咲き乱れろスターチス

シュレッダーにかけるはずだった

前編

「この際言うんだけどさ、人間として欠けている部分っていうのかな。ちゃんと自分で分かってないでしょ。」


 


 いつも僕に向けてくれていた表情とは違っていた。彼女は見せたことのない感情を剥き出しにして僕を見つめている。


 その双眸はどこか虚で、およそ一年半関係を築いてきた人間に向けるような眼差しとは到底思えなかった。




「目を背けないで向き合ってみなよ。もうこれから一切会うこともないし、連絡も取らない。その方が君にとって最良の選択になると思う・・・。なに?どこで失敗したのかだって?そんなこと自分でわかんなきゃそのまんまさ。」


 


 一体何から目を背けているというのだろうか。


 彼女の放った言葉の意味が理解できない。


 いや、理解したくないのか?


 自分でも分からなくなってくる。伝えたい感情が迷子になって、言葉も出ない。




「自分はちゃんとやってきたって思っているんじゃない?都合の良いように解釈してさ。私そういう人間ってわかるの。これ以上話していても意味なさそうだからもう行くよ。」




 そう言うと彼女は僕に背を向けて、覚えのある歩幅で歩き出した。あの頃から変わらなず首元まで揃えられ、外向きにカールされた髪が揺れる。漆黒に染まった乱れのないその髪が揺れる度に発せられるシトラスの甘い香りも、心地の良いトーンで耳に入ってくるその声色も、もう二度と僕に向けてくれることはない。


 あまりに一方的に決別を告げられたことによるショックに脳が支配されてしまい、全く実感が湧かなかった。




「ちゃんと生きなよ。逃げないで。」




 彼女のその言葉が脳裏にこびりつく。


 曖昧な表現ばかり吐き捨てられ、一瞬怒りさえ覚えたはずなのになぜだろうか。僕の口からは弁解の言い訳も出なかった。


 纏わり付くような熱気が未だに残る秋の暮。薄暗くなり始めた空に、紛れるように消えていった彼女を、呆然と立ち尽くしたまま見ていることしかできなかった。




 大学を卒業し社会人となった僕は、自分の感情が焦燥感に支配されていることに気がついた。


 今日のような何もない休日、全くといっていいほどすることがない日に強く感じる。ふつふつと腹の底から得体の知れないものが這いずり回っているような感覚が沸き上がってくる。


 振りほどこうにも自身の感情とは裏腹に、体にまとわりつくような倦怠感に襲われて身動きがとれない。


 入社したばかりの会社は、ブラックというわけではないし、人間関係が上手くいっていないわけでもない。いつからなのかもう忘れてしまったが、心臓の奥でくすぶり続けるわだかまりが些細なストレスとなって、どこまでも増幅していく。


 ・・・本当はもう、このわだかまりの正体などとっくに気づいているはずなに、未だに行動に移せず惨めに足踏みを続けているだけなのだ。


 じっとしていると気が滅入ってしまいそうで、僕は猛暑というには生ぬるい、茹だるような夏の炎天下の外に飛び出した。


 五分も歩かないうちに吹き出した汗を拭いながら最寄り駅へ向かい、そこから四駅ほど離れたところにある公園にたどり着いた。


 遊具は滑り台とブランコだけの、閑静な住宅街に囲まれたこの公園は、時折小さい子連れの親子が来る以外人は普段から全くといえるほど訪れない。


 そんなもの寂しい公園のベンチに腰掛けて、今日も来るはずのない彼女から声をかけてもらえないかと期待している。


 僕にとっても、ここが彼女との記憶を一番鮮明に感じられる場所なのだ。


 自分でもほとほと呆れる未練がましさだが、何もすることがない日はここで時間を潰していないと、どうしようもない喪失感に駆り立てられる。


 劈くような蝉の鳴き声だけが響き渡るこの公園に、呆然と一人居座り続けている様をこの公園の本来の主である物心ついて間もないような子供達に見られていないのは幸いだ。


 襟足も伸びきり、顎に無精髭を生やした今の僕の容姿では保護者から通報されかねない。


 しかしこの公園で、特になにをするわけでもなく下を向いたままボーッとしているこの時間が、情緒不安定な僕の感情を唯一落ち着かせてくれる。自分を見つめ直せる時間なのだ。月に数度はこうして座り込んで、あの頃を思い出している。


 しばらくそうして時間を費やしていると、意識が朦朧とし始めた。少し先を見れば、陽炎が揺らめく今日の暑さにやられたのだろうか。


 すぐにでも涼しいところに移動するべきなのだが、立ち上がる気力すら湧いてこない。思考がおぼつかなくなり、意識を失うのも時間の問題だった。全身が溶け出してしまうような暑さの中に微睡んでゆく。




「・・・きて・・・ル。・・・て!」


 


 誰かがの声が聞こえるが、上手く聞き取れなかった。脳裏に焼き付いたあの言葉が反芻している。


 意識を失っている間、僕は夢を見ていた。


 普段見る夢の内容は、曖昧な現実の記憶を元にしたツギハギの映像に過ぎないのだが、今回見た夢は鮮明に僕の記憶そのものを映し出していた。思い出したくもないはずで、忘れてしまうには大切すぎる記憶だった。




 


 雲ひとつない梅雨明けの澄んだ青天の日。


 大学二年生の僕は食堂で昼食をとっている。向かいには豚カツ定食を口いっぱいに頬張る彼女が座っていた。こちらの心情などお構いなしといったところだ。


 僕は初めて彼女を大学の食堂以外で食事に誘おうとしているわけで、かなり緊張しているのだ。それなのにこの女は週に四度は食べている豚カツを飽きもせず貪り食っている。なぜ全く太らず、むしろ痩せ型なその体型をキープできているのかは全くの謎である。緩みきった表情で「飽きないわ~これ」と、つぶやく彼女を見ていると緊張している自分がアホらしくなってきた。


 既に彼女はおかわりを済ませてしまっているので、残りの一切れが口の中に放り込まれてしまえば、彼女の食事は終わってしまう。意を決するときが来たようだ。なるべく自然に、余裕のある男を演じるのだ。何も女性と全く遊んだことがないわけではない。自信を持っていこう。


「あ、あのよかったら今日さ・・・この前話してた喫茶店・・・行かない?」


 情けない声が出た。普段から流暢に喋れているつもりの僕だったが、この時ばかりは呂律が回らず、どもった言い方になってしまった。


「お、いいねー。紹介してもらったっていう内装がお洒落なところでしょ?一回行ってみたかったんだよねー。」


 案外あっさりと承諾してくれたことに安堵した。これまで断られることを恐れて何度か言いそびれていたというのに。


「そうそう。バイト先の店長の知り合いが経営してるんだ。二十時には席空けといてくれるらしいから、いつものところに十九時くらいに集合でいい?」


「いつもの公園ね、りょーかーい。そういえばハルとそこの公園以外で会うのは初めてだね。たのしみだー。」


 少し首を傾けながらニイナがにっと笑う。


 かわいい。頭の中にはそれしか浮かばず、思わず口に出しそうになったが、下唇を噛み締めてなんとか堪えた。


「ハルはよくお洒落なお店知っているよねぇー。この前インスタの投稿にあがってたところ私もいっちゃった。通ってしまうわ、あんな雰囲気のいいところ。」


「場違い感半端なかったけどね。レトロな雰囲気の喫茶店が似合う男になりたいものですよ。」


「十分似合うと思うけどねー。謙遜のし過ぎはよくないぞ。」


 ニイナはよくこうやって僕を肯定するような発言をしてくれる。昔から自己肯定感の低い僕は彼女が自分のことを肯定してくれることが嬉しかった。


「そう思ってくれるのは嬉しい限りです。お腹も膨れたみたいだし、一旦帰るか。」


「うん!じゃあ、また後でねー。」


 我ながら単純極まりないと思うが少し見た目が好みで、自分のことを上辺だけでも肯定してくれる子がいるとすぐに惹かれてしまう。誰にでも心地よく接することのできるニイナは、僕のことも当然のように受け入れてくれた。




 ニイナと初めて出会ったのは、大学二年生になった四月。まだ肌寒さが残る春の日のことだった。


 休み明けの久々の講義に重い足取りで向かう。この講義だけは友人も取っていないため、比較的大人数な教室だというのに一人で受けなければならなかった。周りの学生達も心なしか重い足取りで向かっているように見える。


 教室についてなるべく目立たない後ろの方に着席した。参考書と新品のノートを開いてみたが、去年からまともに教授の講義を聞きもせず毎回小学生の落書き帳のようにノートのページを費やしてしまう。よく初めのページに描き映されるのは、その時受けている講義を担当する教授の似顔絵だ。


 似顔絵と言っても少し馬鹿にしたようなデフォルメした姿で描いている。誰に見せるわけでもないが、長時間の講義の暇つぶしにはちょうどいいのだ。


 今年も最初の講義の教授をターゲットにしてデフォルメした似顔絵を描いてみた。堀田と名乗った教授は高校の頃の体育教師を思わせるような体格をしており、濃く特徴的な眉がとても目立っている。そのくせ生物学のような、彼の見かけからは連想できない科目を担当しており、話している内容とその風貌のギャップが凄まじい。


「これってもしかして堀田先生の似顔絵?めっちゃ上手じゃん。」


 実際の時間以上に長く感じた講義が終わり、しばらくぼーっと天井を眺めていると、後ろの席に座っていた柑橘系の香水の匂いを漂わせる女の子が声をかけてきた。


「ああ、暇だったからつい。」


「この眉毛の感じすごくにてる。あの先生結構厳ついのになんか可愛くなってるし。」


「この絵では可愛いゆるキャラっぽくなってしまったけど、どう考えてもゴリラに近いもんね。」


「ふふっ、絶対言い過ぎでしょ。」


「でも間違いなく人に紛れて教授やってるゴリラだから。そんなに違わないよ。」


「あっはは。ひっどーい!」


 主張の強すぎない甘い香りと首元で揃えられ、外ハネになるようにカールされた髪。ぱっちりと開いた瞳以外は、控えめで小さな顔のパーツ。誰でも一目惚れしてしまうような華奢で可愛らしい女の子に話しかけてもらえた僕は、舞い上がっていつもより饒舌になってしまっている。


「あ、私は近衛ニイナっていいます。私この授業だけ一人だから来週から一緒に受けてほしいの。」


「遠野ハルっていいます。全然良いよー、一緒に受けよ。」


「よかった!来週もこの席座ってるね。」


 心の中でガッツポーズした。こんなドラマや小説のような展開が自分に起きていることが信じられなかった。


「うん、じゃあまた来週ね。」


 おそらくこの教室という空間で、最も端正な顔立ちであろう彼女とお近づきになれた僕は優越感に浸っていた。ありがとう中途半端に備わっていた僕の画力。 


 普通だといってしまえばそれまでなのだが、僕にとっては何か特別なドラマが始まろうとしているのではと、期待するには十分な出会いだった。


 ああ、きっとこれから僕の大学生活は薔薇色まっしぐらに違いない。何も大学生らしい楽しみ方ができなかった去年の分まで、謳歌してやろうとこの日決心した。


 それから毎週生物学の講義の一コマだけ一緒に受けるようになった僕らは、だんだん気まずくなる大学生特有の、よっ友といわれる挨拶するだけの関係、にはならずに済みそうだった。


「ハル!昨日投稿してた音楽rabbitの新曲でしょ!」


 初めての講義の日から一週間。ニイナに会うことを楽しみにしていた僕は早めに教室に入り、先週と同じ席を確保していた。


 彼女の方から話しかけてくれたことに安堵する。


 先週のことなど忘れて、僕の事に気づかないのではないかと心配していたが、杞憂だったようだ。いつも遅刻寸前の僕が本気を出して大学に向かった甲斐があったらしい。


「ニイナもrabbit好きなんだ。今回の新曲が一番好きになるかもしんない。普段あんまりインスタ投稿しないけど歌詞も曲も好みすぎて投稿してしまった。」


「わかる。私が最初にあの曲使って投稿しようとしたのに配信まで起きてられなくて寝落ちしちゃったの。ずるいー。」


「配信は二十時からだったけど。寝るの早すぎでしょ。」


「睡魔には抗えないよ。健康的な生活してるんでー。」


 むすっとしたニイナを見て笑っていると講義の始まりの予鈴が鳴った。


「ハル!rabbitの話しの続き、授業が終わったらもっとしようね!」


 以前もそうだったがニイナは真面目に講義を聞く子で、すぐに参考書とノートを開き、一週間で更に髭ともみあげが伸びたゴリラこと堀田教授の話を聞き始めた。


 僕もまたノートを形だけ開いて前を向いたが、相変わらず話が頭に入らない。


 頭の中は、一週間前頑張ってニイナのインスタだけでも聞けて良かったということだけ。おかげで僕が好きなバンドを彼女も気に入っていたことが分かった。


 入学したての頃、友人達は男女問わず連絡先を聞いて回っていたのに、僕だけ人見知りが邪魔をして誰からも聞くことができなかった。その頃からの成長を一人噛みしめた。


 それから何度か一緒に講義を受けて話しているうちに、好きな音楽、映画、小説のジャンルまで似ていたため、距離ができるどころか会うごとに僕らは仲良くなっていった。


 気分を害さない程度に少し毒舌を吐くところ。マシンガントークとまではいかないが、よく喋ってくれる彼女のおかげで、こちらが少しの会話や相槌を返すだけで心地よいテンポで話せるところが、二人の仲を縮める要因だった。


 この日はrabbitのボーカルが推しだのベースが渋いだのたわいもない話をしてお互い帰路についた。家に着いてからもメッセージでやり取りを続け、出会ったばかりにしてはかなり距離が縮まっていた。




「私ね、ここの公園が好きでよく来てるんだー。」


 ニイナと出会って一ヶ月ほど経過した日のことだった。家路が途中まで同じことが分かり、一緒に帰るようになっていた僕らは、初めて寄り道をした。僕の家から大学までのちょうど真ん中あたりにある、住宅街に囲まれた公園に連れて来られた。彼女に促され、完全に花が散ってしまった桜の木の下にあるベンチに腰掛けた。


「いつもの道から少し外れてるけど、わざわざここに来てるの?」


「そう。たまに違うところから帰りたくなる時あるじゃん。そんな気分になったとき、この公園に来るの。」


「へー、なんか静か過ぎて怖いけど。」


 夕暮れが近づくにつれ、だんだんと辺りが薄暗くなっていく。狭い公園とはいえ、二つしか設置されていない街灯では十分な明るさになるとは思えない。


「おや、怖がりなのか。そうかそうか、意外な一面があるんだねえ。」


「お、ばれたか。ホラー映画とか率先して見たがる癖に、内心かなり怖がってるタイプなんだ。」


「かわいいとこあんじゃーん。」


 自分より頭一つ分背の低い彼女がニヒヒと、変な声で笑う。最近こんな風に小馬鹿にされることが増えた気がする。だが、決して悪い気はしなかった。


 街頭の灯りがつき始め、青みがかった光で公園が照らされてゆく。やはり公園全体を照らすことはなく、不気味な雰囲気が漂う空間へと様変わりした。


「やっぱここ怖いよ。ニイナが一人で誰もいないこの公園で座り込んでいると座敷わらしみたいで気味悪いんじゃない?」


「ちょっと、失礼じゃない。私にとってはここが意外と落ち着く場所なの。この青いライトも何だか落ち着くし。」


 ふんっ。と、どこぞのお嬢様みたいに彼女が拗ねる。自分はよくからかってくるのにこの理不尽さはいかがなものか。


「あ、そうそう。去年にね、ここで座ってたらカブトムシがおでこにぶつかってきて、私変な声あげてひっくり返っちゃったの。その時はお昼だったんだけど、遊びに来てた子供達に見られてめっちゃ恥ずかしかったんだから。」


「こんなところにカブトムシなんてでるのか。それはびっくりするな。」


「育ちそうなところあんまりないのにね、ホントにびっくりしたよ。夏になったらカブト狩りする?」


「楽しそうだけど、華の女子大生の遊びがそれでいいの?」


「別にいいじゃん。それにこんな誘いハルにしかいってないよ。ハルしか付き合ってくれそうな人いないし。暇そうだし!」


「あー、暇なのは否定できないな。」


 女の子らしい華奢な体躯に、学内では誰もが目を惹くような顔立ちをしているくせに、中身は僕よりも童心を残して成長してしまったらしい。もうすぐ成人を迎える僕らがカブト狩りなんて想像するだけで笑えてくる。


「一応今年で成人になるんですよ、ニイナさん。いい歳こいて虫取り網を振り回してんのは滑稽でしょ。」


「大人になったらできないんだから。今のうちにもう一回ぐらいやっとこうよ。」


「ハタチって大人の括りにはいらないの?」


「大学生なんてまだたいした大人じゃないよ。ちゃんと生きるのは社会人なれてからだな、今はテキトーでいいんだよ。」


「確かにそうだ。まだまだ子供なのかな。」


「子供というか、青年っていうの?曖昧な時期だよね。」


 彼女は気まぐれで自分達の立場について考えさせられるような発言をする。何も考えてないようで、僕なんかよりずっと先のことを考えられる人間なのだろう。いや、カブト狩りなんて提案する奴がそんな深く考えないか。


「なんか大人になってからのこと考えるの面倒くさいや、これからたまにこの公園に寄って話そうよ!」


「いいけど、なんか小学生に戻ったみたいだね。」


「それがいいんじゃん。無理に大学生っぽく遊んで回るより私は楽しいけどー。」


 わざとらしく子供っぽい口調で彼女は言った。この時はまだ彼女がなぜ少年時代のような遊びをしたがるのか分からなかった。


 彼女と過ごす時間は久しく感じられなかった充実感と、ある種のノスタルジックな感情を思い出させてくれる。純粋に話しているだけでも楽しいのだが、ころころと変わる表情に、垂れてきた髪を耳にかける仕草、少し首を傾けてこちらの話に聞き入ってくれるところも妙に惹かれてしまう。


 カブト狩りくらい付き合ってもいいかもしれない。彼女と過ごしている時間は本当に楽しいから。


 彼女の提案に乗り気になっていることに気づき、自分でもこんなに女の子にチョロいところがあるのだと思い知らされた。ニイナだからなのかもしれないけれど。


 それからもう一時間ほどベンチに座ったまま話し込んでいたが、バイトの日だったことを思い出し、解散することにした。


 彼女と話しているとあっという間に時間が過ぎていく。人と話すときに相手の様子を伺い過ぎて、会話を楽しめた記憶はあまりないのだが、彼女との会話は他の人間と話しているときに感じる窮屈さがない。しかし、楽しいからといってあまり饒舌になりすぎるのはいけない。よく喋る男はうざがられてしまうのだ。気をつけなければならない。


 もう少し公園に残るという彼女に手を振り、入り口まで戻ってくると、両脇に咲いている小ぶりの花が目に止まった。小さくとも寄り集まって、鮮やかな紫色を振りまいている。


 僕はこの花の名前を知っていたはずなのだが、思い出すことはできなかった。




 どれだけ楽しい時間を過ごした日でもバイトへ向かっている時間は億劫である。


 三ヶ月以上継続できたことがない僕は今のバイト先が四つ目になる。友人から誘われていたこともあり、今回のバイトは今日でちょうど三ヶ月目になるが、もう少し続けられそうだ。


 ニイナと寄り道をしていたことで、家に帰る暇がなく直接バイトに向かわなければならなかった。大学の最寄り駅から二駅電車に揺られ、帰宅ラッシュで人がごった返している大きな交差点を渡る。バイトがある日はこの瞬間が一日で最も嫌いなのだ。ようやく青信号に変わった横断歩道を渡りきったところで、後ろから肩を叩かれた。


