第4話 不可解な殺人事件

 さっそくK署から、二人の刑事が、鑑識を伴ってやってきた。二人の刑事というのは、

「門倉刑事」

 と

「山本刑事」

 であった。

 門倉刑事は、父親も警察官で、今は、県警本部で管理官のような仕事をしていた。だから、捜査本部ができると、どうしても顔を合わせることになるのだが、父親が、

「公私混同は絶対にしない」

 と思っているので、声すらかけない。

 もっといえば、

「家に帰っても、捜査本部が開かれている間は、口も利かない」

 という徹底ぶりであった。

 門倉刑事としては、

「その方がありがたい」

 と思っている。

 というのも、門倉刑事は、どこか上からの視線には、神経を尖らせる方で、

「神経質というのが、過剰なくらい」

 と、直属の上司が思っているくらいで、それが、

「父親の威圧だ」

 とは思っているが、

「その度合いがどれくらいのものになるのか?」

 というところまでは、なかなかわかるものではないだろう。

 それを考える本人は、

「どうして、俺は警察官になろうなんて思ったんだろう?」

 ということであった。

 そもそも、子供の頃は、

「父親が警察官だ」

 ということは、あまり好きではなかった。

 親から何かを言われても、逆らうくらいの気持ちが強かったのだ。

 警察官というものが、

「なんぼのもんじゃい」

 であったり、

「そんなに偉いのか?」

 という反発心が大きかったのだ。

 だが、警察官になったのは、自分でも分からないが、一つ言えることは、

「勧善懲悪」

 という感覚が強いからだといえるのではないだろか?

 そのことに気づいたのは、

「世界的なパンデミック」

 というものがあった時の、

「自粛警察」

 などという言葉があった時だった。

 これは、痴漢犯罪などのように、現行犯逮捕をできる環境にいて、満員電車などで、一人の女性が嫌がっている素振りを見て、そこにいた男性を、痴漢ということで、仕立て上げるということに似ている。

 実際に、そんな場面を、警官だった時代から見てきているが、何やら、違和感がいつもあったのだ。

 勧善懲悪ということであれば、そういう男を、

「正義感に溢れた人物」

 ということで、本来なら、

「えらい」

 と思うべきなのだろうが、しっくりと来ないのだ。

 というのも、

「自分が正義だ」

 ということをまわりに宣伝したいがために、その場を利用していると感じるからだ。

 実際に、そこで捕まった男性の中には、実際に、

「冤罪だ」

 ということもあったのだ。

 犯人は他にいて、そいつが捕まった時に、彼の冤罪が晴れた場合があったということである。

 しかし、こういうことは、満員電車だということもあって、まわりで誰が見ているか分からない。

「ひょっとすると会社の人が見ていて、彼は痴漢をしたんだということを会社で噂になり、そうなってしまうと、いくら冤罪だと分かってしまっても、もう取り返しがつかない事態となる」

