箱の中の澄花

シュレッダーにかけるはずだった

序章

「今年こそは夜空にいっぱいの蛍たちいるかなあ。」


 薄暗くなり始めた夕焼けが、隣ではしゃいでいる澄花の表情を覆い尽くしてゆく。毎年蛍が出た時期になると、必ず彼女に引っ張り出されてあの湖に通うことになる。


「今年こそはって、去年も一昨年も言ってたよね。澄花と会った年以外一回も出てこなかったんだからもう諦めようよ。」


 六年前、僕が七歳だった頃。夏祭りに連れてこられた僕は父さんとはぐれてしまい、迷子になった。当てもなく走りまわっている内に、僕の住んでいる村の外れにある雑木林に迷い込んでしまう。月明かりが遮られ、殆ど何も見えない状況に不安を感じ始めたときに数匹の蛍が僕を追い越して行くのが見えた。


 誘われるようにその蛍の後をついて行くと、雑木林が開けたところに小さな湖が現れた。そこで見たものは無数に光り輝く蛍が、満天の星のように夜空を埋め尽くす光景。蛍の輝きが湖に反射して、まるで星空に揺蕩うような感覚に包まれていた。


 そんな、言葉にならない程の幻想的な空間に一人佇んでいた少女が澄花である。


「瑞希だって去年まで楽しみだって言ってついてきてたじゃん。」


「だってもう中学生になったんだぜ僕たち。もうそんな子供っぽいことやってらんないよ。」


「あ、まーた大人ぶったこと言ってる。別にかっこよくないぞ。私よりちっちゃい癖に背伸びしちゃって。」


 にまにましながら澄花が僕をからかう。出会った頃は変わらなかった身長も、この六年間で大きく差をつけられてしまった。男の成長期は女子より遅いと言うが、十センチ近く離れてしまった現状がもどかしい。


「ほら、見えてきたよ。ふてくされてないでしゃきしゃき歩いて。」


 早足で一歩先を行く彼女を追う。覆い被さるような木々が疎らになり、徐々に月明かりが照らし始める。静まりかえった夜空の下に、かつての光景は広がっていなかった。


「やっぱり今年もいないか。」


「うん。いないね。」


 澄花も僕も、今年こそはもしかしてと淡い期待を抱いては結局落胆させられている。それでも毎年懲りずにここに来るのは、僕らにとって大切な場所である事に変わりは無いからだ。少なくとも僕はそう思っている。澄花にも同じ事を思っていて欲しいと、最近になって思う。


「私ね、最近考えてるんだ。」


「なにを?」


「あの蛍たちって神様だったんじゃないかって。」


「ふぇ?」


 おおよそ期待していた言葉と大きく違い、突拍子もない事を言い出した彼女に驚いてしまった。


「この池の先にある山にはもういつから放置されてるか分からないお社があるのは知ってるでしょ?」


 少し上を見上げると、沈んだ太陽の残光が僅かに漏れ出す山が見える。僕らの住む村では決して子供が立ち入ってはならないと言われている山だ。


 神隠しに遭うとか、常夜の世界に囚われてしまうとか。かつてそんな迷信が囁かれていたらしい。


「うん。それがどうしたの?」


「あの蛍たち、向こうの山からきてる川を昇って、お社のほうに飛んでいったの。あの日この池に遊びに来て、私たちに見つかっちゃったから帰ったんじゃないかな。」


「誰もお参りしないお社に神様なんていないんじゃない?」


「きっといるよ。」


 横目で山の頂上を見上げる澄花を見る。彼女の大きな瞳に映る星空が、あの日の蛍たちの輝きと似ている気がした。


「それに、あの時だけしかいないって変じゃない。急に姿を見せなくなるなんて。やっぱり普通の蛍じゃなかったんだよ。」


「ふーん。でも蛍って最近減ってきてるんだよ。この村も開発が進んでどこかの池に排水を捨ててるって先生が言ってたし。この池に排水が流されてたからいなくなったんじゃないかなあ。」


 少し前まで田畑が広がっていただけの何も無いこの村にも、ショッピングモールや都会に繫がる高速道路ができたりして少しずつ形を変えてきている。よく遊んでいた森や魚を捕っていた田んぼの水路のような、小さい頃の面影が薄れてゆく寂しさは感じつつも、都会への憧れや便利になる生活に対する期待感の方が勝っていた。


「それなら、私は昔のままの方がよかった。」


 そう彼女が呟いたとき、ガサガサッと澄花の近くの茂みから何かが向かってくるような音がした。思わず彼女の前に飛びだし、庇うような形で腕を伸ばした。この辺りでは時折イノシシなどの害獣が姿を現すのだ。畑を荒らされたり、人に突進してきたりと被害も出ている。