「おう。相変わらず人が多いよな。ここの交差点。」


「時間帯的に帰宅ラッシュだし、しょうがないけどまだなれないわ。にしても珍しいじゃん、祥吾が遅刻しないでバイト来るなんて。」


「遅刻っていったっていつも五分以内じゃん。たまーに十五分くらい?の時もあるけど。ギリセーフっしょ。」


「その横着さを少しは分けてほしいよ。よく給料減らされないよね。」


「ま、ちゃんと仕事してますから。よゆーですわ。」


 過剰にアクセサリーをぶら下げ、奇抜とまでは行かないが少々個性的な格好をしている祥吾とバイト先へ向かう。彼は大学で初めてできた友人で、話し方や風貌からだらしない印象を受けるが、要領は良く世渡り上手なため、大抵のことは上手くやっていけているらしい。大学の勉強などで助けてもらうこともあり、今のバイトを紹介してくれたのもこの祥吾だ。


 しかし、初出勤の時に一緒に行くと約束していたにもかかわらず、競艇に行っていたという理由で1時間近く遅刻してきた時には流石に怒りを覚えた。幸い勤務先の喫茶店は、あらかじめ場所を把握していたので問題なくたどり着いたのだが、祥吾が来るまでの一時間は気難しそうな初老の店長と二人きりの空間になってしまい、耐えがたい気まずさに押しつぶされそうになった。


 軽く面接をするからといって奥に通され、なぜか無言で見つめられたときには恐怖で涙が浮かんできたものだ。口数は少ないし、堀が深い強面。あの鋭い眼球で射すくめられれば誰でも怖じ気づいてしまうだろう。


「そろそろ遅刻癖なんとかしろよ。初出勤の日に遅刻したこと許してないからな。怖すぎたもん、島崎さん。」


「悪かったって。でもいい人だったろ?俺も最初あの顔見たときちびりそうだったよ。マジで顔怖えんだもん。」


 店長の島崎さんは人相こそ悪いものの、人柄はすごく穏やかで祥吾の遅刻癖も「去年からずっと頑張ってくれているから」といってある程度容認している。しかし十分以上遅刻すると恐ろしい形相で彼を睨み付けるのだ。


 島崎さんが何も言わずとも、謝って命乞いをし始める情けない祥吾見ることができる。


 先ほどの交差点から商店街を抜け、古着屋と古本屋に挟まれたレトロな雰囲気の漂う喫茶店が僕らのバイト先だ。洋風な内装で暖色の明かりに包まれた店内に入り、カウンターから続いているスタッフルームへ向かう。揃って僕らが入っていくと、驚いた表情で吸っていた煙草を落とす南さんの姿があった。


「うわ、南ちゃん危ないって!拾わないとズボン燃えちゃうっすよ!」


 南さんは慌ててズボンに落ちた、まだ火がついてチリチリと音を立てている煙草を拾った。幸い燃え移ったりはしていないようだ。


「最悪!アンタがこんな時間に来るからびっくりしたじゃない。あーあズボンに焦げ跡着いちゃった。どうしてくれんのよ。」


「ハルにも言われたけどそんな驚きます?ちゃんと時間どおり着いてる日もありますよ。」


 お気に入りだったらしいデニムパンツについた焦げ跡を眺め、肩を落とす南さんは僕らが在学している大学の卒業生で、今はこの喫茶店でバイトをしながら就職活動を続けている。卒業してから一年ほどは実家に戻っていたらしいが、事情を聞くのは野暮だろう。


「お疲れ様です南さん。毎度のことですが祥吾がすみません。きっと弁償させますよ。」


「言い聞かせときなさいよハル。この間も珈琲が入ったカップを思いっきりひっくり返して私の制服の中の白いシャツ汚されたんだから。ドジすぎ。」


「おかしいですね、本人曰く俺は仕事できるんだーってついさっき豪語していたんですけど。」


「ちょ、誰でもたまには失敗することはあるだろ。」


「あきれた。もう一回土下座してもらおうか、祥吾君。」


 先日から二度目らしい土下座を披露した祥吾は南さん相手にはどうもいつもの調子が出せないらしい。見た目も少しサバサバした印象を受け、自分たちの先輩に当たるということもあるだろうが、三ヶ月ここで働いていると、どうもそれだけではないようだと気づき始めた。


 いつもは何でもスマートにこなす祥吾を知っているので尚更そんな気はしていた。ここは温かく見守ってやろう。


「そういえばハル、パーマかけてんじゃん。似合ってるぞー。」


 そんな内心とはお構いなしに南さんが僕の頭をわしゃわしゃと撫で回す。


「そうですかね?あんま自信ないですけど、ありがとうございます。でも元々が直毛だからすぐにとれてきちゃうんですよねー。」


「たしかにケアしておかないとすぐにとれてくるもんな。私も巻いてた時期あったからわかるぞー。あ、もういいよ祥吾。」


 ようやく南さんからの許しを受け、解放された祥吾が立ち上がった。もう少し見ていたかったのに残念だ。


「やっぱりお前が最近パーマかけたのって、やっぱり最近仲良くしてるあの子が原因なのか?」


 特にからかっている様子はなく、純粋に興味津々と言った表情で祥吾が聞いてきた。最近ニイナといることが増えたきたので流石に見られてしまったのか。


「お、ハルにもついに女ができたのか。」


 そういえばこの人は人の色恋沙汰が大好きだと祥吾から聞かされていた。南さんに聞かれたのはまずかったかも知れない。


「いやー。一緒に授業受けてるだけですけどね。」


「にしては食堂とかでも見かけたけど。てっきり彼女ができたのかと思ってた。あの子めちゃめちゃ可愛いよな。」


「まじか。写真とかないの?見たい見たい!」


「写真は撮ってないです。でもめっちゃ可愛いっていうのは本当にそう。」


「なんだ、ぞっこんじゃねーか。」


 二人が揃って突っ込んだときちょうど店を開ける時間になった。南さんは後で詳しく聞かせろよと僕をど突きながらカウンターの方に向かった。


 僕は最近キッチンを覚えろと島崎さんから言われていたので、制服に着替えた後厨房に行き、ちょっとした仕込みから始めることにした。ドリンクの種類は豊富だが、料理の種類はそこまで多くなく、サンドイッチが五種類とパンケーキが三種類、残りはスイーツなどのデザート系で固められている。材料から拘っているらしく、見た目も味もすごく良いと評判で、土日になると客足が絶えなくなる。


 祥吾に教えてもらいながら作業を進めていくうちに、島崎さんがまだ来ていないことに気がついた。


「珍しいな、島崎さんがまだ来てないなんて。いつもは一番に来ているのに。」


「ああ、確かに。寝坊か?」


「祥吾じゃあるまいし、まさか。」


 長い腕が僕の首元へ伸びて軽くチョークをかけられた。ギブアップの表明で彼の腕をタップしてみせる。


「島崎さんなら今日来ないよ。」


 開店から三十分ほど経っていたが珍しく客が来ず、暇を持て余した南さんが厨房に入ってきた。


 煙草を取り出して火を付け、一口吸い込んむ。煙草を吸う姿が妙に映える人だ。


「今日定期検診でお休みなのよ。今はなんともないんだけど数年前にガンになっていたみたいでね。念のため受けてくるって。」


「そうだったんすね。俺ら島崎さんの連絡先持ってないからなあ。」


 島崎さんがガンを患っていたことを聞いて驚いた。誰よりもテキパキと動いてとても元気そうな姿しか見たことがなかったからだ。


「実は島崎さんとは結構縁があってね、この喫茶店ができたときからバイトとして雇ってもらってたんだ。」


「ほえーそうだったんすね。たしかに南ちゃん、島崎さんと仲よさげっすもんね。なんか、ヤクザの親子って感じで。」


「ふっ。」


 確かにどちらも威圧感があるし、不覚にも納得してしまう表現だったが、普通は口にできないだろう。思わず吹き出してしまった。


「そうかそうか。二人とも・・・、今日の賄いはなしで良いんだな。」


 ほら見たことか、怖いお姉さんの機嫌を損ねてしまった。綺麗な顔立ちをしている人ほど怒ったときの表情が恐ろしいと言うが、この瞬間身をもって痛感した。


「すみませんでした!南さんの作ってくれるまかないが最高です!許してください!」


 金欠の僕はなんとかして賄いにありつこうと、先ほどの祥吾のように土下座をした。本気で土下座をするなんてドラマの中の話だけだと思っていたのに。


 程なく祥吾も続いて土下座をして言い放った。


「今日の競艇で大負けしたんです!一文無しの私めにどうかご慈悲を!」


 脇腹を蹴られた祥吾の「うぅっ」という情けない声が静かな店内に響きわたった。


 


 いつもより客足が少なかったため、今日はかなり暇な時間が多かった。日はとっくに落ちており、時計の針は二十二時を指していた。


 僕らの安い土下座が気に入らなかった南さんは、罰として一週間分の店内の清掃を言い渡した。賄いを没収されることは避けられ、いつも通り彼女の作る美味しいカツサンドにありつくことができたが、清掃当番でもない日に掃除をしなければならないのはかなり憂鬱だった。南さんは賄いを作り終え、「掃除ぐらい真面目にしなさいよ」と、言い残して先に帰宅してしまった。


 僕より一週間長く清掃当番をすることになった祥吾も掃除を終え、一緒に帰宅することにした。まだ蹴られた部分が痛むのか、時折脇腹を押さえてはいててと小声で漏らしている。


「面白かったから良いんだけどさ、南さん敵に回したらやっぱりこうなるさ。なんでヤクザの親子みたいなんてポロッと言っちゃうんだよ。」


 祥吾の周りを嫌な雰囲気にさせることなく、どんな人も巻き込んで場を和ませる能力には感心するが、思いついたことをつい口に出してしまう残念な習性のせいで、いつかもっと痛い目を見るのではないかと心配になる。


 いや、どこかで期待しているのかも知れない。


「後悔はしてないわ。クッソ痛かったけどむしろご褒美じゃん。」


「ぞっこんじゃねーか。」


「おうよ。ぞっこんだわ。ハルから見ても南ちゃん可愛いだろ?」


「本気じゃん。たしかに可愛いけど。」


 やはり、南さんの事が好きなのではないかという予想は当たっていた。


 それにしてもよくこんなに素直に認められるものだ。外見はかなり良い方の祥吾だが、内面までこうも爽やかだといよいよ勝ち目がない。時間にルーズなところとギャンブル依存なところだけ直せば完璧なのに。


 ルックスと根っこの性格の良さと引き換えに、神様は彼に中々重い宿命を背負わせたようだ。


「そういえば南さん、就活してるって言ってたけど何系の仕事めざしてるんだろ。」


 最近彼女とも話すことが多くなってきたのだが、まだ知らない部分が多く、どんな人なのか少し気になった。


「そこんところはあの人話してくれないんだよなー。大学卒業してから一年間実家に帰ってたって言うし。本人が言いたくないならこれ以上聞けないしな。」


「ミステリアスな女性ってことね。」


「おお。なんかそっちのが燃える。」


 誰しも言いたくない秘密の一つや二つくらいあるのだろう。祥吾が南さんと付き合いでもしたら話してくれるかも知れない。今のままではそんな可能性は限りなく低いだろうが。


「お前の方はどうなのよ。南ちゃんにはうまくはぐらかしてたみたいだけど、俺からは逃れられないぜ。」


「ああ、ニイナのことか。まだ一ヶ月くらいしか関わってないしな。こっちも知らない事の方が断然多いよ。」


 ミステリアスと言えばニイナもかなりのものである。僕と会っているとき以外の彼女がどんな姿なのかさっぱり分からないのだ。人から好かれそうな要素は揃っているはずだが、あまり人といるところを見たことがないかもしれない。


「一ヶ月でそんな仲よさげなんだからよっぽど気が合うんだろうな。ま、俺は応援してっから。」


「余計なお世話だなあ。自分の心配してな。」


「俺の方はどう見ても順調だろ。これからは慎重にいくことにしてんだよ。」


 去年からの付き合いだから知っているが、彼は大学に入ってから自分がそこそこモテる事を理解したようで、何人かの女の子と付き合っては別れを繰り返していた。痴情のもつれもあり痛い目を見たこともあったらしい。


 もう何度目になるかも分からない程聞かされた、彼の女性関係から学んだ教訓を聞き流していると、来たときとは打って変わって人がまばらになった駅についていた。


「じゃあ、今度ニイナって子紹介してくれよ。じゃあな。」


「んー、後ろ向きに考えておきます。」


 祥吾と別れた後はまっすぐ帰宅し、自宅のマンションについた。僕の部屋は四階に位置しており入居当時こそ眺めの良さに喜んでいたが、少しの用でもいちいち上り下りしなければならず、人がいるときは更にエレベーターを待ったりしなくてはならないのが面倒になっていた。


 すぐに浴室に入り、一日の汚れと疲労をシャワーで洗い流す。ゆっくり浴びていたい気持ちもあるが、以前のバイトを辞めてから今のバイトを始めるまでにかなり期間を空けてしまったため、あまりお金に余裕がない。なるべく節約して生活しなければならないのだ。


 十分も経たずに浴室から出て、間接照明だけをつけてしばらくスマホをいじっていた。


 ニイナからのメッセージが届いていたので、ラインを開いて返信する。すぐに既読がつき、ニイナからの返信が来た。普段から要件以外で人とラインで会話をすることはないのだが、彼女とはここ最近ずっとやりとりをしている。向こうもたわいのないやりとりを好んで続けるタイプではないと自ら言っていたのだが、なんだかんだ僕とのラインは続けてくれている。


 ある程度会話が一段落したところで、少しずつ眠気が襲ってきた。


『そろそろ眠い(おやすみのスタンプ)』


『私もだ(おなじおやすみのスタンプ)』


『あ、同じじゃん、このスタンプ可愛いよね』


『まじでそう!スタンプにお金使ったことなかったけどこれは買っちゃう』


『これ今やってるアニメのキャラクターだよね』


『うん!めっちゃ面白いから見てほしい』


 一度やりとりを終わらせようとしたのだが、もう少し続きそうな流れになってしまった。深夜の二時を回ったときに流石に寝ようと送ると、翌日食堂で会おうと約束をされてやりとりが終わった。


 気が合うのは確かだが、なぜここまで気にかけてくれるのかは少し不思議だった。眠気が限界に達した僕は深く考えず、眠りについた。




 数日間にわたって漂い続けていた曇天が去り、珍しく日の光が差し込んでいる。梅雨のピークの時期だというのに、雨が降る日は少なかった。大学では期末テストが迫っており、テスト期間前最後の出勤日に僕と祥吾は少しの間バイトにいけない旨を島崎さんに伝えた。


 快く承諾してくれた彼は、僕らに勉強の息抜きになればと友人が経営している喫茶店を紹介してくれた。どうやら島崎さんの紹介なら半額にしてもらえるらしい。なんて人望の厚い人なのだろうか。


 一人で喫茶店に行くことが好きで、よく暇なときに喫茶店巡りをすることがある。今回も一人で行こうと思っていたが、以前ニイナに僕のバイト先が喫茶店だと話したことがあり、「いってみたい!お洒落な喫茶店とか緊張して入れないんだよ。でもハルが働いてるなら緊張しないし、楽しめそう。」と、かなりハイテンションで言っていたことを思い出した。自分のバイト先に連れて行くのは気が引けるし、もし南さんがシフトの日だったらこの上なく面倒くさい事態になる。テスト明けの出勤で尋問されることは避けたい。喫茶店に行ってみたいというニイナの要望は、他の店でもかなえられるだろう。折角なので誘ってみることにした。


 しかし実際に誘ってみようとすると中々勇気が出ず、島崎さんに喫茶店を紹介された事は話の流れで伝えていたのだが、肝心の一緒に行こうという言葉を伝えることができなかった。流石に不甲斐なさすぎる。


 そうやってもたもたしている内に梅雨もテスト期間も終わり、大学が夏休みに入ろうとしていた。このままでは週に一度の講義を一緒に受けるというニイナと会うための一番の口実がなくなってしまう不安から、ようやく決心して言い出すことができたのだ。


 「やほ。ちょっと会わないうちにパーマとれてきちゃってるじゃん。」


 待ち合わせしていた公園に先に着いていた彼女は、淡い寒色の街灯に照らされていて、妖艶な雰囲気を漂わせている。普段のオーバーサイズのカーディガンに、カーゴパンツを組み合わせたカジュアルな印象を与える服装ではなく、黒く涼しげな大人っぽいワンピースを着ていたためだろうか。


「最近ヘアオイルとかでケアするのが面倒くさくなってきてさ。ニイナはなんかいつもと違った感じだね。」


「このワンピース結構お気に入りなの。喫茶店にいる人って皆お洒落なイメージあるからさ。気合い入れてきたわ。」


「似合ってるよー。」


「まあ、当然でしょ。」


 少し照れたような表情で彼女が目線をそらす。心なしか僕の頬も熱い。そろそろ行こうかと言って、僕らは喫茶店に向かった。


 僕らが普段行かない方角にあるその喫茶店は、モダンな作りになっていて、商業ビルの二階に位置している。色とりどりのガラス窓が施された扉を開くと、五十代後半くらいの店主が出迎えてくれた。


「いらっしゃいませ。二名様でしょうか?」


「はい。島崎さんから紹介してもらった者なんですけど・・・。」


「ああ、あなたが!お待ちしておりました。どうぞお好きな席へ。」


 堅物な見た目の島崎さんとは違い、とても柔らかい表情をした、優しそうな風貌の男性だった。


「先日ちょうど祥吾君もいらしてたんですよ。お二人とも本当に男前だ。」


「あっ、どうも。」


 祥吾と比べてしまえば僕の容姿なんて霞んで見えるだろうに。心までも優しい人なのだろう。


 窓際にあるテーブル席に座り、メニュー表を広げる。ドリンクも豊富だが、フードの種類も豊富でランチやディナーまで注文できるようだ。


 注意しなくてはならないのは、いくら半額にしてくれるとはいえ大食いのニイナを放置すれば、財布の中身がもたないことだ。


 「うわー。どれも美味しそうで迷うな。」


 「めっちゃメニュー多いね、ここ。」


 「迷っちゃうね、何かおすすめはありますかな?男前くん。」


 僕が先ほどここの店主に言われて、気まずそうにしていた事に目を付けていたようだ。ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべながらこちらを伺っている。


「祥吾と僕を括らないでほしいよ全く。あ、会ったことはあるよね?祥吾に。」


「うん。この前ハルとすれ違ったときに一緒にいた人でしょ?なんかチャラい見た目してた人。」


「そうそう。なんかチャラい人であってる。」


「あの人と並べたってハルが自分を卑下することはないよ。どちらかと言えばだけどハルの見た目の方が好みだし。それになんだか、賭け事好きそう。」


「お、鋭いね。競馬とかスロットとか一通りやったことあるみたいだよ。やっぱ第一印象はそんな感じなんだな。」


「見た目というか・・・。まあそうだね。見た目かも。」


「見た目というか、何?」


「いや、見た目で判断しちゃったかも。」


 何か言いかけていたようだが、ニイナの中で納得がいっただけなのだろうとあまり深掘りしないことにした。


「でもあれで中々良い奴なんだよな。時間とお金にルーズなところ以外は。」


「えー、それっていい人って言うの?」


 まあよく知らない人からすればこれだけ聞くとただの駄目人間にしか聞こえないだろう。紹介の仕方が悪かったのかも知れないが、特質した事実であるため仕方がない。


 それからニイナがかっこよく珈琲を飲みたいというので、二人で慣れないブラック珈琲を頼んだ。苦すぎて酷いしかめっ面をしてしまい彼女に笑われたが、彼女も程なくして同じように酷い顔を晒していた。