 ということであった。

 一度レッテルを貼られると、

「冤罪だ」

 と分かって、

「大変だったね」

 と口では言ってもらえるかも知れないが、

「疑われるだけのことをしたんだ」

 ということになり、結局、会社を首になり、まわりからの評価は、

「痴漢をしたから首になった」

 ということで落ち着いてしまう。

 だから、冤罪というのは恐ろしいのである。

 それと同じで、自粛警察というのは、

「自分たちの信念」

 でしか動かない。

 しかも、集団でしか動かないので、彼らには、責任感というものがまるでない。

 つまり、

「まわりが悪だと思っていることを、自分から攻撃するのだから、自分たちが悪いわけはない」

 という感覚である。

 だから、その行為はエスカレートしていき、その限界を知らないということになるのだ。

 それを考えると、

「現行犯で捕まえる方も、自粛警察というのは、必要悪の逆なんだ」

 ということになるだろう。

 必要悪というのは、

「表向きには悪であるが、世の中に必要なものなので、ある意味、善に近いものなのかも知れない」

 ともいえるものである。

 しかし、こちらの場合は、

「表向きは善に見えるが、やっていることは悪なのだ」

 ということで、これは、正真正銘の悪ということになる。

 だから、悪ということの定義があいまいであり、少なくとも、

「世の中には必要のないものであり、必要がないということで、それだけで、悪だという認識になるのではないか?」

 ということなのだろう。

 例えば、経済学の定義の中にある言葉として、

「利益を出せなければ、会社としては、悪なのだ」

 という言葉がある。

 つまり、

「会社というのは、利益を出すことが企業理念だ」

 ということである。

 これは当たり前のことであり、

「利益を出せないと、会社として生き残ることができず、その穴埋めをまわりにさせることになる」

 ということになり、さらには、

「働いている社員に、給料も出せない」

 ということになるのだ。

 これは、

「警察が、市民の生命と財産を守る」

 という理念と同じだということになる。

「当たり前のことを当たり前にする」

 というのが、本当はどれだけ難しいのかということになるのであろう。

 だから、門倉刑事は、

「父親に対して反発心というものがあるにも関わらず、自分は自分で、警察官を全うする」

 と思っているのであった。

 山本刑事の方は、まわりに警察官がいるわけではなく、ただ、彼も、

「どうして、警察官になんかなったんだろうか?」

 と思っていた。

 そもそも、最近の刑事ドラマを見ていると、あまり、警察官としての仕事にあまりいい気分はしておらず、絶えず、

「警察なんて辞めてやる」

 と心の底で思っていたのだ。

 だが、この感覚は、いまさらだといってもいいのではないだろうか?

 というのも、

「サラリーマンだって、似たようなことを考えているだろうからな」

 ということであった。

 ブラック企業などであれば、理不尽な上司の下で、嫌な思いをしながら仕事をしていることになるので、警察だって変わりない」

 と思っていた。

 ただ、勧善懲悪という感覚はあるので、

「まだ警察の方がいいか?」

 という、減算法的な考え方になっているだけだった。

 二人がコンビを組むことが多く、上司の下瀬警部補が、二人を最初に組ませたのだ。まわりからは、

「少しかみ合っていないのではないか?」

 という意見が出ているようだが、下瀬警部補は、

「いやいや、そうでもない」

 と思っていた。

 実際に、最初よりもうまくかみ合っているようになっていて、

「まるで、刑事ドラマの凸凹コンビのようではないか?」

 といわれるようになったというものである。

 事件は、センセーショナルではあったが、一見、それほど難しくないように思えた。

 体育館で死んでいるのは、一人の男で、胸にナイフが突き刺さっている状態で、これだけの出血ということは、

「かなりえぐられている」

 ということなのか、

「もし、きれいにえぐっているということであれば、ここまで血が流れるということじゃないだろうから、犯人は素人なのかも知れない」

 とも思えた。

 そもそも、通り魔や連続殺人犯でもなければ、

「皆素人といってもいい」

 ということになるだろう。

 実際に、

「素人の犯行」

 ということであれば、

「返り血も浴びているだろう」

 ということで、

「その服はどうしたんだろう?」

 と、思い、刑事二人は、その近辺を探しているようだった。

「刺殺ということは、最初からナイフを持ってきたということなので、衝動的な犯罪ではないだろうな」

 と山本刑事はいった。

 これが、どこかの事務所の金庫を破っている最中に、警備員を刺し殺したというのであれば、

「強盗を見つかっての、衝動的な犯行だ」

 といえるかも知れないが、そうではないのだ。

 体育館に金目のものがあるともいえないし、死んでいる男は、私腹を着ているので、警備員ということもない。

 まず、刑事は三人の発見者に、

「この人に見覚えは?」

 と聞いたが、三人とも、半分顔を背けながら、

「いいえ」

 と答えた。

 いきなり刺殺死体を見せつけられて、そのショックの大きさは、ひどいもので、どうすればいいのか自分でも分からないということであった。

 ただ、この三人曰く、

「誰だか分からない」

 ということであった。

 ここまでは、皆共通に聴ける話だったが、

「証言を引き出す」

 ということであれば、

「まわりの手前話ができない」

 ということになったとすれば困るので、門倉刑事は、いつものように、それぞれに、個別に話を聞くことにした。

 まず、山本刑事と、門倉刑事で一人ずつ聞いて、もう一人には待っていてもらうことになるのだが、その間、待っている人はかなりの時間待つことになるかと思ったが、そうでもなかった。

