駐車場からすぐ近くにたこ焼きの屋台があったので、そこで四人前買うとすぐに戻った。四人前のうち、三人分はもちろんニイナが食べる。意外にも駐車場からの眺めは良く、人も少なかったためストレスなく花火を見ることができた。ニイナも食っては花火を見てを繰り返しており、首が上下していて忙しそうだった。


「食うのか見るのかどっちなんだよ。」


「見てわかんない?両立してんの。」


 ハムスターみたいなほっぺたになっているニイナが微笑ましい。この時間がいつまでも続いてくれればいいのにと、いつかも思っただろうか。


 花火がフィナーレを迎え、視界一杯に大きな花火がいくつも打ち上げられた。


 まばゆい光に夜空が照らされ、その光も尽きたかと思われたが、最後の二本の花火が静まりかえった夜の中を昇っていく。同時に開花した花火がどんどん拡がっていき、最後には暗闇に融けていった。




 花火が終わってからはそそくさと帰ることにした。


 ニイナは残りのたこ焼きを食べ続けている。もう冷めてきているだろうになんという食への執念だろう。


「今日まで深く聞かなかったんだけどさ、あの動画はニイナとどう関係があるのか教えてもらって良いかな。」


 ニイナは残り一つになったたこ焼きを見つめると、何を思ったのか僕の口にそのたこ焼きをねじ込んだ。やはりちょっと冷たくなっている。ニイナの家路との分かれ道まで帰ってきたときに、それまでふざけて話していた彼女が声色を変えて言った。


「あの動画に写ってるのは私で、ベランダから落ちてるのはお父さん。」


「お父さん?」


「そう。あの角度からだと突き落としてるように見えるんだけど、本当は助けようとしただけなの。結局自分から落ちて自殺しちゃったんだよ。」


 あまりに衝撃的な告白に頭が追いついていかなかった。


「びっくりするでしょ、こんなこと急に言われても。言いたくもないし言ったところであの動画じゃどうしても突き落としているようにしか見えないから信じてもらえないよ。」


「確かに拡大してよく見たら伸ばした手を振りほどかれてるようにも見えるかも。お父さんの背中で隠れてて見えないけど突き落としたにしてはちょっとラグがあるような。」


 ラグがあるといっても言われて初めて気づく程度のものなのだ。SNSで流れてきた動画など誰もじっくり見ようなんて思わない。


 それにしてもニイナのお父さんが自殺していた事がにわかには信じられなかった。


「その、お父さんが自殺してたって言うのは・・・、言いたくなかったら別に良いんだけど。」


「・・・、それはもう少し後でも良いかな。多分ハルにはすぐに話すことになるかもしれないから。」


 彼女は父親の話しになってから寂しそうな顔になった。ニイナにとってどんな父親で、彼に何があったのだろうか。


 何か想像を絶するような過去がニイナにはある気がする。


「そっか、今はとりあえずニイナに向けられている疑惑を晴らさないと。皆あの動画見てからニイナが落としたんじゃないかって疑ってる事態はおかしいよ。そんなことするわけないのに。」


「あんな動画みたら皆私がやったって思うよ。ハルが一人信じてくれてるだけ。」


 ニイナは花火大会で野次を飛ばされてから無意識に気を張っていたようで、戻ってきてからはかなり疲れが見えている。


「今日は一旦帰って休もう。何かニイナがやってないことを証明できる物を探さないと。」


 僕は彼女が心配になり、この日は家まで送っていった。はじめて見る彼女のマンションは、外観は古いがかなり大きめだった。一つ一つの部屋は大きそうなところで、新しめだが少し狭い僕の住んでいるマンションとは対照的だった。


「ありがとう、送ってくれて。」


「うん。じゃあ、また明日。あんまりSNS見ちゃ駄目だよ。」


 僕が帰ろうとすると、彼女は僕の袖を掴んで引き止めた。


「待って。明日私の家に来て一緒に探してほしいものがあるの。こんな見た目のマンションだけど結構部屋が広くて捜し物をするには大変なんだ。」


「それは良いけどニイナって一人暮らしだよね。その、色々大丈夫なのかなって・・・。」


「なに、変なこと考えないでよねー。ハルも年頃なのねえ。」


「うっさいな。じゃあね、おやすみ。」


 ここまで来て意識しない方がどうかしている。ただ明日は捜し物に付き合うために行くのだ。今は彼女を少しでも早く楽にしてあげなければならない。


 翌朝になってもツイッター上ではニイナの動画が収まることはなく、拡散され続けていた。わざわざ平日の午前中からニイナの事を叩きに来ている連中はよほどの暇人なのだろう。


 使い回しの画像を使った面白くもなんともない二番煎じのリプライや、自分で物事を考えようとせずにただ与えられた情報だけを鵜呑みにして正義感を振りかざす愚かなピエロ達。世の中にはこんな浅い人間達がのさばっているのかと思うと反吐が出る。


 今日は講義をさぼってニイナの家へ向かってしまった。大学の後期が始まってまだ一ヶ月も経っていないというのに自主休校とは悪い方向に進んでしまっている。


 お昼前になりニイナのマンションへ向かう。何やら昼食を作ってくれるらしいので少し楽しみにしてしまっていた。


 ニイナの潔白を証明するための証拠を探しに行くのだ。浮かれていては駄目だ。


 マンションに着くと、そこはどこかで見たような光景になっていた。昨日は夜だったためわかりづらかったのだが、最近よく見ていたような気がしていた。すぐにこの既視感がなんなのかがわかり、例の動画と見比べてみる。


「ここだったのか。」


 周りの建物やこのマンションの塗装も変わってはいるが、間違いなく動画の一件が起こった場所だった。だとすると彼女は中学生くらいの頃からずっとここに住んでいるのだろう。母親がいたりはしないのだろうか。


 いくつかの疑問が生まれたが、約束の時間になりそうなので彼女の部屋に向かうことにした。


「いらっしゃい、どうぞ入ってー。」


 五階にある彼女の部屋に入ると、いつもニイナから漂っている柑橘系の匂いがしている。


 部屋の中までこの香りにしているとはよほどこういった匂いが好きなのかもしれない。


 広めのリビングに通され、僕の家のものより上等なソファーに座るように言われた。


「ちょっとごちゃとしてるけど気にしないでね。朝いつも食べないって言ってたからちょっと多めに作ってあげる。」


「あ、ありがとう。凄い広いねこの部屋。」


 とても一人暮らしの大学生が住んでいるとは思えない程広い部屋だった。所々に、大小様々なぬいぐるみが置かれている。大抵寝室にしか置いていないイメージだったのだが、割とどこにでも置くものなのだろうか。


「もしかして、ここには昔から住んでたりする?お母さんとかは一緒に暮らしてないの?」


「私が七歳くらいの時からここに住んでるよ。お母さんがちょうどそのくらいの時に事故で死んじゃったから、高校生からは一人になっちゃった。」


 できあがったミートソースのパスタを持ってきながら彼女が答える。今日初めて彼女に両親がいないことを知った。


 他にも今の生活が祖父母によって支えられていること。主席レベルの成績を維持しており、学費を免除してもらえるように毎日勉強していること。普通に育っていたら想像もできないような苦労をしてきたのだ。


「もう一人で生活するのも五年になるからさ、特別寂しいとかは感じなかったの。元々一人でいるのは好きだったし、友達も一杯できたし。でも今は友達も皆離れて行っちゃってどうしようもなく寂しい。」


隣に座ったニイナは悲しげな声色になっていた。


 昨日からのストレスで、精神的に不安定になっていてもおかしくはない。こんな状態の時に頼れる保護者もおらず、父親殺しの汚名まで着せられているのだ。僕がなんとか皆を説得してニイナにかけられている誤解を解かなければ。


「大丈夫、僕はニイナを信じてるし祥吾や南さんだってちゃんと説明すれば信じてくれる。みくちゃんも動画を消すように今も言って回ってくれてるよ。」


「でもお父さんのこととかあんまり人に言いたくないの。」


 確かに身内が自殺した事など友達にも言いたくないことである。なんとかニイナの事情を伏せたまま現状を落ち着かせる方法はないものか。


「ニイナが探したい物があるって言ってたけどそれは何なの?」


「実はお母さんが死んじゃう前に私に一本のビデオテープみたいなのを渡されたんだけどこれはお父さん用のだからニイナは見ちゃ駄目だよって言われてたんだ。けどもう時効かなって思ってみようとしたんだけど中々見つからないの。」


「ビデオテープか。わかった探してみよう。」


 パスタを食べ終わり、僕が片づけようとするとニイナが「私がやるよ」と言ってお皿を持って行ってしまった。


「美味しかった、ありがとうわざわざ作ってくれて。」


「どういたしまして。」


 ニイナの家は2LDKになっていて、それぞれの部屋に大きめのクローゼットがあり、玄関の近くにも物置が一つ設置されていた。


 どこも多くの荷物が無理矢理入れられており、確かに一人で探すのは大変そうだ。


 玄関の方から探すことになり、僕が荷物を出していってニイナが確認する作業を繰り返していく。手前の方はニイナの私物が入っていたが、奥の方まで出すと段々と彼女の父親が使っていたと思われる様な物が出てきた。


 いくつか段ボールの箱も出てきたが、ビデオテープらしきものは出てこなかった。


 次にニイナが寝室に入っていこうとしたので、流石に一度断っておいた。


「ニイナさん、ちょっと寝室はまずいのでは・・・。」


「入って大丈夫だよ。変な気起こしたら張り倒すから。」


 華奢な体躯をしているが、普段あほみたいに食べているエネルギーが備わっているかもしれない。迂闊なことはしない方が懸命だろう。


「いえ、滅相もない。それでは失礼します。」


 念のためお辞儀をして寝室に入る。ここは家中に漂う柑橘類の匂いとは違って、優しい柔軟剤のような匂いがする。


 ここに来てから妙に嗅覚ばかり敏感になっている。自分が発情期の犬みたいに思えてきて最悪の気分になった。


「流石にここにはないよな。」


 この部屋には元々荷物も少なく、初めから彼女の部屋だったようなので、両親のものは出てこなかった。果たしてここを探す意味はあったのだろうか。


 特に変な物は出てこなかったが、見てはいけないのではと思うものを触れ回ってしまった。


「捜し物のためとは言え大丈夫だったの?僕に色々引っ張り出させて。」


「うんまあ、私が見られて困るような物はちゃんと別の場所に移動させてるから大丈夫。それにハルは変なことしないでしょ?ちゃんと信用してないとまず家に入れないよ。」


 寝室から出るとニイナの顔が少し赤くなっていることに気がついた。


「ねえ、顔赤いけど。」


「よし、次で最後の部屋だね。」


 どうやら彼女の方も緊張していたらしい。部屋の中は熱くもないのに汗をかいている。


 ごまかすようにそそくさと奥の部屋に入って手招きしている。彼女の慌てようを見ているとこちらが冷静になってしまった。


「ここは普段全然入らないからお父さんの荷物もそのままになってるかも。そこのパソコンとか机もお父さんが使ってた物だったし。」


 少し埃被っているパソコンが置かれているデスクには、周りに様々な書類や本が置かれたままになっている。片づけてしまおうにも生前父親がここに座って仕事していた姿を思い浮かべてしまい、そのままにしてしまっているらしい。


 他にも女の子の住んでいる部屋には置かれないようなダンベルや、難しい本の並ぶ本棚があった。


 窓から見える太陽は傾き始めている。もう大分日が落ちるのも早くなった。


「これなんだろう。」


 僕がクローゼットの中にあった手作りらしき棚の中から、封がされてあるA4サイズの茶封筒を見つけた。ニイナが中を見てみると、病院の診断書のようなものとビデオテープが入っていた。


「それじゃない?ビデオテープが再生できる機器とかまだあるのかな。」


 僕が何か再生できる物はないかと探しているとニイナが一緒に封筒に入っていた紙を見つめて固まっていることに気づいた。


「なにみてるの?」


 ニイナが顔を上げると、すごく困惑したような表情を見せた。


「なんだこれ。」


 彼女が見つめていた紙はDNA鑑定書だった。


 父と思われる男性〈XXXXXX/XXX〉は、子〈XXXXXX/XXX〉の生物学的な父として判断できません。


 そこに書かれている内容の意味が頭に入ってこなかった。ニイナの父と思われる人物の名前が確認できるが、この鑑定書では生物学的な父ではないと書かれている。


 僕は目を疑った。両親の思い出を探すつもりでいたのに、酷く不穏なものを掘り起こしてしまったのかもしれない。


 ニイナはしばらく現実を受け入れられない様子で、放心状態になってしまっている。僕も予期せぬ自体にどうすれば良いのか分からなかった。


 ひとまずニイナが落ち着くまで待ち、ビデオテープが再生できるものがないか探した。


 クローゼットの一番奥から小さい頃家にあった様なビデオデッキがでてきた。これもかなり埃被っているが、掃除してみるとまだ動きそうだ。


 リビングにあったテレビに繋いで、再生できるように準備する。同じ封筒に入っていたということは、このビデオテープの中にDNA鑑定に関係する内容が隠されているのかもしれない。


 ニイナをリビングまで連れてきて、彼女が自分で再生ボタンを押すのを待った。彼女自身が心の準備をしなければ、内容によっては立ち直ることのできない傷を負うかもしれない。


「何かの間違いだよね。私はちゃんとお父さんの子供だよね。」


 僕からは無責任な事は言えなかった。きっとそうであって欲しいと思う反面、あの鑑定書の文面を見てしまっては何もなしには頷けない。


「お母さんがあの時、お父さんに伝えたかったこと・・・。」


 僕はニイナの手を握ることしかできなかった。今彼女にしてやれることが何も思い浮かばない。ただ一人にはしないと伝えたかった。


 彼女が再生ボタンを押した。僕の手を強く握り返してくる。


 ノイズが混じった音声と共に、ニイナの母親らしき女性の話声が聞こえてきた。


『聞こえるかな。おーい、楽!』


 怪我をしているのか所々に包帯や大きな絆創膏が施されているニイナの母親が映し出された。


 ニイナにそっくりの顔立ちをしていて、まるでニイナは彼女の生き写しなのではと思うほどだった。違いといえばニイナよりは茶色っぽく、長い髪をしていることくらいだろうか。


『このテープを見ているって事は私は死んでるって事なんだろうな。ニイナはちゃんとお父さんに届けられて良い子だね。


 さて、私は楽に言わなくちゃいけないことがあるの。実はニイナは貴方との子ではないわ。証拠は貴方に作ってもらった棚の中に入れてある。ちょうど八年前だったかなあ。私がストーカーに追われてる時期があったでしょ?その時楽にはもう大丈夫だって言ってたけど、ホントは強姦されていたのよ。


 優しい楽に言ったら助けに来てくれたんでしょうけど、いつも刃物をちらつかせながらこちらの様子を窺っていたから言えなかったの。貴方が傷つくのは嫌だから。


 ごめんね、今になってこんなこと。どんなに楽との子供であるのを望んだことか・・・。愛してるよ楽。ごめんね。』


 隣でニイナが泣き崩れる。繋いでいた手がほどかれ、嗚咽をあげながら床にうずくまり、言葉にならない叫声をあげている。


 『――――――――――――――。』


 まだビデオは再生されており、最後に間を空けてニイナの母親が何か言っていたが、ニイナの泣き声で聞き取れなかった。


 十数年自分を育ててくれていた父親が血の?がっていない人だと実の母から告げられたのだ。取り乱してしまうのも無理はない。


 僕は床に伏していたニイナを抱きかかえ、ソファーに座り直した。どうして良いか分からず、赤子の様に泣き続けるニイナの背中をさすってやることしかできない。


 しばらくそうしていると彼女が僕から離れ、「ごめん、取り乱して。」と言うとすぐに立ち上がった。


 数日考え込んでしまってもおかしくないような出来事を目の当たりにしたのに、つくづく精神の強い人だ。父親の自殺を目の前で見てしまってから、ここまで一人で生きてきた彼女だからすぐに立ち直れるのかもしてない。


「落ち着いた?」


「うん、もう大丈夫。」


「ニイナは強い子だね。」


「お父さんみたいな事言うじゃん。」


 ニイナがふっと笑った。この際父親に重ねられようと何だっていい。彼女の唯一の支えにならなければ、いくら彼女が強いと言っても一人でこの現実と戦わせるのはあまりに酷だ。