 一緒に頼んでいたパンケーキが、人生で食べたもののなかで一番甘く感じた。


 閉店近くまで話し込んでいた僕らは、今日はワンオペらしい店主に悪いと思い会計をすることにした。「またいらしてください」と優しい笑顔で店主が送り出してくれる。


 お互いの家まで歩いて帰れる距離ではあるのだが、慣れない道なのでスマホのマップ機能で確認しながら向かった。


「ニイナさん、ディナー食べ過ぎね。何で半額にしてくれてたのに僕らの会計が前にいた男三人組より多くなるんだよ。」


「だってどれも最高に美味しかったんだもん。珈琲だけ失敗したけど。」


 小柄なこの体のどこにあの量の食べ物が入っていくのだろう。改めて不思議に思う。


「確かに珈琲は苦すぎたな。まだまだ子供だって事なのかな。」


 以前、大人とも子供とも、決めてしまうには曖昧な今の時期について、彼女と話したことを思い出した。


「大人になったらブラック珈琲の味も美味しいって感じるようになるのかな。」


「大人になっても苦手な人は割と多いと思うけど。」


「それもそうだよね。」


「僕のお母さんはブラック珈琲好きだったな。ニイナの両親は珈琲飲んでた?」


 僕が質問したが、彼女から何も返事が返ってこない。聞こえていなかったのかと彼女の方を見ると、はっとしてこちら振り向いた。


「あ、ごめんぼーっとしてたかも。そういえばお店で話してた祥吾君の事だけど今はもう賭け事落ち着いてるの?」


「ん、ああ。大きな額の賭けはもうやってないって言ってたけど。」


 彼女はたまにぼーっとしていたり考え込んでいたり、心ここにあらずと言った表情をする事がある。


「そう、少し、知り合いの依存症になってすごい借金してた人と雰囲気が似ていたから。親友ならちゃんと見てあげなきゃ。」


「親友っていうか、腐れ縁というか、まあ親友だな。ちゃんと見ておくよ。」


 一瞬ぎこちない会話が流れたが、その後のニイナは特に変わった様子はなく、普段通りだった。




「なあ、祥吾ってまだ借金しそうなほどギャンブルしてるか?」


「お、なんだ突然。してないけど。」


 この間ニイナが喫茶店で言っていたことが気になり、念のため聞いてみることにした。嘘をついているような感じはしない。


 彼が一年の頃は、月の半ばになると「冗談抜きで全く金がねえ」が口癖になるほどにはギャンブルにはまっていた。彼の家に遊びに行く機会がよくあるのだが、その時は本当に金がなかったらしく、もやししか食べていなかった。


「うわ、また地球釣っちまった。」


「もう三回目じゃん。下手だな。」


 夏休みにはいってからというものバイトしか特に用事がないため、こうして祥吾と釣りをすることがある。サークルにでも入っていればドライブなどの遊びの予定で、忙しくも充実した長期休暇が送れるのだろうが、あいにく僕はイケイケな人たちの輪の中に入っていけるような人間ではなかった。


 祥吾は初めこそいくつもサークルを掛け持ちしており、交友関係も広かったのだが、人間関係が上手くいかずに全て辞めてしまったらしい。主に女の子を巡ってのいざこざが原因だったとか。大学内のコミュニティも意外と狭いもので、噂が広まるのはあっという間だった。


 当時、彼自身から事情は聞いていたのだが、サークルに入っていない僕の知り合いからも彼についての噂を聞いたときは恐怖すら感じた。


 しばらく無言で釣りを続けていると、祥吾が急に口を開いた。


「あー実はさ。借金はしてないとか言ってたけど、ホントは五十万ぐらいあったんだ。」


「え、まじで。」


「まじまじ。自分でほぼ毎日バイトして返そうとしたけど足んなくて、半分くらいは親に土下座して頼んだ。情けなくて友達には嘘ついてたんだ。」


 ニイナは一度会っただけで気づいていたのだ。僕は一年半一緒にいても見抜けなかったのに。


「もしかしてばれてた?お前に隠し事はできねえな。」


「・・・なんとなくそうかなーって。五十万もあったのは驚いたけど。」


 ニイナが言っていたというのもややこしいのでごまかしておいた。自分に人の嘘とかを見抜ける力がなさ過ぎるだけなのではないかと心配になる。


「今はもうほとんどギャンブルしてないな。息抜きでたまに競艇にいって三百円くらい賭ける程度。」


「依存症再発させんなよ。釣りとかなら付き合ってやるからさ。」


「ありがてえ。付き合ってもらいますか。」


 祥吾がおもむろに立ち上がったとき、彼の竿が強く引かれた。


「お、でかいでかい!俺やっぱ持ってるわ!引きつええ!」


 この流れでは魚の引きが強いという意味には聞こえなかった。こんな調子で彼は本当に更正しているのだろうか。全く信用ならない。


 祥吾が大きめの魚と奮闘している間、僕の方には何もかからなかった。早朝から初めてもうすぐ昼の十二時になろうとしているがこれまでの成果は小さなメバルが二匹。なんともいえない微妙な収穫だ。祥吾は長い死闘の末、大きめのブリを釣り上げていた。朝からその一匹しか釣れていなかったが、予想外のサイズに満足そうである。


「そろそろ熱さも限界だし引き上げるか。」


「だな。こいつを釣り上げるのにかなり体力もってかれたわ。」


 彼が手配してくれたレンタカーに釣り上げた魚の入ったクーラーボックスを積み込み、サウナ状態となった車内に入る。冷房の効きが悪いようで、しばらくは蒸し返るような暑さに耐えなければならなかった。


 ふと気づいたが、僕は魚の捌き方を知らない。このままではいたずらに命を奪っただけになってしまう。


「魚の捌き方って分かるか。」


「俺捌いたことあるぜ。今度捌いて持ってってやるよ。」


「おお、流石なんでも器用にこなす男だな。南さんのこと以外で。」


「南ちゃんの心はこれからゆっくり捌いていくんだよ。」


 ウロコまみれの状態で食べるような事態にはならなくて済みそうだ。持つべきは有能な友人に限る。


「そうだ。今度バイト仲間でバーベキューでもしようぜ。」


「三人しかいないのに?」


「ニイナちゃん呼べば良いだろ。四人でしっぽり飲み食いしましょうや。」


 バーベキューは大学生の夏のイベントとしてはうってつけな提案ではあるが、あまり関わりのない祥吾や南さんしかいないところにニイナが来てくれるだろうか。


「まあ聞いてみるけど。来てくれたとして南さんと仲良くなれるかな。南さんはサバサバしてるけどニイナはたまにマイペースというか不思議ちゃんみたいなところがあるからな。普段は全然普通なんだけど。」


「意外と気があったりするんだよ。とりあえず誘ってみてくれ。四人でも少ないけど三人では流石にバーベキューなんてできねーからな。」


 女性のことはある程度分かってそうな祥吾だが、ホントに大丈夫なのだろうか。そもそも男女間でのトラブルが多かった奴の意見はあまり当てにしてはいけないのかもしれない。


 自宅まで送ってくれた祥吾に別れを告げ、マンションの自室に入るとニイナからメッセージが来ていることに気がついた。


『夏休み暇してる?』


 ラインでは何度か話していが、島崎さんに紹介された喫茶店に行って以来ニイナと会えていなかった。


『もちろん暇してる。バイトに行くか寝てるかの生活してますね』


『たまには外に出なよ笑友達いないのかー?』


『今日は釣りしてたよ。人と会うこともちゃんとあるんですー』


 ニイナこそ大学内で人といるところをあまり見ないのに、よく人のことを言えたものだ。


 彼女も僕と同じように暇な夏休みを送っていたりするのだろうか。


『お暇なハルのためにニイナちゃんが遊んであげよう。何かやりたいことはないのかい?』


『僕にかまう暇があるなんてそちらもずいぶんですね』


『大丈夫、見た目どおり友達多いから』


『へー。あ、今度僕のバイト仲間とバーベキューをしようかって話になってるんだけど来る?』


『私祥吾くんしか知らないよ?知ってると言っても一回会っただけだし』


『いや、僕合わせて三人しかいないよ。もう一人は女の人で南さんっていうんだけど気が合いそうだと思って』


 祥吾の言葉を鵜呑みにしたわけではないが、夏休みに間に彼女に会いたい気持ちもあったのでそう伝えることにした。


『あ、少人数で楽しむ感じなのね、それなら行ってみたいかも』


 南さんもいい人だしあまり心配する必要はないかも知れない。それにしてもニイナの方から遊びの提案を持ちかけてくれるとは思っていなかった。やはり彼女も暇だったのだろうか。




 翌日バイトに出勤した際に、集まれる日程を合わせることにした。提案者の祥吾はサークルを辞めているとはいえ何人かとはまだ交友があり、そちらとの予定でいつでも良いというわけではないようだった。


 しかし、南さんが就職活動のため多忙である旨を伝えると、「南ちゃんの予定に合わせます。俺の予定とかぶってたら蹴ってでも行きますよ。」なんて言っていたのですんなり決まりそうだ。


 僕にも祥吾の他に友人と呼べる関係の人間は数人いるが、大学内でたまに一緒に行動する程度の関係で、休みの日に何度も集まるほどの仲ではない。珍しくその友人の仲の一人が夏休み中に一度、集まって飲みにでも行こうと提案してきていた。


 そちらの予定はお盆休みの日で決まっていたのだが、南さんがちょうどその日しか都合が合わないと言っていたため、泣く泣く飲みの方を断ることにした。彼らには散々講義の課題やテストの手助けをしてもらっていたため、折角の集まりに顔を出さないことは申し訳ない気持ちになった。


 是非とも僕の愚痴でも酒の肴にして盛り上がっていただきたいものだ。


 この日は客足が多く開店してからというものとても忙しくしていたのだが、二時間程経つとかなり落ちついた。


 最近、島崎さんの体調が優れない日が多いらしく、バイトの三人や内二人で店を任されることが多くなっていった。


「やっぱ島崎さんいない日に客が多いと忙しさが倍に感じるな。」


 休憩をもらっていた僕と交代するためにスタッフルームに入ってきた南さんは、かなり疲れた様子だった。


「あの人手際よすぎますよね。僕もやっと仕事覚えてきたんですけど中々皆みたいに速くフード作ったりできないんですよね。」


「いや、覚えも速いし全然良い方だと思うぞ。私なんか最初の方はグラスも食器も結構割っちゃたりしてさ。全く仕事覚えられねえし。」


「そうだったんですか。意外だな。」


 ミスなくテキパキと働く南さんの姿しか見たことがなかったので、彼女の抜けている側面が全く想像できなかった。


「バーベキューするとか言ってたけど流石に人数少なくないか?私の予定に合わせてくれたのはあり難いんだけど。」


「それもそうですよね。四人だと焼く量とかも少なくなって、すぐ終わってしまいそうですし。」


「それなら心配すんな。俺の友達何人か呼んでるからさ。ハルも友達呼んで良いぞ。」


 僕らの会話を聞きつけた祥吾もスタッフルールに入ってきた。


「お客さんもういないのか?一人は出てないといけないぞ。」


「さっき最後の一人が出て行きました。一旦皆で休憩しましょ。」


 無造作に置かれた椅子の一つに祥吾も腰をかける。ニイナには四人だけだと伝えてしまったが、確かに少人数では長くは楽しめないのではと思い始めた。


「ニイナには四人だけだって言ってしまったから増えても大丈夫か聞いてみるよ。」


「おう。ニイナちゃんの友達もバンバン呼んでもらって良いからな。」


「僕らはそんな呼べないと思うけど。一応誘ってみるわ。」


 ドアベルの音が鳴り、新規の客が入ってきたので初めに休憩していた僕が出ることにした。接客用の笑顔を貼り付けて、「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ。」と笑声で発する。だいぶ喫茶店の店員が板につてきただろうか。


 一人で入ってきたその客はどこか様子がおかしかった。剃り残しのある青髯に、見た目の年齢の割に白髪の多い小太りの男だ。席に座らずにうろうろと歩き回り、僕がいるカウンターの方をのぞき込むように凝視している。


「お客様?どうされましたか。」


 普通ではないその様子に警戒心を抱き、恐る恐る声をかけた。


「・・・んだよ。いねえのか。」


 ぼそぼそと小さな声でそう吐き捨てると、すぐに店から出て行ってしまった。変な人がいるものだなとしか思わなかったが、明らかにまともな人間の目つきをしていなかったことが少し気がかりだった。


 バイトが終わってからニイナにやはり大人数になるかもしれない事と、友人を誘うことはできないかと確認のラインを送った。彼女も少人数ではやはり楽しめないのではと感じていたらしく提案に了承してくれた。


 本人が言っていたようにニイナは友人が多いらしく、祥吾や僕の友人とも知り合いらしい人達を連れてきてくれることになった。なぜ普段大学では一人で行動しているのかますます謎だ。一人でいることが好きだったりするのだろうか。だとするなら、なんだかニイナがかっこよく思えてきた。僕のように友人の少ない人間は嫌でも一人でいなければならない時間が多いというのに。


『ハルの友達はどっかで飲みに行くんでょ?二次会って事で誘ってみたら?』


『そうするつもり、ニイナの友達と面識あるっぽいし』


『結構大人数になりそうだね』


 最終的に来ることになった人数は十人を超えていた。今年になって初めての大学生っぽいイベントができることを、少なからず楽しみにしていた。




 近くの海辺でバーベキュー会場を貸し出ししている場所があり、昼の二時頃から集まることになった。ニイナと一緒にいつもの公園で合流して会場に向かった。


 先に着いていた南さんにニイナを紹介する。「かわいいー!ほっそ!顔ちっちゃ!」と褒めちぎりだす。二人の相性を心配していたのだが、南さんはニイナを余程気に入ったらしく、先程から同じ様な褒め言葉を何度も投げかけている。完全に語彙力を失ってしまったようだ。


「南さん、面白くていい人だね。」


 やっと落ち着いた南さんから解放されたニイナが、炭などの準備を手伝っていた僕の方に戻ってきた。


「仲良くできそうで良かった。初めてあんなデレデレになった南さんを見たよ。」


「多分だけど、さみしがり屋さんなんでしょう。すごく見た目かっこいいからギャップ萌えしちゃったよ。」


「さみしがり屋?」


 あの人がさみしがるような人には見えたことがない。


「初めて会ったのに分かるの?」


「あ、話し方が何だかそんな気がしてさ。私も何か手伝おうか?まだ祥吾君来てないみたいだし。」


 そうだ、祥吾がまだ来ていないのだ。彼の友人達は早めに到着して、せっせと準備をしてくれているというのに何をしているのだろうか。


「ありがとうニイナ。僕は祥吾にもう一回電話かけてくるよ。」


 すでに二度電話をかけていたのだが?がらず、三度目にようやく電話に出た祥吾は酷く息切れしているようだった。


「また競艇か?こっちは準備で大変だってのに。」


「まじですまん。シンプルに寝坊だ。いまチャリ全回で向かってるから許してくれ。」


 祥吾と連絡が取れたことを察した彼の友人達が駆け寄ってきたので、電話をスピーカー設定に変更した。


「おるぅあ、祥吾!お前着いたら初っぱな海飛び込めや!」


「準備があるからって早めに呼んどいて自分は寝てるって何事じゃ!」


 彼等も祥吾の遅刻癖には手を焼いているのだろう。怒った口調ではあるが、呆れから来る笑い声も混じっている。


「ごめーん!史上最大の謝罪見せてやるから許してくれ!」


 最後に祥吾が叫び、電話が切れた。「はあ」と言うため息が電話に答えていた僕らから漏れる。謝罪に誠意が見えなかったら一生肉焼き係にでもしようと彼等と話していると、遠くから何か叫びながら全速力で走ってくる自転車が見えた。その自転車は僕らの前で止まることはなく、そのままのスピードで勢いよく砂浜に飛び出していき、海に突っ込んでいった。一同唖然。ずぶ濡れになり、いつも綺麗にセットされている前髪も無残に顔に張り付いたままの姿でこちらに走りより、「寝坊してすんませんした!」と、大げさな土下座をして見せた。


 僕らはもう笑うしかなかったが、自転車を海に突っ込んだままだと気づいた彼が慌てて取りに戻ったが間に合わず、流されていく自転車を眺めながら膝から崩れ落ちるのを見て、その笑いが止まらなくなってしまった。


 誠意を感じたかは微妙なところだが、あまりにも哀れな姿を晒した彼をこれ以上責める気にはなれなかった。


 しばらく豊富な肉類や適度にお酒を飲み食いして楽しんでいると、いつの間にか橙色に染まった空が海にまで滲んでいる。


 バーベキューをすると聞いて急遽昼飲みに変更し、二次会としてここに来ると言っていた僕の友人達も到着した。


「集まってみると思ってたより、かなり人数多いよね。」


 自分が呼んだ友人達と話していたニイナが、追加の飲み物を取りに来た僕に話しかけてきた。


「盛り上がってるよね。楽しいけど少し疲れてきたよ。」


「普段家から出ないからでしょ。いっぱい食べて体力付けなさいよ。」


「お母さんみたいなこと言うな。」


 普段のインドアな生活の影響で、外で活動するとどうも体力の消費が激しい気がする。


「ニイナってあんなに友達多いのに何で普段一人で大学いるの?僕の友達と祥吾の友達にも知り合いいるみたいなのに。」


 今日の彼女の社交的な一面を見ていると、大学での行動を疑問に思った。皆で話しているときの中心も彼女だったような気がする。


「特に意味はないけど一人でいるのが好きだからかな。周りにあわせて行動するのちょっと苦手なの。」


 一人が好きだからあえて一人でいる。人生で一度は言ってみたい台詞だ。彼女の友人達のようなキラキラした人種が寄ってくるだけでも羨ましいのに、それを自ら手放すとはなんと贅沢な。


「ハルはちょっと笑顔を増やすだけで私なんかよりもっと人が寄ってくると思うけど?いつも仏頂面過ぎるよ。」


「そんな顔してる自覚ないけどな。それにそんなに寄ってこられても困るし。」


「こんくらいでバテてるみたいだしハードル高いか。どうせ笑っても顔引きつってるんだろうし。」


「爽やかな笑顔くらいできますー。僕の接客モードの爽やかさなめないでくださいよ。おばちゃん達に大好評だから。」


「へえー。南さんにハルがバイト中どんな感じか聞いたら接客の笑顔がどうしてもぎこちないんだよなって言ってたけどー。」


 南さんから僕のことを聞いていたのは想定外だった。案外見抜かれているらしいので普段から気を張っておこう。


 思った以上に仲良くなっている二人に一緒になってからかわれてはたまったものではない。


「よく見てんな。それにしても南さんとすごい仲良くなったよね。今は酔っ払って寝てるけどその直前くらいまでずっと話してたじゃん。」


 開始からかなりのペースで飲んでいた南さんは、早々に酔っ払ってすさまじい勢いでほぼ全員に絡んでいき、遂には力尽きたようにころっと眠ってしまった。


 彼女は自分の知り合いは呼んでおらず、少し気まずい思いをしないだろうかと心配したのだが、ニイナと意気投合したり祥吾が連れてきた友人達と飲み比べを初めたりと、誰よりも楽しんでいるようだった。


「まーね。南さん見たいな雰囲気の人って、ダウナー系っていうのかな?私もそっち路線目指そうかな。」


「ニイナからああいう大人っぽい色気は出ないでしょ。今のが一番良いよ。」


「あら、本気出したら凄いわよ。」


 正直ダウナーな感じでも似合うんだろうなと思ったが、僕は今のニイナがしっくりくる。本人には口が裂けても言わないけれど。


 それからニイナが「あそこ海が綺麗に見えそう、付いてきて」と言ったので、皆がいるところから少し離れたところにある、テトラポットが並ぶ海岸まで移動して二人で海を眺めた。