 結局、個別に話を聞こうとしても、どちらの証言からは、真新しいことは聴けなかった。

 彼らが合宿をしていて、その体制として、朝当番で用具の用意をするということ、その時間としての、タイムシートを説明するくらいで、あとは、

「昨日の夕方には何もなかった」

 という当たり前のことを話しただけだった。

 もし、ここで何かがあったのであれば、その時に警察に通報しているわけであるから、それも当たり前のことであった。

 それらの説明は、形式的なことでしかない。

 ということであり、

「二人は何も知らない」

 ということを証明もしているようなものだった。

 最後の一人に聞いても同じことで、何も知らないということに変わりはない。

 そのうちに、騒ぎを聞きつけた、朝練の人たちもやってきて、一様に、びっくりしていた。

 刑事は、

「この中で代表者は誰ですか?」

 ということで、監督が、

「私が監督ですが」

 ということで、話を聞かれることになった。

 監督は確かに大人であるが、大学生も大人といえば大人である。

 監督という立場上、引率者であり、リーダーなので、警察に代表者といわれると確かにそうだが、実際に、こんな経験はないということで、少しビビっているといってもいいだろう。

 ただ、監督に聞いても、何も答えは出てこない。そのわりに、刑事の勘として、門倉刑事は、この部活の面々の雰囲気に、何かしらの違和感があるのを感じていたのだ、

 そこで思ったのは、

「誰も分かっていない」

 という思いであった。

 というよりも、

「それぞれに、心ここにあらずで、バラバラのことを考えているような気がするのだが、実際には、共通性のあることのような気がする」

 と感じた。

 この雰囲気は、今に始まったことではなく、今までの捜査からも、

「よくあることだ」

 ということで感じたことなのは分かっていた。

 だから、

「共通点」

 というキーワードが出てきたのであった。

「その共通点というのが、何かの犯罪ということであり、皆で何かを隠蔽しようとしているのではないか?」

 と感じたことであった。

 ただ、それが、目の前の殺人事件にかかわることなのかどうか分からない。少なくとも、殺害された人を誰も知らないというのは本当のことのようだ。これだけの人がいれば、もしウソをついている人がいるとすれば、一人や二人は、ボロを出すというものだろうからである。

 それを思えば、

「何かを隠している」

 と感じさせるものであっただろう。

 ただそれは、

「直接、事件と関係があることなのかどうか、そのあたりが分からない」

 ということである。

 確かに、事件というものが、まだ幕を開けたばかりなので、その全貌が分かっていないので、警察とすれば、

「今は、情報を集める時期」

 ということで、少々の関係のないと思われることであっても、情報としては、

「漏らしてはいけないこと」

 ということで、考える必要があるだろう。

 それを思うと、

「聞き耳を立てるというのは、大切なことだ」

 といえるだろう。

 ただ、事件とすれば、ある程度、単純なものなのかも知れないとも思えたが、考えていくうちに、難しいのではないかとも考えられる。

「人殺しがあって、死体が見つかった。凶器は残っていて。犯人はいない」

 という状況で、一つ分からないところは、

「なぜ、殺害現場がここなのだろう?」

 ということであった。

 だから、

「被害者が誰なのか分かる」

 ということであれば、ここで発見されたことに不可思議さは感じない。

 だが、誰も知らないということは、逆に、

「犯人の方が、この場所に関係がある」

 といえるのではないだろうか?

 確かに、犯人がここの関係者だということになると、犯人としては、

「何と愚かなことをしたのか?」

 ということになる。

 まるで、

「犯人がここの関係者だといっているようなものではないか」

 ただ、

「犯人に本当は殺害の意志はなく、ナイフはただの脅迫のつもりだけだったとすれば、この馬首であっても不思議はない」

 といえるのではないか?

