6 迷い
そんな嘆きもニュースの焦燥も忘れさせるために、するすると時間は流れた。三日ほど経った頃には、消えたわけではないけれど、緊張感のない子どもたちしかいない学校では、私のニュースはすぐに空気と変わらなくなった。そうなるたび、私の家が安全な場所へとなっていく。
学校と同時に、家では月奏に勉強を教える生活が続いていた。一日中ずっと教える立場に立っている。とはいえ、月奏がやっているのは小学二年生用の教材だった。四年生のドリルが合わないから、もう一度新しいドリルを新調して来た。今の月奏にはこれくらいがちょうどよかった。朝出かける前に私が帰ってくるまでの宿題として複数枚あるドリルの全部から二、三ページ出し、帰ったらその丸付けと、解説、といった感じで、ゆっくりと進んでいった。学校で教壇に立つのとは違い、どうしてかこっちは気楽に教えられた。月奏の方が、手のかかる子なはずなのに。いいつけをちゃんと守って、出した分をしっかりやってくるからだろうか。
そんなお利口な月奏とは違い、学校で疲労を溜めてくる私は、ストレスをそのまま憎悪に変え、月奏にぶつけていた。それだけじゃ飽き足らず、月奏を痛めつけるためだけの道具すら買ってしまっていた。
麻縄や、スタンガンのような物騒なものも。……もう、戻れなくなっていた。
日々月奏がする小さな失敗。大人なら笑って許せるはずのそれらを執拗に責め立て「わるいこと」にでっち上げる。そうして、月奏が叱られるための理由をこじつけていた。
ある時は、手のひらで月奏の頬を叩いた。子どものほっぺたは餅よりも柔らかくて、叩くたびに罪悪感が手のひらに張り付いてきた。それを振り払いたくて、何度も、何度も執拗に叩いた。涙と謝罪にまみれた月奏に苛立って、最後は丸めた拳で月奏の鼻を殴ってしまった。パンチのような綺麗なものじゃなくて、机を叩きつけるような、拳の側部で無理矢理に叩いた。すると月奏は鼻血を出して、静かに泣いた。こんな時ですらこの子は泣くことに申し訳なさを感じてしまうのか。うるさくならないように、声を殺して泣く月奏に、もうなにもする気が起きなくなっていた。
またある日は、月奏を乱暴に押し倒して、食後に膨らんだお腹に膝をめり込ませた。呼吸が止まって苦しそうに唸ったのち、とうとう月奏は夕食を吐き出した。消化がまだされずにいた食べ物たちが、形そのまま出てきていた。それだけでその時の私は満足するはずだった。それなのに。
「ごめんなさい……ごめんなさいっ……!」
そう謝り続ける月奏は、なにを思ったのか床に広がったそれらを一つ一つ口の中に戻していった。驚いた私は頭が真っ白になった。とりあえず吐かせないといけないと月奏に飛びついて口を開けさせようとしたけど、不味そうな顔をしながらそれでも月奏は口を開けなかった。
「だって……食べ物は粗末にしちゃいけないって……せんせぇが……」
なんでそんなことするの、と私が訊いた時、月奏はそう言った。確かに月奏との生活の最中、そんなことを言った記憶がある。けれどそれはただの躾。そんな言葉すら一字一句守ろうとする月奏に苛立ちが沸き上がってきた。
「もうそんなのいいから!」
「だめ! せっかくせんせぇが作ってくれたのに……!」
月奏が初めて虐待に抵抗した日だった。健気な月奏を見て、私は悔しさに似た感情に苛まれてた。この子はここまで歪んでしまったのか。自分を責めて、意地でも私のことを喜ばせようとしているのか、不器用な行動ばかりとる。
私は言うことを聞かない月奏に堪忍袋の緒が切れた。買ったまま結局使わずに放置されていた麻縄を視界の端に見つけ、それを手に取り勢いのまま月奏の首を絞めた。そうすれば口に含んだそれだって飲み込めなくなる。
月奏が息もできず顔を赤くさせながら縄に手をかけもがいていた。ジリジリと、首に麻が擦れて皮がボロボロになっていくのが見えた。それへさらに力を込めた。非力な私なんかよりももっとか弱い、子どもの細い首に。そのまま折れたって、その時はそれでいいと思っていた。