 今日来ているお互いの友人のことや最近バイトであった面白い出来事の話で盛り上がり、橙色に輝いていた夕焼けの空が、黒に近い淀みのない藍色に変わるまで語り続けた。大人数でわいわいと食材を囲んでいる時間よりもあっという間で、心の底から楽しい時間だった。


「南さんやっぱり最初無理してたみたい。でも皆優しいし、盛り上げ上手な人たちばっかりだったから安心したって。ハルも南さんが楽しめるか心配してたんでしょ?皆でいるときによく話振ったりしてたし。南さん感謝してたよ。」


「二人でそんな話してたんだ。僕は特に何もしてないけど。でも、あの人勝手に皆と仲良くなってたな。何だかんだ人に好かれそうな人だし。」


 僕には南さんが無理をしているようには見えなかった。


 やはりニイナは、人を見る目に関してかなり優れている。人の気持ちを汲み取るのも上手いのだろう。


「これからも南さんと仲良くしたいな。夏休み中に祥吾君も合わせて四人でも遊べないかな。」


「就活とかで忙しそうだから難しいかもなあ。戻って聞いてみるか。酔いが覚めて起きてたらだけど。」


「ふふっ。そうだね、だいぶ長く皆と離れちゃってたし戻ろうか。」


 本当はもう少し二人で話していたかったが、あまり長く離れすぎると皆に心配をかけてしまうかも知れない。


 すっかり暗くなってしまった海岸沿いから落ちないよう、明るいところに出るまでニイナの手を引いて歩いた。僕の体温が勝手に熱くなっていただけなのかも知れないが、初めて触れた彼女の手から伝わってくる体温は、酷く冷たく感じた。


 足下がしっかりと見えるようになってきたところでふっと、彼女の手が離れた。


「暗かったから落ちないようにしてくれたんでしょ。ありがとね。」


 黙って勝手に手を掴んだのはまずかっただろうか。


「いや、急に掴んでごめん。」


 少し、僕らの間に沈黙が流れる。薄く掛かっていた雲が風に流され、月明かりがはっきりと彼女の可憐な顔を照らす。ほんの一瞬、迷っているような表情を見せたがすぐにいつもの笑顔に変わった。


「嫌じゃないよ。嬉しかった、気遣ってくれて。」


 彼女に嫌悪感は与えてなかったようだが、少し調子に乗ってしまったのではと反省した。


「だったら良いんだけど・・・。」


「びっくりして惚れるかと思ったよ。照れることしてくれるじゃん、このー。」


 まだ衰えることなくコンロの中で燃え続ける炎が見える。肩を突かれながら、皆のいる方へと向かった。照れてしまっているのは僕の方だ。しばらくニイナの顔をまともに見ることが出来なかった。




 四人で集まれる日はバーベキューの日からそう遠くない日に訪れた。南さんは志望していた企業の中から内定をもらったため、遊びに出る余裕が出来たそうだ。


 八月の終わりになり、夏休みも後半に差し掛かっている。昼間にボーリングやカラオケをして、帰りにニイナとよく行く公園の近くにある居酒屋に入った。皆さっきまでカラオケで叫びまくってヘトヘトになっていたが、程よくお酒も入りまた生き生きとしてきた。


 あのバーベキューの日、二人でしばらく抜けていたことが主に話題となって盛り上がってしまった。


 南さんの質問攻めには堪えたが、前日からすでに南さんに詰められることを察して、ニイナと対策を練っていたのでなんとかやり過ごすことに成功した。


 あれからニイナは全く普段通りで、僕ばかり意識してしまっているように感じる。祥吾にはその様子がばれているようで、僕がニイナに対してぎこちない反応をしてしまう度にやりと笑って見せたり、他の二人にばれないように小突いたりしてくる。今日一日中この調子なので鬱陶しいことこのうえない。


 俺は聞かなくても分かっているよと言わんばかりの表情が腹立たしい。彼等が望むような展開は全く起こっていないというのに。


 あの日からニイナとの距離感を上手く掴めずにいる。彼女の方はこれまでと変わりなく接してくれるし、相変わらず僕の生存確認でもするように連絡をくれたりする。


 いつか言っていたカブト狩りも実行され、お互いの家にカブトムシのつがいが入ったケースが置かれている。三日間に渡って深夜の公園に呼び出され、飛んでは逃げてゆくカブトムシたちを追いかけさせられたのだ。どうやら今年は豊作だったらしい。


 いつまでもこの状態が続くのも悪くないのだが、彼女の心情が分からない以上これより先に踏み込む事が出来ずにいた。


 南さんからの質問攻めを上手く交わしていくうちに、ニイナの異常なキャパシティを持つ胃袋に話題が移った。揚げ物がもう入らなくなってきたなと祥吾が言った後、彼女はまだまだいけると言って唐揚げ四人前をもう一度頼み、一人で平らげてしまったのだから驚愕である。


 ニイナに釣られて食べ過ぎたため、しばらく休憩がてらスマホをいじっていた祥吾が、「お、なつかし」と言ってツイッターの画面を見せてきた。


「この動画俺らが中三の時よく見たよな。まじで撮った奴悪趣味だと思うけど。」


 画面に映っていた動画にはモザイクが掛かっていたが、古いマンションの五階にあるベランダから足をかけ、はっきりとは聞こえないが何かを叫んでいる男性が映っている。直後、窓から中学生らしき女の子が勢いよく飛び出してきて、腕を伸ばした。同時に男性が転落する。女の子も何か叫んでいるが、音声が乱れていて何を言っているのかは分からない。そこで動画は終わっていた。


「ああ、この女の子が突き落としたっていわれているんでしょ?ニュースにもなってなかったしフェイクかなんかだと思ってまともに信じなかったんだけど。」


「いや、その地域の新聞にはちらっと載っていたらしいぞ。結局自殺って事になってるみたいだけど、確かに突き落としているように見えるよな。」


 祥吾がそう言うと、南さんは持っていたジョッキを音を立てて置いた。少し不機嫌になったようにも見える。


「そのモザイクの掛かったはっきりしない映像でいろいろ言われてるの可哀想で仕方なかったよ。あんまり気分の良くないもん見せんな。」


「ですよね。すんません・・・。」


 ちょっと言い過ぎたと思ったのか南さんは祥吾の背中をバシバシ叩いて、「ま、変なつもりで言ったんじゃないのは分かってるよ。」


と、フォローを入れていた。


「いえ、無神経だったと思います!動画の女の子ほんとにごめんなさい。」


 スマホに向かって頭を下げる祥吾を横目に、当時の動画についての議論が同級生達の間で交わされていたことを思い出した。多くの意見は女の子が男性を突き落としたというものだったが、男性の自殺を止めようとしてのだという意見もあった。


 勝手に憶測が一人歩きし、やれ監禁されていただの援交の末のトラブルだの根拠のないデマばかりで真相が解明される気配もなかった。


 つくづく現代のSNS関連のトラブルはやっかい極まりないものである。人の失態や不謹慎な事故まで発信し、自身の正当性を保つための食い物にする風潮が根付いてしまっている。この動画に映っている少女は、匿名性を後ろ盾に、好き勝手に攻撃されていなかっただろうか。何を思っても傍観者の一人であった僕がこの少女に同情する資格などないのだろうが。


「そういう動画を撮る人って何が面白くて撮ってるんだろう。撮るだけでも理解できないのに拡散しちゃうなんてますます何考えてるからない。」


 無心に追加で頼んだフライドポテトを口に放り込んでいたニイナが手を止めてもごもご喋り出した。


「口の中無くなってからしゃべりなさいよ。」


「ハル、お父さんみたいな立ち回りは良くないな。男としてみられなくなるぞ。」


 南さんがこちらを見ながらにやりと笑いかけてきたが無視した。酔いが回ったのか隙あらばこういった絡みを繰り返してくる。


「おい、無視したな!」と軽快な反応をしてくれたので、わざとらしい苦笑いで返しておいた。


「きっとその時の承認欲求で何も考えずに投稿してんだろ。分かろうとするだけ損だぜ。」


「掘り返したの祥吾君じゃん。折角忘れてたのに。」


「あ、そうでした。申し訳ないです。」


 遂に祥吾はニイナにも安い頭を垂れ始めた。


 仲が良くなったのは良いが、本人は女の子に頭上がらないキャラで固定されてしまって良いのだろうか。不思議と楽しそうな顔をしているので、去年の失敗から改心したというより、変な扉を開きかけているようにしか見えない。


 真面目に議論を交わしていたのがこれまで通りの和気あいあいとしたおしゃべりに戻った頃、ニイナがようやく満腹になったようなので店を出ることにした。二次会に行こうという声も上がったが、あまりにもニイナの食べた量が多く、とても大衆居酒屋の会計とは思えない金額が出たので泣く泣く解散となった。僕ら三人は今後ニイナと飲食店に行くときは割り勘にしないでおこうと心に誓った。


 


「ちょっと花火でもして帰ろうよ。」


 帰り道の途中、あの公園に続く分かれ道に差し掛かったときに、前を歩いていたニイナが振り返った。


「公園で花火ってして良いんだっけ。」


「特に注意書きなければ大丈夫だったはず。ハルあんまり飲んでなかったでしょ?コンビニ行ってお酒も買ってこようよ。おつまみも一緒に。」


「あんだけ食ったのにまだ食う気かよ。唐揚げあんだけ食った後にポテトまで大盛り全部食べる女初めて見たわ。なんで太んないでいられるのさ。」


 「ん、生まれつき太んない体質なの。何だか今、はじめてハルの素っぽい感じ見れたかも。」


 彼女の突拍子もない発言に思わず言い方がきつくなってしまったようだ。これはいけない。


「素ではないと思うけど。まだ食べるのかってびっくりしちゃって。」


「ふーん。いつも素を出してくれたら嬉しいのにな。まあいいや!速く買いにいこ!」


 無邪気にステップを踏み出し、早く来てと急かす彼女が可愛らしかったので、見透かされたような居心地の悪さはすぐにどうでも良くなった。


 手持ち花火とそれぞれ好きなお酒を数本。おつまみというには些か多いように感じるスナックを買って公園に戻った。


「やっぱり買いすぎだよ。小学生の遠足じゃないんだから。」


 レジ袋からおびただしい数のスナック菓子が溢れ出てくる。僕はもう食べきれないと言ったのに、「それなら少しだけ」と言って四袋もレジに持ってきた時は流石に引いてしまった。


「ここに来たときは童心に返るって決めてるの。それにお菓子は別腹だから。よし、じゃあこのなかに水入れてきて。」


 空になったペットボトルを渡された僕は公園の奥にある水道で水を汲んだ。彼女はどの花火から始めようかと迷っているようだ。


 虫取りに続いて公園で手持ち花火をすることになるとは思ってもみなかった。彼女の友人達は彼女のこんな一面を知っているのだろうか。花火くらいは可愛いものだろうが、やはり土に塗れながら小さな公園で木の根元を凝視したり、掘り返したりする彼女の姿は全く想像がつかないだろう。


 花火の火を消すためならばと三本程多めに水を入れて戻ってくると、すでに彼女は花火に火を付け始めていた。


「見てみて。すっごいカラフルで綺麗じゃない?」


 数年ぶりに見た手持ち花火は思ったより激しかった。相変わらず寂しげな色で心もとなく点灯している二本の街灯が、手持ち花火の輝きにはちょうど良いコントラストとなって夏の終わりらしさを演出している。


「ほんとだ、派手だねえ。なんか夏の終わりって感じがする。」


「なに一人でクライマックス入っちゃってるんだよ。そういうことは最後の線香花火の時に言ってよ。」


「確かにそうだ。」


 それから僕らは、二人でするには少し多い花火を時間をかけて消化していった。途中で僕も彼女と一緒になってはしゃいでしまい、二本持ちをしてみたりオタ芸のように振り回したりしていた。


 残りが線香花火だけになると、これまで騒いでいた僕らも、静かに小さな火の玉に魅入っていた。


「私ね、最近友達から少し避けられてる気がするの。」


 唐突に彼女がつぶやいた。予想外の告白に危うく花火を落としそうになる。


「え、この前のバーベキューの時はそんな風に見えなかったけど。ニイナが話の中心にも見えたし。」


 彼女が呼んだ友人以外とも知り合いが多くいて、皆彼女に好意を寄せていたようにさえ感じた。


「あれから少ししてなんだけど、みんな急に私と接するのがぎこちなくなってきてるの。夏休みの最初に遊んでた子達とたまたま会ったときもそうだったし。」


 女の子特有の面倒くさいいざこざでもあるのだろうか。もしそうだとしたら女社会がどんなものか全く分からない僕に相談されても力になれないのだが。


「急にそんな感じになるのは不自然だね。ケンカとかではないの?」


「特に誰かとケンカしたとか言い合いになったとかは全くないよ、本当に急に。ラインも皆すごく返信が遅くなってるし、返信すらしてくれない子もいるの。」


「そうなのか。僕と祥吾の知り合いにさりげなく聞いてみるよ。ニイナの友達にはばれないように。」


「うん。なんかごめんね、辛気くさい話しちゃって。」


 彼女は残り二本になった線香花火を僕に一本渡して、「最後の線香花火だよ。どっちが長く続くか勝負ね。」といつもの笑顔でにっと笑ってみせた。彼女のように人の感情に聡いわけではない僕でも、これは無理に貼り付けている笑顔なのだとわかった。


 普段おどけた姿しか見せない彼女がはじめて自身の抱えているもの話してくれたのだ。何か出来ないものかと考えたが、彼女を取り巻く環境がどういった状況にあるのかが全く分からない。


 人の知らない部分が多いことが、こんなにももどかしかったことはなかった。


 線香花火はニイナの方が早く落ちた。僕の方はしばらく耐えていたが、程なくして力尽きてしまった。終わってしまうと無性に寂しくなる感覚がどこか懐かしさを感じさせた。


 小さい頃にも同じ気持ちになったことがある気がする。


「また来年ここで花火しようね、約束。」


 約束という言葉を聞くと悲しくなるのは、なんでだろう。




 八月に入ってから僕は、よくバイトに入るようになった。七月に大学のテストなどであまり入れなかった分を取り戻さなければならない。奨学金を借りているとは言え、ある程度貯金に回しておかないと安心できないのだ。


 特に今年に入ってからは人と外で会う機会も格段に増えたため、自然と出費も大きくなっていた。


 喫茶店に入り、先に着いていた島崎さんに挨拶をして準備に取りかかる。今日はお客さん少ないだろうと彼から聞いたので、ゆっくりできそうだ。シフトに入っているのは祥吾だけなのだが、いつも通りまだ来ていない。すべての席にコースターなどをセッティングし終わった頃にようやく祥吾が到着した。


 小走りでスタッフルームに入っていき、ドアの向こう側で「遅れました!すいません!」とはっきりと聞こえてくる。もう少し早く来るだけで時間通りに着くのに毎度懲りない奴だ。


 着替え終わった祥吾もカウンターに出てきた。


「なんでいつもちょっとだけ遅れてくるんだよ。あと五分だけ早く出てくればいいだけなのに。」


「いや、なんか気が散って足止めされちゃうんだよ。外の広告とか隣の古着屋から良い感じの服が見えると思わず立ち止まってしまうし。」


 僕なんか少し遅れそうになると家の鍵を閉め忘れそうになるほど焦ってしまうというのに。つくづく暢気というか楽観的だなと思う。


「この前居酒屋から出てお前らと分かれた後さ、南ちゃんと二件目いけた。」


「え、まさかお前。」


「その後すぐ帰ったよ。次の日も用事あるみたいだったし。それにもう俺は一時の感情に流されないようにしてんだよ。長い目で南さんと関わってんだ。」


「へー、なんか気持ち悪。」


「おいおい、友達が折角改心してんのにそれはないだろ。」


 一年の頃からは想像も出来ない変わりように感心はしている。彼のようなタイプの大学生がたった一年間でここまで落ち着くものだろうか。


「そっちこそどうだったんだよ。南さんめっちゃ気になってたみたいだぞ。」


「あの人お節介すぎるよ。前も二人でシフトだったときに上手くいってるのかだの、こうしてみたら良いだのアドバイスみたいなこと言われたし。ただ冷やかしてるだけな気もするけど。」


「ホント人の色恋沙汰好きだよな。でも俺もお前らが実際どうなのか気になってるぜ。」


「特に何もなかったよ。公園で花火してただけ。」


「え、なんかめっちゃロマンチックなことやってんじゃん。」


 花火は確かにロマンチックだったかも知れないが、今までの虫取りを主にした子供っぽい遊びの記憶が先行してしまい、ドキドキするような思い出があまり浮かんでこなかった。


「こっちもその後すぐ帰ったけどね。君らが期待するようなことは一つもありませーん。」


「お前はもっとガツガツいけよ。全然いけそうだと思うけどな。」


 ニイナとは良い感じになっていると言えるのだろうか。仲良くしてくれている友達だという線引きがどこかでされているのではないかと考えてしまう。


 少し彼女自身の悩みを打ち明けてくれるようになったのは進展していると言えるのかもしれないが、これ以上先に進むような雰囲気はなかった。


「どうなんだろうな。あんま自信ないかも。」


 ニイナのことを考えていたら、公園で話していたことを思い出した。


「そういえば祥吾ってニイナの友達とも知り合いだよね。」


「おう、バーベキューの時来てた子達だろ?サークルの時から今でも仲良くしてく子とか講義が同じ子とかもいる。」


「ニイナとその友達が上手くいってないとか聞いたりしてない?」


「さあ、聞いたことないな。凄い仲よさそうだったけどどうかしたのか?」


「いや、聞いてないなら良いんだけど。もしニイナとの間でなんかトラブルがあるって人がいたら教えてほしいんだ。」


「分かった、なんか事情があるんだな。ニイナちゃんの友達には言わないようにしておくわ。」


 深く詮索せずに察してくれることに感謝した。僕より顔の広い彼なら何かしら情報を掴んできてくれるだろう。他力本願になるのも嫌なので、ニイナの友達と交友がある知り合いにもそれとなく聞いていたのだが、あまり有力な情報は得られていなかった。


 しばらく来店した何人かを接客していると、スーツ姿の南さんが扉を開いた。


「こんにちはー。お、ハルお疲れ。島崎さんいる?」


「お疲れ様です。今厨房の方にいますよ。」


 金髪の髪を黒染めした彼女は、機嫌が良いようで、いつものぶっきらぼうな表情を崩している。


「就活上手くいったんですか?」


「そうなんだよ。第一希望の会社の今日最終面接だったんだけどその場で内定もらえてさ。島崎さんに報告していこうと思って。」


「それは良かったですね、おめでとうございます。島崎さん呼んできますね。」


 厨房の方に行き、島崎さんに南さんが来ていることを伝えて僕は代わりに厨房に残った。


 カウンター席に座った彼女の話を嬉しそうに聞いている島崎さんの様子をみて、二人が本当に親子のような関係性に思えた。祥吾も心なしか、以前よりに親しげに彼女と話しているように見える。距離を縮められたようで良かったが、近いうちに二人の間に入る隙がなくなってしまいそうだと感じた。