「そうだ。一応ここに書かれてある病院に問い合わせてみよう。何か教えてもらえるかもしれないし。もしニイナが辛いんだったら僕が行ってくるから。」


「いいよ、私も行く。ここまで来たらちゃんと二人に起こったことと向き合いたいから。」


「そっか。僕も最後まで見届けるよ。どんな結果になっても一緒にいるから。」


 外の日は完全に沈んでいるが、ニイナの顔は少し晴れていた。明日にでも鑑定書に書かれている病院に行くことになったので、また大学を無断欠席することになりそうだ。彼女は講義には行きなさいと行ってくれているが、出席を取られない講義だから大丈夫だと言ってごまかした。


 


 実際僕の単位はギリギリであまり休むのはよろしくないのだが、事情が事情なので仕方がないだろう。


 家を出てから駅の方面へ歩く。鑑定書に書かれていた病院の名前は、南さんが入院していた病院と同じだった。こんな偶然もあるのかと驚いたが、この近くの大きな病院と言えばそこになるのだろう。


 ニイナと合流し、病院に着くと事前に電話で事情を聞いていた看護師が僕らの元に来た。過去の検査の記録があるか調べてもらっておいたのだ。


「近衛様のDNA鑑定の記録を調べたのですが、以前当院で鑑定をした記録がございませんでした。」


「え、そんなはずは・・・、今一応鑑定書を持ってきてるんですが、ここの病院の名前が書かれているんです。もう一度よく調べてもらえますか?」


「わかりました。そちらの書類を一応預からせてください。」


 何かおかしい。記録が残っていないことなんてあるのだろうか。確かにここの診断書だと看護師も言っていたのに。


 僕らは待っている間に休憩スペースに行くことにした。ニイナももやもやしているようで、空気が重い。僕は昨日からなぜニイナの両親が亡くなってしまったのか疑問に思っていた。


 母親は交通事故と言っていたが、自分が死ぬことが分かっていたかのような内容のビデオテープを、タイミング良く残していった。


 何か仕組まれているような、引っかかる点が多い。ニイナもずっとこのことを考えているようだ。


「ニイナはお父さんが自殺した原因とかって知ってるの?」


 彼女は首を横に振って「知らない。」と言った。少し踏み込んだ質問になってしまっただろうか。彼女は更にもやもやしてしまったようで目に見えて暗い顔になってしまっている。


「ごめん、無神経な質問だったね。」


「いや、全然大丈夫。私も今まで全く分かんなくて。いつも考え込んじゃうの。」


 不機嫌にさせてしまったわけではないようで良かった。


 鑑定書の履歴を再確認してもらうのに時間が掛かりそうなので、僕らは近くで昼食取って連絡を待つことにした。以前南さんの父に連れてきてもらった所だ。あの時ですら若干食べ過ぎだったニイナが今日は殆ど何も食べなかった。


「どうしたの?どこか体調悪い?」


「え、どこも悪くないよ。あー、私が全然食べないから心配してるんでしょ。そっちの方がさっきの質問より全然傷つくなー。」


「でもあんだけいつも食いまくってるのに今日は全くだから。」


「私は昨日ちょっと抱きしめたってだけで過保護になってるハルの方が心配。」


 ニイナがいたずらっぽくにやりと笑う。一気に僕の頭に血が昇る。


「あれは不可抗力というか、どちらかというとそっちから・・・。あーもー、うっさいなあ。」


 やはり敵わないな。今までことある事に気にかけてくれた彼女を今度は守る番だと思っていたのだが、僕なんかよりもよっぽど大人にならざるを得なかった彼女には、まだ頼りなく映っているのだろうか。


 数時間程時間を潰していると、病院の方から連絡があった。すぐに戻り、対応してくれた同じ看護師に確認すると、やはり鑑定書と同様の記録はなかったようだ。考えられる可能性としては偽装が一番にあげられる。ただ何のためにそんな偽装をする必要があるのか。


「お力になれず申し訳ございません。ただこの鑑定書に書かれている母とされている近衛咲様に当たる人物が当院で診察を受けていた事が分かりました。当時の担当だった先生が医院長と今もお知り合いのようで、連絡先を預かって参りました。」


「ありがとうございます。あの、私にDNA鑑定を受けさせていただくことは可能でしょうか?父との血縁関係がホントはあるのか確認したいんです。」


「うちには近衛楽様のデータがないのでどうにも・・・。」


「そうだ、ニイナの父方の祖父母にお願いすれば良いんじゃない?今もニイナを支援してくれてるんだよね。」


「それなら可能ですよ。後日鑑定してもらえる会社に依頼しておきましょうか?」


「はい。今度日程を祖父母とも合わせてまた窺います。」


 これでニイナが父親と本当に血縁関係があるのかがわかる。僕は祈る気持ちでいたが、それは彼女が一番望んでいることだろう。


 少しの希望を抱きながら僕らは病院を後にした。これから紹介された連絡先の人に会える日を聞いて、ニイナの祖父母に連絡を取らなければ。


 ニイナの両親に何が起こっていたのかこれで分かるかもしれない。


「連絡先の人って今もこの辺にいるのかな。」


「うん、渡してくれた昔の名刺と今の住所を書かれた紙を渡されたんだけど、そう遠くない所に住んでるみたいほら。」


 ニイナから名刺を見せられると、そこには見覚えのある名前が書かれていた。似た名前かともおもったが、よく目を凝らして見てみるとそこに書かれていた名前を見て確信した。


「これ、店長だ。」


「え。」


「バイト先の店長。」


 名刺にははっきりと「島崎純一郎」と名前が書かれている。彼の前職は精神科医だった。スマホに登録されている電話番号も一致している。


 僕が島崎さんに連絡を取ることになり、開店までにはかなり時間があるが、店を開けてくれることになった。


 店に着くと、島崎さんがカウンターに立っていた。しばらく体調が優れず休みがちだったのだが、最近はまた復帰できるようなってきている。


「お時間取っていただいてありがとうございます。島崎さん。」


「お疲れ様。隣にいるのが近衛さんの・・・。そうかそうか、どうぞ中に入ってください。」


 やはり島崎さんはニイナの母親の事を知っているようだった。


 テーブル席に通されると、島崎さんがアイスコーヒーを出してくれた。


 ニイナは珈琲が苦手なのを知っているので僕から島崎さんに言おうとすると、彼女は折角だからと出された珈琲を口にした。


「ん、飲みやすい。」


「少し砂糖を多めに入れているよ。咲さんも苦いのが嫌いだったからね。やはり親子瓜二つだなあ。」


 まるで孫を見るかのような眼差しで彼はニイナの事を見ている。一体彼はニイナの母親の事をどれほど知っているのだろうか。


「ホテルでの食事美味しかったです。従業員でもないのに私の分まで用意してくださって本当にありがとうございます。」


「いいんだよ。私が勝手に彼等の会話を盗み聞きしてしまってね。たまたま四枚あったからちょうど良いと思っていたんだ。」


「ホントにかっこいい店長さんだね、ハル。」


 僕は誇らしげに頷いた。誰でもこんなかっこいい人の元で働いていては自慢したくなってしまうものだ。


「それで、ニイナの母について何か知っているんですよね。以前担当医をされていたとかで。」


「うん、それなんだけどね。」


 島崎さんは難しそうな顔をして腕を組んだ。なぜか僕の顔を見て何か悩んでいる様子だった。


 その時の僕を見る目が最初に彼と会ったときのような、人を見定めるような目をしていた気がした。


「ハル君には少しだけ席を外してもらっても構わないかな。ここまで来てもらって申し訳ないんだが、ニイナさんにとって今後の人生に大きな影響を及ぼすかもしれない話しになると思う。」


 彼は今までになく真剣な表情でこちらを見ている。だが、最後までニイナと一緒に戦うと言った以上簡単に引き下がるわけにはいかない。


「僕は確かにこの問題に関して他人かもしれません。でも、どんなことになってもニイナを一人で戦わせないと覚悟を決めてここまで一緒に来たんです。」


 島崎さんにしてみれば予想外の返答だったのか、少し驚いた様な表情を見せた。これまでのニイナを見ている僕はこれ以上彼女が辛い思いをすることになるのなら、尚更自分が側にいて力にならなければと考えていた。


「ハル。大丈夫だよ。」


 隣で聞いていたニイナが立ち上がっていた僕をなだめるように言った。


「ハルが一緒に戦ってくれて、凄く支えになってる。私はもうお母さんのこと、自分でちゃんと受け止める準備ができてるの。今まで必死に忘れて、逃げようとしてきたけど、もう逃げない。だから大丈夫。」


 ニイナの言っている意図は分からなかった。


 しかし、ここ数日どこか曇っていた彼女の綺麗な瞳に再び眩しいほどの輝きが戻っている。ここからはもう一人でも折れることはないと確信させるような表情で真っ直ぐに僕を見ていた。


「分かったよ。ニイナが大丈夫って言うなら、僕も信じてる。」


 彼女が一人でも大丈夫なら、彼女のためにできることはあと一つだけ。スマホを見ると、祥吾からの連絡が来ていることを確認して僕は再び立ち上がった。


「僕はSNSの方をなんとかしてくる。島崎さん、今日はありがとうございます。じゃあニイナ、また明日。もし、何かあればいつでも力になるから。」


「うん、ありがとう。」


 


 僕は喫茶店を出と、祥吾に電話した。


「今からバイト先の近くの駅まで来てもらえる?」


「おう、任しとけ。」


 今日いつでも車を出してもらえるように祥吾に頼んでいたのだ。彼が運転が好きなことに感謝する。


 二十分ほどで祥吾らしきシルエットが運転している車が到着した。助手席に乗り込み、買っておいた缶コーヒーを渡してシートベルトを締めた。


「ありがとう。急に一日空けてもらって。」


「良いって事よ。ニイナちゃんのためなんだろ?俺も最初疑っちまってたし、罪滅ぼしになるんならお安いご用だぜ。」


「ちょっとした長旅になるからなー。寝ないでくれよ。」


 祥吾が「あたぼう」と叫び、アクセルを踏み込む。目的地は隣県を跨いだ所にあるニイナの祖父母の家なので、かなりの距離を走ってもらうことになる。


 ニイナの父親が自殺したときの当時の証拠になるようなものがあれば、SNSでの騒ぎを落ち着かせることができるかもしれないと考え、連絡を取っていた。


 彼女から了承は得ており、彼女の家に行った時に祖父の方の番号を控えさせてもらっていた。


 祥吾には付き合わせることを申し訳なくも思ったが、彼自身が車で遠出をすることが好きで、かなりテンションが上がっているようだった。


「ここから高速に乗っても二時間はかかるだろうなー。着く頃には夜になるぞ。」


「今日しか時間がとれないみたいなんだ。何かと忙しい人なんだと。今でもニイナの仕送りとかしてるから仕事してるんじゃないのかな。」


「へー、ニイナちゃん育ち良さそうだし、金持ちとかなのか?」


「多分。その人たちが住んでる家の中の写真見せてもらったけど、ドラマとかに出てきそうな屋敷だった。ニイナは仕送りとかはしなくて良いって言っているみたいだけど、孫には良い暮らしさせてあげたいとかで今でも送ってくれてるみたい。」


「うちのじいちゃんとは大違いだな。ガキの頃にちょーっといたずらしたらぶん殴られてたよ。」


「お前の子供の頃のいたずらの程度が酷すぎるだけだろ、どうせ。」


「違いねえ、寝てるじいちゃんの少ない髪の毛に母親の脱毛剤塗りたくったりしてたもんな。俺でもそんな孫ぶん殴るわ。」


 それからもくだらない話をしながら進んでいくと、高速の出口に差し掛かった。背の高いビルは全く見えなくなり、夕焼けの空が地平線近くまで広がっている。目的地も近くなったところで、コンビニに寄って休憩を挟むことにした。


「今日は車中泊かな。すっかり日が落ちてきてるし。」


 ぬるくなった残りの缶コーヒーを飲み干した祥吾が座席を限界まで倒した。


「お疲れ様。確かにもう暗くなるだろうしな。一回休んだ方が良いか。」


「相変わらず金ねえし、どっか止まれるくらいの金持ってきてねえや。」


 基本大学生なんてその日最低限生きていく分しか財布にお金が入っていないのだ。バイトに週三回程度しか入らない僕らはまさに貧困まっしぐらで、ホテルに泊まるような贅沢は滅多にできない。


 高速の料金で財布の中身が更にカツカツになった僕らは、コンビニで適当に買ったサンドイッチを食べてニイナの祖父母の家へと向かった。


 少し遠くからでも、周りの家より一際大きい屋敷のような建物が見える。僕らが目の前まで来ると、門の所から家政婦のような人が出てきて駐車場まで案内してくれた。


「おいおいマジでお嬢様じゃん。使用人がいるなんて聞いてねえ。」


「確かに自分たちだけでこの広さの家を掃除とかするの大変そうだもんなあ。」


 車を降りると玄関まで案内され、来客用のスリッパが用意された。長い廊下を抜けると客室のような場所に一人のおじいさんが座っている。


「こんばんは。わざわざこちらに出向いてもらって申し訳ない。私がニイナの祖父の幸之助と申します。」


 高そうな黒い革製のソファから立ち上がったニイナの祖父は、少し背中の曲がったとても優しそうな老人だった。このくらいの年になっても背筋がピンと伸び、若々しさすら感じさせる人は島崎さんくらいしかいないのだろう。


「こんばんは、こちらこそ無理を言って時間を取らせてしまいました。それで、ニイナが今の様な状況に置かれているのはご存じなんですよね。」


「そうですね。この年なもんで、SNS等には疎いのですが数年前から私の息子と孫の件で少し話題になっているのは周知しておりました。今回ははっきりと顔が映ってしまっているのを拝見しております。なんとも可哀想で、腹立たしい。」


 彼は何十年も年が離れている僕らにもとても丁寧な言葉遣いで話す人だった。


「立ち話も何ですし、どうぞおかけくだい。」と言ってくれた彼の言い方からも優しさが滲み出ている。だが、自分の子供や孫がSNS上で冒涜されていることには心底怒りを覚えている様子だった。


「僕はなんとしてもニイナの身の潔白を証明してこの事態を収めたいんです。何かニイナのお父さんが亡くなった時の死因を証明できたりする物は残っていないでしょうか。」


「私の息子の楽から預かっていた物があります。ニイナのためには世に出すことが一番だと分かってはいるのですが、楽の事を思うとどうにもやりきれないのです。」


 彼は家政婦に持ってきてもらっていた何通かの手紙のような物を僕に差し出した。


「当時警察の捜査の時にも証拠品として提出した楽の遺書になります。咲さんが亡くなってからというものどんどん弱っていく彼が私たちに向けて綴っていたんです。自殺を図る前日にも一通送られてきており、そこに書かれている内容ならニイナの疑いを晴らすこともできるはずです。」


 僕は遺書を受け取り、「中身を確認しても良いですか」と許可を取ってから読み始めた。


『拝啓、お父さん、お母さん


 私はもう咲のいない生活に耐えることができないでしょう。ニイナが成人になり、一人で生きていけるようになるまではと必死に留めてきました。


 しかしもう限界だと悟ったのです。咲からのメッセージがあったのです。待ってるからと。向こうで寂しい思いをしている咲に会いに行ってやらねばなりません。


 ニイナを残して行くことは心苦しいですが、何卒面倒を見てやっていただけないでしょうか。ニイナも十分立派に、可憐で強く、優しい子に育ちました。愛していると一言伝えて下さい。


                              楽     』


 涙をこぼしながら書いたのか、それとも読んでいたニイナの祖父母が流した涙なのか、彼の遺書は水滴が乾いたような後で損なわれていた。


「勝手な息子です。まだ中学生だったニイナを残して自ら身を投げ出すなんて。ただそこまで追い詰められていた彼を救えなかったのは私たちなのです。思い出すだけで悔しくて悔しくて・・・。」


 涙ぐむニイナの祖父を前に僕は何か違和感を覚えていた。ニイナの父親が残したこの遺書に書かれている『咲からメッセージがあった』という文章。そのあとに続く、『待っているから』。


 その時僕はニイナの家で見たビデオテープの内容を思い出していた。最後に咲さんが言っていた言葉がなんだったか、必死に記憶をたぐり寄せる。愛していると言った後のあの言葉はなんだった。




『向こうで待ってる。』




「どうかしましたか。ハル君。」


 少し考えすぎていたようで、ニイナの祖父が僕の顔を覗き込んでいた。


「いえ、楽さんの遺書に書かれていたことがあまりにも悲しくて。」


 僕の心の中に言い表しようのない恐怖にも似た感情が渦巻き始めていた。ただ今はこれでニイナのSNS上の問題を解決しなければならない。


「この遺書、写真に撮らせていただいても良いですか。ニイナの疑惑を晴らすためにご協力をいただきたいのです。」


「ええ、そのつもりでこれを見せたのです。私たちではSNSでどう使えば良いのかわからなくて。信用のできる若者に託そうと考えていました。こんな所まで来ていただけるニイナのお友達なら任せられると判断したのです。」