やがて月奏は失神して、生きてることを確認した私は身体から力がすべて流れ出ていった。酷い有様になった部屋に、独り取り残された。
ある日は、冷水を張ったお風呂に押し込んで、顔ごと沈めた。凍えた身体で、息もままならないまま、それでも上がったら私に温度をねだるように抱きついてきた月奏の、氷のように冷たくて小さな身体を憶えている。ある日は、洗剤を口の中に流し込んで、泡を吹かせた。喉奥でさらに泡立って、吐いても吐いても泡が膨らみ苦しむ月奏に、なんとか平常心を保った。
その時その時の月奏のした「わるいこと」がどんなものだったのか、憶えてない。それくらい、些細なものに難癖をつけて、そんなものだけで理由をつけて、小さな身体と心に消えない痛みを与えている。私はこんなにもすぐ忘れてしまうのに、月奏には傷が残ったまま。殴って痣のできた頬も、縄で絞めた痕のついた首元も、一生負わせてしまうものをその身に刻んでいる。
けれど、なにもかもが終わって、せめてもの償いのように傷を手当てしていると、どれだけ痛みが残っていようが、どれだけ消毒液が染みようが、月奏は笑顔だった。
「手当てしてくれるせんせぇは、やさしいから」
いつだったか月奏はそう言った。月奏が笑顔になるたび、どうして私の中でやるせなさが暴れるんだ。傷を覆うように貼ったガーゼを引っぺがしてやりたくなった。
一週間、二週間、腐り切ったそんな生活が想像よりも長く続いて、月奏と私は同じ家にいるのが当たり前になった。
次第に勉強以外も教えるようになった。料理、掃除、洗濯……月奏は家事をよくやりたがって、それらを教えるのと同時に手伝わせた。今は夜ご飯はほぼ二人で作っている。次第に、外に出る以外なら、月奏はなんでもやるようになった。
私と月奏の距離が近くなるたび、私の手は月奏を強く痛めつけて、虐げる。けれど月奏は、私と過ごせば過ごすほど、出逢った時よりも笑顔が増えていた気がした。それが、私を一番苦しめた。その外に一歩も出れない当たり前の中でも、月奏にとっては前の生活よりも豊かなようで、家の中で十分楽しいようだった。
月奏との生活の間、私は月奏に、ごめんなさいと言わなかった。それは一つの決意のような、ある種の強迫観念のようなものだった。虐げるたび、何度も何度も申し訳なさが喉奥まで上がってきて、声に出てしまいそうになった。けれど、加害者は私で、被害者は月奏。私がどれだけ被害者ぶっても、月奏の痛みは消えない。それなら、中途半端に謝らず最後まで悪びれて、月奏が私を嫌ってくれた方がマシだった。
そのうち、私は月奏に嫌われるために虐待をするようになった。
そんなことをしていたら、バチが当たった。けれど、それの被害を被ったのは月奏だった。
「せんせ……さむい……」
朝ご飯を用意している時、ベッドから起き上がった月奏が私の背中にそう言った。振り返ると、顔色が悪く、今にも倒れそうなほどふらついた月奏がいた。
「大丈夫!?」
私はすぐさま月奏の肩をつかみ、おでこに手を当てる。焦った今の私には灼熱のように感じられた。
その熱に私は確信し、ベッドへと寝かせて体温計を月奏の脇に挟んだ。
「三十八度……身体怠い?」
「うん……ぼーっとする……」
熱っぽい、震えた息に乗ってなんとか声が届いてきた。急に攫われて住む環境が一変して、外の空気を少しも吸えずにいたから、身体を壊したんだろう。
「おなかすいてる?」
月奏は力なく、ふるふると首を横に振った。まったく動いていないその様子に、私はこれ以上なにか訊くのはやめた。
応急処置で熱冷ましシートをおでこに貼っていると、今度は月奏の方からか細く声が聞こえてきて。
「せんせぇ……るのん……しんじゃうの……?」
「そんなこと言わないで……!」
揺さぶられた、心底。出た言葉が自分のものだと瞬時に気づかなかった。それは体調を崩した子どもに浴びせる声量じゃなくて。私は手を伸ばして、びくついた月奏を落ち着かせる。
