第2話 発議
道路の両脇に2階建ての家々が立ち並ぶ閑静な住宅街を15分ほど歩けば、勝の家がある。
それらは皆同じ形に見えるが、よく見れば、天窓のある家、柔らかな芝生が敷き詰められた庭を有する家、洒落た表札、欧米風の純白の外壁など、家主のこだわりが伺えるものである。
勝は道すがらに、ベランダでそよぐ洗濯物や、主婦が大きな買い物袋を車のトランクから下ろす光景を目にした。
それは、各家々の玄関を開けたその先には、何者にも侵し得ない幸福と安心に満ちた家族達だけの空間が広がっていることを示すものであり、その日常が滞りなく流れていることを証明していた。
ここ最近人との関わりを閉ざしている勝にとっては、非現実的かつ羨ましい光景であり、なぜか腹が立った。
勝は自宅に着くと玄関の鍵を開け、薄暗い廊下と階段を通り、2階にある自室に向かった。
勝はカバンをおろした後、自室の隣の部屋へ入った。
亡き父の書斎である。
その部屋には、天井まで届こうかという大きな本棚が残され、本がいっぱいに詰められている。
勝は1人きりの時間を潰すために、よく本を読んだ。
勝の母も、まだ幼い勝を残して亡くなった父と勝との唯一の繋がりになると思い、勝が父の本を読むことについて、推奨していた。
勝の父親は正一といい、勝と違って名前が生き様に表れた立派な人間であった。
正一は大学を卒業してすぐに警察官になり、持ち前の真面目さを存分に発揮しながら地道に成績を上げ、周囲の期待と信頼を背に受けて職務に当たっていた。
順風満帆な日常の途中で、上司主催の合コンに参加したところ、妻となる花子と出会い、結ばれた。
正一は大変堅実な男で、タバコとギャンブルは一切やらず、酒は付き合い程度で楽しみ、休日に過ごす家族とのひと時を何よりの楽しみとする良き父親であった。
家族の誰もが、この温かく柔らかな幸せな時間は当たり前のように、そこにあり続けるものであると、信じて疑わなかった。
しかし、不幸は人を選ばない。
それは吹雪の夜であった。
交通事故発生の通報を受けて現場へ赴いた正一は、すでに到着していた警察官に事故対応を任せ、自身は少し離れた位置で交通規制を実施していた。
吹雪の影響かレッカー車の到着が遅れ、予想以上の長丁場となった。
夜も深くなり交通量もまばらとなったことで、正一はふと事故現場の方に顔を向けた。
その瞬間、後方から接近してきた無灯火の自動車に跳ね飛ばされ、その場で亡くなった。
この一件により、佐藤家の生活は一変し、激動のものとなった。
花子は、昼間は以前から勤めている事務仕事をこなし、一度家に帰ると勝の晩御飯を冷蔵庫に残した後、アルバイト、とだけ告げると、厚い化粧を施して出かけるようになった。
花子もまた強い女性であり、勝の前では泣き言一つ言わず黙々と働き、勝がアルバイトをすることを申し出た際には、
「お前は勉強に集中していいところに就職しなさい。
私を支えてくれるのはそのあとでいいか ら。」
と言って微笑みかけた。
花子の肌は日に日に荒れ、くまを隠すための化粧も日に日に濃くなっていった。
朝食の際に顔を合わせると、機嫌良くトーストを勝に差し出し、他愛のない会話を誘いかけてくる。
花子は常に明るく装っているが、それはあくまでも演技であり、時々、新婚旅行先のハワイで撮影された亡き夫とのツーショット写真を抱えながら、声を押し殺して泣いていることを、勝は知っていた。
勝は高い本棚を眺め、手頃な本を探す。
最も、勝が本を読むのは時間を潰すためであり、読んだ小説の内容などは、脳に入った瞬間に、スポンジの上に垂らした水滴のように、跡形もなく消え去ってしまい覚えていない。
勝が背表紙のタイトルを目で追っていると、ある四字熟語が目に飛び込んできた。
刑法各論
聞いたことのない言葉だった。
しかし勝には、その国語辞典以上の分厚さを有する本がやけに気になり、視線が通り過ぎた後も、チラチラと視線を向けてしまった。
我慢出来なくなった勝は、やや高い位置に差し込まれていたその本を背伸びして抜き出すと胸の位置に持ってきた。
見た目通りの重量感を有するその本を開くと、そこには日本における刑法が、第一条から羅列されていた。
美しい−
その文章を目にした勝は、直感的にそう感じた。
気づけば、文章を追う目の動きと、ページをめくる手が止まらなくなっていた。
規則よく並べられたそれらの文章は、それぞれ2〜3行程度の短いものだったが、人の行為と刑罰とを淡々と結びつけ、決定していく様は、圧巻だった。
また、その文章の断定的な口調は、一切の反論を許さない厳しさを纏っており、勝は、天までそびえる石の壁を想起した。
勝は本を抱えて自室に走り、机に向かうと、さらに本を読み進めた。
『これは完成された、完璧な存在だ』
勝は読み進める毎に、法律に魅了されていった。
法律は、人間社会の秩序を決定し、反した者を裁くことができる、人間を支配する圧倒的な存在であり、その前では、あらゆる人間がひれ伏して、こうべを垂れ、与えられた順路を歩くことを余儀なくされるのだ。
勝は、法に屈服した。
しかし、法とは厳しさを主張しながらも、優しさも持ち合わせているのだ。
法は、日本列島をドーム上に多い、その中に存在する人間に対して、自身の庇護を無条件に与える。
今こうして机に向かっている勝も法に守られ、その背後には、法という守護神が佇んでいるのだ、無論それは、憎むべき岩崎たちにも同じことが言える。
さらに言うなら、その守護神は、道端の電信棒や隣の家の飼い犬のそばにも佇み、日々我々を庇護しているのである。
勝は、法に心酔した。
条文を読み進めていくにつれ、勝は気づいた。
『僕が受けてきた仕打ちは、全部法で裁けるんだ』
そんな当たり前のことに気づくと、勝は思った。
『裁かないと−』
この国土で、この国において効力を持つ法に違反したのであれば、当然その罪を裁かれるべきである。
しかし、勝の心には葛藤があった。
今まで岩崎たちから受けてきた仕打ちを、教員や警察に提示して処罰を求めれば、奴らは然るべき処分を受けることになるだろう。
ーそれではダメだ
勝は、完全に法律に惚れ込んでしまっていた。
これは勝の人生で初めての独占欲であった。
勝はどうしても、この運命的に出会った完璧な存在を自分だけのものにしたかった。
自分だけを守り、自分だけを助け、自分だけに忠実な法律が欲しくてたまらなくなってしまった。
ー自分で作ってやればいいじゃないか
勝の決断は単純であったが、常軌を逸していた。
そもそも法律というのは、国会の決定によって初めて制定されるものであり、私人である勝が勝手に作った法律など行使のしようもないのだ。
しかし、勝には、この決断こそが現在の苦痛から解放される最良の選択であると信じて疑わなかった。
意を決した勝はその分厚い本を傍に置くと、一冊のノートの表紙を開いた。
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