「ありがとうございます。必ずニイナの助けになって見せます。」


 僕らがニイナの祖父母の家を出る頃には外は真っ暗になり、夜の八時を回ったところだった。


 彼から帰るときの交通費にと一万円ずついただいており、近くのネットカフェで一泊することにした。二人でダーツをしながら眠気が来るまで適当に時間を潰すことになった。


「ニイナちゃん、凄く辛い思いをして今まで生きてきたんだな。」


 祥吾が二発ブルを決めたが、三発目のダーツは的の外へと飛んでいった。


 僕は自分の中に生まれたあの感情と向き合っていた。咲さんが言っていた最後の言葉が、より鮮明な記憶となって頭の中を巡っている。


 どういった意図であの言葉を残していったのだろうか。


「両親に先立たれて高校生の時から一人で生活していたなんて。それにSNSのせいで友達も離れていっちまってるし・・・。あー俺なんで疑ってしまったんだ。」


「祥吾が気に病むことはないよ。面白半分で動画を撮った奴と、一時の感情であの顔が映った動画をあげた奴の浅はかさが問題だ。」


 僕の投げる番になり、狙いを定めてダーツを放つ。少し力んでいたようで、三投とも狙いより上の方に飛んでいってしまった。


「とりあえず遺書を撮らせてもらったからこれをどうやって拡散するかだな。僕のツイッターは完全に個人でしか使ってないし発信も全然してないから中々目に止まりにくいんだよな。」


「あ、それなら俺のアカウントは?」


 祥吾のアカウントを見てみると、なんとフォロワーが一万人を超えていた。


「え、すごいな。なんでこんなにフォロワーいんの?もうすぐ二万人行きそうじゃん。」


「一年の時ミスターコンに誘われたって言ったろ。そんときにちょっとSNS活動をしててな。結局途中で面倒くさくなって辞退したんだけどツイッターだけそのまま伸び続けてんの。」


「これなら拡散力あるだろな。でも身バレとか大丈夫なのか?」


「俺はもう大学も割れてるし良いんだけどニイナちゃんがどうかだな。動画のリプとか見る感じそんなに特定とかはされてないように思えるけど。もし俺が投稿して失敗したら大学とかももっと多くの人にばれるはめになるな。」


「投稿するなら必ず炎上を収める確信がないと駄目だな。」


 ニイナの動画が炎上している背景には、動画を拡散した投稿者が煽るような表現でツイートしていることが要因の一つとなっている。


 そういう売りで注目を集めているアカウントに動画が渡ってしまったことが非常に厄介なのだ。


「動画をツイートしたこのアカウントに謝罪させることができれば静まっていくんじゃないかな。」


「それいいな。俺がニイナちゃんのお父さんの遺書を投稿して潔白だったと分かれば、殺人犯のように煽ったこいつが攻められてニイナちゃんには矛先が向かなくなるな。さえてんじゃんハル。」


「祥吾のアカウントからこの投稿者のアカウントについて触れるような形でツイートしよう。それにしても誰が動画をこのアカウントに流したんだろう。」


「割と大学内で出回ってたからな。もう疑いたくないけど知ってる奴がリークした可能性が高いんだよな。」


 確かに自分たちの大学の人間にしか動画は出回っていなかったはずだ。その中でもニイナの知り合いを中心に送られてきている。ただ僕が知る限りではニイナのことをわざわざ貶めようとする人はいないような気がしていた。彼女の人望は僕も側で感じている。


「ニイナの事を疎んでる人なんているのかな。少なくとも、僕の知る限りではいないんだけど。」


「俺もそんな話は聞かないなあ。俺らの知らない怖い女の世界があるのか、粘着質な男がいるのかわかんねーけど。」


 ダーツのスコアでそこそこ差を付けられて負けてしまった。先に睡魔が襲ってきたのは祥吾で、個室の方で寝てくるようだ。


 僕は中々眠気が来ずに一人で漫画を読んでいた。しばらくパラパラとページをめくっていたが、内容が頭に入って来なかったので僕も個室に向かうことにした。


 個室に入り、しばらくニイナの動画を拡散したアカウントのツイートを見漁る。とても気分の良い物ではなかったが、過去にこのアカウントが炎上したときの様子を探れるのではないかと考えていた。


 これだけ過激なツイートをしていればどこかで非難されていてもおかしくない。案の定変に炎上を煽るようなコメントをつけて投稿していた動画の一つが非難されており、謝罪をして動画を削除した事があるようだった。既に消されている投稿のため動画の内容は分からなかったが、残っていた謝罪文から確認することができる。


 ニイナの動画を拡散し、炎上を煽ったことを撤回させるのはそれほど難しくなさそうだ。


 しばらくそうやってツイッターを眺めていると、ある画像が目に止まった。ニイナの動画を拡散したアカウントのサブ垢の様なものを発見し、そこにはリークされた時のDMがスクリーンショットされて載せられていた。


 プロフィール画像もアカウントの名前も伏せられていたが、リーク者の文章の一文に見覚えがあった。基本的に敬語でやりとりがされていたが、その一文だけには少し訛った表現で、『彼女はきっと父親を突き落としとるんです。』と書かれていた。こんな訛りで話すのはニイナの周りには一人しかいない。これだけで断定するのは些か早い気もするが、探りを入れてみる価値はありそうだ。




「祥吾ってみくちゃんと、どのくらい仲いいんだ?」


 彼女の連絡先は祥吾からもらっていたので、朝車に乗り込んでから聞いてみることにした。


「んー、ホントたまに話すくらいかな。よく大学では会うようになったけどあんまこっちから話しかけることないし。」


「そっか。次信号とかで止まったときちょっと見てほしいものがあるんだけど。」


 高速に乗る手前の交差点が赤に変わったので、祥吾に昨日見つけたリーク者のDMの画像を見せた。


「この『突き落とし取るんです。』ってところ、この訛僕らの周りじゃ珍しくない?」


「まあそうだな。」


「ニイナの画像は僕らの周りで出回ってたし、書き方的にニイナの事を知ってる人が送ってるんだと思うんだけど。」


「まさかみくちゃんがリーク者って疑ってんのか?」


「これだけで確定させるのは弱いって分かってる。でも探る価値はあると思うんだ。リーク者からの証言ももらえれば、より確実にこっち側の流れに持って行けると思う。」


「うーんそれもそうだけど。まあ、こっちからなんか知らないか聞いてみるわ。」


 複雑そうな顔をした祥吾だったが、二つ返事で承諾してくれた。僕と一緒にニイナの動画が回ってきた人に消すように呼びかけてくれていたが、彼女のスマホの画面を見ていたわけではない。あの時も実は動画を拡散し続けていた可能性もあり得る。


 祥吾の前日からの疲労を考慮して少しゆっくり帰っていたら、僕らの家の地域まで来るのが昼すぎになっていた。


 祥吾のスマホにちょうどみくちゃんからのメッセージが届いており、友達と近くで遊んでいたため近くにいるようだった。


「みくちゃんとラインしてんの?」


「向こうから時々な。ミスコンの時からのファン?みたいで。」


「へー。おモテになるんですね。」


 祥吾が「まあな」と言って得意そうな顔をする。南さん一筋だと言っていたのは何だったのだろうか。


「その顔やめろよ。疑ってるんだろうが、俺は南さん一筋だから無駄にライン続けたりしてねえし、会ってもねえよ。」


「はいはい。そういうことにしておくね。」


「だりぃその感じ。南さん俺の誘い全然乗ってくれねえの。二人であったのなんて最近あった花火大会だけだし。もちろん俺から誘って。」


 南さんが花火大会のチケットを譲ってくれたのは祥吾から誘われたからだったのかもしれない。本当は彼女から誘うつもりだったのかも。これは南さんに今までおちょくられてきた分の仕返しができるかもしれない。


「僕はニイナに会ってツイートしても良いか確認してくるよ。みくちゃんの方は任せる。」


「はいよ。任せられた。」


 ニイナに連絡を取ると、今日は大学の授業がない日らしかった。また家に来ても良いと言ってくれたので、彼女のマンションに向かうことにした。


 祥吾の方はみくちゃんに会いに行ってくれたが、最後まで「俺には南さんがいるんだ」と悶えていた。呆れるほどのわざとらしさである。こんな調子だから南さんといつまで経っても進展しないのだろう。


 ニイナの部屋に着くと、あの甘い柑橘系の匂いと共に出迎えてくれた。ドアを開くときに異様に香ってくるのは僕が意識しすぎているのだろうか。


「いらっしゃい。」


「お、お邪魔します・・・。」


 一度来ているはずなのにやはり緊張してしまう。今日は外に出る予定がなかったのか、いつも外ハネになるようにカールされている髪は、少しだけ内側に向かっている。普段と違う彼女の姿に同様してしまい、変な声がでた。


「何その声、変なの。今日も何か食べてく?」


「いや、いいよ。この前も作ってもらったし申し訳ないよ。」


「昨日おじいちゃん達の所に行ってきてくれたんでしょ?日を跨いでまで私のためにしてくれたんだからこのくらいさせて。どうせ今日何も食べてないんだろうし。」


「そんなの気にしなくて良いのに。」


「いいからいいから。ソファ座ってて。」


 昼間はまだ暖房いらずの心地良い気温の時期。少しだけ開けられた窓から入り込んでくる風がカーテンを揺らす。


 揺らめく日の光が、台所に立つ彼女を優しく包んでいる。


 僕は彼女にどうしようもなく惹かれてしまっている。それはたった今気がついたことではなく、出会ってすぐの時からこの気持ちは生まれていたのかもしれない。


 今は、これまで通り彼女が笑って過ごせる日常を取り戻したい。人知れず苦しむようなことがないように、僕が力にならなければ。


「ツイッターの動画のことなんだけど、挽回できそうな目処が立ったんだ。ニイナのお父さんが残していた手紙をおじいさん達から見せてもらったんだけど、祥吾のアカウントでツイートしても大丈夫かな。信じられないくらいフォロワーが多くて、影響力もかなりあるし、手紙の内容が伝われば今回の炎上は治まるはずなんだ。」


「お父さんの手紙・・・。」


 ニイナが下を向いたまま手を止めた。自分の父親の遺書を世の中に公開する事にはやはり葛藤があるのだろう。だが、現状を打開するにはこの方法しかないことも事実だ。それはニイナも分かっているのだろう。


「嫌だったら他の方法を考える。でもおじいさんもニイナのためを思って僕らに託してくれたんだ。あの手紙からはお父さんがどれだけニイナを思っていたのかが凄く伝わって来る。きっとニイナがこのまま苦しむことは望んでないよ。」


 僕は彼女に遺書を見せた。遺書の存在を初めて知ったようで初めは戸惑っていた様だが、次第にどこか懐かしむ様な表情に変わっていった。


「お父さん、とっても優しかったんだ。毎日のように仕事でくたくたになって帰ってくるんだけど私と話すときは絶対に笑顔でいてくれてたの。こんなに追い込まれていたのに全く弱ったところを見せてくれなかった。」


 彼女はすごく父親を慕っていたのだ。


 娘の前では最後まで良き父であろうとした彼の思いがニイナの言葉からでも感じられる。


「それなのにある日帰ってきたらベランダの柵に足をかけてるんだもの。でもなんとなく何をしようとしていたのかが分かってた。それからすぐに止めようと手を伸ばしたけど、駄目だった・・・。」


「そんなことがあったのにニイナが世間から誤解されるなんてあまりにも理不尽だよ。」


「その時も顔が映ってなかったとはいえ一回出回っちゃってるから。こういうのは慣れっこのつもりだったんだけどなあ。やっぱり苦しいよ、友達からも疑われてお父さんの死ぬところが何度も掘り返されるのは。」


 綺麗な形をしたオムライスを二つ持ってきた彼女が隣に座って、真っ直ぐに僕の目を見た。


「これ以上お父さんの事を見せものみたいにされないためにもこの遺書を公開して欲しい。五年前から縛られている私たちを、どうか前に進ませて。」


「分かった、必ず成功させるよ。」


 彼女はもう僕の中でかけがえのない存在になっている。父親が自殺してから止まってしまっている彼女の心を動かさなければならない。


 きっと母親が亡くなってからは自分が父親の負担にならないよう、幼いながらも家のことをすべてこなせるようにしてきたのだろう。


 整理された部屋や料理の腕が良いことものそのせいかもしれない。


「ハル、目に涙が溜まってる。」


「え、いやこれは。」


「優しいね。ハルは。」


 抱擁するような笑顔を見せるニイナを見て、涙が僕の頬を伝ってきた。


 彼女が僕の頬に手を当てて涙を拭き取る。泣きたいのは彼女の方だというのに情けない姿を晒してしまった。


「ごめん、こんなはずじゃ・・・。」


 背中の方に腕を回され、彼女の体温が直に伝わってくる。これでは僕の方が慰められてしまっているではないか。これまで向けられたことのない優しさに包まれ、すぐにそんなことはどうでも良くなってしまった。


 どれだけ時間が経っただろうか。一瞬だった様な気もするし、何時間も経過していたような気さえする。


 冷えてしまったオムライスを温め直してもらい、二人で洋画を見た。主人公が想いを寄せている女性は昨日のことを全て忘れてしまう記憶障害に陥っているという設定だった。


 記憶が無くなっても次の日も必ず恋に落ちる二人に魅入ってしまった。


 オムライスは冷えてもなお味が落ちることはなく、程よい甘さが口の中に広がってくる。完食した僕を見てニイナも喜んでいた。


 映画を見終わる頃には外は真っ暗になっており、部屋の中も肌寒くなってきた。これ以上大学を休む訳にはいかなくなってしまった僕は、数日ぶりに自分の家に帰ることにした。


 玄関先で見送ってくれた彼女に「またね」と手を振ると、「うん、じゃあまた。これ以上大学サボるなよ。」と手を振り返してきた。


 マンションから出と、冬が近づいていることを感じさせる冷たい風が横顔に吹きつけてくる。肌は冷たくなっているが、体の芯にはまだ温もりが残っていた。生まれて初めて人から必要とされた気がして胸が高鳴った。




 何日も話題に上がり続けていたニイナの動画は、たったの三日もせずにSNS上で見なくなった。


 完全に消えることはないのだろうが、この動画が世に出回る事態は避けなければならないといった流れができ、誰もがこのことについて触れることはなくなっていった。拡散したアカウントは今回の炎上を受け、アカウント自体を削除するという行動を取った。


 謝罪はしたもののこれまでの投稿内容まで問題視されるようになり、続けることができなくなったのだろう。ただ似たようなアカウントは他にも大量に存在しているため、一つ消えたところでさほどツイッター全体が改善されることはないのだろうが。


 ここまで一方的な流れになったのは祥吾の働きかけが大きかった。みくちゃんにニイナの動画の件を話したところ、初めはごまかしていたようだが念のためツイッターを確認させてもらおうとすると明らかに挙動がおかしくなり、しまいには逃げ出してしまったようだ。


 祥吾から逃げることができず、彼女は観念してスマホを祥吾に見せた。


 まさかばれるとは思っていなかったらしく、リークしたアカウントはDMもそのまま残っていたのだ。ニイナの事をリークした理由は、前から祥吾のことが好きだったらしく、二年になってから祥吾とも仲良くなっていたニイナが付き合っているのではないかと勘違いしたのだという。祥吾がよく四人で遊んでいるところをプライベートのSNSに投稿していたのを見ていたのだ。少し評判を落としてやろうと考えていたらしい。


 普段そこまで注目されていないアカウントにリークしたため、大事にはならないと思っていたようだ。


 祥吾のアカウントで遺書とみくちゃんがリークするときに使ったサブのアカウントを公開したことで、一気にニイナの動画に関しての話題は混乱状態になった。


 みくちゃんもそのアカウントでデマを流したことを認め、拡散したアカウントにも掛け合い、リークしたのがみくちゃんのサブのアカウントで間違いないことを公表させた。そこからはニイナを犯罪者扱いするような発言はなくなり、掌を返すように擁護する声が多く挙がった。


 幸いみくちゃんの身元が分かるようなアカウントではなかったため彼女が執拗に糾弾される事はなかったが、やはり無関係の人間からの心ない言葉がそのアカウントに寄せられることになった。彼女は大切な友人を傷つけた贖罪のつもりでアカウントを残していたようだが、見かねたニイナが直接説得してアカウントを消させていた。


 今はこれまでどおり仲良くしているみたいだが、自分をここまで追い込んだ人間を許せるニイナの心の広さには感服する。


 外がすっかり寒くなった十一月の半ば。僕はバイト先の隣にある古着屋の近くで祥吾を待っていた。新しいコートを買おうと言ってきた彼は待ち合わせの時間から十分も遅刻している。