ただの風邪。寝てれば治るそんなモノ。なのに月奏は今生の別れみたいな顔していて。
「……死なないから。今は、寝てなさい」
こくりと頷いて、掛け布団の中に身体を沈め月奏は目を瞑った。
子どもなんて、すぐに熱を出す。この仕事をしていれば、熱だの体調不良だので休む連絡は耳に染みつくほど聞いてきた。
けれどそれが月奏になった瞬間、なにかに大きくせき立てられる焦燥感に襲われた。
最初は使い捨てのおもちゃのつもりで拾ってきたはずだった。壊れたら捨てる。死んだって別に構わないと、月奏の手を取ったあの時、倫理を吐き捨てた。
けれど、月奏がちょっと弱っただけで、身体の中のものがすべて出てきてしまいそうなほどの焦りが私を殴った。それは私が弱い人間である証拠。
「――はい。急な連絡で、申し訳ございません……」
起こさないよう離れた場所に移ってから、私は体調不良で休む連絡を入れた。仮病を使うのは、人生初だった。仕事を休むこと自体初めてで、下手な演技とバレないかの緊張で、本当に病気になったように心臓が跳ね上がっていた。学生時代にすらやらなかったことを、教師になってからやるなんて。
電話の切れた音に、私は肺の中の空気をすべて吐き出した。スマホを耳から離し、月奏を見る。自分の受け持つ児童たちより、一人の無関係の子どもを優先する私は、教師の屑だ。
「……お粥作っておこう」
目の前で風邪をひいた子どもを見捨てるほど屑にならないために、やるべきことだけ考える。身体に悪いものが鍋に混ざらないよう、後ろ向きな思考は捨てた。
*
お昼過ぎくらい。月奏が起きて、おでこのシートを張り替えてからご飯をおぼんに乗せベッドへ運んだ。
「りんご……?」
おぼんの上にはさっき作った卵粥と水のほかに、切り分けたリンゴを並べた。もし食べられなさそうでも、果物なら食べられるだろうかと思い、お粥を作るついでに買ってきた。
「そう。食べれば良くなるよ。これだけでもいいから、食べなさい」
「みみ生えてる……?」
「え? あぁうん。うさぎ。好きかなって」
少しでも早く治るように、そんなおまじない程度のもの。月奏はそれを真新しいものを見るような目で眺めていた。
やがてフォークがリンゴに伸びて行って、小さな口で齧り付いた。気になるものから口に入れていくのは、子どもらしい。それを咎める気はなかった。
「……! おいしい……!」
まだ辛そうだった顔に明るさが宿って、ぱくぱくとリンゴを食べ進めている。食欲が失せている素振りもなく、今まで作ったどんな料理よりも美味しそうに食べている月奏を見ると、うさぎに軽い嫉妬を抱く。
「……そっか。よかったね」
リンゴのおかげでお粥を食べる余裕も出てきたらしく、おぼんの上のものはすべて食べ切った。全部食べられてえらいと、私らしくない褒め方をした。
その後身体を拭いてからもう一度寝かせた。するとおまじないが効いたのか、夜になるころには元気になった。
*
「せんせぇ、お風呂入ろ!」
その日の夜、風邪を吹き飛ばした月奏が我慢していたとでもいうように私にひっついてそう言った。
最近、月奏は一緒に寝るだけじゃ飽き足らず、お風呂までも私と一緒に入ることをねだってきた。何度もあの場所で私に虐げられているのに、それでも一緒に入ろうとしてくる。私が身体を洗ってくれるから、利用されてるんだろうか。
一緒に湯船につかると、月奏は私の膝に座って、寄りかかってくる。これが月奏にとって一番安定している場所らしい。ただでさえあったかいお湯につかっているのに、子どもらしい高い体温で密着されると、のぼせそうになる。
ふと、月奏が湯船の中で揺らいで映るリストカットの痕を見つめていることに気がついた。子どもの治癒力のおかげで、そこはもう塞がっていて、髪の毛一本くらい細い傷跡が走ってるだけだった。それを見ている月奏がいたたまれなくて……いや、ただ、私が見たくなくて、私はそっとそれを隠すように、手を置いた。
「せんせぇ? 大丈夫だよ。もういたくないよ」