 その前に南さんがこのバイトを辞めて、会う機会も減ってしまうのだろうけど。


「ありがとうハル君。もう表に戻って大丈夫だよ。」


 ひとりで感傷に浸っていると島崎さんが戻ってきた。


「南さんももっと島崎さんと話したいんじゃないかと思うんですけど。厨房の仕事も大体覚えましたし。」


「南さんがハル君とも話したいって言っていたよ。これから彼女がここで働くことも少なくなってくるだろうから行っておいで。」


「わかりました。ありがとうございます。」


 カウンターに戻った僕は改めて南さんに祝いの言葉を贈った。まだ面接を控えている会社がいくつかあるらしいのだが、一旦内定祝いをしようという話になった。


「どうしよう、折角の祝賀会なのにニイナちゃんも呼ぶとなるとあんま良いとこいけないぞ。」


 祥吾がわざとらしく額を手で押さえた。


「食べ過ぎるせいで相場の三倍は持って行かれるからな。日雇いのバイトでも探すか?」


「いいよ、内定もらっただけだしそんな良いとこに連れて行こうとしなくても。」


 三人でしばらく頭を悩ませていると、島崎さんが厨房から出てきて近くにいた僕に四枚のカードを渡してきた。


「何ですかこれ?」


 僕が尋ねると、島崎さんは黙ったままカードの裏側を指した。ザ・セレスティアルグランドホテルと書いてあった。


「え、これってめっちゃ高級なホテルの招待状じゃないですか!なんでこんなもの四枚も持ってるんですか!」


 覗き込んできた南さんが飛び上がった。名前は聞いたことがあったが、庶民の僕にはどれほど高級なホテルなのか想像がつかなかった。


「南さんはずっと頑張ってくれていたからね。食事だけの招待状ではあるんだけど是非みんなで行っておいでよ。」


「良いんですかこんな凄いところのやつ。折角だから島崎さんも一緒に行きましょうよ。」


「私はもうバイキングを楽しめるほど胃袋が若くないからね、若い者達だけで楽しんでおいで。」


 そういって厨房の方に彼は戻ってしまった。あまりにもかっこ良すぎる彼の背中に向かって僕らはありがとうございますと揃って頭を下げた。


 自分があのくらいの年になった時に、あんなにダンディーで渋い男になれているのだろうか。全く逆のどうしようもないおじさんになることは想像に容易いのだが、彼のようになっている未来は想像できなかった。


「こりゃ勝てねえな。」


 祥吾が消え入りそうな声でつぶやいた。男としての完成形を目の当たりにした彼は羨望の眼差しで島崎さんを見ていた。


「うわー。凄いのもらっちゃったな。ホントにもらって良かったのかなこれ。」


「あの人何者なんでしょうね。たまたまあったからみたいな感じで出てこないでしょ。これ。」


「まあ凄い人なのは知ってたけど・・・。ニイナちゃんに一枚渡しといてね。」


 南さんは何か知っているようだったが、用事を思い出しすぐに帰らなければならないようで、聞きそびれてしまった。


「じゃあまた日程のことラインで連絡するわ。バイト頑張って。」


 僕と祥吾に別れを告げ、厨房にいる島崎さんにもう一度お礼を言って彼女は店を出た。祥吾は自分も何かサプライズをしようと張り切っている。僕も何か渡せると良いのだが、南さんがどんなもので喜んでくれるのかいまいち分からなかった。


 僕らは以前作っておいたグループラインで日程をいつにしようか話たりして、祝賀会の日をとても楽しみにしていた。


 しかし、その日が訪れる事はなかった。次の日の夜に、彼女が喫茶店からの帰り道で倒れていたと祥吾から連絡が入ったのだ。




 九月に入り、大学の成績発表も大方分かる時期となった。二年の前期の評価も去年と違わずギリギリのものであった。これ以上単位を落としてしまえば留年も現実的なものとなってしまう。落とした講義を担当している教授に救済処置をもらえないかという旨の懇願メールを送るか迷ったが、文字を打つ気力すら沸かなかった。


 南さんが倒れてから一週間が経つ。


 なぜ倒れたのか、今の容態がどうなのかも分からない。身近な人が倒れた経験がなく、南さんがどんな状態なのかを知るのが怖くなり、中々お見舞いにも行くことが出来なかった。


 三日ぶりに祥吾から連絡があり、身体的な傷害はないものの精神的なダメージが大きいようだと知らされた。彼は何度かお見舞いに行っていたようで、南さんがすぐに意識を取り戻していたこと、彼女の両親や島崎さんが来ても口をきくことはなく、塞ぎ込んでしまっていることを教えてくれた。精神的な問題なので、数日後には退院して自宅療養になるらしい。


 ニイナも南さんの事情を聞いて心配していたようなので、僕がお見舞いに行く日についてきてもらうことにした。


 南さんが入院しているのは自宅の最寄り駅から五つほど離れた駅の近くにある病院で、入り口まで来ると先に来ていたニイナが立っていた。


「おはよう。今日祥吾君は来ないんだよね。」


「うん。ほぼ毎日お見舞い来てたみたいだけど流石に自分の用事もあるだろうからさ。」


 今日は自分が行けないから代わりにお見舞いに行ってきて欲しいと言われていた。


 お願いされなくとも退院前に一度は顔をだすつもりだった。


「南さんがなんで倒れたか聞いてないの?」


 病室のある五階に向かう途中でニイナが恐る恐ると言った様子で質問してくる。


「聞いてないな。祥吾が分かってるかもしれないけど直接言ってくるまでは無理に聞かない方が良いんじゃないかと思って。」


 ニイナも南さんがどんな状態なのか知るのが怖かったのかもしれない。


 エレベーターを出ると、南さんの病室から出てくる男性が見えた。僕らが病室に向かっていることに気づいたその男性が会釈をして、近づいてきた。


「もしかして南のお知り合いですか?」


「はい。バイト先の後輩でいつもお世話になってます。僕は遠野と言います。こっちは友達の近衛です。南さんのお父さんですか?」


「はい。あ、申し遅れました、南の父の桃瀬俊と申します。」


 共働きの彼女の両親は、交代で仕事を休んで、どちらかが南さんの様子を見に来れるようにしているらしい。彼から南さんの容態を聞いて、大事には至らなかったことを確認できて安心した。


「南さんは精神的なダメージが大きいと聞きましたが、元から今回みたいに倒れたりすることってあったんですか?」


 ニイナが急に踏み込んだ質問を投げかけた。倒れた経緯もよく知らないのにそんなことを聞いて大丈夫だろうか。


「君もバイト先のお友達かい?」


 呆気にとられていた南さんの父だったが、怪訝な顔をするどころかどこか核心を突かれたような表情でニイナを見ていた。


「バイトは同じではないですけど南さんとは凄く仲良させていただいています。倒れたと聞いてから凄く心配で、何があったのか知りたいんです。」


 真剣な面持ちで話す彼女に南さんの父も親身になって聞いてくれた。


「僕も南さんが何かを抱えているのなら、それを少しでも楽になるようにしてあげたいです。」


 人の感情を汲み取ることに長けている彼女が言うのだから、南さんには何か人に言い辛い問題を抱えているのかも知れない。


 たった半年程の付き合いではあるが、ただのバイト仲間と言うには惜しいほど親しくしてもらっている南さんをこのまま放ってはおけなかった。


「そうか。祥吾君といい君たちといい、凄く優しい子達が周りにいるのか。・・・早いうちに話しておくのがいいのかもな。」


 そう言うと彼は南さんが生まれつき自閉症を患っていることを明かした。元々軽度のものだったのだが、十一歳くらいの頃から突然パニック発作を起こすようになり、日常生活にも支障を来すようになってしまったという。


 大学に入ってからはかなり落ち着いていたようだが、数年ぶりに起こった今回の発作は今までの中でも酷いものとなってしまったらしい。


 大体の事情を聞いた僕らは病室に入り、ベッドの隅でうずくまっている彼女を見て衝撃を受けた。いつもは凜として芯を持った輝きを宿している瞳も、底の見えない黒色に塗り潰され、虚空を見つめるばかりである。ぴんと伸びていた背筋も曲がり、全く生気を感じられない。なんとか元気なってもらえないかと声をかけたが、彼女はピクリとも反応せず、口を固く閉ざしたままだった。


 出会ってからの思い出を話したり、僕ら自身が彼女と過ごしていて楽しかった事などを伝えたりしたのだが、全く効果がみられない。


 数時間ほど南さんの病室にいた僕らは、これ以上いてもかえって迷惑になるのではないかと判断し、病室を後にした。


「力になれず申し訳ないです。」


 廊下の椅子に座って待っていてくれた南さんの父にニイナが頭を下げた。


「顔を上げてくれ。お見舞いに来てくれるだけでも嬉しいよ。また時間があったら来てくれるかい?」


「もちろんです。またお邪魔させていただきます。南さんの顔が見れただけでも良かったです。」


「母の方にも君たちのことを伝えておくよ。今日は本当にありがとう。」


 僕らがエレベーターに乗るまで彼は深々と頭を下げていた。扉を閉める前にお辞儀を返して、一階のボタンを押した。


 病院から出た時に見たニイナの目には、微かに涙が浮かんでいた。南さんの普段からは想像もつかないような衰弱しきった顔を見て、かなり心を痛めてしまったようだ。


「南さんがあんなことになってるのに何も力になれないなんて。」


「ニイナがそこまで思い詰める必要はないよ。またお見舞いに行って顔を見に行こう。」


 彼女は頷いて涙を拭った。僕はそれを見ないように反対側を向いた。


 祥吾は今どうしているだろうか。あの日バイトに入っていたなら直前まで一緒にいたはずだ。自責して、相当落ち込んだりしてしまっているのではないだろうか。


 せっかく仲の良い友人達が出来たのに、このまま原因も分からないまま崩れてしまうのはなんとしても避けたい。




 残り一週間程となった休暇期間、外出して楽しもうという気にはなれなかった。バイトに行く時以外は以前と同じように、自宅で怠惰に時間を浪費する日々。相変わらずニイナから連絡は来ていたが、彼女も僕を外に誘い出すような話はしてこなかった。


 ほぼ毎日のようにお見舞いに行っていた祥吾のことを気にして、何度か電話をかけてみたが、全く出る気配はない。


 バイト帰りのある日、僕の家の近くにあるスーパーで買い物を済ませると、上下スウェット姿の祥吾と出くわした。いつもは派手目な服装をしている彼だが、珍しく部屋着のままのようだった。


「ここ最近お見舞いに行く以外何してるんだよ連絡も返さないし。」


 しばらくバイトにも来ていない彼が心配だった事もあり、少し強い口調になってしまっう。


「すまんな。なんか色々考えちまってさ、あの日もう少し一緒にいたらとか、そもそも夜に女の人一人で俺らとは反対の駅に行ってたんだから送るべきだったんじゃないのかとか。何も出来ないのが悔しくて。」


 俯いて、懺悔するように語る彼の拳は硬く握られ、震えていた。


「気持ちは分かるけど・・・。バイトぐらい来いよ。僕か手伝いできてくれている島崎さんの知り合いが来ないとき、島崎さん一人で店回してるんだから。」


 僕が喫茶店のバイトをすることになったのは、祥吾が前のバイトの人が辞めて人が足りないから入ってくれと言ってきたからである。


 今も三人しかバイトがおらず客が多い時に一人や二人しかいないのは大変なのだ。島崎さんがそんな状況の中で、祥吾に何も言わないのは彼の心情を鑑みてのことだろう。


「そうだな、島崎さんも今体調良くないって言ってたみたいだし申し訳なかったな。明日からちゃんと行くよ。あと、南さんが倒れた原因ってまだわかんないだよな。」


「警察も事件性がないか調べてるみたいだけど、防犯カメラがないところだったし目撃者もいないから、何があったのか分かんないよなあ。」


 南さんの父から倒れたときの状況を聞いていたが、捜査が難航しているらしく現時点ではさっぱり分からないのだと告げられていた。


 彼女の持つ自閉症が、独りでに発作を起こすとも考えにくい。帰り道に何か原因となる出来事があったはずなのだ。


 僕は少し引っかかることを思い出した。


「そういえば前に変なおっさんが店に入ってきて何かぼそぼそ言いながらすぐに出てった事があったんだけど。」


「おっさん?どんな。」


「小太りで四十代くらいに見えたけど、白髪が多かった気がする。誰か探していた感じだったし。」


 その特徴を聞いた祥吾は、何か心当たりがあるようだった。俯いてしばらく考え込んでいたが、何か思い出したかのようにはっとして顔を上げた。


「見たことあるかも。何度か店の扉のガラス窓から覗き込んでた。変な奴だなとしか思わなくてあんま気にしてなかったけど。あいつがなんか関係してんのか?」


 あの男性は僕が見たときだけ来ていたのではなく前から怪しい行動を繰り替えしていたのか。


「これは明日からよく見張ってないといけないな。」


「おう。とりあえず今日は飯食って明日に備えるわ。」


 翌日バイトに向かった僕らは、島崎さんに例の男性の話について聞くことにした。しかし、厨房にいることの多い彼は外にいる人までは見ていなかったと言う。


 なんとかして情報を得ることはできないかと考えていると、今日訪れている客も中に常連が多いことに気がついた。


「祥吾、後でちょっとこっち来て。」


 注文を受け、厨房に伝え終わった彼を呼び止めた。


「今日は常連さんが多いよな。もしかしたらあのおっさんについて知ってる人がいるかも知れないから聞いてみる?」


「それいいな。あそこのおばさんとかよく声かけてくれるから行ってみるわ。」


 一年ほどここで働き続けている彼なら、常連さんとも気兼ねなく話せるだろう。僕も彼に任せっきりという訳にはいかないので、知っている顔に聞きに行くことにした。


「お待たせしました。アイスコーヒーです。いつもご来店していただきありがとうございます。一つ伺いたいのですが、この店の近くに少し小太りで白髪の多い四十代くらいの男性って見かけたことありませんか?」


「いや、見たことないですね。ある?そんな人。」


「私もないなー。」


 若い二人組の女性の常連さんが首を横に振る。


「そうですか。ご協力いただきありがとうございます。ごゆっくりどうぞー。」


 他の席からも呼ばれていたので、挨拶をしてその場を離れた。


 この後も常連と思われる人に聞いて回ったが、あの男性を目撃した人はいないようだった。祥吾も全敗だったらしく、特に有力な情報は出てこなかった。


「中々一筋縄ではいかねえな。」


「店に入ってきたのも僕が見たときだけだったかもしれないな。今思えば怪しさ全開だったのに何で放っておいてしまったんだろう。」


 明らかに誰かを探している様子だったのに、何故こうなることを予測できなかったのか。祥吾が思い詰めてしまっているのも、元はと言えば僕があの男性を放置したことが原因だったのかもしれないのに。


「怪しい人に取り合わねーのは普通だろ?自分を責めることはねえよ。根気よく探すしかないわな。またバイト入ったときに今日来てない常連さんがいたら聞いてみてくれ。」


 一番悔しい思いをしているはずの祥吾に励まされてしまった。僕らが自分の行動を引きずっていてはいけない。なんとか南さんが倒れた原因を突き止めなければ。


 この日から毎日のようにバイトに入ったのだが、やはりあの男性について知っている人はいなかった。何の情報も得られず、またひょっこり姿を現すこともなかった。


 そもそも南さんが倒れた原因が彼だとは限らない。この聞き込みにも意味があるのか分からなくなってきた。


 僕と祥吾がバイトに行っている間、ニイナが南さんのお見舞いによく行くようになっていた。ラインでお見舞いに行った日の南さんの様子を伝えてくれるが、僕らがお見舞いに行ったときからあまり変化は見られないらしい。見舞いの品にも手を付けず、ずっと自分の殻の中に閉じこもってしまっているようだ。


 明日から大学の講義が始まり、ここ一週間のようにずっとバイトに入ることができなくなってしまう。祥吾も遅刻せずに毎日来ていたのだが、全く尻尾も掴めずにいる状況にもどかしさを感じているようだった。


 今日はいつもより早く家を出てしまい、バイトの時間まで余裕があるので気分転換もかねて隣の古着屋に寄ることにした。


 たまに足を運ぶことがあるのだが、いつもは金欠で欲しい服があっても手が出せなかった。しかし先週はずっとバイトに入っていたので今日こそは何か買っていっても良いかもしれない。


 二つほど買いたい服の候補が決まって、どちらにしようか迷っているとその様子を見守っていた店員が声をかけてきた。


「お客様、こちらの二点でお悩みですか?」


「あーはい、そうなんです。今月はお金に余裕があるので買っていこうと思って。ここのお店で一度買ってみたかったんですよね。」


 いつも見るだけ見てすぐに出て行ってしまうことを申し訳なく思っていた。


「あ、そういえばいつも見に来ていただいていますよね。ありがとうございます。つかぬ事を伺いますが、隣の喫茶店の店員さんですよね?」


「そうですけど。」


「すみません個人的なことを聞いてしまって。そちらのお店から来られたお客様が最近若い店員さんが人捜しをしているという話を聞きまして。」


「ええ、そうなんです。」


「先月に入ってからそちらが探してらっしゃる白髪の多い小太りの中年男性がよく隣の喫茶店を除いていたのが見えていたんですよ。喫茶店側にある窓からよくその方が来ているのを目にしていました。」


 今まで掴めなかった情報が、向こうから飛び込んできた。


「何時頃によく来ていたとか分かりますか?」


「うちが店を閉めるぐらいの暗い時間帯によく来てましたね。段々現れる頻度も増えてきて。電柱や向かい側の路地に隠れていることが多かったので、喫茶店の方からだとわかりずらかったんじゃないかと思います。でもここ最近ぱったり来なくなったんですよね。ちょうど二週間くらい前から。」


 南さんが倒れた時期と同じだった。あの男性が南さんの倒れる原因となった可能性がかなり高まった。だが、来なくなってしまったのではその場で捕まえることができず、聞き出すことが困難になってしまう。


「どこから来ているとかはわかりませんか。」


「そこまでは流石に・・・。こちらでも何か分かった事があればすぐにお教えします。」


 この場ではあの男性が犯人となる可能性が確実と言えるほど高い事が分かったが、後はどうやって探すかを考えなければならない。


 古着屋の店員と話しているうちに、バイトの時間を過ぎてしまっていたので次のバイトの時に見ていた二つの服を両方買うことを約束して預かってもらった。


 僕は滅多に遅刻しないのに、祥吾にからかわれるのはあまりに尺だ。一度だけ夕方まで寝過ごしてしまったときに、たまたま時間通りに来ていただけの祥吾に散々馬鹿にされた事がある。流石に頭にきて島崎さんの後ろに隠れてあの捕食動物のような眼光を光らせる目で睨み付けてもらったものだ。


 喫茶店に入っると、ちょうどスタッフルームから出てきた祥吾に話しかけられるより早く彼を連れ戻し、口を開かせまいとまくし立てるように古着屋の店員が言っていたことを伝えた。


「それってほぼあのおっさんがなんかしたって事で確定じゃねえか。」


「ほぼだけどね。それにもう来なくなったってことは探すのがあまりに大変になってしまったってことなんだよな。」


「そいつが住んでるところとかが、分かるわけじゃねえしなあ。」


 折角、解決の糸口が見つかったと思ったのにこれでは更に難航してしまったようなものである。


「ただ店の中を何度も見に来ていたってことは何かしら怨恨のようなものがあったんじゃないかと思うんだけど。」


「それなら南さんがそいつを知っていたかもしれねえな。聞けるような状態ではないけど親御さんとかもしかしたら分かるかもしれないし。」


 少しでも知っている可能性があるなら聞いてみるべきだろう。明日から大学が始まるのだが、講義は午前中で終わるので僕らはお見舞いに行ってみることにした。


「それはそうと、お前遅刻して」


 「じゃ、明日十四時に病院で、バイト頑張ろうな。」


 


 久しぶりの講義は例のごとく全く頭に入ってこなかった。休暇中は寝ていたはずの午前中の講義だったことも原因の一つだが、やはり南さんのことが気がかりになっていたことが大きい。