 念願の彼女ができたというのにこの調子で大丈夫なのだろうか。南さんに対して遅刻などしてしまえば命はない事など彼が一番理解しているだろうに。


 商店街の方からようやく祥吾が走ってくるのが見えた。遅刻したくせにいっちょ前にお洒落な服装を着て、髪までセットしている。


「おー、十分も遅刻してきて身だしなみは完璧にしてくる時間はあったのか。」


「すまんすまん。この後南さんと飯に行く予定入ってて。何着ていこうか滅茶苦茶迷っちまった。」


 祥吾は南さんと付き合ってからというもの、これまでの様な派手なスタイルから少し大人っぽい雰囲気の落ち着いた格好をすることが多くなった。


 秋入社で会社に入り社会人となった南さんへの配慮だろうか。変に残っていたチャラさがなくなり、更に男前に磨きが掛かってしまっている。


 尚更普段の怠惰さが腹立たしく思えてきた。外見の前に素行を直すべきだろう。


「南さんの前でも遅刻を繰り返してたらいつか振られるぞ。」


「もう、何回かやっちまった・・・。毎回激おこの状態の南さんをなだめるところから始まるんだよなあ。」


「こりゃ長続きするか怪しいな。」


とは言ったものの、彼等が付き合う少し前からは南さんの方が祥吾に対してぞっこんだった気がする。


 最初は祥吾のことなど眼中にないように見えたが、やはりあの事件がきっかけとなっているのだろうか。


「俺どんなコートがいいかな。ハルはいっつもモノクロの綺麗めな服着てることが多いだろ?ちょっとアドバイスもらおうと思って。」


「祥吾からファッションのアドバイスを求められるなんて光栄だよ。でも遅刻して来てるから僕の買う分半額出してくれるなら協力するよ。」


「う、悪かったって。三割で許してくれ。」


 僕なんかに聞かなくても何でも似合うのに、わざわざ一緒に来る必要があったのだろうか。


 予想通り僕がいつも来ているようなコートを選んだだけなのにしっかり着こなしてしまった。少し悔しくなったので僕の分は店の中でも少し高めのコートを選んでやった。


「自分のコートだけなら二万も行かなかったのに・・・。」


「遅刻しなければ良いだろー。家をでる一時間前には起きとけよ。なんでいっつも昼過ぎまで寝てるんだ。」


「前の日は日が変わるまでには寝てんだけどな。自分でもおかしいと思うわ。」


 今が十五時くらいなので、少なくとも十三時間は寝ていることになる。ほぼナマケモノじゃないか。


「それで、ニイナちゃんとはどうなのよ。なんか家にも行ってたみたいだし良い感じなんじゃねえの?」


「いや、ここ最近会ってないな。いつも向こうから連絡してきてたのにぱったり来なくなったし。」


 ニイナと最後にあったのは遺書を渡しに行った時だった。それから大学で見かけたり僕から連絡を取ってみたが、以前より淡泊な返答しかしてこなくなっていた。


「そりゃ急だな。ニイナちゃんの方から来てる感じだったのに。あんまり煮え切らない態度取ってたから、他の男にでも取られちったか。」


「別にそんな態度取ってないし。」


「まあ今度はハルの方からぐいぐいいってやんなよ。きっとニイナちゃんも待ってるんだと思うぜ。」


 本当にそうだろうか。これまで教室で会ったら毎回話しかけてきたのが今では見向きもされないし、定期的にあった遊びの誘いも全く来なくなった。祥吾の言うように彼氏でもできたのだろうか。そんなことを考えると思った以上にダメージが大きかった。


 南さんとの待ち合わせの時間が近づいてきた祥吾と別れ、僕はひとりで家に帰ることにした。夕食用に買ってきたコンビニの弁当を温める。あの日からひとりで食事をすることが億劫になってしまった。人と一緒に食事をすることがあんなにも幸福なことだったのだと知ってしまい、どうしようもない孤独感に苛まれていた。


 南さんが社会人になってからというもの、四人で集まる機会も自然となくなっていった。グループラインで、今度皆で集まろうと祥吾が送っていたが、忙しい南さんと中々予定が合わず、次第にトーク履歴の上に来ることも少なくなってきた。


 去年までの様にひとりで過ごすことが多くなった僕は、バイトに打ち込むようになった。


 南さんがバイトを辞めてからしばらくは僕と祥吾の二人だけだったが、程なくして祥吾が後輩だという女の子を連れてきた。


 何でも南さんがいなくなった後の喫茶店には華が必要らしい。飲食店でバイト経験のある彼女は仕事を覚えるのが早く、入ってから一週間程で僕や祥吾のどちらかとツーオペでも任されるようになった。


 祥吾と対極にバイトの時間の十分前には店に来て、準備を始めているのでかなり助かっていた。


「あ、ハルさんお疲れ様です。祥吾さんは今日も遅刻すか?」


「いや、今日は体調崩したから休むって。どうせ仮病だろうけど。」


「ですね、馬鹿は風邪引かないはずですし。」


 この子も中々に毒を持っているのだと最近分かってきた。祥吾は気の強い女の子が好みなのだろう。彼女からはどこか南さんと似た雰囲気を感じる。


 今日は比較的客足が多い曜日なので、祥吾が休んだことがかなり響いた。あんなのでも一番長く働いているので、彼がいるのといないのでは結構変わってくるのだ。


 祥吾の後輩の子がイライラしているのがなんとなく伝わってくる。成人になったら煙草なんか吸い出すかもしれない。


 三連勤だった事もあってか、僕はバイトの終わる時間にはくたくたになっていた。これから二人分の賄いを作らなくてはならないことを考えるとやるせない気分になった。僕が


作る賄いはどこか南さんが作る物より味が落ちてしまっている。材料が良い物なので美味しい事には変わりないのだが。


「ハルさんが作るカツサンドやっぱり美味しいっす!揚げる時間とかソースの量とかが私とは違うんすかね。」


 僕の気を知らない彼女が口いっぱいに賄いのカツサンドを頬張っている。きっと南さんが作った物を食べたら僕のなんかには戻って来れないだろう。


「ありがとう。でもそんなにこだわって作ってないよ。」


「ホントすか?そのうち上手くできるようになるのかなあ。」


 僕も自分で作った賄いを食べる。ここ最近はこれか半額のスーパーの弁当しか食べていない。特に、自分で作ったものにはもう飽きてしまった。


 久しぶりにニイナの料理が食べたい。一度目に彼女の家に行った後から、何度か大学に行く前に弁当を作ってもらったことがある。


 ほとんど冷凍食品を使わず、前日にわざわざ用意してくれたものを渡してくれていた。「どうせ栄養の偏った物しか食べてないんでしょ。私が作ってあげる。」という彼女の言葉が頭の中で反芻する。連絡すら返ってこなくなってから、そろそろ一ヶ月が経とうとしていた。


 何かニイナを不快にさせるような言動を自分がしてしまっていたのだろうか。最近はそんなことばかり考えている。


「ハルさんってたまにぼーっとしてることありますよね。なんか悩み事でもあるんすか?」


 カツサンドを食べる手が止まっていた僕の様子を見られていたようだ。僕は変に探りを入れられないように、極力明るく取り繕った。


「いや、なんでもないよ。三連勤で疲れちゃってさ。」


「三連勤くらいどうってことないっすよ!私なんて前居酒屋で働いてたとき六連勤したことありますからね。団体客も多くてもうグロテスクでしたよ。」


 居酒屋で働いたことのない僕にはいまいち大変さが想像できなかった。この喫茶店に来る倍以上の客数など捌ける気がしない。


「あと私の名前覚えてます?」


「そりゃ勿論、荒江さんでしょ。」


「下の名前ですよ・・・。今日私を呼ぶときも辛うじて思い出したみたいに名字で呼んでたじゃないすか。和葉です。もう二週間近く入ってるんですから、いい加減覚えて下さいね。」


「ごめんごめん。和葉ちゃんね。ちゃんと思い出したよ。」


 ぼーっとしていることが多すぎてど忘れすることが多くなったり、人の名前が出てこなかったりと老人みたいになってきている。そろそろしっかりしなくては。


「名前で呼ばれる方が好きなんで、頼みますよ。」


「良い名前だもんね。和葉って。」


 予想外の返答だったのか、和葉ちゃんは大きな目をまん丸に見開いている。今の返しは少し気持ち悪かっただろうか。


「ありがとうごいます・・・。特別に呼び捨てでも良いっすよ。」


 思ったより好印象を与えたようだった。機嫌を損ねて面倒な思いをせずには済んだようだ。


 よく喋る彼女の話に付き合っていると、いつもより帰るのが遅くなってしまった。


 翌日もシフトに入っている彼女に店の鍵を預け、駅まで一緒に行くことにした。南さんの件もあってから、遅くなったときはなるべく一人で帰さないようにしている。


 杞憂だろうが、思ってもみない形で僕の周りの人が傷つく事があるのだとこれまでの経験から学んだのだ。


「今日はハルさんが思ったより面白い人だって気づきました。」


「思ったよりってなんだよ。」


「最初は暗い人なのかなって思ってたんすけど、そんなことなかったなって。あと聞き上手というか、なんか話しやすいっす。」


「それは良かった。」


 和葉はこう言ってくれているが、正直疲労の限界が来ていて適当に相槌を打っているだけだ。


 一刻も早く家に帰って眠ってしまいたい。頭の中から離れないニイナのことを忘れられるのが睡眠中だけなのだ。彼女のことを考えるのももう疲れた。


 しかし一向に忘れらそうな気配はなく、何をしていても上の空になってしまう。


「あ、またぼーっとしてる。聞いてました?」


「ん、なんて言ったの?」


「大学のサークルで面白い事があったって話ですよ。もう、駅着いちゃったじゃないっすか。」


「ホントだ、ごめん。」


「マジで疲れてるんすね。ゆっくり休んで下さい。」


「ありがとう。じゃあお疲れ。」


「お疲れ様です。送ってくれてありがとうございました。おやすみなさい。」


 反対側のホームに向かう彼女が見えなくなってから、僕はため息をついた。


 人と話すのは楽しくなっていたはずなのに、また去年と同じように会話する時間のキャパシティができてしまっている。


 コミュ力の高い彼女と話しているとすぐにキャパオーバーしていることに気づく。こんなことで来年から始まる就活で上手くいくはずがない。企業側が大学生に求めていることなんてコミュ力くらいしかないだろうに。


 自分の家の最寄り駅を出て、なんとなくニイナとよく行っていた公園に足を運んでみた。相変わらず静かで何もない所だ。


 よくこんなところで夜遅くに何時間も話していたなと感慨に浸ってしまった。


 一人で座るベンチはとても冷たく、厚めのデニムパンツ越しにも冷気が伝わってくる。


 久しぶりに来たこの公園が、以前よりも寂しさを感じさせるのは、いつも咲いていた小さな花たちがどこかへ行ってしまったからだろうか。


「何してんだろ、こんな所で。」


 一人、星も見えない真っ暗な空に向かって呟くと、スマホのバイブレーションが鳴った。


 交換していないはずの和葉からラインが来ていた。祥吾から連絡先を送信してもらったらしい。よろしくと書かれたスタンプを送りスマホを閉じると、すぐに返信が来た。


『休日ってバイト入ってない日ありますか?祥吾さんと三人でご飯食べに行きません?』


 僕は既読を付けずに再びスマホを閉じた。


 今は誰かと会う約束をするような気分にはなれない。帰ってから考えればいいだろう。


 気づけば三十分も冷たいベンチに座っていた。


 馬鹿馬鹿しくなった僕は、冷えて固まった足を無理矢理伸ばして立ち上がった。


 急激に冷え込みだす今の時期には薄着に見える服装だったためか、くしゃみが止まらない。熱を出す時に襲ってくるような悪寒がする。


 体調を崩すかもしないので急いで帰ろうとすると、出口の所に街灯に照らされている人影があった。


 彼女に会うのはたった一ヶ月ぶりのはずなのに、何年も会っていない友人に会ったようなむず痒さすら感じる。


「久しぶり。」


 ニイナの声が、さっきまで感じていた僕の疲労も悪寒も消し飛ばした。


「久しぶり・・・。ここにはまだ来てたんだ。最近どう?友達とは、上手く行くようになった?」


 話したいことが多すぎるのに、上手く言葉が出てこない。他にもっと聞きたいことがいっぱいあるのに。


「皆今までどおり接してくれてるよ。あ、まだ直接お礼が言えてなかったね。私の誤解を解いてくれて本当にありがとう。あの時ハルが側にいてくれなかったら、今頃どうなってたか。」


「そんなこと良いんだよ。元気そうで良かった。そうだ、今度また四人で集まろうよ。南さんもそろそろ仕事とか慣れてくるころだろうし、時間取ってくれるよ。」


「うーん、そうだね。でも来年から私たちも就活とかで忙しくなるじゃん。そろそろ準備とか始めとかないとなーって。」


 彼女と目が合わない。いや、僕は真っ直ぐに見ているのに、ニイナは少し視線を下に落として目を合わせてくれないのだ。


「そっか、今から準備とかしてるの?ラインとかも返信ないから忙しいのか。」


「うん、そんな感じ。ハルはもう帰るの?」


「ちょうど帰ろうとしてたところなんだけど、折角だから少し話していこうよ。」


 彼女の表情に少し陰りが見えた。やはり僕の言動に気に障るようなことがあったのだろうか。


 明らかにこれまでの態度とは一変している。


「私もちょっと来ただけだからなあ。まあ少しだけなら。」


 久しぶりに話す機会ができたのは良いのだが、こんな雰囲気で何を話せば良いのだろう。


 以前のような心地の良い会話のテンポが、僕らの間にはもう存在していなかった。どこかぎこちない空気すら流れている。


「私ね、小さいときからこの公園でよく遊んでいたの。」


 少しの間流れた沈黙を先に破ったのは彼女の方だった。


「ここでぼーっと花を眺めてたんだ。子供らしく友達と遊具で遊んだりした記憶はあんまり無いんだけどね。一人でもよく家から抜け出してきてたりしたなあ。」


「そうなんだ。だから今になって、子供のときにするような遊び方をしてみたくなったんだね。」


「わざわざ付き合わせちゃってごめんね。」


「いや、いいんだよ。僕も楽しかったし。公園で花火ができるなんて中々ないし、新鮮だったよ。」


 彼女は僕らが花火をした場所に視線を移してる。今年の夏にしたことなのに、そんなに懐かしむ様な顔をするものだろうか。


 先程から僕と話しているときもずっと同じ所を見つめている。目を見て話してくれないのは初めてだった。


「あのさ、最近僕のこと少し避けてる?もし何か気にくわないことをしてたなら教えて欲しいんだ。」


 このままニイナと離れてしまうことが嫌で、直接質問する形になってしまった。今日を逃してしまえば、本当にこれから関わりがなくなってしまうような気がして怖くなったのだ。


 また沈黙が流れる。


 彼女は僕の質問に答え倦ねているようだった。何か僕に言いにくい事情でもあるのだろうか。


「これ以上一緒私と一緒にいても、ハルのためにはならないよ。今まで凄く楽しかったし、この間の件でも助けてもらって凄く感謝してる。でももう駄目なんだよ。」


「僕のためにならないって・・・。急に何言ってるんだよ。全然意味が分からないんだけど。」


 彼女はまだ僕の方を向いてくれない。


 唐突に放たれた拒絶するような言葉に呼応するように、忘れていた悪寒が背中を走る。


「ごめん、そろそろ帰るよ。寒くなってきたから気をつけてね。」


 立ち上がった彼女を引き止めようとしたが、僕は力が抜けて立ち上がることができなかった。


「さよなら。」


 そのまま走って公園の外に出て行ってしまった。追いかけようとしたが、先程の疲労感と、体を巡る気持ち悪さが邪魔をする。


 気分を落ち着つかせてから公園の外にでると既にニイナの姿は見えなくなっていた。




 ふらふらになりながらも家に帰り着いた僕は、ちゃんとベッドの上で寝ることはできたらしい。玄関に入ってからの記憶は曖昧だった。


 昨日よりも強い倦怠感と寒気がして、体温計を脇に挟むと、案の定熱が出ていた。四十度近い高熱で、病院に電話をする体力も残っていなかった。


 一日中寝込んでしまったが、翌日には三十七度代に落ち着き、近くの病院に行くことにした。道中で、丸一日未読にしてしまった和葉からのラインに返信いけないことを思い出した。


