7 狂い

 私は幸せだったのかもしれない。この生活に、なんとか幸せを見出そうとしていたのかもしれない。そんなこと、できるわけないのに。


 月奏の隣で勉強を教えていると、教師になろうとしたきっかけを思い出す。教えることが好きだったから。小学校でも、中学校でも高校でも。私は同級生に勉強を教えるお姉さん的立場だった。今はそれの延長線上だ。好きと言ってしまえば聞こえはいいけれど、本当は誰かに勉強を教えることで、その人より自分の方ができる、って思い込むためのものだった。


 私も月奏と一緒のできない子。けれど、できる風に見せるのが得意であってしまった。それ故に同級生に教えをねだられ、私よりもできる子にそのできる風のハッタリを教える。そしてできる子はハッタリの中から本物だけをうまく吸い取って私よりも上達してしまう。その繰り返し。


 できる子になれないといつしか悟った私は、他人にものを教えるということで自分の形を保つことを知ってしまった。それ以外で保てないことも知っていた。だから教師になったけれど、私ができるのはハッタリだけで、本当はプロになれるほどのものは持ち合わせていなかった、そういうオチだった。


 教えることで自分を保てなくなった私は、今は月奏を痛めつけないとこの世に存在できなくなった。けれど、今は、月奏を虐げる手すら、震えるようになってしまった。


 本当に、月奏をこのまま傷つけていていいのだろうか。今すぐにでもやめれば、まだ引き返せるかもしれない。


 それに、私の邪悪な心のために、月奏の未来を奪ってしまっていいのだろうか。……いや、ダメ、ダメなはずで。


 けれど、それに気づいてしまえば、私は死ぬ。


 そんな思考も……月奏を虐げれば、考えなくて済む。そうだ、そうだよ。


「やったー! 今日やるぶん、全部終わったよ!」


 今日指定した範囲をいつもより早く終わらせ、着実に「できる子」になっている月奏に私は頭を撫でた。


「よく頑張ったね。それじゃあ今日はもう終わり、寝よっか。歯磨きしてきなさい」


 私が手を離すと、月奏は洗面台へとてとてと歩いて行った。今撫でた手を、そのまま握りしめて、月奏を投げ飛ばしでもすれば、胸の内を張り裂く黒を晴らせるだろうか。……いいや、まだ、勉強中だったから、虐待しちゃ、ダメ。でも、今なら……勉強が終わった、今なら。


 本気で虐げるつもりだった。震える手で、買ったまま隠していたスタンガンを探し出した。そして歯磨きを終えて帰ってくる月奏を、待ち伏せた。なにも知らず、るんるんとベッドへ行こうとしている月奏の背中に、私は一突きした。バチッ、と、鋭い電流の音が聞こえた。月奏の身体が硬直して、跳ねた。


 別になにか月奏が悪いことをしたわけじゃなかった。ただ虐げて、自分の形を保つことに精いっぱいだった。けれど月奏は虐げられれば自分が悪いことをしたと思い込む。その思い込みからでっち上げられた「わるいこと」を、私は責め立てる。そうすれば、私たち二人しかいない空間じゃそれが真実になって、月奏が本当の悪い子になる。痛めつけたって、誰からも文句は言われない。


「あ……がっ……いだ、い……なに……せんせぇ……? るのん、なにか悪いこと、したの……?」


 前触れもなく暴力を振るわれた月奏は、理解が追いついていない。床に這いつくばりながら、恐怖とともに私を振り向いて見上げる月奏に、さらにスタンガンを突きつける。「あぁっ!」と耳を劈く悲鳴を上げる。


「……した……したよ……」

「ごめん、なさい……るのん、なにしたの……?」

「あなたの……っ! あなたのせいで! どれだけ私が狂ったと思ってるの!」


 乱暴に、四つん這いの月奏を張り飛ばす。手をつくことも許されなくなった月奏の脚に、手に、背中に、何度もスタンガンを打ち付ける。


「あなたさえいなければ、そのまま滅ぶだけでよかった……! それなのに……それなのに!」

「っ……せん、せぇ……? どう、したの……? こわいよ……! いつもの、やさしいせんせぇに……もどってよ……!」


 息も絶え絶えになりながら、涙をぽろぽろと溢し、それでも私に手を伸ばしてくる月奏に、首を絞められる感覚になる。


 元から私は、こうだよ。


 だから、私は……月奏の想像する良い「せんせぇ」じゃないの……!


 やめてと懇願する月奏の手を払って、私はお腹の上に馬乗りになる。息を切らしながら月奏のか細い喉にスタンガンを突きつけると、そこは本当にいけない場所だと月奏が本能で感じ取ったようで、涙がひゅっ、と恐怖で止まり歪みだけがその小さな顔を占めていた。


 私はすんでのところで手を止めた。これ以上やれば本当に後戻りできなくなると本能的に感じる。


 ……いや、もう後戻りなんてできる場所にいないじゃない。それなら、行くところまで行ったって、なにも変わらない。


 私は怯える月奏の首元に突きつけたスタンガンのスイッチに指を置いた。猛毒の沼に自ら沈んでく感覚を得た。理不尽で、理解に苦しむ怒り。なにに対してここまで荒れているのか、自分だってわかってない。


 けれど、それでも、その小さな身体に、残酷を刻む。


 バチバチッ! と一段と大きく電流が鳴いた。悲鳴も上げられずに月奏が目を見開いて痙攣する。明らかに一線を超えた痛み、それでも、私はスタンガンを刺したまま手を離さなかった。やがてガクリと、月奏から全部の力が抜けた。


「あ……」


 反応のなくなった月奏にすぐさま近づき、胸や口元に耳を向け、首や手首を触って脈を確かめる。


「……失神しただけか……」


 そこに確かに生きている証があって、それでもどこか不安があったらしい私は胸を撫で下ろした。


 月奏といると、命を確認する術だけが上達していく。


 不意に、私にあたたかなものが触れた。それが月奏のパジャマに染みになって、床にまで広がっていくのを見て、私は察した。


「……何回漏らせば気済むのよ」


 投げやりな、ぺち、と赤ちゃんの力よりも弱いビンタが月奏の頬に触れた。今までで一番軽いビンタだった。

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