 いや、例え何も無くとも集中できていないのだから、引き合いに出すことは間違っていたなと反省する。


 ニイナも午後は何も用事がないと行っていたので、祥吾と三人で南さんの通っている病院へと向かった。退院した後も経過を見るために病院に通っているそうで、いつ彼女が病院に行く日なのかは彼女の父から連絡をもらっていた。


 病院に着くとまたも入れ替わりに出てきた南さんの父と鉢合わせた。


「こんにちは。三人できてくれるなんて珍しいね。南も喜ぶと思うよ。」


 僕はバイトで聞き込みを始めていたこともあり一度しか行けていなかったが、ニイナは僕とお見舞いに来てから何度か一人で行っていたようだ。彼から連絡をもらっていたのもニイナだった。


「こんにちは。今からお仕事ですか?」


「そうなんだ。近衛さんにもいつも来てもらっていたから本当に感謝しているよ。祥吾君も遠野君も時間を取って来てもらってありがとう。」


「いえ、俺が来たくてきているだけなので。これからも南さんが元気になるまでお見舞い来させていただきます。」


「そうか、助かるよ。では僕はこれで。」


 南さんに直接例の男性について聞くより、彼に先に確認しておいた方が良いかもしれない。タクシーを呼ぼうとする彼を僕は引き止めた。


「あの、一つ伺っても良いですか。」


 「あ、すまない。いつものことなんだけど会社に待ってもらっている時間ギリギリになってしまうんだ。後で連絡してもらえると助かるよ。それか十七時頃に母の方が迎えに来ると思うからその時聞いてくれ。」


 かなり慌てているようで、これ以上彼を引き止めることはできなかった。


 彼を見送ってから南さんがいる病室へと向かった。相変わらず南さんはうずくまってしまったまま、こちらを見ようともしなかった。


 「こんにちは、南さん。体調はどうですか?」


 祥吾が優しい声で話しかける。見たことのない表情で南さんに接する彼を見て、誰よりも彼女を心配して毎日のようにお見舞いに来ていたのだとこのとき分かった。僕とニイナも声をかけてみたが、やはり反応はなかった。


「あのおっさんの件、南さんに聞いてみても大丈夫かな。」


 祥吾が心配そうな顔で僕らの方を見た。


「大丈夫だと思う、私たちもいるし。もしも倒れた原因がその人なら何か思い出して反応してくれるかも。」


 ニイナが応えると彼は僕の方にも視線を向けた。僕は少し迷ってから、真っ直ぐ彼の方を向いて頷いた。


 ニイナの言うように、何か起きても三人もいれば大丈夫だろうが、南さんの父から一度発作を起こすと何かのきっかけで再発することが時々あると聞いていた。だが今回は人の特徴を聞くだけなので問題ないだろう。


「南さん。この間夜に四十代くらいの男の人に会ったりしていませんか。白髪の多い、少し太った男の人に。」


 恐る恐るゆっくりと南さんに伝えたが、彼女からの反応はなかった。


 このくらいの情報では何も思い出せないかと気を落としていると、それまで反応のなかった南さんがゆっくりと祥吾の方に顔を向けて、目を見開いた。


「先生の・・・こと?」


 かろうじて聞き取れるか細い声量だった。


「先生?その人が南さんの学校の先生とかだったんですか?」


 祥吾は話してくれたことに感動してしまったようで、倒れる前にその男性に会っていなかったのか。喋ってくれるようになって嬉しいなどと次々に言葉が溢れてしまっていた。


「祥吾君!待って!」


 ニイナが突然大声を出して前のめりになって話していた祥吾を引っ張った。急に引っ張られた彼は後ろによろけて壁にぶつかってしまった。


「どうしたの、ニイナ。」


 僕が驚いてニイナの方を見ると、絶望したような顔で南さんを見つめる彼女の姿があった。


「先生が来てるの?ここに?」


 段々と南さんの声がはっきりとしてくる。


 これまで無表情だった彼女の表情は、見る見るうちに怯えたような顔つきに変わっていった。


「け、欠陥品・・・ごめんなさい!ごめんなさい!いなくなるからもう黙って!何も言わないで・・・。いやああああああああああ!」


 身をよじるように激しく暴れ、すぐにうずくまってしまったかと思えば、また苦しそうにもがいて叫び声を上げた。あまりに激しい発作に一瞬怖じ気づいてしまったが、暴れ続ける南さんがベッドから落ちないように、すぐに祥吾と一緒に彼女を押さえた。


 ナースコールを押して自分でも近くにいる看護師を呼びに行っていたニイナが病室に戻ってきた。


 駆けつけた数人の看護師に離れるよう指示され、南さんから離れる。四人ほどで彼女が怪我をしないように配慮しながら、落ち着かせようと奮闘していたが、中々発作が静まることはなかった。終始彼女は自己否定するような言葉を繰り返し、泣き叫んでいた。


 僕らは南さんを苦しむ南さんをただ呆然と見ていることしかできず、何時間にも感じた五分間がたった頃、体力が尽きたのか南さんはようやく落ち着いてそのまま眠ってしまった。


 看護師に暴れ出した経緯を話し、今日は一旦帰って彼女の両親に任せることになった。


 あまりに衝撃的な光景を目の当たりにして、帰り道に口を開いた者は誰もいなかった。


 祥吾と別れるときに、僕とニイナはなんと声をかけて良いか分からずにいた。彼に、南さんに対して質問をして良いか問われた時、深く考えずに頷いてしまった自分の浅はかさが腹立たしくてしょうがない。


「こんなことになってしまってホントにごめん。じゃあ、また大学で。」


 最終的に判断したのは僕なのだ。決して祥吾が謝るようなことではない。


「祥吾君・・・!」


 ニイナが声をかけたがそのまま自分が乗る電車の方へと、足を止めることなく行ってしまった。


 なんと声をかけてもこれ以上はどうにもならない気がして、何も彼に伝えられなかった。


 


 後日南さんの両親から僕ら一人一人に連絡が来ていた。


 自分たちがまだ話していない事があったから、都合の良い日に話をしたいとのことだった。それから南さんの発作のことに関しては何も気にしなくて良いと言ってくれた。


 あれから南さんの情緒はさらに不安定になり、家族以外の面会ができない状態になっている。そのため、病院の近くにあるファミレスで話を聞くことになった。


 僕らがお見舞いに行く時間帯には南さんの父と会うことが多く、今日の話も彼が出向いてくれた。


「この間は僕の説明不足でこんなことになってしまって済まなかった。君たちが責任を感じることはないから大丈夫だよ。」


「いえ、軽率な質問で南さんを追い詰めてしまったんです。本当に申し訳なかったです。」


 南さんの父はいつもの優しい声でホントに気にしなくて良いんだと祥吾を諭した。そんな南さんの父の顔は、以前よりもやつれていて、クマも酷くなっていた。


「君たちがあの男性について知っているとは思わなくてね。最初から話していれば今回のようなことは起こらなかった。完全に僕の責任だよ。」


 そして彼は南さんに起こったある事件のことを話し始めた。


 


 南さんの自閉症が落ち着いてきたのは高校三年生になった頃だった。


 激しい発作を起こすことは十一歳の時を最後にほとんど無くなっていたらしい。だが、精神面はまだ不安定だったようで、休みがちな彼女はあまり授業に行けず、卒業に必要な単位もギリギリだったという。そんな状態では成績も良くならず、大学受験の日に緊張のあまり体調を崩してしまったこともあり、第一志望も滑り止めの大学も落ちてしまっていた。


 一年間浪人することになった彼女は近くの予備校に通うこととなり、そこで気のあう友人達もできたため、精神が安定して休むことなく勉強に励むことができるようになった。


 見る見るうちに成績を伸ばしていった彼女は特に記憶力に長けており、暗記系の科目はクラスの中でもトップの成績だったという。


 しかし、小学校の頃から学校を休みがちだった彼女は、どうしても数学のような応用を必要とする教科について行くことができずにいた。


 このときの南さんの数学の授業を担当していたのが、当時その予備校の講師だった例の白髪の多い小太りの男性だった。


 川村というその講師はスパルタ指導であったが、有名大学に数多くの生徒を排出してきた実績のある優秀な講師だったという。


 他の教科は優秀なのに数学だけは一向に成績が伸びない南さんのことを、彼は目の上のたんこぶのような扱いをしていたのだ。南さん以外の生徒が皆数学の偏差値が五十を超えるようになったのに、彼女だけがいつも四十前半しかとれなかったことに腹を立てていた。


 しかし、川村は教育熱心な面もあり、南さんを見捨てることはしなかったのだが、彼女に対しての指導の仕方は段々とエスカレートしていった。二十人ほどいる教室の中で彼女一人だけを立たせて、分かるまで座るなと言うような体罰に近い指導をするようになっていったのだ。


 大学の模試が近づいたときに予備校内でのテストが行われた事があり、そこでの南さんの成績は数学だけ最下位に近い成績だった。


 元々良かった他の教科は更に伸びており、校内でもトップの成績を叩き出した。川村のスパルタ指導は、精神面が安定していない南さんには合っていなかったのだ。


 リラックスして授業に集中することができず、叱られる恐怖でいっぱいになってしまい、上手く考えるとこができなく無なってしまったのだという。


 ついに我慢の限界になった川村は、テストの翌日の授業で南さんを立たせ、罵詈雑言を浴びせた。予備校に入ったときに伝えられていた彼女の自閉症を口に出し、お前は欠陥品だと言い放った。


 その言葉を聞いた南さんは今までは静かに我慢していたのだが、このときばかりは耐え切れずに今まで溜めてきたものも爆発してしまったようだ。


 突然泣き出し、叫びながら自分の参考書や筆記用具を川村に向かって投げつけた。その時も校内中の講師達が総動員で止めに入り、体力を使い果たした頃にようやく落ち着いて意識を失ったらしい。薄れゆく意識の中で「やっぱり欠陥品じゃないか」と言う川村の言葉が聞こえたのだという。


 この時は南さんの立ち直りも早く、なんとか受験本番までには立ち直り、僕らと同じ大学に合格した。


 それからは順調な大学生活を送ったのだが、就活の時の面接では自分が喋る番になると一人で立って発言しなければならない場面が多く、川村の授業のことを思い出してしまい上手く話すことができなかったらしい。それで大学を卒業した後に実家で一年間過ごしていたのだ。




「南は本来我慢強い子でね、川村という講師にどんな仕打ちを受けようと僕ら両親に一切弱った姿を見せなかったんだよ。周りの友達も彼が怖かったようで助けることができなかったみたいなんだ。南を一人で戦わせてしまったことを本当に情けなく思っている。」


 南さんの父が話してくれた内容は壮絶なものだった。優しい彼女のことだから、両親に心配をかけまいと隠していたのだろう。彼女の当時の心境がどれほど辛かったのかは計り知れない。


「その川村っていう人は今でものうのうと講師を続けたまま生活しているんですか。」


 怒りを露わにした様子のニイナが彼に問いかけた。いつもの柔らかい面持ちの彼女からは想像もつかないほど険しい表情になっている。


「あの時に今までの発言や教育方針が問題になって辞めさせられているよ。今はどこにいて何をしているのか全く分からないんだけどね。」


 南さんが発作を起こす直前に「欠陥品」と口にしていたことを思い出した。きっと倒れたときに川村が近くにいたに違いない。


「川村は僕らのバイト先に何度も現れていたんです。南さんが倒れたのもそいつが原因に違いない。警察にも捜索をお願いしましょう。それに、自分たちでも探し出してやりたいです。」


「確かに異動になった原因である南を逆恨みしている可能性はあるかも知れないな。わかった。予備校の方にも今どこに行ったのか問い合わせてみよう。でも、彼を見つけたとしても決して自分たちで捕まえようとしてはいけないよ。警察に通報するか、僕が近くにいればすぐに向かうから。」


 ファミレスでの会計は彼が済ませてくれた。南さんの父は僕らの身も案じてくれていたようで、帰り際にも念を押して自分たちで川村に接触しないように注意してくれた。


 心配なのは、彼から南さんの過去にあった出来事を聞いてからの祥吾の口数が少なくなり、時折先程のニイナよりも険しい表情を見せていたことだった。


 この間、南さんの発作を目の当たりにした次の日ですら、切り替えて普段と遜色ない態度で話せていた彼が、今回ばかりは怒りの感情が押さえられないようだ。


「祥吾、一人で捕まえようなんて思うなよ。川村が今の状態じゃ何をしてくるか分からないんだから。」


「わかってる。そんな馬鹿みたいに突っ走ったりしねえさ。」


「あんな自分勝手な先生がホントにいるなんて。南さんが可哀想でなんないよ。」


 ニイナも大分頭にきているようだ。二人とも危険な行動に走らなければ良いのだが。


 かくいう僕の内心も穏やかではなく、南さんをあそこまで追い詰めた元凶の思考が、全く理解できなかった。自尊心のため、思うようにいかない生徒の精神疾患まで持ち上げて攻撃するとはあきれたものだ。それで有名講師などと脚光を浴びていたなんて笑い話にも程がある。


 大方自分の実績に変にプライドがあり、自分の受け持った生徒から成績不良者を出したくなかったのだろう。身勝手にも限度という物がある。


 祥吾を見送ったあと、ニイナから久しぶりに公園に寄って帰ろうと誘われた。


 いつもは夕方以降に行くことが多く、人がいたことは一度もなかったのだが、昼間の休日と言うこともあってこの近所に住んでいるのだろう小さな子連れの親子が来ていた。


「南さんが発作を起こしてから、いつもより元気ないけど大丈夫?」


 いつものベンチに座ると、ニイナは僕と目を合わせて言った。


「そうかな。僕は祥吾の方が大丈夫じゃない気がして心配だよ。南さんが倒れたときも、今回発作を起こしてしまったのも自分のせいだって言ってたし。」


 最近人の目を見て離すことができていなかったかも知れない。久しぶりに見た彼女の目には、暗い感情で染まった人の心を明るい方へ引っ張る力があるようだ。否が応でも前を向けと言われているような気さえする。


「祥吾君は大丈夫だよ。南さんを元気にできる方法はないか、前を向いて頑張ってるんだと思う。自分のせいだって今でも考えてるのはハルの方じゃない?祥吾君が南さんに川村の話をする前に、最後に判断を委ねられたのはハルだったから。」


 どうやらニイナには見透かされてしまっているようだ。


 二人が自分自信を責めていないだろうかと心配していたのが、前を向けずに無意味な自責をいつまでも続けていたのは僕だけだったようだ。


「僕のせいで、祥吾にあんな思いをさせてしまったと後悔していたんだ。今は解決のために少しでもこれから何ができるか考えなくちゃいけないのに。」


「そうだよ、また面会できるようになったら三人で南さんに会いに行こう。」


 彼女に元気づけられ、南さんが元の生活を少しでも早く取り戻せるように、僕にもできることを考えようと思うことができた。


 この公園に来たことで、以前ニイナから友人との関係が上手くいっていないと明かされたことを思い出した。


「ニイナはあれから友達とはどうなの?最近上手くいっていないって言っていたけど。」


「うーん、まだなんとも言えない感じなんだよなあ。ぎこちない人とはあの時から変わってないし。南さんのこと考えてたらそんな悩み忘れちゃってたよ。」


 自分の抱えている問題もあるというのに、周りの人間のことを支えようとする彼女は本当に強い人間だ。


「そっか、ニイナもあまりため込まないで何かあったらいつでも言ってね。」


「うん、ありがとう。」


 彼女がこれだけ人の心情に敏感だと分かると、他人と上手くいっていないことがにわかには信じられなかった。何か余程のことがあるのではないかと勘ぐってしまう。南さんのようにため込んでしまわないように、僕が発散相手になってあげられれば良いのだが。


 


 南さんの父から再び連絡があったのはちょうど一週間後のことだった。


 川村は南さんの一件があってから県外に異動になっていた。どこで情報が漏れたのか、異動先で南さんの一件がばれ、居場所のなくなった彼は講師を辞めてこちらに戻ってきていたという。


 容疑者として川村を取り調べようと警察が動き出したようだ。


 あれから再び入院していた南さんは、少し安定したようで明日には面会可能になるようだ。


 ひとまず安心した僕はバイトの前に古着屋に寄って、以前お願いしていた服を購入することにした。しばらくバイトに来れていなかったので、取りに行けなかったのだが、親切にも二着ともとっておいてくれたようだ。


「遅くなってしまって申し訳ありませんでした。」


「いいんですよ、なんだか大変だったそうですし。」


「本当にありがとうございます。この服可愛くて逃したくなかったんですよ。」


「気に入っていただけたようで何よりです。そういえばこの前言っていた男性のことなんですが、数日前にまた喫茶店の前に来てましたよ。」


「本当ですか!やっぱり夜中に来てました?」


「はい、深くフードを被っていましたが間違いないと思います。」


 南さんが倒れた後どうなったのか確認しに来ているのだろうか。このタイミングでフードで身を隠すような行動をしているということは、やはり警察の捜査から逃れようとしているのだろうか。


「もし可能でしたらその男性が現れた時に知らせに来ていただけませんか。もしかしたら僕のバイト仲間を襲った奴かも知れないんです。」


「そうだったんですね・・・。わかりました。現れたらすぐに知らせに行きますね。」


 それからいつも通りバイトをこなし、夜の八時になった頃。


 南さんの様子を窺いに来ているのなら、今日も姿を現す可能性は十分にある。一緒に入っている祥吾にも川村が今日現れるかもしれないと伝えておいたので、僕よりも内心は穏やかではないだろう。


 最後の客が退店し、そろそろ締め作業に移ろうとしたときに静かに扉が開いて隣の古着屋の店員が入ってきた。


「きました。今向かい側の路地から覗いています。」


 彼の言葉を聞いた瞬間、祥吾が脱兎のごとく外に飛び出していった。


 僕も続いて、走って外に出て行き、彼を追いかける。いざ犯人かもしれない男が現れたことで、南さんの父から受けていた忠告など忘れてしまっているようだ。


「待て祥吾!危ねえぞ!」


 逃げ出した男を全速力で追いかけてゆく。長い足であまりに速く走る彼にはとても追いつくことはできなかった。


 大きめの道路に逃げられる手前で祥吾が男の腕を掴み、被っていたフードを引き剥がした。顔は以前よりこけていたが、白髪が多く少し太っている特徴が完全に一致している。


「お前、川村だろ。」


 僕がようやく追いつくと、祥吾と川村が取っ組み合いのような状態になっていた。


「答えろ!南さんが倒れてからも待ち伏せなんかしやがって!どーゆうつもりなんだよ!」


 祥吾から倒れたという言葉を聞いて川村が抵抗するのを辞めた。


「まだ出てきていないと思ったらそういうことか。また倒れてから塞ぎ込んでいるんだろ。結局欠陥品は欠陥品か。相変わらず情けない奴だなあ。」


「このっ」


 祥吾が殴りかかろうとすると、鈍く光る物体が祥吾の目の前に突き出された。


「っ・・・、そんなもので南さんをどうするつもりだったんだよ。」


 初めて包丁を突きつけられたであろう祥吾は、ゆっくりと後ずさりをした。それでも逃げられないように数歩下がっただけでそこからは動かなかった。


「祥吾危ないって!一旦逃げよう!」


 僕が呼びかけても彼は一歩も引かなかった。危険を顧みずに捕まえられる距離を保っているため、川村は逃げ出すタイミングを失っている。


「あの日もこうやって脅してやったんだよ。俺の作り上げた完璧な教育者像を崩した欠陥品がのうのうと幸せそうに生活してるなんて反吐が出る。アレが予備校で発狂して投げつけた物の中にコンパスがあってな、手の甲に大きな傷ができちまった。これで同じ傷を付けてやろうと思ったのさ。何なら欠陥品だとわかりやすく顔に付けてやりたいな!」