 彼女からの提案にあまり乗り気ではなかったし、風邪がちょうど良い口実になってくれるだろう。


 真冬が手前に迫ってきている時の病院は、想像以上に患者が多かった。インフルエンザとかも流行出す時期なのだろう。


 一時間ほど待たされていたところで、見覚えのある人物が隣に座ってきた。


「こんにちは、島崎さんのところのバイトの子だよね。」


「あ、どうもお久しぶりです。半年前くらいですかね、そちらにお邪魔させていただいたの。」


 マスクをしていて一瞬誰か分からなかったが、声色で彼が島崎さんから紹介された喫茶店の店主だと気づいた。


「君も寒さに負けてしまったか。」


「ええ、急に冷え込む季節なのに外で長居してしまって。ただの風邪だと良いんですが。」


「お互い災難だったね。私も診察まで一時間以上待たされそうだよ。」


「多いですよね患者さん。」


 それからもしばらく話しかけてくるので、彼はそれほど体調が悪くないのかもしれない。


 こっちは熱が下がったとはいえ、気分が悪いことに変わりないため、あまり喋ることに体力を使いたくないのだ。


「そういえば島崎さんの所にあの時一緒に来てくれた女の子が、相談に来たんだろう?」


 適当に返事をしていた僕は、彼からそんな話が出てくるとは思っていなかったので彼を二度見してしまった。


「なんでそれを知ってるんですか?」


「私は島崎さんがまだ精神科医だった頃に彼の元で働いていたんだ。今でも島崎さんとは仲良くしてもらっていてね。お互い年だし、もう一つの夢だった喫茶店でも始めようかって話しになって今に至るんだ。とても気が合うんだよ、あの人とは。」


「そうだったんですね。島崎さんのおかげで良い喫茶店を知れて良かったです。」


「あの人の所に比べたらまだまだだよ。ところで、あのお嬢さんは元気にしてるかい?母親の事もあって大変だろうから心配だったんだ。」


「やっぱりニイナの母に何かあるんですか?」


「おや、聞いてなかったのか。私たちがまだ医者だった頃、その子の母親がうちの病院に入院していたんだよ。訳あって、島崎さんが看ることになってね。あの時良くついてきていたあんなに小さかった子が大きくなっていて、他人ながら親心を感じたもんだ。」


 こんなところでニイナの母親の情報が得られるなんて思ってもみなかった。あのビデオテープを見て引っかかっていた事が何か分かるかもしれない。


「その話、詳しく聞いても良いですか?」


「ああ、時間もあるし大丈夫。君はあの子と親しい間柄みたいだし、これからも一緒にいるなら知っておいた方が力になってあげられると思う。」


 彼は話し始めた。ニイナの母親についての、耳を疑うような事実を。




 *




 物心ついたときから、私には人の感情が、その人の纏う空気感で分かるようになった。


 初めは喜怒哀楽といった大雑把な感情だけだったのに、次第に複雑な心の変化や普段押さえ込んでいる人間性といったものが伝わってくるようになった。


 エスパーのように、はっきりと何を考えているのかを読めたりすることはないのだけれど、普段取り繕っている人が本当はどんな気持ちでいるのかは分かってしまう。


 嬉しいことに私の周りには友達と呼べる人達が沢山いるのだが、特に大勢で集まったときなんかに、皆の感情がごちゃ混ぜになって伝わってくるので、疲れてしまうのだ。どんなに楽しい時間でも、誰かは心から楽しめていないのがはっきりと分かる。   


 だから私は一人がすき。暗い感情を持ってる人がいると、どうしても放っておけなくなるから。


 


 自分からハルと距離を取ったというのに、なんでこんなに寂しさを感じているのだろう。時々彼とのラインを見返しながらため息をつくようになった。


 これまでちゃんと聞いていた授業にも、どこか実が入らない。いつかハルが描いていた先生の似顔絵を思い出して、ふっと笑みがこぼれた。


「なにニヤついてるん。男と進展でもあったん?」


 私の様子を窺っていたみくちゃんが、からかうように私の方を見ている。


「はいはい。新しい推しできたからって浮かれてる誰かさんとは違うんですー。」


「んな、浮かれてないし。あの人のことも、ほんのちょっとだけかっこいいかなーって思ってるだけだし。」


 九州の方言で楽しげに話す彼女は、私の過去をSNSにばらまいた張本人だ。


 彼女が事を起こす前から、私に対して良くない感情を持っている事は分かっていたけれど、嫌がらせをしてくる事もなく普通に仲良くしてくれていて、原因も分からなかったので特に行動は起こさなかった。


 事態が収まってからは私に対する良くない感情も消え、本当に反省していることが伝わってきたので、これまで通り接している。


 彼女の方からよく話しかけてくれることもあって、今では良い友達だ。


「ニイナは最近ハル君に絡まなくなったけどなんかあったの。」


 みくちゃんと反対に座っているもう一人の友達が聞いてきた。ここ最近よくされる質問なのだが、中々に困っているのだ。上手い言い訳が見つからず、毎回「ちょっとね」としか返せないので、余計に気になった友達から質問攻めに合うことが度々ある。


「んー、内緒で。」


「なんだそれ。逆に気になるじゃん。」


 やはり今回も上手く躱せなかった。


 付き合ってたけど別れたんじゃないかとか、過ちがあって気まずくなったんじゃないかとか、好き放題に憶測される。


 そんな単純な話ならどれだけ良かっただろう。


「そこ、こそこそと何を話してるんですか。集中して聞きなさい。」


 怒られてしまったのは気分が良くないが、今は先生に助けられた。


 授業時間が終わると、これ以上探られないようにバイトがあると告げて、そそくさとみくちゃん達から逃げるように教室を出た。後ろの方でがっかりするような声が聞こえてくるがもう知ったことではない。


 家に帰り着き、リビングにおいてある大きなソファに寝転んだ。一人で住むには広すぎる部屋だ。気を紛らわせるためにおいた大量のぬいぐるみも、話し相手にはなってくれない。


 今日も大人数の教室で行われる授業ばかりだった。色んな人の感情がごちゃ混ぜになっているあの空間は嫌いだ。授業中には負の感情ばかり伝わってきて、こっちまで嫌な気持ちになる。


「でも、一番取り繕ってるのは私なんだろうな。」


 一人でだだっ広い空間に向かって呟いた。


 ハルにならこの気持ちを打ち明けてしまいたい。彼はきっと受け入れてくれただろう。


 だが、それは彼のためにならない事は私が一番分かっているはずだ。お母さんのことを聞きに行った日に、島崎さんに言われる前からこうしなければならないことは薄々感じていたのだ。


「会いたいよ、ハル。」


 暖房が発する音だけが部屋に響いている。


 近くに置いてあったぬいぐるみを抱いても、当然あの時の温もりは感じられなかった。


 


 眠れない夜に思い出すのはいつもお父さんとお母さんのことだ。


 一人っ子の私に、これでもかと言うほど愛情を注いでくれた二人のことを考えていると、いつの間にか眠りについている。


 しかしそれは、都合の良い記憶ばかりを思い起こして、暗い側面からは目を背けているだけに過ぎなかった。


 お父さんから感じる雰囲気はとても心地良いもので、純粋に親からの無償の愛というものが伝わってきた。お母さんからも私に向けた愛情を感じ取ることができたし、ごく普通の幸せな家庭での生活を送らせてもらっていた。


 ただ、時々お母さんから何の感情も浮かんでこない瞬間があった。他のどんな人でも常に感情を纏った空気感が漂っており、後にも先にもお母さんのようにそれが途切れる人はいなかった。その瞬間も、表面上では普段と何ら変わりのない様子だったので、次第にお母さんのことを怖いと感じるようになっていた。


 私がちょうど六歳になった時のこと。お母さんは何度か交通事故に遭ったり、不注意で怪我をしたりすることが多くなった。


 一度目に事故に遭ってから、僅か一ヶ月以内に二度目の事故に遭っている。お父さんもお医者さんも、不運だ、不注意だと言ってお母さんを心配していた。


 同じ時期に、夜買い物に行った帰りに後ろからついてくる人がいると、お父さんに相談しているお母さんの姿を隣の部屋から見ていたことがあった。


 その時まだ小学生になったばかりの私は、何のことかよく分かっていなかったが、二人の会話が凄く印象に残っている。


 お母さんはそのストーカーの話をしている時と、事故に遭って病院にいる時は全く感情がなかったのだ。


 しばらくして普段からも段々と感情が無くなる時間が多くなっていくお母さんと家にいるのが嫌で、学校が終わるとあの公園で友達と遊んでくると言って時間を潰していた。


 初めは当時の友達を誘っていたのだけれど、飽きっぽい小学生だった彼女たちは、すぐについて来てくれなくなってしまった。


 一方で私は、あの公園に咲いている色とりどりの花が好きで、誰も一緒に来てくれなくても一人で花を見に行っていた。


 一つ一つの花は小さくとも、寄り集まって、鮮やかに咲き乱れるその花に心を奪われた。


 何日も何日もそうやって、小さな公園で一人時間を過ごしていると、ある日から同い年くらいの男の子がやってくるようになった。


 彼は二つしかない古びたブランコにいつも座っていて、時折小さく漕いでは止まって、地面を見つめて過ごしている。


 その日から毎日来るようになった彼がどんな子なのか気になり、声をかけてみることにした。


「いっつも一人でここに来てるけど寂しくないの?」


 今考えれば私自身もひとりぼっちで誰も訪れない公園に入り浸っている寂しい奴だったというのに、随分な言いようだ。


 彼に近寄ってみて気づいたのが、驚くほど彼から伝わってくる感情が希薄だったことだ。


 腕や手の甲に、切り傷や痛々しい打撲の後が見られる。


 お母さんみたいに全く感情が感じられないということはないのだが、今にも消えてしまうのではないかと心配になるほど儚い雰囲気が漂っている。


「そっちこそ一人でいるじゃん、人のこと言えんのかよ。」


「あら、私には友達がたくさんいるのよ。この公園に来ているのは一人が好きなだけなの。貴方何だか悲しそうだから私が話し相手になってあげる。」


 その時子供だった私は、大人しそうな彼から、予想外にも攻撃的な口調で返されたことにむきになってしまった。


「いいよ、別に。誰かと話したい気分じゃないし。」


「そう、でも私が話したいの。それからね、ブランコはもっと大きく漕いだ方が面白いんだよ。」


「あっそ、じゃ僕は帰るよ。」


「あ、ちょっと待ってよお!」


 それから彼はこちらに見向きもせずに帰ってしまった。


 夕飯の時間が近づいて来たときに、私も家に帰ることにした。


 まだ怪我が治っていないお母さんに変わり、お父さんが早めに帰ってきてご飯を作ってくれるのだ。私が公園から出ると、少し離れたところにある駐車場のU字のポールに座っている彼を見つけた。


「変なやつー。」


 彼の体の傷の意味が分からなかった私は、ただの家出少年くらいにしか認識していなかった。


 それからも公園に来ていた彼にあしらわれながらも、めげることなく話しかけ続けた。


 態度では殆ど何も変わった様子を見せなかったが、希薄だった感情は少しずつはっきりと伝わってくるようになっていった。


 今まで見たこともないくらいに澄んだ心の持ち主だった彼からは、性格こそ真逆だがどこかお父さんに似た温もりを感じる。悪態をつきながらも、一緒にいてくれる時間はどんどん長くなっていった。


 お母さんが何度目になるか分からない大きな怪我をして帰ってきた日。いつもは心配して絆創膏などを持って行く私だが、吸い込まれそうなほど真っ暗で、何も感じ取ることのできない双眸を見て恐怖の限界に達し、外に飛び出した。


 日が落ちかけているというのに、一向に暑さが引かない猛暑日だった。汗だくになりながら公園に駆け込み、前日に降っていた雨のせいで湿ったままのベンチに、気づくことなく座り込んだ。


 吹き出す汗とお尻に伝わる湿った感覚が気持ち悪い。


 感情がぐちゃぐちゃになり、恐怖と気持ち悪さでどうしようもなくなった私は泣き出してしまった。


「おい、どうしたんだよ。」


 先客がいたようで、うずくまっていた私が顔を上げると、そこにはいつもの彼がいた。


 涙と鼻水で滅茶苦茶になった私の顔を見ても、彼は笑ったりしなかった。


「ちょっと待ってろ。」


 彼が走って公園を出て行くと、既に真っ暗になった公園に私は一人取り残された。


 月も雲に隠れていて、何も見えない真っ暗な空がお母さんのあの目を思い出させる。再び私は顔を膝に埋めた。


「ほら、顔あげろ。」


 程なくして戻ってきた彼が、私の顔をウエットティッシュで拭き取った。


「鼻かんで、チーンできる?」


 あやすように私の顔を覗き込んでくる。


 子供扱いされていることが勘に障り、何か言い返してやろうと顔を上げると、目の前に大きな袋を突きつけられた。


「花火しようぜ。お小遣い全部引っ張り出してきた。」


 小学一年生だった私は、まだ一人で買い物などしたことがなかった。一人でコンビニに寄って、ウエットティッシュと花火を買ってきた彼に感心した。


「火つけるやつ持ってるの?」


「母さんのライター盗んできた。ロウソクも買ってきたし。」


 用意は完璧だったが、六歳程度だった彼の握力ではライターを扱うのは難しかったようだ。


 五分ほどライターと格闘していた彼は、両手を使って全力でライターのフリント部分を回してなんとかロウソクに火を付けることができた。


「ほら、花火もって。」


「うん。」


 一年ぶりの手持ち花火は、恐怖で追い詰められていた私の心を、鮮やかな輝きを持って明るく照らしてくれた。


 花火の輝きに当てられた彼の横顔がとても綺麗で、私の脳裏に焼き付いた。


 私の初恋は、今後数十年経っても色褪せることなく、鮮明に思い出すことができるのだろうと、幼いながらに予感していた。


 私達は夢中になって、色とりどりの花火を楽しんだ。気づけば線香花火のみが袋の中に残っている。はしゃぎすぎて手元が落ち着かず、線香花火はあっという間に残り二本となってしまった。


 最後の線香花火が二人とも同時に落ちたとき、初めて経験する感情の昂ぶりが抑えられず、気づけば彼を抱きしめてしまっていた。


「・・・。なんか恥ずかしいよ。」


彼が発した言葉を聞いて我に返った私は、途端に自分の行動が恥かしくなった。


 全身の血が頭に昇っていくようだ。真っ赤になった顔を見られたくなくて、両手で顔を覆い隠した。


「ごめん、なんか変な感じなの・・・。」


 この気持ちの正体がまだよく分かっていなかった私は、上手く弁解することも、表現することもできなかった。


 後処理など何も考えてもいなかった私達は、火を消すための水を用意するのを忘れてしまい、彼が踏み消した花火の残骸を地面に散乱させてしまっている。


 コンビニのレジ袋に花火の残骸を集めてゴミ箱に入れた後、小さくなったロウソクに残った火を見つめて、しばらく黙ったまま動かなかった。


 今すぐ逃げ出したい程恥ずかしいはずなのに、彼といるこの時間が終わって欲しくないと願う気持ちに気づいてしまったのだから、この場から動くことはできなかった。


「僕さ、何日かしたら引っ越すことになったんだ。」


 沈黙を破った彼が、私にとって考えたくもなかった事を報告をしてきた。 


「え、なんで?」


「もうお母さんと一緒に暮らせなくなるんだ。たまに会うおじさんのところで暮らすことになるからもうここにはいられない。」


 この公園に彼と二人でいるのが当たり前のことになっていた私は、今後また一人でいなければならなくなってしまう。


 一人ではない安心感を知ってしまい、今更元の状況に戻される事態になった事を告げられ、私は絶望的な気分になった。


「あはは、そんな悲し顔しないでよ。」


「だって・・・。」


「大丈夫、きっとまた会えるよ。」


 また泣きだしそうになっている私に、彼が優しく笑いかける。


「いつかここに帰ってくる?」


「うん、約束する。」


「私、君がここに帰ってきたら絶対見つけるから。いっぱい時間が過ぎてもちゃんと覚えてるから。」


「そっか、楽しみにしてる。そういえば僕ら名前も聞いてなかったね。」


「私、近衛ニイナっていうの。君は?」


「僕はハル。遠野ハルだよ。」




 私の過去の動画がSNS上に出回ってしまっていたときのこと。ハルに連れられて、彼のバイト先の喫茶店に向かった。


 レトロな雰囲気のある外装で、扉を開くと背の高い初老の男性がカウンターに佇んでいた。


 奥のテーブル席に案内され、軽く自己紹介を済ませると、一杯の珈琲が出てきた。苦いものは嫌いだったが、ちょうど良い具合に砂糖とミルクが入っており、とても飲みやすい。


 ハルのバイト先の店長らしき彼は島崎さんと言い、見た目の年齢以上に落ち着いた空気感の伝わってくる人だった。


 島崎さんがハルに一旦席を外してもらい、私のお母さんの事を話し始めた。


 島崎さんが勤めていた病院で、よく事故などによる怪我の治療をしてもらっていたお母さんは、あまりにもぼーっとしていたり不注意な行動が多く見られたため、精神科でも診察を受けることになった。