 何かが段々と近づいてくる恐怖に耐えかね、思わず目を閉じた。




おかえり、なさい。




 どこからか聞こえてきたその声に反応して目を開くと、先程まで大きく揺れていた茂みは静かに風に揺られていた。


「瑞希!」


 後ろから澄花に呼ばれ振り返ると、彼女はしゃがんで何かを撫でていた。


「見て!仔猫!うわあ、かわいいなあ。」


 月明かりに照らされて、真っ白な毛並みを露わにした仔猫が澄花の手の中にいる。機嫌が良いのか、小さな体に似合わず細長い尻尾を左右に揺らしていた。


その仔猫と視線が合った。月光を煌びやかに反射する体毛とは相反して、一瞬合わせたその双眸は、真っ黒な底なしの暗闇そのものであった。


 悪寒がした。


「あ、待って!」


 僕と目が合った次の瞬間。その猫は澄花の手から離れ、現れた茂みの方に姿を消した。澄花も後を追って暗い森の中へ飛び込んでゆく。


「ちょっと澄花!危ないよ!」


 あっという間に彼女の姿も見えなくなってしまった。僕はすぐに彼女の後を追う。僅かな月明かりが差し込む他に、視界を照らす光源は何も無い。そのうちどこから入ってきたのか、元いた池の辺りからどれほど離れてしまったのかも分からなくなってしまった。


 僕の家にはここからどの方角へ進めば帰れるのだろう。澄花は。澄花はいったいどこまで行ってしまったのだろう。覆い被さってくるような木々が途方もなく続くこの森で、完全に行く当てを失ってしまった僕は、あまりの恐怖にうずくまってしまった。




おかえり、なさい。




 またあの声が聞こえる。




もう、おかえり、なさい。




 頭の中に直接響いてくるようなその声に耐えかねて耳を塞ぐ。直後、背後から何者かが近づいてくる気配を感じた。耳を塞いでいても、振動が伝わって地面の雑草を踏みしめる足音が聞こえる。完全に聴力を遮断できない人間の身体構造を呪ったのは初めてだ。


「大丈夫?瑞希。」


 澄花がしゃがみこんで僕を覗き込んで来る。抱えられている仔猫の首輪には、赤いビー玉のようなものが三つ付いていた。相変わらず機嫌が良さそうに頭を澄花の体に擦りつけ、ゴロゴロと喉を鳴らしている。


「この子すっごく私に懐いちゃってるみたい。ねえ、たまみちゃん。」


「たまみちゃん?」


「そ、首輪に三つの綺麗な珠がついているから、たまみちゃん。貴方よかったらうちにこない?」


 ふにゃあ。と小さく仔猫が鳴く。改めて見てみるとただの小さな猫ではないか。先程この仔猫から感じた悪寒は自分の気のせいだったのだろう。


「瑞希顔色が良くないけど大丈夫?ちょっと怖がりすぎじゃない。」


「別に怖がってなんかないし。それより首輪付けてるんだからどっかの飼い猫なんじゃないの?勝手に連れて帰ったらまずいよ。」


「うーん、でもこんなに懐いてくれてるんだよ。」


「・・・今日は戻って村の皆に誰の猫なのか聞いてみよう。何だかこのまま森にいたらいけない気がする。」


 澄花には聞こえていなかったのだろうか。頭に直接響いてくるようなあの不気味な声。まるでこの森に留まってはいけないと警告されているようだった。


「もう完全に夜になっちゃたしね。怖がりの瑞希のために今日は早く帰ろう。」


そう言って仔猫を抱えていない方の手を腰に当て、得意そうに笑う澄花の後ろの方から


“なにか”が覗いている。


 戦慄。


 咄嗟に澄花の手を引いて走り出した。たった十三年生きてきただけの僕でも本能的に察することができた。明らかにこの世のものではない。木々の隙間から覗かせていた顔のようなものは異様に大きく、それだけで澄花の身長くらいはある。眼球があるはずの場所には二つの大きな黒い穴が浮かんでいるだけ。暗闇に隠れてはっきりとは見えなかったが、その体は人の形とはかけ離れ、蜘蛛とも獣の類いとも似つかない形容しがたい姿をしていた。


「ちょっと、痛いよ!どうしたの急に。」


「いいから走って!絶対止まったり後ろ振り返ったりしちゃ駄目!」


「後ろって、っ!」


 後ろから振り返ってしまったのだろう澄花の、声にならない悲鳴が聞こえる。僕らの足音とは他に、大きななにかが草木をかき分けて進んでくるような音と、老婆がうめくような声が響き続けている。間違いなく僕らを追ってきているのだ。


 得体の知れないものに追われ続ける恐怖と、走り続けている方向が森の出口へ続いているのかも分からない不安に纏わり付かれて足が竦みそうになる。先に体力の限界が来た澄花の足がもつれ、手を引いていた僕も一緒に地面に叩きつけられた。