 いや、それよりも、

「このナイフが本当に犯人の用意したものなのかということも怪しいもので、逆に被害者が持ってきたのかも知れない」

 ともいえるだろう。

 鑑識が判定する前に、刑事にも分かっていたこととして、

「争った跡がない」

 ということだった。

 となると、

「被害者と犯人は顔見知りだったのではないか?」

 ということになると、

「何かでもめたから殺した」

 というよりも、

「最初から、殺害の意志があった」

 といった方がいいかも知れない。

 それを思えば、

「この事件は、計画的な犯罪だ」

 ということになり、ここでの殺害というのも、

「その犯罪計画の中にあった」

 と考えると、今度は、

「ここの関係者が犯人だという信憑性は、薄くなってきたではないか?」

 と考えられるのであった。

 それを思うと、

「殺人事件というのは、いろいろな角度から見ていき、その違和感を一つ一つ、外していく必要がある」

 と考えるのであった。

 捜査本部に戻ってから、下瀬副本部長は、他から出てきた証言などを黒板にまとめていた。

 まずは、鑑識であるが、

「殺害は、昨夜の日付が変わるくらいの、昨夜の11時過ぎくらいから、日にちが変わって、1時前くらいだろう」

 という話であった。

「実際の凶器は、胸に刺さっていたナイフであるのだが、一緒に首を絞められた痕がある」

 ということであった。

 それを聞いた下瀬警部補は少し考え込んで、

「そんなことをすれば、血が噴き出して、返り血を浴びそうなものだけど、それでも首を同時に締めるということは、よほどの恨みがあるからなのか? それとも、確実に殺したいということでの、念には念を入れてのことなのか? ということになるんでしょうね」

 ということをいうと、

「確かに、そうかも知れませんね。でも、ナイフは確実に内臓をとらえていて、プロの犯行と思えるくらいなのに、気になるのは、それだけの犯人が、どうして、ここまでの地が流出したのか? ということを考えて、よく分からなかったんですが、首を絞められているということが分かった瞬間、私は念には念を入れてじゃないかって思いましたね」

 と鑑識がいうと、

「そうですね。でも、恨みがあったのも事実かも知れない。そういう意味では、怨恨説は、切り離せないような気がするんですよ」

 と、下瀬副本部長が言った。

 下瀬副部長と、鑑識の課長は、ほぼ同い年くらいではないだろうか?

 結構、ため口で話をしているということは、昔からの馴染みで、下瀬が刑事時代の現場では、結構顔を合わせていたといってもいいだろう。

 鑑識の課長も、最近では、実際の現場には、部下が行くことが多くなったので、自分は、鑑識の本部にて、いろいろ指揮を執ることが多くなった。下瀬副部長と同じ感じだといってもいいだろう。

 二人の会話を聞いていて、若い刑事たちは、その意見に対して、どうやら、賛否両論あるようだった。

 というのも、

「鑑識と、刑事課では、元々あまり仲が良くない」

 というウワサが署内で広がっていた。

 その話は、本当は信憑性のないもので、そもそも、他の会社でも、

「営業部と管理部は仲が悪い」

 といわれているのが一般的ではないか。

 だから、警察も同じように、

「部署が違えば、仲が悪くても、しょうがない」

 といわれているといってもいいだろう。

 だが、その変なウワサを気にすることもなく、

「そんな信憑性のないこと」

 と、鼻で笑いながら、この二人は、ため口で、貴賤なく、話をしているのであった。

「で、下瀬副部長はどう考えているんだい?」

 と聞かれて、

「事件としては単純に見えるけど、首を絞めているのを考えると、本当に単純な事件で片付けてもいいのかどうか、考えさせられるんだよな。今までであれば、sれでいいとは思うんだけど、血が飛び散るということは誰が考えても分かるはずなのに、どうしてそのリスクを犯してと考えると、余計なことを、どうしても考えてしまうんだよな」