 左手の甲に刻まれた傷を見せつけながら、下品な笑い声を上げている。とても同じ人間とは思えない発言が僕らの感情を逆撫でる。


 激昂した祥吾が我を忘れて川村に掴みかかろうとしたとき、誰かが僕の横を駆け抜けた。


 祥吾を後ろに引き剥がし、川村が持っていた包丁を蹴り上げる。そのまま腕を掴んで投げ倒し、動けないようにがっちりと押さえつけたのは島崎さんだった。


「なんで逃げなかったんだ!死ぬかも知れなかったんだぞ!」


 彼は普段より何倍も恐ろしい形相で祥吾に向かって叱りつけた。


「さっき包丁突きつけられた時より怖えぇ。」


 そばにいた僕にギリギリ聞こえるくらいの小さな声だった。


 祥吾はおどけた様子で、僕に耳打ちする余裕を見せていたが、興奮が冷めたのか今になって刃物を突きつけられた恐怖が込み上げてきたようで、腰を抜かしてその場に崩れ落ちてしまった。


「大丈夫か?どこか刺さったりはしてない?」


 あまりに接近していたものだから怪我をしていてもおかしくなかったが、幸いかすり傷一つないようだった。


「僕は警察に連絡しますね。」


「いや、もう隣の店員さんにしてもらっているよ。事情は聞いていたが、全く君たちはなんて無鉄砲なことをするんだ。気持ちは分かるけれど、もっと冷静な行動をできるようになりなさい。」


「すみません、ホントにありがとうございます。てか島崎さん強すぎじゃないっすか。」


 川村を行動不能にするまでの流れがあまりに一瞬で、最初は何が起こったのか理解するのに時間が掛かってしまった。


「若い頃柔道をやっていてね。まだ勘は鈍っていなかったようだ。」


 どこまでも底が知れない人だ。人脈もあって頭も切れるし体術も備わっている。完璧超人とはまさに彼のための言葉であろう。


 すぐに警察が駆けつけ、川村は現行犯で連行されていった。事情聴取には島崎さんが行ってくれることになり、君らは疲れているだろうからと家に帰された。彼の容態があまり良くないことを知っていたので僕らが代わりに行こうとしたのだが、「本当に大丈夫だから。お店だけ閉めといてね。」と言ってそのまま行ってしまった。


「とりあえずこれで南さんが戻ってきても安心できるな。」


「早めに捕まってホントに良かったよ。祥吾はあんな無茶したら駄目だろ。南さんのお父さんにも自分で捕まえようとするなって言われてたのに。」


「ついかっとなってしまって。島崎さん来てくれなかったら死んでたかもなあ。」


 暢気に話しているが、目の前で友人が包丁を突きつけられるのを見せられたこちらはたまったものではない。


「危機感ないよなまったく。いつかホントに死ぬぞ。」


 川村が捕まったことを南さんに報告して、ひとまず安心させてあげられればいいのだが、何が引き金となってまた発作を起こすか分かない。僕らどう伝えればいいか分からず、途方に暮れていた。


「俺は明日南さんに報告しに行くよ。」


「川村のことを口に出して大丈夫かな。あの様子だとまともに聞いてくれないかもしれない。」


「もう安心して生活できるってことを先に伝えておけばいいだろ。いつまでもあの調子が続くようじゃ折角内定もらえてるのに採用に響くかもしれないし、可哀想だ。」


 今回の塞ぎ込み様は今まででもかなり長いものだと南さんの父も言っていた。確かにこの時期に一人で生活するのもままならない状態が続くのは良くないかもしれない。


「そうだよな・・・、僕も明日行くよ。ちょっとでも早く元気になってもらいたいな。」


 今日は非日常的な体験をしたため酷く疲れていた。家に着いてからはシャワーも浴びずにベッドに入りこみ、泥のように眠りにつく。


 結局解決してしまったのは島崎さんで、祥吾がかっこいいところを見せたという報告ができそうにないのは残念だ。


 いや、自分の命を省みず臆することなく犯人に向かっていった祥吾は十分かっこよかっただろう。でも、南さんはそんな馬鹿なことをするなと叱りそうだ。




 翌朝目が覚めると、昼の一時を回ったところだった。完全に午前中の授業は逃してしまっている。すぐにシャワーを浴びて午後の三限だけでも間に合うように外に出た。 


 祥吾は午前中しか授業がないようで、先に南さんの所に行っていると連絡がきていた。


 南さんを元気づけようと意気込んでいるようで、ラインの文面でも張り切っているのが伝わってくる。僕は大学の教室に着いたばかりだというのに、早く講義が終わればいいのにと、内心そわそわしていた。


 講義が始まる数分前に、ニイナが教室に入ってくるのが見えた。すぐに僕を見つけた彼女は手を振って、僕の座っている席までやってきた。


「おはようハル!昨日犯人捕まえたんでしょ、凄いじゃん。」


「僕は何にもできてないよ。ほとんどバイト先の店長が捕まえたようなもんだし、それまで引きつけていたのは祥吾だから。」


「いやいや、ハルが止めてくれなかったら俺死んでたって祥吾君がラインで言ってたよ。ホントに凄いよ。でも包丁持てる様な人追いかけたら駄目だよ。危なすぎるから。」


「それは祥吾にも言ってくれよ。川村を見つけた瞬間勝手に飛び出していったんだから。危なかしいったらありゃしない。」


 大学が後期になってもニイナと同じ講義があるとは思わなかった。僕らは学部は同じでも、学科が違うので同じ教室になることは少ないはずなのだ。


「この講義も一緒に受ける?」


「ごめん。友達が後から来ることになってるんだ。」


 彼女と良好な関係を保っている友人がちゃんといることに安堵した。入り口の方からニイナを呼ぶ、見たことのある子達が手を振っている。


「今日病院行くんでしょ?この講義が終わったら外で待ってるから一緒にいこ。寄りたいところもあるし。」


「わかった。じゃあまた後で。」


 お見舞いの品でも買いに行くのだろうか。


 友人のところに合流したニイナが何やら今の僕らの会話のことで話題にされているようだ。少し優越感に似た感情が生まれたが、後期になって一人で講義を受けることが多くなった僕と仲良くしていることを馬鹿にされているのかもしれない。そう考えるとなんだか一気に面白くなくなってきた。


 例に違わず講義をしっかりと聞き流し、九十分程の長い時間を過ごして教室を出た。入り口の近くで待っていたニイナと合流し、先程言っていた彼女の寄りたいところへと向かった。


「いつも降りる駅より大分手前だけどどこに行くの?」


 電車に乗車した駅から病院の近くの駅まで半分くらいのところで降りることになった。


「南さんが予備校に通ってたとき一番仲が良かった人を迎えに行くの。私、南さんのお父さんの話を聞いてから一人でその人のことを調べたんだ。お母さんの方がよく会ってたみたいで、今日一緒にお見舞い来てくれるように連絡してもらったの。」


「おお、その人が来てくれるなら南さんの気分も晴れるかもしれないね。」


「うんうん、あと南さんにあの時のことを謝りたいって言っていたって。側にいたのに、助けてあげられなかった事を後悔してるみたい。」


 一人で戦っていた南さんにとって、当時近くにいた人間からの励ましの言葉はとても勇気づけられるものになるはずだ。


 自分が追い詰められている状況で、周りからも手を差し伸べてもらえなかった彼女の孤独感は計り知れない。


 だが、南さんの友人もまた、辛かったのかもしれない。南さんが辛い状況の中、助けることができずにそのままになっているのだから。


 十分程歩いて行くと、ニイナが立ち止まり「ここだよ」と言って九階建てのマンションを指さした。


「あ、ちょうど出てきたみたい。あの人だ。」


 新築のように綺麗なエントランスから出てきたのは、南さんとは対照的に小柄で、慎ましい印象を与える女性だった。肩くらいで切り揃えられた綺麗な黒髪をしている。


「こんにちは。貴方が近衛さん?」


「はい、そうです。こっちは遠野って言ってよく一緒に南さんのお見舞いに行っていたんです。」


「そうだったの、仲が良いのね。良かったのかしら、私なんかが一緒にいっちゃって。」


 微笑みながら彼女が僕らを見比べている。あらぬ勘違いをされている気がしたが、南さんと同じタイプだと変に突っかかった方が余計面倒になるため、スルーしておく。


「い、いいんですよ!そんなんじゃありませんし!」


「あら、ごめんね。お似合いだなと思ってつい。私は青葉由里といいます。今日は誘ってくれてありがとうね。」


 青葉というこの女性から、南さんと似ているところが感じられる。ニイナは人の感情には聡いくせになぜこの手の面倒くさい絡みを上手く躱せないのだろうか。南さんの時もそうだったが、返答にテンパりすぎて更につけ込まれているではないか。


 病院に向かう途中でニイナが青葉さんに、予備校時代の南さんとの思い出を聞きたがった。青葉さんは少し迷っていたがどうしてもとニイナが言うので話してくれた。


 入ってすぐの授業の時にお互い引っ込み思案で誰も友人がいなかったことが、妙に親近感が湧いたのだという。勇気を出して青葉さんの方から声をかけると、飛び上がるほど驚いた南さんが面白かったようで、笑いが込み上げて止まらなくなってしまったという。


 今でこそ強気に見える南さんからは想像もつかないほどおどおどしていたらしく、青葉さんが笑っている間も怯えたような顔をして縮こまってしまっていたようだ。


 一部始終を見ていたクラスメイトもその様子に面白がって集まってきてすぐに多くの友人ができたそうだ。


 それから二人はお互いの似た部分が多いことに気づき、あっという間に仲良くなっていった。その過程で不安定だった南さんの精神はどんどん改善していき、本来の南さんとも言える今の人格が出せるようになっていったという。


 自身が患っている自閉症のことも明かしてくれたようで、二人の間には信頼感も生まれていった。


 凄まじい速度で成績も良くなっていく南さんに勉強を教えてもらったり、逆に南さんが憂鬱な気分になっているときは家まで迎えに行ったりと、支え合ってきたようだ。


 しかし、川村の件では彼の指導の仕方や実績も相まって逆らうことができず、追い詰められていく南さんを助けることができなかった。「私は大丈夫だから」という言葉の裏に隠されていたSOSに気づいていたが、川村の高圧的な態度に身がすくんでしまい、行動に移せなかったのだ。


 別々の大学に行ってからも彼女のことが気になって連絡をしてみたが、携帯を変えていたようで今日まで会うことができなかったという。


 青葉さんは自分の不甲斐なさと、今彼女がどうしているのか心配で仕方が無い感情を、ここ数年ずっと心の中で募らせていた。


「後悔してるの。今更何を思ったって遅いけれど、あの時南の苦しみを何で一緒に背負う覚悟ができなかったのか。きっと私なんかに会いたくないんじゃないのかなって。今更だけど考えてしまう。」


 唇を噛みしめる彼女からは、相当に苦しんできた様子が伝わってくる。自分が彼女の立場でも、南さんを助けることができた自信はない。


「あ、ごめんね。折角誘ってくれたのにこんなこと・・・。」


「南さんは大学でも気の合う友達を作って、楽しい大学生活を送っていたそうですよ。」


 俯いていた青葉さんが顔を上げると、ニイナは真っ直ぐに彼女の目を見て言った。


「あの後すぐに立ち直ることができたのも、人と打ち解けられるようになったのも青葉さんが南さんのそ側にいてくれたからだと思うんです。だから南さんもずっと会いたかったはずです!」


 青葉さんがはっとした表情をしたが、またすぐに視線を下にしてしまった。自分が今の南さんがいるための原動力になっていた事に気づかされたが、やはり手を差し伸べることができなかった事の罪悪感が大きいのだろう。


「僕も青葉さんと少し話しただけで、南さんがどれほど貴方に影響を受けてきたのか分かる気がします。他人のことを思いやれる所も、人に寄り添おうとするところも似ているなって感じました。」


「そんな風に考えたことなかったから・・・。ありがとう。ちゃんと南に謝って、また友達として側にいたい。」


 少し暗い表情をしていた青葉さんだったが、吹っ切れたようでとても素敵な笑顔を見せてくれた。


 しばらくして僕らが病院に着くと、祥吾が自動ドアから出てきたところだった。


「おー。今から行くのか。こっちの人は?」


「青葉さんっていう予備校の時からの南さんの友達だよ。祥吾はもう帰るの?」


「いや、ちょっとコンビニ寄ろっかなって。お前らが帰るとき一緒に帰るよ。南さん、まだ元気ないけど少しずつ話してくれるようになってきたんだ。」


 祥吾は青葉さんと軽く挨拶をして嬉しそうに南さんのことを話した。しばらく南さんとちゃんと会話ができていなかったので、僕とニイナも彼女と会うのが楽しみになっていた。


「よかった。ちょっとずつ良くなってきてるんだな。」


「おう、でも話してはくれるけどずっと俯いたままで表情も暗いんだ。まだ時間掛かるかもなあ。」


 祥吾はすぐに戻ると言ってコンビニへ向かった。僕らはそのまま南さんの病室に向かい、ドアをノックして扉を開いた。


 彼女の部屋からは風邪が強く入り込んでおり、思わず目を瞑ってしまった。


 窓辺に立っていた彼女が振り向くと長い髪が風邪で乱されて顔がよく見えなかったが、涙が頬を伝っているのが見える。その視線は青葉さんを向いていた。


「どうしてここに・・・。」


「久しぶり、南。髪染めてたんだ。」


「うん。」


「とっても似合ってるよ。」


 青葉さんの目からも涙がこぼれ落ちる。こらえようとしているのだが、止めどなく溢れてきて止まらなくなってしまっているようだ。


「ごめんね、あの時助けてあげられなくて。私南があんなに苦しんでたのに何にもできなくて。ほんとにごめん。」


 憔悴して頬がこけてしまっている南さんを見て、青葉さんは泣きじゃくり、崩れ落ちそうになった。すると南さんが駆け寄って彼女を抱きしめた。


「大丈夫。私は感謝してるの。あの時声をかけてくれて、それからはずっと側にいてくれた。由里がいてくれたから私は今生きてるんだと思う。由里は私にどう生きていったらいいか教えてくれたの。だからもう、泣かないで。」


 南さんははっきりと喋っていて、底のない暗い色をしていた瞳がいつものように芯のある輝きを放っていた。


「ごめんな、皆にも心配かけてたみたいで。何度もお見舞い来てくれてたみたいでホントになんてお礼したらいいか。」


「そんなお礼だなんて、来たくてきてたんですよ。元気になってくれて本当に良かった。」


 ニイナの目にも一杯に涙が浮かんでいる。南さんが彼女をなだめていると、病室のドアの方でドサッと何かが落ちる音がした。戻ってきた祥吾が口を開けたまま呆然と立っていた。


「南ちゃん・・・元気になったんですね。」


「ああ、不甲斐ないところを見せてすまなかった。祥吾は毎日のように来てくれてたな。ずっと話かけてくれて、とても勇気づけられたよ。ありがとう。」


 祥吾は「よかった、ホントに良かった。」と言って手で目を覆った。


「あれ、祥吾も泣いてる?」


「ちょっと、風が強かっただけだ。泣いてねえよ。」


「強がらなくていいんだぞ。」


 南さんが冷やかすと、祥吾は顔を真っ赤にした。普段絶対にしないような顔を見せた彼が面白くて僕らは吹き出してしまった。


 ようやく皆で心の底から笑い合える日々が戻ってきたことが嬉しくてたまらなくなった。僕の目尻も少し熱い。


 まだ残暑の残る九月だというのに、窓から入ってくる風はとても爽やかで涼しかった。




「結局川村が捕まってなくても南さんは立ち直ってただろうな。」


 駅のホームでブレスケアを噛みながら祥吾は襟元を直している。いつもとは違い綺麗めな格好をした姿は違和感でしかなかったが、僕が同じような服装で並んで座っていても着こなして見えるのは断然彼の方だった。


「バイトに戻ってきたときにあいつが来たら危ないだろ。お前のおかげで南さんは安心して来れてるんだからお手柄だよ。」


 南さんの内定祝いは島崎さんが招待してくれた敷居の高いホテルで行われるため、普段着ないような大人っぽいジャケットを選んだのだが、サイズが少し小さいのか窮屈さを感じていた。


 あれからすぐに普段通りの生活に戻った南さんは、これまでの穴を埋めたいと言って今まで以上にバイトに入るようになった。


 彼女も忙しいはずなのだが、島崎さんが更に体調を崩しやすくなったため、代わりに入ることが多くなっていた。川村確保の件で無理が祟っていなければいいのだが。


「そういえば南さんの今日の服装どんなだろ。いつもラフな感じのしか着てこないからかっちりしたのを着てくるイメージができないなあ。」


「確かに想像できないな。ニイナはそのままでも来れそうなのたまに着てくることはあるけど。」


「お前は意識されてていいよな、俺はバイトの延長みたいな感じでしか接してくれてないってことだぜ。少しは意識されてえよ。」


「別に僕も意識されてるわけじゃないと思うけど。祥吾はもっと自信持てよ。」


 少なからず南さんの祥吾に対する態度は変わってきている。毎日のようにお見舞いに行って話かけ続けていたのだから、彼の優しさに気づいて好意を抱いても何らおかしくはない。僕も彼にあんな一面があったとは知らなかった。


 招待されていたホテルにつくと、案内の人が出てきて僕らの席に通してくれた。


 食事をするだけなのに十階まで上るのは初めてで、祥吾もかなりテンションが上がっているようだ。


 綺麗な夜景が一望できる窓際の席まで案内され、真っ白なテーブルクロスが敷かれたラウンドテーブルの席に座った。ニイナと南さんは一緒に来るようで、まだ到着していなかった。


「なあ、ホントにこんなところの招待状なんてもらって良かったのかな。ちょっと僕にはハードル高いんだけど。祥吾?」


 僕が祥吾に尋ねるが、こちらを見ることもなく反応もない。どうしたのだろうと目の前で手を振ると、ようやく口を開いた。


「俺高いとこマジで無理なんだ。お前の席からだと窓見なくて良さそうだからちょっと変わってくれ。」


 祥吾が高所恐怖症だったとは思いもしなかった。席を立ってから、生まれたての子鹿のように足を震わせて移動する彼が面白すぎて、こっそり動画を撮った。


「下を見るから怖いんじゃないの?折角綺麗な夜景なのに勿体ないな。」


「どうしても視線が下に引っ張られんだよ。なんでここにいる人達は平気なのか逆に知りたいんだけど。」


 そろそろニイナ達が来ないかと入り口の方を見ていると、ちょうど二人が案内の人に連れられて僕らが座っている席にやってきた。


「うわーめっちゃ綺麗だな。まじでこんなところ来て良かったのか?場違いな気がする。」


「待たせてごめんね。ちょっと準備に時間かかっちゃって。」


 ニイナは喫茶店に行ったときに着ていたワンピースのような、スマートカジュアルな服装できていた。彼女は服装のレパートリーが多いので、毎回違った印象をこちらに与えてくる。


 周りの人たちと比べても遜色ないどころか一際輝いて見えてしまい、釘付けになりそうだったのですぐに視線を逸らした。


「さっき来たとこだし全然大丈夫。それより見てよこれ、生まれたての子鹿みたいな祥吾君。」


「あ、動画撮ってやがったのか!やめろこの野郎!」


「ちょっと恥ずかしいから大人しくしなさいよ。格好だけいっちょ前で中身ガキのまんまじゃないか。」


 南さんはフォーマルなドレスを着ている。


 ラフな服装を着ているところしか見たことがなかったため、全く別人のような雰囲気を醸し出している。整った顔立ちをしており、何でも似合いそうではあったが、ここまで変貌するとは衝撃だった。