 当時担当医だった島崎さんは、お母さんを診断していくにつれ、他の人間よりも感情が欠損してしまっていることが分かってきたという。


 喜怒哀楽といった感情が理解できてはいても、恐らく自ら体感したことはほとんどなかったのだろうと告げられた。


「島崎さんって、人の感情が雰囲気で伝わって来る人ですよね。」


 話の途中で私は、島崎さんに問いかけた。


 いくら優秀な精神科医でも、完璧に表情を作るお母さんの感情の希薄さを見抜ける人なんているはずがない。


「ハルを見る目があんな風になるのも分かります。きっと私と同じで、島崎さんは一目見ただけで他人の感情が伝わって来るんですよね。」


 呆気にとられた表情をした彼は、自分の体質を隠し通すつもりでいたのだろう。


 焦った様子を見せたのも束の間、すぐに観念して私と向き合うように座り直した。


「何十年か生きてきて、この秘密を誰かに話すことなんてないんだと思っていた。そうか、君も伝わってしまう人なのか。可哀想に。」


「自分が可哀想なんて思ったことはありません。何度も辛い思いをしてきたのは確かですけど、おかげで素敵な人達とも出会うことができたんです。この体質にはむしろ感謝してます。」


「感謝しているか・・・。これから大人になって生きていく中で、今までよりもっと大きな悪意を見ることになる。私は怖がってしまって、素敵な人達との出会いも逃してきた。でも君ならこの体質を持っていることで自分も、周りの人も幸福にできるのかもしれないな。」


 彼の強面が少し緩んだ気がした。同情するような感情から、新しい発見をしてわくわくしている少年のような感情に変わっていく。


「ありがとうございます。話を遮ってしまって申し訳ないんですけど、お母さんの事、最後まで聞かせてもらえますか。」


「ああ、話し始めてからも本当に伝えて良いものか迷っていたんだが、きっと君なら乗り越えられると信じるよ。」


 島崎さんはお母さんに寄り添ったカウンセリングを続けていき、次第に彼女が考えていたことなどを話してもらえるようになっていた。


 初めは少しドジで、家族想いな母親という印象を与えていたようだが、それが上辺だけの仮面であると見抜かれたことで、お母さんは本性を現すようになったのだという。


「ねえ、島崎さん。全て思い通りに事を運べる人生って楽しいと思います?」


 これまでで一番大きな怪我をして入院していたお母さんが、様子を見に病室へ訪れた島崎さんに問いかける。窓際には、彼女の好きな月下美人の植木が置かれていた。


「今まで生きてきて、上手くいかない事ばかり経験してきた僕が思うに、たまに上手く事が運ぶからこそ楽しいと感じることができるのだと思いますね。まあ、あなたのような人がどう思っているかは分からないですがね。」


「私なんかが全て上手くいっているとお思いですか?とんでもないですよ。世の中には思い通りにならない人間もいるんです。私の夫の事なんですがね。」


「楽さんですか。彼はよくお見舞いにいらっしゃっていますよね。いい旦那さんじゃないですか。」


「そうですね、いい旦那です。でも彼だけは思い通りに行かないんですよ。芯の強さがもはや人間じゃありません。あ、あと島崎さんも予想外の人でした。こんなにも私の事を見透かしてくる人なんて初めてです。精神科医の方でも簡単に思い通りになってくれたので、貴方もそうなのかと思ってたんですが。」


 いつもはおしとやかだったお母さんが、この日は凄く饒舌だったという。何かを心待ちにしているような、興奮している感情が伝わってきたのだと。


「今日はかなり機嫌が良いようですが、嬉しいことでもありましたか。」


 島崎さんはこの日、十一歳くらいの女の子が自閉症のよる発作を起こしていたので、その対応に追われた後だった。激しい暴れようだったらしく、とてつもない疲労感に襲われていたという。


「すみません、少し喋りすぎていますね。今日の夜、この月下美人の花が咲くんです。分かりますか?部屋中に香るこの匂いが。お昼に比べて少しずつ、花が開いてきてるんですよ。」


 病室に入ったときに、確かに強烈な花の香りがした。疲労も相まって、思考がぼんやりとしてきていた。


「あと、この病院に通っているのかな。ニイナよりちょっと年上の女の子に会ったんですよ。可愛らしい子でしたね。今度ニイナが来てくれたときに、紹介できると良いんですけど。」


「南ちゃんのことでしょうか。少し前に発作を起こしていまして、落ち着かせてあげるのに時間が掛かってしまいました。あんな酷い発作を起こしたことは今までなかったのですが。」


 彼女の感情がより昂ぶった気がした。漂う香りもどんどん強くなってくる。


「そうだったんですね・・・。無神経にはしゃいじゃってすみません。」


「いえいえ、入院中に楽しみを見つけられることは良いことですから。」


「あの、島崎さん大丈夫ですか?顔色が良くないみたいですけど。」


「このくらい平気ですよ。一日中患者さんを看て、ヘトヘトになるなんてざらですから。むしろ元気をいただくこともありますし。」


 島崎さんは、珍しく感情を前面に出しているお母さんの話を、もう少し聞き出しておきたかったのだ。


「まだ話し足りないようでしたら、是非お付き合いしますよ。」


「良いんですか?私、島崎さんになら全部話してしまいたいっていつも思っていました。私の楽しかった瞬間を共有できる人って、今まで一人もいなかったから。こんなにも私の事を分かってくれる人になら打ち明けられます。元気が出る話かはちょっと分からないんですけど。」


「何でも話してみて下さい。時間の許す限りですが。」


 それからお母さんは、にこにこした表情を一切変えることなく、自分の親友だった中学の頃の同級生や高校の時の同級生、さらには大学の先輩までも自殺に追い込んだ事を明かしたのだ。


 一人目はただの好奇心だったという。「ありきたりな理由だったなあ」と、懐かしそうに話していたようだ。酷いいじめを受けていた子が、どんどん弱ってくのを側で見ているうちに、この子の親友で唯一の拠り所である私が「楽になっちゃえば」と言ったらどうするのだろうと、気になってしまったらしい。


 気づけば何の躊躇もなく彼女に伝えており、駅のホームから落ちる彼女を見て、生まれて初めて快感を覚えたのだという。


 世間から見れば異常だということも、絶対にやってはいけないことだということも分かってはいたのだが、もう後戻りができなかったのだ。


 彼女が高校生になったとき、同性愛者の同級生二人と同じクラスになった。白い目で見られる事の多かった二人の女の子の理解者となった彼女は、二人の関係は恥ずべき事ではない、むしろ受け入れられないクラスの皆が悪いのだと言った。


 自信のついた二人にもっとオープンになっていい。周りの男女のカップルと同じように堂々と振る舞えば良いのだと説き、二人の仲を更に深めるきっかけとなったのだ。


 今まで学校内では話してもいなかった二人は、お互いを更に求めるようになったことで、放課後の誰もいない教室で逢い引きをするようになった。


 それを知っていた彼女は、クラスの仲で一番同性愛者に理解を示そうとしない人と教室の前を通り、二人の様子を目撃させた。


 あっという間に学年中に噂の広まった彼女達は、居心地の悪い学校生活に耐えきれず、転校することになった。


 二人と唯一といえるほど仲が良かったのを良いことに、彼女は二人の転校先を先生から聞き出していた。表面上では人当たりが良く、友達も多かった彼女は、その転校先の学校にも噂を流していた。


 自分がやったと疑われる様な痕跡は残さず、より性格が悪く、偏見を持った生徒を中心に噂が流れるように仕向けたのだという。


 追い打ちをかけるように、二人のうち気の弱い方の子の自宅に、友達に書かせた一通の手紙を送った。『どこに行っても逃げられないからね。』と、一言書かせた手紙を送った一週間後、その子が自殺した事を当時の彼女の先生から告げられたそうだ。程なくして、もう一人も後を追うように命を絶ったことも。


 その後はしばらく大人しくしていたようだが、大学生になったときに運命的な出会いを果たしたのだという。


 近衛楽、私のお父さんとの出会いだった。


 お母さんが一年生の頃に所属していたサークルの副幹事だった彼は、お母さんに一目惚れしたのだ。


 初めは丁寧に断っていた彼女だったが、めげずに何度もアタックしてきた彼に、かなり酷い拒絶を示したこともあった。


 彼はお母さんに対して最大限配慮をして、全く不快な迫り方はしてこなかったらしいのだが、絵に描いたような底抜けに明るい性格で人気者の彼が、どこまでその人格を保っていられるか試したかったらしい。


 思わせぶりな態度をして見せたり、急に突き放したりと彼に揺さぶりをかけていたのだが、彼は一貫して明るく、屈託のない笑みを絶やすことはなかった。


 そんなことを続けていると、二人の様子を窺っていたお父さんの一つ上先輩が、お母さんに接近してきたという。お父さんと同じサークルに所属していたようで、交際していた時期もあったようだ。


 別れてからも彼の事を好いていたらしく、煮え切らない態度をとり続けているお母さんに腹を立てていたのだ。


 かなり感情的になっていた先輩はきつい言い方になってしまい、激しい口論になったという。お母さんはその場では折れて、自分が悪かったと認めていたのだが、先輩が就職する時期になると、その時に録音していた口論の様子を、彼女の口の悪い部分だけ切り抜いて企業に送りつけた。


 結果は内定取り消し。それだけでは飽き足らず、SNSにも録音した音声と個人情報を同時にアップしていた。


 先輩は夢も周りからの信用も失い、途絶えることなく続く誹謗中傷に耐えかねて失踪していた。警察の懸命な捜査もむなしく、七年後には死亡したとされたのだ。


 仲の良かった先輩もいなくなり、お父さんの精神もかなり削がれただろうと浮かれていたお母さんだったが、思惑とは裏腹に、かなり減衰していたはずの彼は、数日後には今まで通りに大学に来ていた。


 ここまで思い通りにならない人物は初めてで、悔しいという感情が芽生えたのだという。


 そこで彼女は、彼からのアプローチに応え、生涯を共にする仲となれば、いつかは彼を思うままに動かせるようになると考えていたのだ。


「そこからはまだ、『遂行途中なので秘密です』といって話してくれなかったんだ。」


 全身の力が抜けてしまっていた。心のどこかでは気づいていたはずなのに、いざ真実を語られると、到底受け入れられるような内容ではなかった。


「今思えば、あれだけ事故に遭っていたのも自分を楽さんにとってかけがえのない存在だと認識させて、最骨頂に達したときに自分がいなくなる。そしてDNAの偽装と意味深なビデオテープを使って完全に彼を追い詰める計画だったんだろう。正気の沙汰とは思えないがね。」


 お母さんに対する怒りと恐怖、理解不能な思考に対して頭の整理が追いつかない。


 しかし、全てを明かされた今になっても、私に向けられていた笑顔、ほんの一瞬でも見せてくれた確かな愛情。たったそれだけのぼんやりとした記憶が、お母さんを拒絶しようとする感情とせめぎ合っていた。


「ただ、咲さんが君に対して全く愛情がなかったかと言われれば、それは違うと思う。何度も彼女が命を絶つことに失敗したのは、君の存在が大きかったんだ。娘の話をしているときは、母親から滲み出る感情が確かに感じられたよ。」


 私の内心を知ってか知らずか、一縷の希望となる言葉をかけてくれた。


 そんなこと、直接お母さんから目一杯の感情として伝えて欲しかった。


 


『この花はね、スターチスって言うんだよ。』


『すたーちす?』


『そう、ニイナはこの花が好きなんだ。』


『うん、雲みたいにふわふわしててとってもかわいい!一番すきなお花!』


『ふふ、きっとニイナは素敵な思い出をいつまでも大切にできるんでしょうね。』


『そうなの?』


『スターチスには途絶えぬ記憶っていう花言葉があるの。この花が一番好きなニイナは、きっと花の方からも好かれているんだと思うから。』


『思い出って、お母さんとの?』


『そうね、大きくなっても覚えていてくれたら嬉しいな。』


『絶対覚えてる!』


『そっか、ありがとう・・・。ニイナはこれからもっと沢山の人と大切な思い出ができるの。皆が忘れてしまっても、貴方が思い出させてあげて。嬉しい、楽しいっていう感情を一緒に感じることは素敵なことなんだと思うから。』


 


 一度だけ、お母さんとあの公園に行ったことがあった。一番奥底にある、忘れてはいけない記憶。確かにお母さんからの愛情を感じられた日の、大切な記憶。


 これほど酷いことをしてきて、決して許してはならない存在であった彼女でも、唯一の私のお母さんなのだ。


「母のしてきたことは到底許されることではないし、できることならそんな人を母だと認めたくありません。」


 お父さんを追い込んだのも、私が世界中の晒し者にされているのも、元をたどれば全てお母さんのせいなのだ。


「でも、どうしようもなく大好きなんです。今更お母さんを嫌いになるなんてとてもできません・・・。だから、ちゃんと受け止めて生きていきます。彼女がしてきたことも、確かに愛情を注いでくれたことも。」


 島崎さんは私の気持ちを汲んでくれたようで、深く頷いた。


「前向きな結論を出してくれたようで安心したよ。これから何か困ったことがあれば、どんなことでも言ってきて欲しい。今日は君から学ぶことの方が多くあったが、私の経験が力になれるときはいつでも助けになるよ。」


「ありがとうございます。自分と同じ境遇の人がいるってだけで、凄く心強いです。この


先迷うことがあったら、相談しに行かせてもらいますね。」


 もうお母さんの事で迷ったり、目を背けたりすることは無いだろう。


 過去の出来事は全て大切な記憶として、途絶えさせること無く私に刻み込んでいくのだ。


 島崎さんにお礼を言って席を立とうとしたとき、私のお腹の虫がものすごい音を立てた。


「おや、長話で疲れてしまっているみたいだね。何か作って来るからもう少しゆっくりしておいで。」


「あ、なんかすみません・・・。」


 こんな時でもお構いなしの自分の体に嫌気がさした。ほとんど爆発音だったじゃないか。


 ハル達から聞いていたのか、明らかに一人前の量ではないオムライスが出てきた。


 空腹の欲求には抗えず、恥ずかしげもなくあっという間に食べ尽くしてしまう。私の食べっぷりを見て、島崎さんも満足そうだった。


「ごちそうさまでした。人生で食べたオムライスの中で一番美味しかったです。」


「それは良かった。今度食べに来てくれるのを楽しみにしているよ。」


 私は少し返事に困ったが、「是非食べに来ます!」といって喫茶店を出ることにした。


「ニイナさん、ハル君とはこれからどうするつもりなんだ。」


 扉に手をかけたとき、島崎さんが私を呼び止めた。彼の言いたいことはよく分かっている。


「・・・お互いの為になる選択をしようと思います。ハルならきっと大丈夫だと、信じていますから。」


 島崎さんの方を振り返り、精一杯の笑顔を作って見せた。その無理のある笑顔は島崎さんに向けたものではないと、自分でも分かっている。


「君はやはり強い子だな。」


 彼の言葉を受け取って、私は喫茶店を後にした。




 *




 春休みが明け、新入生と思わしき学生達がキャンパス内を闊歩している。サークルや部活動の勧誘で熱狂しているエリアを通るのが億劫で、講義がある教室まで回り道をして向かった。


 結局あの公園でニイナと偶然鉢合わせた日から、今日まで一度も彼女と会っていない。教室が同じ講義の時でも目も合わせることもしなくなり、三年生になってからは大学内で彼女を見かけることすら無くなっていた。


 優秀なニイナのことだ。既に必要な単位数の大半を習得できており、僕のように毎日大学に出向かなくてもいいのだろう。


「ういっす、ハルさん遅いじゃ無いですか。」


「いやー、サークルの勧誘が鬱陶しくてさ。遠回りしてきたんだよ。」


 去年取りこぼした必修の科目を、和葉と一緒に受けるようになっていた。


 先に教室の前で待っていた彼女に、申し訳なく思っている素振りで対応する。


「うわ、大分根暗な思考っすね。そんなことで女の子待たせますか普通。」


「講義には間に合ったんだから良いじゃん。」


 彼女が鋭い目で僕を睨む。早めに来ないと前の方しか席が空いていないので、十分前には待ち合わせようと提案したのは僕の方だったと思い出した。


 案の定後方の席は、意欲のない学生達で埋め尽くされている。


「ごめん、席空いてなかったね。今度の飲み会奢るから許してね。」


「まあ良いでしょう。次回からは早く来て下さい。」


 去年からのバイト代が貯まっていた僕には金銭面に余裕がある。ここを穏便に済ませられるのなら安い出費だ。


 情けなくも、毎度のように和葉に講義の分からない部分を教えてもらっているため、何とか留年する事態は避けられそうである。


 文句を言いながらも課題を写させてくれて、テスト前も勉強に付き合ってくれる彼女には純粋に感謝している。後輩におんぶに抱っこされている状態が宜しくないことは重々承知だったが、僕にはもう後が無いのだ。