 というのであった。

「俺の場合も、そこに引っかかっているんだよな。昔なら、それで少しは、死亡推定時刻をごまかせるのではないか? とも考えられたが、今の時代であれば、それも分からない。何といっても、科学捜査の進歩は、警察にいても、どこまでできるのか分からないのに、犯人にしてみれば、もっと分からないはず。だから、逆に、変なアリバイ工作などはできないと考える方が普通なんじゃないかって思うんだ」

 というのが、鑑識の長としての意見だった。

 もっとも、これが、本当の専門家の意見かどうかは分からない。決して本音を言わないだろうからだ。

 しかし、この鑑識課長は、あまりウソは言わない。特に、下瀬副本部長に対しては、

「ウソを言っても同じことだ」

 ということで、言わないということである。

 それを思えば、

「犯罪を犯す方もやりにくくなったと思っているだろうな」

 と感じるのであった。

 この事件で、

「実に不思議な事件」

 といわれるようになったのは、最初こそ、

「犯人がいて、被害者がいる、実に当たり前でオーソドックスな殺人事件だ」

 ということで、

「警察のマニュアル化された捜査方法」

 というものが功を奏して、

「結構早く事件は解決するだろう」

 と思われたからであった。

 しかし、実際にはそうはならなかった。事件は、時間が経つにつれて、想定していた状態とは違う方向に向かってしまったからである。

 しかも、その方向とは正反対の方法、それは、事件の経過とともに、次第に広がっていくという、

「自体に比例したもの」

 といってもいいだろう。

 何といっても、一番の問題は、

「被害者が誰なのか分からない」

 ということであった。

 事件解決のストーリーとしては、まず、被害者が特定されることから始まる。ここでほとんどの殺人事件は、最初から被害者が分かっているというのが、定石だといってもいいだろう。

 被害者が身に着けているもの。そして指紋、あるいは、身体の特徴などから、ある程度は分かってくる。

 もし、それでも分からないとなると、警察は、

「捜索願が出ている人を探す」

 ということになる。

 実際に調べてみると、

「捜索願が出ている人の中には見つからなかった」

 といってもいい。

 もっとも、それは、

「K署での捜索願」

 はもちろんのこと、

「K県警内部でも調べてみたところで、なかなか該当者が見つからない」

 ということであった。

 さすがに、ここまで見つからないと、捜査本部も焦りを感じ、いよいよ、

「全国への公開捜査」

 ということになる。

 ここまでに捜査でかかった日にちは、1か月くらいであった。警察としても、一生懸命にやっているが、なかなか見つからない。

 何とか探してみるが、それでも見つからない。

 全国に、ニュースや週刊誌、新聞などを使って、捜査の幅を広げたが、簡単に見つかるものではない。

 何といっても、今の時代は、週刊誌や、新聞という、

「紙媒体」

 のものは、致命的に売れていない。

 ということで、スマホなどの配信動画や、ニュースアプリで見るしかないのだが、被害者というのも、実際に誰か分からないので、普通に生きている時の画像を載せるわけにもいかない。

 グラフィックという、最新の科学を使って、何とか生きている時の顔を、復活させるところまでは行ったが、元々を知らないので、どこまで似ているか分からない。

 それだけに、今まで、まったく反応がなかったものが、その配信画像を見て、数件が寄せられた。

 しかし、実際にはどれも違っていて、さらに、民間からの情報が多く寄せられるが、そのすべてが、

「ガセネタ」

 ということで、

「無駄足を踏んだ」

 ということになるのであった。

 いろろなガセネタを見ているうちに、門倉刑事は、

「突飛な発想すぎて、人に言えないかも?」

 と感じるところがあった。

 というのは、

「これは、本当に殺人事件なのだろうか?」

 ということであった。

 被害者がまったく見つからない」

 ということで、これが、昔であれば、

「土葬だった」

 ということを考えて、それこそ、昔の、

「探偵小説におけるトリック」

 というものを思いこさせる。

 例えば、

「顔のない死体のトリック」

 といわれる、

「死体損壊トリック」

 などがそうではないか。

 この場合は、

「成り立つという公式がある」

 といわれていて、それが、

「被害者と加害者が入れ替わっている」

 というトリックである。

 というのは、

「加害者が死んだことになれば、警察は、加害者を指名手配するだろう。しかし、本当の加害者は、死んでしまったことになっているので、加害者が捜索されることはない。しかも、本当の被害者は死んでいるので、加害者として捜索されても、見つかることはない」