「そう、じゃない……あまり傷口は見るものじゃないよ」
そういうと、月奏は両腕を太ももの下に踏んで隠した。そこまでしろとは言ってないのだけれど……まあ、いい。
目を閉じると、リストカットの痕が未だぼんやりと瞼の裏に残っている。目を開けても、水面に残像が揺らいでいる気がした。
一生残る傷までつける気は最初はなかった。いつか月奏が私から解放された時、邪魔になってしまわないように。けれど元々ついていた虐待痕に、自分の意志の弱さが魔を差した。
一生モノの傷を残しても、その腕を切り落としてしまうような、そこまでのものを負わせる勇気は、私にはなかった。それこそ、私から月奏が離れた時、月奏が困ってしまう。いつか解放された時、五体満足の身体で普通の生活を送れるように。そんな理由付けで、私の中は納得していた。
お風呂から上がると、月奏はテレビで私がレンタルショップから借りてきたアニメのDVDを観ていた。
「もっと離れて観なさい」
行儀よくテレビの前にちょこんと正座し、ひっつき虫になっている月奏の身体を持ち上げて座布団ごと後ろに下げる。
「ピュアリィ、かっこいいー!」
アニメへと釘付けになりながら目を輝かせる月奏のそのさらに後ろから、食卓に座り作業をしながら私も横目でそのアニメを観る。ニュース以外のテレビを制限せず、私がいるときならという条件付きで月奏に自由にテレビを観させていたら、日曜日の朝、ちょうどやっていた「ピュアリィ」という魔法少女のアニメにハマったみたいだ。最初見つけた時から毎週観るようになって、それだけじゃ物足りなそうにしていた月奏のためにDVDを借りてきた。DVDならテレビのカードがなくても観られるから、平日の日中、どうしても暇な時に月奏が退屈せずに済むからちょうどよかった。たまに私も興味がないなりにこうやって後ろから眺めてにぎやかしにしている。
「ほら、勉強するよ。日中できない分、今のうちにやっとかなくちゃ」
一話分観終わった時、私はテーブルにドリルを用意して月奏を呼び寄せた。月奏はなにも言わずにテレビの電源を落としてこちらに来る。こういう時にもっと観たいと駄々をこねないのは月奏の良いところだ。
「るのん、お勉強好きだよ」
「え?」
隣に座り、ドリルの表紙をめくるや否や、月奏はそんなことを言い出した。
「だって、せんせぇ褒めてくれるもん。痛いのしないし、それに、今までお勉強でほめてもらったことなかったから」
にっ、と口角を上げた、心底嬉しそうな顔。小学校の先生になってから、こんなにも胸がいっぱいになる笑顔は見たことがなかった。
正直、月奏の出来はあまりよくない。二つ下の学年がやるような範囲でも、躓いてしまうような子。周りが学年相応のものができている中で、そんな子、褒められる機会がなくて当然だ。私だって、もし学校ならそうしてる。三、四十人のクラスで下っ端の一人にそんな気をかけられる余裕なんてない。けれどここは学年も時間も関係ない。できるまで教えて、できたら褒める……それだけだった。
怒らないというのは最初に月奏へ告げたこともあって、徹底していたかもしれない。でもそれは、私のエゴだった。私も教師という仕事についているクセ、勉強ができるわけじゃなかった。私の家は良家なわけでもないのに、勉強にはやけに厳しかった。できないけど、やらないといけなかった。できるようにならないといけなくて、一心に食らいついていた……そうしたら、勉強が大っ嫌いになった。
大っ嫌いになって得することはなにもなかった。けれど苦しむことはたくさんあって、嫌いになればなった分、後悔が増えた。だからせめて月奏には、勉強を嫌いになってほしくなかった。それなのに、むしろ好きになってしまうなんて。私ができなかったことを易々とやってしまうその子に、嫉妬に似た、黒い感情が私の奥で渦巻いた。
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