「二人とも似合ってますね。南ちゃんの私服も普段からもっと色々見たいっすよ。」


「あんまりお洒落な服持ってないんだ。今日もニイナちゃんにどれがいいか選んでもらったし。」


 言われてみれば確かにニイナが選びそうな感じのドレスだと納得した。南さんが自分から選んでいる姿は確かに想像できない。


「あ、今なんか失礼なこと考えてないか?私がこんなの選ばないだろって。」


「まさか、普段とのギャップにびっくりしてました。ホントによく似合っていますね。」


 顔に出てしまっていたのだろうか。南さんの察しの良さも大概である。


 コース料理の説明がされ、先付けからすでに、僕のような貧乏大学生は中々食べられないようなメニューが運ばれてくる。


 それぞれのドリンクも運ばれてきたところで、祥吾が乾杯の音頭を取った。


「それでは南さんの内定と退院を祝いまして、かんぱーい!」


「かんぱーい!」




「南ちゃん、ホントに色々とお疲れ様でした。内定まじでめでたいっす。」


「ありがとう。今回は皆のおかげで元気になることができたよ。ささやかなものなんだけど一人ずつに用意してるから受け取って。」


 南さんは祥吾にネックレスを用意していた。数日前に南さんが、僕にさりげなく祥吾が欲しがっているものを聞いてきたのはこのためだったのか。


「うわ、これめっちゃ欲しかったブランドのネックレスなんすよ!マジでありがとうございます!てかなんで分かったんすか?」


「ないしょー。」


 思いも寄らないサプライズに彼はとても喜んでいた。南さんは僕と顔を合わせてウインクした。僕も同じようにウインクで返したつもりだったが、酷く引きつった顔を晒しただけだったようで、南さんが引いてしまった。


 僕の欲しかった物は祥吾から聞いており、シルバーのブレスレットをプレゼントしてくれた。祥吾のネックレスもそうだったが、かなり値の張るブランドの物だった。


 ニイナにはコスメ系をプレゼントしている。いつかニイナから、南さんはメイクがとても上手いのだと聞いていた。普段は殆どメイクをしておらず、それでもかなり綺麗な顔立ちをしているのだが、今日は場所に合わせてより綺麗に仕上げてきている。


「今日ね、服を私が選んでメイクを南さんにやってもらったの。いつもと違うの分かる?」


「うん、なんだか今日は大人っぽいよね。いつもと違って。」


「最後の一言いらないよー!いつもは子供っぽいとか思ってるんだ。」


「いや、そーゆうわけじゃないけど・・・。」


 こういう女の子の難しいところの扱いが未だによく分からない。何と言ってやるのが正解なのだろうか。


 南さんが隣から僕の手をつついた。手を取られ、何かを掴まされたので見てみると二枚のチケットがあった。十月に開催されるかなり大きな花火大会のチケットで、指定されている席も凄く良い位置のものだった。


「こんな物もらって良いんですか?凄く良い席のだし。」


「しっ!いいのいいの。ニイナちゃんといってきな。ハルから誘ったこと殆どないんだろ?たまにはバシッと良いとこ連れてってあげなよ。」


「わ、分かりました。僕もこんな大きい規模の花火大会行ってみたかったんですよ。ありがとうございます。」


 祥吾と話していたニイナがこちらの様子に気づいて振り返った。


「どうしたの?」


「いや、珍しく今日は食べるペースが遅いなって。」


 一瞬で出てきた食べ物を平らげてしまうニイナも、今回ばかりは皆のペースに合わせて食べているようだった。余計なことを聞いてしまったせいで、思い出したように彼女の腹の虫が鳴り出す。


 本人が溢れ出る食欲を抑えこんでいたというのになんだか申し訳ない。


「凄く美味しいのにちょっとずつしかでてこない・・・。余計おなか減る。」


「まあ、僕らが食べてもちょっと少ないかもって位の量だからしょうがないよ。」


「でもこんな美味しい料理食べちゃったら、他の料理なんて食べられなくなっちゃう。」


 なんておぞましいことを口にするのだろうか。彼女がここの料理を普段の勢いで食べようものなら、一ヶ月分のバイト代が消し飛んでしまう。


「今日はコース料理しか食べれないからね。追加で頼んじゃ駄目だよ。」


 目を潤ませて上目遣いでこちらを見てくる彼女に一瞥もくれず、取り合わないと決め込んだ。以前の居酒屋での失敗を繰り返すわけにはいかない。


 メインディッシュは高級なステーキに、トリュフなどがかかっている。


 二度とありつけないかもしれないご馳走を味わっていると、隣のニイナは数分もしないうちに平らげてしまった。なんともったいないことをするのだろうか。


「やっぱり四人で食べに行くときは食べ放題とかじゃないと駄目らしいな。」


 南さんがニイナに向かって言うと、かのじょは顔を真っ赤にしてしまった。ちゃんと恥ずかしいという自覚はあったようで安心する。


「二次会でこの前の居酒屋行くか?」


「え、いいんですか。食欲が促進されちゃってもっと食べたかったんです。」


「遠慮するなら行っても良いかな。」


 コース料理が終わる頃には僕らはまあまあお腹いっぱいになっていた。


 どうせニイナが食べきれるだろうと居酒屋に行くことになったが、正直僕は、もう何も口に入りそうになかった。


 常人からしたら味はもちろんのこと量もそれ程少なくないため、満足感がある。


 しかし、ニイナにとっては雀の涙程の量らしく、いくら美味しかろうが満たされるはずが無いのだ。




「あのステーキも美味しかったけど、デザートのアイスが今まで食べたアイスの中で一番美味しかったなあ。」


「一瞬でステーキ平らげておいて味なんて分かるの?ほぼ丸呑みだったじゃん。」


「丸呑みは誇張しすぎてるよ。ちゃんと我慢して一切れずつ食べてたし。」


 居酒屋に入るとすぐにニイナはメニューを物色し始めた。


 僕がトイレに行こうとすると祥吾も着いてきたので、南さんの一件があってから中々聞き出せなかったニイナの友人とのいざこざについて再び聞いてみることにした。


「南さんが倒れてから聞けなかったんだけどさ、ニイナと周りの友達のことって聞いてくれた?」


「おーそうだそうだ。そこまで詳しいことは聞けてなかったんだけどニイナちゃんと普段一緒にいる子の連絡先を教えてもらっててな。ハルにもその子の連絡先渡しておくわ。」


「良いのか?勝手に渡しちゃって。」


「その子はバーベキューの時から少し話すようになったんだけど、是非ハル君の連絡先も欲しいんだとさ。まあ、友達に寄りつく男がどんな野郎なのか見てみたいんだろ。」


 この前の大学の講義でニイナと数人の友人達のやりとりが頭をよぎった。


「その説全く否定できないの怖いな。」


「お、なんかやましいことでもあるのか。」


「なにもないけど。」


 携帯の画面にニイナの友人の連絡先が表示されている。みくりんと言う名前で登録されていたり、プロフィールがプリクラ画像だったりとまさに女子大生と行った感じのSNSの使い方をしている人だった。


 ただ、大学生にもなってみくりんで登録するのはいかがなものか。


「この人ホントにニイナの友達?」


「そうだけど。むこうは何回かハルのことみたことあるって行ってたぞ。」


 加工された顔写真しかなかったため、ピンとこなかったが、確かにバーベキューの時や大学の講義でニイナと一緒にいたところを見たかもしれない。


「トイレに長居するのもなんだしそろそろ戻ろうぜ。」


「うん。このみくりんって人に僕から聞いてみるよ。ありがとう、探ってくれてたみたいで。」


 席に戻るとニイナは既に炒飯二杯と餃子三人前を平らげているところだった。見ているだけで気持ち悪くなったのか、南さんはグロッキーになっている。


「ニイナちょっと食べ過ぎだよ。見ただけで南さん気持ち悪くなってんじゃん。」


「いや、酔っちゃってるだけだよ。なんかどんどん食べて良いよーって言ってくれたからつい。」


「この短時間で色々起こりすぎだろ!南ちゃんまた飲むペース考えてないし。」


 よく見ると南さんの側には空になったビールのジョッキが三本立っていた。飲むペースも潰れるのも相変わらず早すぎる。


 ようやく僕らの日常が戻ってきた感じがしたが、どうも落ち着いた日常を送れるわけではないようだ。四人でいると年甲斐もなくはしゃいでしまう。


「俺も時間空いてちょっと腹減ってきたなー。南さんこうなると復活するかわかんねーし、食ってくか。」


 祥吾が南さんの隣に座りハイボールを頼んだ直後、南さんが起き上がって彼の肩を組み、「今夜は朝まで飲み明かすぞ」とぼやき始めた。祥吾が悲痛な顔でこちらを見ている。


 このままだとろくでもない目に遭わされそうなので、再び南さんがウトウトし出すタイミングを見計らって、ニイナと一緒に先にお暇することにした。


「ご指名は祥吾みたいだな。ニイナも満腹みたいだしお先に失礼。」


 ニイナも流石にお腹が満たされていたらしく、すんなり帰ることを承諾してもらえて助かった。


 南さんと一緒になって飲み過ぎたのか、少しふらついていたので、途中で水を買って休ませることにした。


「やっぱり今日は食べすぎたんじゃないの?」


「うーんそうかも。あとホテルでステーキに合うとかいって慣れないワインとか飲んだのが良くなかったな。まだ味が分かってなかったよ。」


「この前のブラック珈琲の二の舞だね。」


「あ、まさにそんな感じ。」


 しばらくコンビニの外のベンチで座り込んでいた彼女は少し気分が良くなってきたようで、立ち上がって深呼吸をした。


 気温的にはまだ、季節外れのジャケットを着ているせいで行きは暑いくらいだったのだが、夜になると肌寒い夜風が吹いてきて逆にちょうど良い。


 ニイナの隣に座っていた僕も立ち上がり、彼女が気づいてこちらを向いたときに、南さんからもらった花火大会のチケットを彼女に渡した。


「これってここら辺で一番でっかい花火大会のチケットじゃん!」


「たまたま手に入ったからさ、この日空けといてくれると嬉しいんだけど。」


「もちろん空けとくよ。これ、ホテルで南さんにもらったんでしょ?ちょろっと見えちゃったんだよねー。」


「やっぱばれてたのか。こっち見られてたもんなー。」


「ふふっ。花火なんていつぶりだろ。屋台も楽しみだなあ。」


 本命は屋台の方なんじゃないのだろうか。花より団子とは、きっと彼女のために作られたことわざに違いない。ホテルでも綺麗な夜景やこだわりのある盛り付けには目もくれないのだから。


「十月の初めの方にあるからもうちょっと先だね。屋台の食べ物ばっかりに夢中にならないでよー。」


「失礼な。花火は大好きだからしっかり目に焼き付けるつもりですー。口寂しくなったら何か食べるけど。」


「結局食べものに行くんじゃん。」


 ニイナと手持ち花火をしたときに分かったが、彼女の横顔と花火は恐ろしく相性が良い。


 今回行くのは、この辺りで最大級の花火大会なので、より綺麗な花火のせいで余計に彼女の見栄えが良くなってしまうだろう。


 正直なところ、花火を真剣に見つめている姿を見せられては心臓が保たないので、焼きそばにでも釘付けになってくれていた方が助かるのだ。


「じゃあ、花火大会の日楽しみにしててね、浴衣着てくるから。酔い冷まし付き合ってくれてありがと!」


 ニイナの家路との分かれ道まで帰ってきたときに、彼女の声色がより明るくなった。。


「え、ゆかた?」


「当然でしょー、花火大会と言えば浴衣なの。ハルも着てきてね。なかったら選んであげるから。」


 彼女が浴衣を着るのは似合っていて良いと思うのだが、僕まで着る必要があるのだろうか。恥ずかしいのはもちろんのこと、需要が見当たらないので却下しようとしたが、僕が嫌がるのを見越していたのか耳を塞いでそそくさと帰ってしまった。


 絶対に着てやらないからなと一応言っておいたが、聞こえていないと後日一点張りされることは覚悟しておいた方が良いだろう。




 案の定ニイナから浴衣を着てこいとの連絡が一日おきに来るようになった。


 僕が帰り際に言ったことを聞こえていない体にしてくるだろうとは思っていたが、ここまで鬱陶しく追い詰めてくるとは。


 花火大会まで残り一週間を切り、浴衣をどれにすれば良いのか分からずにいた。


 ニイナは何度も浴衣を着てこいと連絡をしてくるだけでは飽き足らず、自分の浴衣姿の袖だけなどごく一部を送ってきて、『隣は浴衣の似合う男前に歩いて欲しいな』などと煽ってくるのだ。


 流石にここまで言われてしまっては着ていくしか選択肢が残されていなかった。


 自宅のソファーに寝そべっていると、今日もニイナから浴衣姿を送れと催促のラインが来ていたので適当に返していく。


 ふと、トークリストの上の方に見慣れないアイコンが表示されていたのが目に止まった。


 祥吾に紹介してもらった、ニイナの友人の連絡先だった。あれから軽く挨拶だけ送っており、向こうからも短い返事が帰ってきただけで終わってしまったはずだ。


 ニイナとのことを聞き出すつもりだったのだが、いざ聞こうとするとなんと送れば良いのか分からなくなってしまったのだ。その時はとりあえず、『祥吾から紹介されました。ニイナの知り合いのハルです。八月のバーベキューの時いましたよね?』とだけ送っていたのだが、そこから返信してくれていたのにもかかわらず僕が放ったまま忘れてしまっていた。


 自分からラインしておきながら、返信が来たのに無視するなんてとても失礼な奴になってしまっている。


 怒りの追いラインでもしてきたかとびくびくしながらメッセージを空けた。


『こんにちは!バーベキュー行ってました!みくっていいます(ウインクしている絵文字の羅列)ハル君とも仲良くなりたかったの!そっちから連絡くれてびっくり』


 この返信に気づけずにいたため、もう一つメッセージが送られてきたのだ。


『おーい、返信忘れてる?もしかしてニイナちゃんの事で聞きたいことでもあるのかなって思ってたんだけど』


 これも六時間ほど前に送られているものだった。これ以上遅れて返信するのも申し訳ないので、すぐに文字を打った。


『返信送れてごめん。そう、ちょっと聞きたいことがあるんだけど大丈夫かな』


 ニイナの友人だということを踏まえると、僕がニイナの事で聞きたいことがあるなどと言ってしまえば、あらぬ誤解を生むんじゃないだろうか。そうなっては面倒くさいが、ニイナのためだ、仕方がない。数分経った頃に返事が返ってきた。


『大丈夫だよー。一応聞くんだけどさ、やっぱりどうやって後一押し行けば良いんだろうみたいな感じのやつ?』


 もうこんな質問が返ってくることは想定内である。ただラインで弁解するのも面倒くさいので、やはり適当に流すしかない。


『いや、違うよ。最近ニイナが元気ないことがたまにあるから友達と上手くいってなかったりするのかなって』


 ほぼ当事者である彼女に回りくどく聞くのもおかしいので、直接聞いてみることにした。裏目に出てしまったときが怖いが、起用に立ち回ることが僕には難しかった。


『あーなんとなく分かったよ。私はちょろっと知ってるんだけど最近ニイナちゃんの周りで良くない噂が拡がってるの』


『良くないってどんな』


『んー結構話しにくいことだから明日学校でも良い?私四限まであるから夕方とかになっちゃうけど』


『大丈夫、明日の四限終わりに正門の近くに行っとくよ』


 まさかニイナが良からぬ噂を流されているとは思わなかった。彼女に限って人から恨まれるような行動を取っているとも考えにくい。


 翌日になってみくという子と約束した場所に向かった。講義の終わりを告げる予鈴が鳴ると、帰宅する学生達が大勢正門を通っていく。僕は邪魔にならないように、人の少ない方に避けていた。


 しばらくして人がまばらになってくると、少し遠くの方で手を振っている栗色の髪の女の子が見えた。


「やあ、ハル君よね。バーベキューの時も思ってたけど中々ニイナも面食いやな。ちょっと暗そうやけど。」


 思ったより近くにいた彼女はかなり身長が低く、百四十センチ半ばくらいだった。妙に遠近感が狂うはずだ。


「一言余計だね。立って聞くのもなんだし座れるところに行こう。」


 僕らは大学内にある休憩スペースのベンチに座った。僕は近くの自動販売機でカフェオレとなっちゃんオレンジを買ってなっちゃんオレンジの方を彼女に渡した。


「む、さっき暗そうって言ったの根に持ってるやん。私が子供っぽいって馬鹿にしてるやろ!」


「そんなことないよ。僕は好きだし、なっちゃんオレンジ。」


 文句を言いながらも僕が少し喋っている間に、彼女はなっちゃんオレンジを半分は飲んでしまっていた。五百ミリリットルあるんだぞ。お腹を壊したりしないのだろうか。


「そんで、ニイナちゃんの噂のこと聞いたいんやっけ?」


「うん、あまり人から恨まれるような事はしないと思うし、どうしたんだろうって心配になって。」


 みくは急に周りをきょろきょろと見渡し、近くに人がいないことを確認してから僕にスマホの画面を見せてきた。


 そこに映っていた映像に驚愕した。にわかには信じがたい内容で、目をこすって画面を凝視してしまった。


「これがニイナちゃんが噂されてる理由。」


「なんでこんなものが・・・。ホントに映ってるのってニイナか?」


「分かんない。ただ似ているだけなんかフェイクなんか。この動画はツイッターのDMに匿名で来てて、なぜかニイナちゃんと親しい関係の人たちにしか送られてないんよ。だから皆どこにもアップしてないし迂闊に他人に送っとらん。世に出たら大変なことになるし。ただホントにこれが本人なんじゃって思う子もいて、その子達が距離を置いとるの。」


「こんなの誰が回してるんだよ。てか消させなきゃ。送られてる人皆に言って消してもらわないと。」


「それは難しいかも。この動画が送られているのはニイナちゃんの友達だけとは言ってもざっと五十人はいるみたいなんよ。私の知っとるだけでもこんなにいるからもっといるんかも。ニイナちゃん人望凄いんよね。皆からもこの動画のこと隠してもらっとるし。」


「五十人以上って・・・、そんなの今隠してたって漏れるのは時間の問題じゃん。とりあえずまだ持ってる人を見つけて消すように言わないと。」


「確かに言ってみるしかないんかな。私もハル君に伝えられたしこの動画消すわ。いつまでも手元にあったら気分悪いしな。」


 それから僕とみくちゃんは、みくちゃんが知っている動画の保有者に片っ端から連絡を取って動画を消してもらいように頼んだ。皆快く受けてくれたが、中にはニイナのことを疑うような人もいた。動画に映っている人物はニイナそのものなので、信じてしまっているのだろう。その場では消しておくように言ってくれるが、電話越しや文章越しのため本当のところは分からない。


「今二人で何人連絡できた?」


「ざっと二十人くらいかな。やってみるもんやね!」


 一時間ほどでここまで消してもらえたのだ。本当に消してもらえたかどうかは本人に委ねるしかないが、決して不可能なことではなさそうだ。


「みくちゃんもまだ協力してくれる?確実に減らせてきてるよ。」


「もちろん!できるところまでやろっか。」


 さらにもう十分くらい続けていたとき、祥吾と僕の友人から同時くらいに連絡が来た。


 祥吾はともかくもう一人の友人から来るのは珍しいなと思ってメッセージを見てみると、そこには例のニイナが映った動画が送ってこられており、『これってニイナちゃんじゃない?』と送られていた。祥吾からのメッセージも全く同じ内容のものだった。


 みくちゃんの方を振り返ると、彼女も同じ内容のメッセージが何件か来ていたようで、絶望したような表情になっていた。

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