 ということだ。

 それには、被害者としての身元は、

「絶対にバレてはいけない」

 ということで、

「殺人の際に、被害者の身元が分からないように、死体を損壊させる」

 というのが、

「死体損壊トリック」

 ということで、よく探偵小説で使われたのが、

「首なし死体」

 というわけだ。

「身元が分かる、首と、手首を切断してしまえば、実際に分かるものは何もなくなる」

 ということで、被害者が、誰なのか、そして、加害者は当然のことながら、その場から消えてしまうというのだから、事件としては、不気味さを演出しているし、トリックとしても、確立されているということで、

「これほど、探偵小説のネタになるということはない」

 といえるだろう。

 それを考えると、

「昔の探偵小説は、まだまだトリックの宝庫だったかも知れない」

 といえるだろう。

 今の時代であれば、基本的に、昔の探偵小説で使われたトリックを使用するというのは難しいだろう。

 というのは、

「科学捜査が行き届いているからだ」

 といえるだろう。

 特に、

「身元の判明」

 に関しては、

「首や手首がなくとも、DNA鑑定というのを行えば、ある程度まで、被害者を特定することもできる」

 という。

「白骨になったとしても、復元能力が発達してきたことで、その人のことが、昔に比べればハッキリというくらいに分かっていることだろう」

 といわれるだろう。

 もっといえば、

「それ以外の犯罪も、今では難しくなってきている」

 というのは、何も警察の科学捜査というだけではなく、それ以外の要因で、設置されたりしているものが、今の時代では、

「犯罪の抑止」

 として使われているといってもいいだろう。

 特に、

「防犯カメラ」

 などというものは、世間にたくさん溢れている。

 ビルの防犯カメラ、人の家の防犯カメラ、最近では、

「煽り運転」

 などという問題から、

「ドライブレコーダー」

 といって、車の中に防犯カメラを目的とした装置を仕掛けている人も多い。中には、標準装備になっている車もあるのではないだろうか?

 そういう意味で、

「アリバイトリック」

 というものが利かなくなってきた。

 どこにでもあるカメラにいつどこで映っているか分からない。街中には、今では、ネットの普及からなのか、

「WEBカメラ」

 というものが溢れているというのも事実である。

 ただ、実は、防犯という意味であれば問題ないのだが、今の時代には、その防犯だけではない諸問題が起こっていて、

「果たして、防犯という意味だけで、防犯カメラを増発していいのだろうか?」

 という問題である。

 一つ言えば、

「防犯という目的で、女子トイレにカメラを仕掛けてもいいのだろうか?」

 ということになる。

 それをやってしまうことは許されない。

 なぜなら、公衆トイレなのにも書いてあるように、

「いかなる理由があろうとも、女子トイレに侵入することは犯罪です」

 と書いてある。

 もちろん、

「掃除目的」

 として、権利を与えられていたり、中から、

「助けて」

 などという悲鳴が聞こえてきたり、さらには、

「うめき声」

 などが聞こえてくるということで、救急目的ということであれば、それは仕方がないだろうが、それ以外は、不法侵入であり、さらに、画像を取ったりすれば、

「盗撮」

 ということになり、

「立派な犯罪」

 となる。

 そういう意味で。女子トイレの入り口くらいまでは、カメラの設置は仕方がないが、それより中は、ダメな場所ということになるであろう。

 ということと同じ意味で、

「プライバシーの保護」

 というものが、憲法で保障されている以上、そして、ストーカー事件のような、犯罪が増えてきたこと、さらには、

「ネット詐欺事件」

「ハイパーテロ」

 などから守るために、

「個人情報保護」

 という観点が生まれてきたということである。

 それを思えば、

「犯罪というのは、もろ刃の剣だ」

 ともいえるのではないだろうか?

「何を守るべきか?」

 どれが大切になってきているのである。


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