 すぐ後ろまで迫り来る化け物が、節足動物の足のような形状をした四本の腕を広げ、僕らに襲いかかろうとしたとき、澄花の腕の中にいた仔猫が飛び出した。


 長い尻尾をゆらゆらと持ち上げ、低い鳴き声で威嚇している。意外にも化け物は行動を停止し、なめ回すように仔猫を凝視している。


「やめて!戻っておいで!」


「澄花、今のうちに逃げよう!ほらはやく!」


 仔猫を連れ戻そうとする澄花の手を再び取り、すぐにその場から走り出した。


「まって瑞希、あの子が殺されちゃう!」


「僕は澄花が殺される方が嫌だ。だからもう振り返らないで走って!」


 それから彼女はなにも言わず、無我夢中で走り続けた。暗く終わりのない森の中を二人で逃げ続けた。


 どれくらい時間が経ったか分からない。息も絶え絶えになり、僕らは物陰に座り込んだ。しばらくして静かに涙を流し始めた澄花にかける言葉が見つからない。ただ繋いでいた手を強く握ることしかできず、静寂に包まれた森の中でいつの間にか眠りについていた。


 


 冷たい風に煽られて目が覚めた。前方から淡い橙色の光が昇り始めている。僕らが走ってきたのは村のある東の方向で、運良く森の出口へと続いていた。立ち上がろうと両手を地面についたとき、違和感があった。澄香がいない。


 握られていたはずの彼女の手の温もりはとうに感じられず、ただ冷えた地面の感触だけが伝わって来る。


「澄花?」


 まさか昨晩の化け物に連れ去られたのだろうか。いても立ってもいられず、来た道を走って戻った。あれほど大きな体躯で暴れ回っていたというのに、化け物が通った道は全く痕跡が残っていない。下ってきたときとは違い、無造作に生えている草木が鬱陶しく行く手を阻んでくる。


「澄花!どこだ!」


 まだ暗い早朝の森の中で澄香を捜し回った。どれだけ彼女の名前を呼んでも返事が返ってくることはなく、自分の声が虚しく響き渡るだけ。


 先日降った雨のせいだろうか、気づけば僕の服や靴は泥まみれになっていた。背の高い雑草をかき分けてきた手は所々切り傷ができている。


だが、そんなことでいちいち止まっている猶予は無い。朝日がもうすぐそこまで昇ってきている。何故か僕は、完全に日が顔を出す前に澄花を見つけ出さなければ、彼女を取り戻せない気がしていた。


 昨晩、澄花と話していたあの山の麓まで行き着いたとき、不自然に木々が開け、獣道になっているところを見つけた。その獣道から一匹の仔猫が降りてくる。僕を見つけると怪訝そうに目を細め、身を翻して元来た道を戻っていった。


 ついて来い。ってことか?


 時折止まっては振り返り、こちらの様子を窺っているようだ。しかし、すぐに山の上の方に向かって走り去ってしまった。


 慌てて仔猫が来た道を追いかける。随分先を行かれてしまっているが見失ってはいない。ただの仔猫の気まぐれだろうにこのままついて行っても良いのだろうか。上に登るにつれて獣道はどんどん狭くなってきていき、視界も悪くなる。やはり、ただ気まぐれに付き合わされただけなのではないかと思い始めたとき、仔猫が急に足を止めた。


「ここまで連れてきておいてなにもないじゃないか。」


 ようやく仔猫に追いついた僕は伝わるはずもない悪態をついた。当然反応はなく、長い尻尾を揺らしているだけ。仔猫に焦点を当てていた視線を元に戻すと、目の前に石段があった。


 さっきまで階段なんてあっただろうか。石段の頂上にはうっすらと鳥居のようなものが見える。


 なあ、と不抜けた声で鳴いた仔猫は石段を登り始めた。僕はその後をついて行く。不思議と不安や恐怖といった感情はなく、目の前の石段を何の疑問も持たず登った。鳥居に近づくにつれて立ち込めてきた霧が濃くなってくる。


それ程長くない石段を登り切ると、なんとか原形を留めている鳥居の陰に澄花が座り込んでいた。


「こんな所にいたのか。」


 眠っていた彼女を起こし、すっかり明るくなった空を見上げた。先程まで掛かっていた霧も晴れ、雲一つ無い朝焼けの空が広がっている。


 ふと、後ろを振り返ると朽ち果てて崩壊してしまっているお社があった。木々が貫通して伸びていたり、落石があったのか一部が大きな岩の下敷きになっていたりと、元の造形が想像できないほどの酷い状態になっている。


澄花の言うことを鵜呑みにした訳ではないが、ここにまだ神様がいるのなら澄花を守っていてくれたのだろうか。僕は崩れているお社に一礼して、澄花と石段を下りた。


「ごめんね。探してくれてたんだよね。」


 澄花が傷だらけになった僕の手を取って、申し訳なさそうに言った。


「どうしてあんな場所にいたの?」


「・・・わからない。私もさっき瑞希に起こされて、目が覚めたら何故かあの場所にいたの。」


「そっか。でもあんな目に遭ったのに、無事に帰ってこれたんだからよかったよ。あと、澄花を見つけたのはあの仔猫なんだよ。」


「え、たまみちゃんが?」


 二人で辺りを見渡したが、仔猫の姿はどこにもなかった。自分の飼い主の元にでも帰ったのだろうか。


「随分気まぐれな猫だったなあ。」


 僕がそう呟くと、澄花は自分が眠っていた間にどうやって仔猫と仲良くなったのかと興味津々に聞いてきた。


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