「ハルさん。祥吾さんの予定聞けました?」


「早めにインターンを詰め込んでるから今週は厳しいんだって。空いてる土日も久しぶりに南さんとデートがしたいとかで、来れそうにないんだろうな。」


「じゃあ今週は二人で飲みに行けますね!私、行ってみたい候補がいくつかあるすよ。」


 講義の後、学食で昼食を取っている時に和葉が楽しそうな表情でいくつかの行き先を提案してくる。


 正直どこでも良かった僕は、適当に彼女の好きそうな店を選んでおいた。僕なんかに気を遣って、様々なジャンルの店を把握して来なくても良いのにと思ったが、それは決して口にしない。


 今年に入ってから僕の周りの人間関係は少し変化していた。


 ぐいぐい話しかけてくる和葉が気づけば一番近しい人間になっており、祥吾とよく三人で出かけるようになった。そのうち彼女と二人でもよく会うようになり、別に嫌な気はしないので、彼女からの誘いがあれば行くようにしている。


 彼女から向けられる好意にはそれとなく感づいていたが、僕は彼女と特別な関係になろうという気はなく、惰性で何となく一緒にいるだけだった。


 ニイナが自分の生活からいなくなってしまった穴埋めに和葉を使っているだけなのかもしれないと考えることもある。


 しかし、どれだけ彼女と過ごしていても、深く根付いた孤独感は拭えなかった。


「そうだ、この間会った南さんとデートしてきました。四人で飲みに行ったときから意気投合しちゃって、プリクラまで撮ってきたんすよ。」


「和葉と南さんは気が合うだろうね。いつか会わせてみたいよなって、祥吾と話してた。」


「あんなかわいい見た目して、内面はかっこいいんだから反則っすよ。あー、何で祥吾さんなんかと付き合ってるんだろ。勿体ないなあ。」


 その言い様は些か失礼ではないだろうか。いや、和葉に対しても普段の私生活のだらしなさを露呈してしまっている祥吾の落ち度だな。


 もうインターン生になったというのに、未だに夕方からの友人との予定にも遅れてくる。彼に社会人など務まるのだろうか。南さんも彼の将来が不安で仕方ないだろう。


「今日はハルさん予定あるんですか?」


「今日はバイトの日。食べ終わったらすぐ帰るよ。」


「そっかー。じゃあ、次は飲み行くときっすね。」


 バイトがあるなど嘘である。


 唐突に彼女が誘ってくることはよくあり、特に断る理由も無いときにはだいたい応じている。ただ、今日は何となく気乗りしなかった。去年のちょうどこの時期に、ニイナと出会ったことを思い出したから。


 そういえば、この食堂にもよく二人で来ていた。向かい側に座っている和葉に、一瞬彼女の面影が宿る。


 ニイナとの記憶に和葉が重なるのが不快で仕方ない。


 昼食を終え、早々と和葉と別れて帰宅する。部屋の中に残っている和葉の痕跡に、無性に腹が立つ。


 台所に並ぶマグカップ、肌触りの良い玄関マット、一枚扉のガラス窓から覗いている部屋の雰囲気に合わないビーズソファ。数ヶ月前までは無かったものが、えらく邪魔なものに感じる。


 今までこんな理不尽な怒りを覚えたことがあっただろうか。


 うがいをするために洗面台に立っていた僕は、二本置かれた歯ブラシのうち一本をゴミ箱に投げ捨てた。


 


 和葉の誘いも断ることが多くなった僕は、去年よりも圧倒的に一人でいる時間が多くなった。


 バイト代もそもそも使う機会が無く、貯まっていく一方だった。虚しくなり、毎月のシフト希望には一日や二日しか書いていない。


 就活を始めなければと思い、登録したサイトでインターン探したが、自分が働いていけけそうな企業すら見つからない。


 惰性で日々を過ごしているとあっという間に三年生の前期が終わろうとしていた。


 散々だった最後の期末テストが終わった日の午後、適当に選んだ会社のインターンの選考が控えていたので、散髪に出向いた。


 清潔感が全く感じられない程伸びきっており、流石に整えておかないと先方にマイナスな印象を与えてしまう。


 家から徒歩で十五分はかかるいきつけの美容室に出向くのも面倒だったので、大学の近くで妥協することにした。


 店内に入ると、思ったより人気の美容室だった事が分かり、自分のいい加減な格好が変に注目されている。


 案内された席に座ると、見覚えのある顔が隣にあった。


「うっわ、お前髪伸びすぎだろ。久々に会ったと思ったら路線変更してんじゃん。」


 以前までなら気分の良かった祥吾との会話も全く僕の感情を晴らしてくれず、むしろ鬱陶しいとまで感じる様になってしまっていた。


「別に前も何かの路線目指してた訳じゃねーよ。」


 心情を悟られないように、これまで通りの僕を演じる。仮にも親友だと言ってくれた彼に失礼な態度は見せたくない。


「なんか売れねーバンドマンみてえ。ここの美容室行きつけだったのか?」


「いや、初めて来た。」


「そりゃそうか、今まで見たことねえし。ここ友達が働いててさ、俺から割り引いてもらえるようにいとくぜ。カットモデルとかやってて結構仲良くなったんだ。」


 奥で会話を聞いていた祥吾の友人らしい銀髪の青年がウインクした。軽く会釈をして感謝の意を伝えておく。


「今日この近くの居酒屋いこうぜ。最近お前と飲み行ったりできてなかったからなあ。」


「んー、今日はちょっと・・・。」


「どうせなにもないんだろ?和葉ちゃんの誘いも断ってるみたいだし。何かあるなら聞かせろよ。」


 そう言って彼は、お互いのカットが終わると半ば強制的に僕を居酒屋に連行していった。


 まだ明るい時間帯の店内には客がほとんどおらず、スピーカーから流れるBGMだけが聞こえてくる。


 ニイナと出会う前は、よく彼と早い時間から飲みに行ったものだ。


「去年の初めに戻った気分だな。」


「あんときはよくハルに相談に乗ってもらってたんだよなあ。」


 懐かしそうな祥吾の様子を見て、今日は少しだけ誘いに乗って良かったと思えた。疎遠気味になっていても、仲の良かった事実は変わらない。


 僕はしょうもないやりとりを彼と交わしている時間が気に入っていたのだ。


 これまで通りの会話がしばらく続き、久しぶりにアルコールが進む。


「ところでよ、和葉ちゃんと最近ケンカしてんのは何でなのよ。」


 気分の良くなった祥吾が顔を真っ赤にしている。自分のキャパシティは分かっているはずなのだが、調子に乗って飲み過ぎているようだ。


「ケンカしてるとかじゃないよ。なんていうかな。ちょっと人と関わるのがしんどくて。」


 僕も普段絶対言わないようなことを口走ってしまっている。言ってしまってから気づいた僕は、少しでも酔いを覚まそうと店員にお冷やを頼んだ。


「あーね。そういう時期あるよな。」


「祥吾でもあんの?」


「全然あるわ。てか、生涯ずっと人といるのが楽しいって人なんていねえだろ。」


「まあ確かに。」


 正直彼は、四六時中誰かといないと落ち着かない人なんだと思っていた。まともな感性を持っていたことに安堵する。


「そーゆー時期って事は何か悩みでもあるんだろ?やっぱり、ニイナちゃんのことか?」


 祥吾の口から、ニイナの名前が出てくるのを久々に聞いた。


 毎日のように考えていたはずなのに、他人から彼女の存在を示す言葉が出ると、いっそう自分の中でその存在感が大きくなっていくのが分かる。


 酔いも相まって、耐えきれなくなった僕は遂に吐き出してしまった。


「そうだな、ニイナの事が大きいかも知れない。祥吾には話といてもいいかもな。後、少し協力して欲しいことがあるんだ。」


 


 ずっと引っかかっていた。「ハルのためにならない」というあの言葉。


 一種の呪いのように僕の心を蝕み続けている彼女の言葉。


 島崎さんの元部下だったというあの喫茶店の店主は、ニイナの母親である咲さんに、反社会性パーソナッリティの傾向がはっきりと見られると言っていた。遺伝によって発祥する可能性が高いことも示唆されているらしい。


 かつて咲さんが楽さんに実行したことを、ニイナも模倣しようとしているのではないかと僕の中で仮説を立てていた。


 やけに人の感情を読み取ることに長けている事も、僕に対する急激な態度の変化も、彼女の全ての言動が、咲さんの犯した過去の事象と類似している。


 散々自らに依存させておいて、対象の人物が最高潮にその存在を必要としたタイミングで姿を消す。


 僕はニイナの思惑に見事にはまってしまったのだ。


 裏切られたのだ。あんなにも彼女のことを想っていたのに。


 それでも、ニイナが僕に向けてくれた感情の全てが、計画のための虚構だったとは考えられない。


 きっと彼女自身にも葛藤があったはずなのだ。でなければわざわざ、僕の身を案じるような発言はしない。僕のためにならないと、そう言ってくれた彼女なら、きっとまた僕の元に還ってきてくれる。


 そう信じることにした。




 祥吾はみくちゃんにちゃんと警告できただろうか。ニイナがターゲットにする可能性のある人物は、何も僕だけとは限らない。


 ニイナを貶めたみくちゃんが一番狙われやすいと踏んでいた。普通あそこまで自分を追い込んだ人間と、毎日のように行動を共にするなどきっと裏がある。


 彼女を止めることができるのは僕だけなのだ。


 彼女の周りにいる人間の中でも、特に近しい関係に絞って警告した。僕と直接関わりのない人でも、既にインスタで?がっていたり、ニイナのプロフィールから見つけたりと、順調に進められた。


『一応みくちゃんに聞いといたぞ。ニイナちゃんに変わった様子が無いか』


 閉め切った薄暗い部屋の中で、祥吾からの連絡を受け取ったスマホの画面が淡く光る。


『ありがとう』と返事を返してスマホを閉じると、またすぐに彼からメッセージが届いた。


『なあ、ホントにニイナちゃんがあんなことしようとしているのか?何か信じられないっつーか』


『いや、ハルを信じない訳じゃねえよ。あの子の一番近くにいたのはお前だし、細かい事情までは俺わかんねえから』


 二件のメッセージだけが、ラインのトーク履歴に未読を表す緑色のランプを灯している。


『大丈夫。これがきっと僕たちの最善の選択だと思うから』


 これ以上ラインには目を通さなかった。


 この確信は、当事者である僕達にしか分からない。


 もうすぐニイナは、かつての様に僕を見てくれるようになる。




『土曜日の十八時に公園の前にきて』


 いつぶりだろうか、彼女から連絡が届くのは。


 花火大会に行った時から、もう一年が経とうとしている。僕はしばらく忘れていた高揚感で満たされた。


『わかった』


 たったそれだけの文字を打つのにかなりの時間を要してしまった。


 文面上とはいえ、久しぶりの彼女との会話に戸惑っているのだ。『どうかしたの?』、『何かあったの?』など聞こうとも考えたが、何となく彼女が僕を呼び出した理由は分かっていた。


 きっと、僕らに余計な言葉は不要なのだ。


 通じ合えているような心地良さを抱き、彼女との再会の時を待つ。余計な物を捨て去った室内の空気はやけに澄んでいた。


 


 僕らが公園の前についたのはほぼ同時だった。


 紫色の掛かった空が、明日の天候を予見している。しぶとく生き残っていた蝉達の鳴き声ももう聞こえない。


 戸惑っているような表情をしていたニイナが、引きつった笑顔を貼り付けた。


「久しぶりだね、元気にしてた?」


「まあぼちぼちって感じ。ニイナの方から急に呼び出すなんて何かあったの?」


「・・・ハルは分かっててここに来てるんじゃ無いの?」


 彼女の声が震えている。悲しみと怒りが混濁した声色だった。


「何のことかよく分からないけど。困ったことでもあったの?いつでも僕が力になるよ。ニイナのためなら。」


 彼女の感情の行き先が僕自身に向いていることなど考えようともしていなかった僕は、彼女に自分の元に戻ってきて欲しいという一心で喋っていた。


「そっか、私のため、ね。そうやって今までも正当化して、気づかないふりをしてきたんでしょう。」


「ホントにどういうこと?ニイナの言ってることがよく分からないよ。」


「そうだね。じゃあもうそのまんまで良いと思うよ。時間の無駄だった。」


 そう言ってニイナは身を翻して来た道を歩き出した。


「え、ちょっと待ってよ!」


 彼女の手を掴んで引き止める。彼女自身の口からはっきりとした気持ちを伝えられず、あやふやになったまま別れを告げられるのはもうこりごりなのだ。


「ニイナはこうやって僕から急に離れてどういうつもりなの?何か気に障るような言動をしてしまったのなら謝るよ。」


「・・・分かってるくせに。そういう事じゃ無いでしょ。」


 明らかに僕を敵視するような目で睨み付けてくる。明確な事は何も言ってくれないのに、自分の感情ばかり押しつけてくる彼女に、少し苛立ちを覚えた。


「去年の冬に、島崎さんの元部下だったって言う人にたまたま会ったんだ。その人からニイナのお母さんの事を聞いたよ。」


「うそ、全部聞いたの・・・?」


「全部聞いた。咲きさんがどんなことをしてきたのか。楽さんを追い込んだのも咲きさんだったんだって。あのビデオテープを見たときに引っかかっていた違和感が綺麗に無くなったよ。最後の『待ってるから』って言葉の意味があんなに恐ろしい意味を持っていたなんてね。」


 ニイナの顔が真っ青になる。


 その一方で、僕の口からは彼女を窘めるような言葉が止めどなく溢れていた。


「ニイナが僕から離れたのだって咲さんと同じ理由なんだろ?理由と言うよりも衝動か。一旦は僕に身を委ねておいて、これ以上無いって程お互いの関係が深まったところで自分から去って行く。やってることが全く同じじゃ無いか。周りの人間も同じように貶めようとしているのだって分かってるんだよ。みくちゃんを許してるのだって、罪悪感を煽るための行為としか思えない。」


 僕が捲し立てるように喋っている間、ニイナは下を向いて黙ったままだった。


「反社会性パーソナリティの傾向が強いって、島崎さんの元にいたあの人も言ってた。遺伝によって引き起こされる可能性が高いって事も。」


 彼女の握られた拳が小刻みに震えている。未だに下を向いたままで、表情が読み取れない。


「でも僕は・・・それでもニイナの力になりたい。ニイナが一人になってしまっても僕だけは見捨てないから。その危険な衝動と、一緒に戦っていこうよ!」


「・・・いい加減にしろよ。」


「え・・・。」


「どれだけ自分を正当化してるんだよ。私がお母さんと同じだって?ハルにとって都合の良い妄想でしか無い。」


「僕にとって都合が良いだなんて・・・。そんなわけないだろ。何のメリットがあるんだよ。」


「私を孤立させて自分の元に置いておきたいって言うあんたの望みを叶えるにはうってつけの妄想じゃん。」


 彼女の言葉を、僕の脳が受け付けない。言っている事の意味が分からなかった。


「もう分かってるんだよ。今回私の友達にお母さんの事とか私が同じようなことをしようとしてるとかを捨て垢で言いふらしてるのがハルだって。去年修正されてないあの動画をみくちゃんに送ったのだってハルだったじゃない。」


「何を根拠に言ってんだよ。僕がそんなことするわけないだろ!」


「ハルが私の家に来たとき、私にスマホの画面がずっと見えないようにしてたよね。テーブルにもわざわざ裏返して置いて、それ以外はずっとポケットの中。ハルが寝ている間に画面を見たの。去年動画を広めていたアカウントで通知が表示されてた。」


 ニイナが僕のスマホの画面を撮った写真を見せてきた。僕の思考が完全に止まる。


「私ね、こんなことされてもハルと一緒にいる時間が好きだったの。大学で初めて会ったときに、確かにあの頃と変わらない感覚がハルから伝わってきたから。」


 ますます何を言っているのか分からなくなってくる。


 あの頃?一体いつの記憶だろう。


「でも変わってしまったところもあった。見たことも無いくらい、濁った感情も同時に伝わってきた。」


 僕の事を言っているのだろうか、突拍子も無い話を彼女はしているはずなのに、やけに真に迫った感覚を掴まされる。


 奥底にしまっていた記憶が呼び覚まされそうになって、彼女の言葉がぼんやりとしか聞き取れない。


 ぐちゃぐちゃになった思考の中で、彼女の放ったその言葉だけが反芻する。




 ちゃんと生きなよ。逃げないで。




 ずっと目を背け続けていた過去を思い出したとき、夢から覚めようとしていた。




 どうして忘れていたのだろう。


 あの日、公園で同じ年くらいの泣き虫の女の子と交わした約束。


 僕はこの町に帰ってきた。そして彼女はちゃんと見つけてくれた。


 母から受けた肉体的、精神的苦痛を癒やしてくれた彼女を、子供ながらに恋慕していた。


 母が再婚してからは僕に対する虐待は止まり、端から見ればどこにでもいるような世話焼きの母親となった。母にとって、僕への唯一の愛情表現だったとすら感じていた行為が無くなり、もうこの人は自分を守るために僕を利用しなくて良くなったんだと、安堵したものだ。


 それに気づいたときから僕は、目覚めてはいけなかった衝動に囚われることになる。


 その衝動の矛先を、ニイナに向けてしまった。


 知っていてなお僕を気にかけ、一緒にいたいと思ってくれていたニイナを衝動に駆られるまま傷つけてしまった。


 取り返しのつかないことをしてしまったのは十分に分かっている。それでも、もう一度彼女に会えるなら、また側にいたいなんて言わない。ただ、僕の本心を彼女に伝えたい。






 真っ白な天井を見上げていた。


 目尻からこぼれた涙が耳を伝っていく。重い体を起こして辺りを見渡すと、どうやら病室にいるようだった。


 そうか、僕はあの公園で眠ってしまっていたのか。連日猛暑日が続く今夏、気温も日差しも異常なほど暑い。脱水症状にでもなってしまったのだろう。


 ベッドの横には見舞いの花が置かれている。これはスターチスだろうか。何度もあの公園で見たその花は、先程まで見ていた夢をより鮮明に思い起こさせる。


 程なくして看護師の人が様子を見にやってきて、検査されることになった。重度の熱中症になっていたようで、あのまま誰にも見つけられずに放置されていた場合、命の危険もあったという。


 病院まで送り届けてくれた人にお礼がしたかったが、名乗ることも無く姿を消してしまったそうだ。


 特に異常も見られなかったため、すぐに自宅に戻れることになった。念のため翌日の仕事は休む様に言われたので、何も無い休日が一日延びることになる。


 明日も焦燥感に苛まれることになるのかと億劫になっていると、スマホに着信が入った。母からだ。


『ハル?病院から倒れたって連絡が来たけど大丈夫なの?』


『大丈夫だよ、母さん。明後日には仕事にも行けると思う。じゃあね。』


『あ、ちょっと待って。明日様子を見に行くからお家にいてくれる?お昼頃にはつくと思うから。』


『来なくて良いよ。もうなんともないから。』


 そう言ってすぐに電話を切った。大学生になったときから定期的に母から電話が掛かってくるようになった。


 僕は正直うんざりしていた。母の元から離れても、未だに束縛感がついて回る。


 あの人は僕を自分の承認欲求を満たすための道具にしていたのだ。体の弱い息子を一人で育てる可哀想な人。母は周りからそんな印象を持たれていたと思うし、彼女自身、そう思われることを望んでいた。


 僕が中学生になった頃、代理ミュンヒハウゼン症候群だと診断された母は病院に行く時間が多くなり、必然的に僕に構う時間も少なくなっていった。


 病院に通うなかで今の再婚相手に出会い、症状はかなり改善された。


 僕を必要としなくなった今、一応母親だからしょうがなく僕に連絡をしているのだろう。決まって僕が実家から出た日にちに電話が掛かってくる。


 今でも再婚相手に自分は良い母親であると認識してもらうために僕を利用しているのかも知れない。


 翌日母は、午前中に僕のマンションを訪ねてきた。煌びやかなネイルをして、ブランド物の洋服を纏っている。


 僕が子供の頃に見ていただらしない母の姿はもう微塵もない。


「ハル、体調はもう良いの?酷い熱中症だっていてたけど。」


「来なくて良いって言ったのに何で来たんだよ。」


「そりゃあ息子が倒れたとなったらいつでも駆けつけるわよ。経口補水液とかいっぱい持ってきたから飲みなさいね。」


 母は半ば強引に入ってきて、あまり掃除がされてない僕の部屋を片付け始めた。


「良いってそんなことしなくて。」


「まだ安静にしてた方が良いんでしょ?座って休んでていいから。」


 つくづく思っていたことだが、僕が子供の頃にあれほどの仕打ちをしておいてよくもまあここまで母親面ができるものだ。


 今でも残っている手の甲の傷に、やけに意識がいく。


「ハルと会うのは大学の入学式以来だねえ。一回もこっちに帰って来なかったし、卒業式の日も来なくて良いって言ってたし。・・・まあ、会いたくないのも分かるんだけど。」


 分かっているのなら来ないで欲しい。いつまで僕を縛り付けるつもりなのだろう。


「でもね、あの頃ハルに酷いことした分、今度はちゃんとしたいの。ハルの助けになるなら何でもしようって。」


「じゃあ早く帰ってくれよ。そんなこと言ってるけど、どうせあの人に良い母親してるとこ見せたいだけなんだろ。いつまでも僕を利用しないでくれ。」


「祐二さんの事は関係ないわ!私は自分の意思でハルのためになることがしたくて来てるの。利用しようだなんて思ったことは一度も無い!」


「わかった。今日はもう帰ってくれないかな。まだ病み上がりで冷静じゃないみたいだ。」


 荷物を玄関先まで運んで、母を無理矢理追い出した。


 しばらくドアを叩く音と何か訴えかける声が聞こえたが、僕は聞く耳を持たなかった。


 リビングに?がる廊下に座り込んで、耳を塞ぐ。しばらくすると外からは何も聞こえなくなった。


 ようやく諦めたかと両手を耳から離すと、「ごめんね」という一言が微かに聞こえた。


 


 大学四年になっていた和葉に就活の相談があると言って呼び出された。


 かつてニイナ達とよく行っていた居酒屋を指定してきたので、祥吾も呼んでいるんじゃないかと少し身構えたが、店に着いたときは和葉しかいなかった。


「お、ハルさん久しぶりっすねえ。」


「就活の相談がしたいって言ってたのに何でもう飲んじゃってるのかな。」


「いやあ、なんか緊張しちゃって。」


 相変わらずお酒が入るとすぐに顔を真っ赤にする彼女を見て思わずはにかんだ。


 カウンター席の奥の二席を取っていたようで、一番奥を開けてくれている。僕はハイボールを注文し、ネクタイを少し緩めた。


「それで、就活上手くいってないの?」


「上手くいってないというか、今内定もらえそうな所でやっていけるのかなっていう不安があるんすよ。」


「この時期は僕なんか内定でそうなところ一社しかなかったよ。そこも大分怪しかったけど。」


「そういえばそうでしたね。相談相手間違えたか。」


「うん。間違ってるだろうね。じゃあこれにて。」


「冗談すよう。ハルさんめっちゃホワイトな企業で働いてるしあんまストレス無いって言ってたじゃないっすか。そんな感じで自分が納得できる職場がどんなとこなのか知りたいんすよ。」


「んー難しい質問だな。和葉ならどこでも上手くやって行けそうだけど。やりたい仕事かは探せてないの?」


「やりたい仕事かあ。あるっちゃあるんすけど。ちょっと難易度高いといいますか。」


「言ってみてよ。」


「・・・CAやってみたいんすよね。なんかキラキラした職業がいいっていうふわっとした動機もあるんすけど、それ以上にお客さんに快適な空間を作ってあげたいとか、海外の知識とか取り入れたりしたいって考えてるんす。」


「おー、ちゃんと考えてるじゃん。てか向いてると思うよ。人に寄り添う仕事。」


 僕が大学三年生だった頃、和葉にはよく助けられた。


 ニイナとの一件があった後、誰とも関わる気が起きず、ずっと感情が沈んだ状態だった。そこから無理矢理引っ張り上げてくれたのが彼女だったのだ。


 授業にも出ておらず、留年ギリギリだった僕を電話で起こしてくれたり、テストで出そうな所を毎回教えてくれたりしていた。


 僕がどんなに迷惑をかけても決して見捨てず、寄り添ってくれたのだ。


「学生の時はホントに和葉に助けられたなあ。あのまま誰も手を差し伸べてくれなかったら今頃どうしてたか。」


「いいんすよ、そんなの私が勝手にしてたことだし。あの時はその・・・バレてたかもしんないすけどハルさんが気になってたし。」


「それは嬉しいこと聞いたな。でもすぐに幻滅したでしょ。こんな情けない男。」


 いつの間にか飲み干していたハイボールのグラスを片づけてもらい、二杯目を注文する。


 いつもより飲むペースが早いのは、和葉の気持ちには気づいていたとはいえ、いざ面と向かって言われると小っ恥ずかしくなったからだろうか。


「まあ典型的なダメダメ男になってましたね。あんなに無気力になってた原因は結局話してくれなかったすけど、何となく想像はつきます。」


「確かにあからさまだったかな。」


「急に家に入れてくれなくなるし、無理矢理行ってみれば私の私物捨ててるし。バレバレっすよ。」


「いやあ、ホントに申し訳なかった。拗らせすぎだなまったく。恥ずかしい限りだよ。」


 和葉にとっては大切な物もあっただろうに、怒るどころか僕のことを心配してくれた。いつか恩返しができればと思っているのだが、僕なんかが彼女のためにできることなど無いような気がする。


「それでも何だか惹かれるんですよ。ハルさんって自分が気づいていないだけですっごい優しいとこあると思うし、本来の自分を押し殺しちゃってるだけだと思うんすよ。何か上手く言えないすけど。」


「そんなこと・・・。」


「今だって私はハルさんの事・・・。ハルさんが良かったらなんですけど、これからも一緒にいて欲しいっす。ずっと。」


「お酒の勢いでそんなこと言っちゃ駄目なんだよ。」


「しらふっす。私は本気で言ってます。」


 今まで気づいていないふりをして、ないがしろにしてきた彼女の本心が直接ぶつかってくる。


 彼女が今まで僕に尽くしてくれた恩返しをするなら今が好機なのかも知れない。ただそれはきっと・・・。


「気持ちはすっごく嬉しいんだけど、僕なんかといても和葉の為にならないよ。」


 彼女の気持ちに応えることができないのは、自分本位の身勝手な衝動を抑えられない幼稚さが僕にあるからだ。ニイナを傷つけ、友人達を利用していた僕が誰の側にいる資格があるのだろう。


「そっか・・・振られちゃったかあ。」


 沈黙を破った和葉の声は震えている。


 僕はまた和葉を傷つけることしかできなかったのだ。ただこの選択は間違いなく彼女にとって最善で、これから彼女が育んでいくだろう幸福な人生を台無しにしない選択になるはずなのだ。


「分かってたんですけどね。今でもハルさんはあの人を向いているんだって。」


「あの人って、なんで和葉が分かるの?」


「ああ、ニイナさんですよね。ハルさんが内定決まってバイト辞めた後だったかな。凄く綺麗で可愛らしい人がよく喫茶店に来るようになったんすよ。私はあんまり話せなかったんすけど、よく島崎さんと喋ってるのを見てました。私のことも凄く気に入ってくれて。同じ大学で一個上だって言うから、もしかしたらって思ってハルさんの事を話したらすっごい食いつきでした。」


「二人が面識あるなんて、思いもしなかったな。でもニイナが僕の事で興味を示すなんて無いと思うんだけど。」


「ずっと心配してたみたいっす。私にハルさんの事をどうか見ていて欲しいって。」


 表情には出さないよう努めたが、内心は唖然としていた。あれからニイナが僕の事を気にかけるなど想像もしなかった。


「僕なんかといても私のためにならないって、なんだかハルさんの言葉じゃ無い気がします。それ、ニイナさんの受け売りっすよね。」


 自分の本心がまた分からなくなる。僕が和葉を受け入れてしまうことが、彼女にとってどれだけ不幸なことなのか。分かっているからこそ自らの意思で断った。


 はずなのに、彼女は僕自身の言葉ではないという。


 ただ、未だに脳裏に張り付いているニイナの言葉に影響された可能性は否定できない。


「去年ハルさんと過ごしていく中で、私はハルさんがずっと変わろうとしていたこと知ってますから。ニイナさんとどんなことがあったのかは分からないっすけど、きっとあの人に認めてもらいたかったんすよね。ちゃんと側で見てましたから。」


「でも、ニイナは今更僕の事なんか見てくれないよ。取り返しのつかない、酷い仕打ちを彼女にしてしまったんだから。」


 去年閉じこもっていた間、必死に子供の頃ニイナと過ごした記憶を思い出そうとしていた。彼女の言葉がきっかけとなり、微かに蘇りかけていたあの日々の記憶を。


 はっきりとは思い出せなかったものの、ただ想い馳せるだけで荒んだ心が洗われるようだった。


 あの時公園で出会った少女がニイナだった事がどれだけ嬉しかったか。一方で自分だけ気づくことができず、彼女を不幸にしたことがどれだけ腹立たしかったか。


 母親に蝕まれていた幼少期に安らぎを与えてくれた彼女への恩を、仇で返してしまった事実はどこまでもついてくる。


「でも、もうあの時のハルさんとは違うっすよ。いつまでも僕なんかって卑下して、過去の失敗に怯えなくても良いんです。」


 和葉は力強くも優しい言葉をかけてくれたが、その表情はどこか悔しそうでもあった。


「きっとまだ間に合います。今すぐにでも祥吾さんとか南さんに連絡つけてもらうなり、ハルさんが後悔しない選択をしてください。」


 押さえ込んでいたニイナへの想いが溢れ出しそうになる。走馬灯のように頭の中で流れるニイナと過ごした記憶が僕の感情を駆り立てる。


 気づけばその場に立ち上がっていた。幸い、日付はまだ変わっていない。今から走って駅に向かえば終電には間に合うだろう。


「祥吾の所にいってくる。今日、和葉と話せて嬉しかった。和葉がいてくれなかったらずっと殻にこもったまま野垂れ死んでたと思う。ずっと側にいてくれて本当にありがとう。」


「もう、ハルさんに振り回されるのはこりごりっす。後は勝手に幸せになってください。」


 入り口で二人分の会計をして、夜の繁華街に駆け出した。


 走りながら祥吾に電話をかける。彼は思いの外ワンコールで応答してくれた。


『おー、どうした。』


『祥吾が今住んでる所って僕らの大学からそう遠くないよな。いつか島崎さんが紹介してくれた、知り合いがやってるっていう喫茶店の近くか?』


『そうだけど。』


『今から少し会えないかな。どうしても聞きたいことがあるんだ。』


『・・・わかった。その喫茶店の前で待ってるから慌てずにこいよ。必死で走って来てるのが電話越しでも分かっちまうくらい息切れしてんぞ。』


 祥吾はかつてと変わらない態度で話してくれた。僕がニイナを貶めるために彼を利用していたことなど分かっているだろうに。


 彼等の痛いほどの優しさに心が押しつぶされそうになる。


 僕は返せるだろうか。与えてもらってばかりの僕は、彼等に何ができるのだろう。


 


 連日の猛暑からは考えられない程優しい暖気に包まれた今日。僕は相も変わらず例の公園で時間を潰していた。


 指定された時間より三十分も早く来てしまった今の心境は、いつか彼女を初めて外食に誘ったときのものと似ている。


 二年ぶりに対面する高揚感よりも、今尚拒絶される可能性に対する恐怖の方が勝っている。覚悟はしているつもりだ。


 彼女がどんな想いで僕の側にいたのか。どれほど強い意志で母の事を受け止めて生きようとしているのか。あの夜、祥吾と南さんからニイナの思いを打ち明けられた。


 今の僕なら大丈夫だと信じてくれた人達がいる事実はあるが、自身のこれまでの愚行が消えるわけでは無い。


 ただ、彼女が僕に対してどんな感情をぶつけてきたとしても、ありったけの感謝を伝えるべきだ。


 学生時代に彼女から貰った鮮やかな時間。子供の頃に貰った初めての愛情。そして、その何よりも大切な記憶を紡いでくれたのだから。


 公園の入り口には季節外れにもスターチスの花が咲き乱れている。


 吸い込まれそうになるほど可憐で、濃い紫色の絨毯は、あの頃と変わらない、包み込むように優しい笑顔の彼女を迎え入れた。

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咲き乱れろスターチス シュレッダーにかけるはずだった @shredder_nikakeruhazudatta

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