5 虚飾の身代わり

 次の日、学校へ赴くと職員室は昨日私が逃げたニュースで持ち切りだった。最初は戦慄して、職員室の入り口で突っ立ったままになってしまったけれど、考えてみれば当然。すぐ近くで起きた小学生の行方不明事件、誘拐の可能性もある以上、子どもたちへの被害が心配になる。月奏以外が狙われる心配なんて、ないのに。そんなこと、言えるはずないけれど。


「天見ちゃん、大丈夫?」

「え? 私……ですか?」


 反応するのもスルーするのも不自然な気がして、自分の席でできるだけ存在を殺していると、そんなの知らないと身勝手な先輩が私を捕まえた。


「ほら、事件起きたとこ、この学校の学区と違うとはいえ、天見ちゃんの住んでる近くでしょ? もし不審者の仕業だったら、天見ちゃんも危ないよ」

「大丈夫ですよ。というか、行方不明なの小学生じゃないですか、私が小学生だって言うんですか」

「いやいや、茶化してるわけじゃなくて。今回がたまたま小学生だっただけかもしれないでしょ? 気を付けとくに越したことはないって。天見ちゃんかわいいんだからさ」

「はぁ……まあ、最後の以外は真摯に受け止めておきます」


 その話をこれ以上続けたくなくて、トイレを行くふりをして不愛想にぶちぎった。駆け込んだ先は誰もいなかったから、大きな溜め息が自然と漏れ出た。


 隠し抜くにはどうするべきだろう、そのことだけが頭を占めて、なんとか不安に震える胸の奥を鎮めてから職員室に戻った。鏡に写る自分の顔が少し青かった。


 朝の職員室会議ではそれぞれのクラスにて事件についての注意喚起を命じられた。自分が犯人の事件で不審者に注意しましょうね、とクラスに呼びかけるのは、この上なく滑稽な姿だろう。それでも実感の湧かない子どもたちはなんのことか理解してなさそうだった。いたずらに恐怖心をつつきたくないから、その反応に助かった。


 その上、子どもたちは私のことをそんな犯罪とは無縁な女だと思っているらしい。


「天見せんせーはやさしいよ!」


 それは休み時間に先輩とばったり会って軽い教師同士の会話をしていた際、通りすがりの野次馬精神豊富な子どもたちが物珍しそうに集まって来た時のこと。先輩のクラスの子と私のクラスの子が数人混じったその子どもたちから、どっちの先生が優しいか、みたいな話が飛んできた。


「京家せんせーみたいに怒んないし!」

「ちょっと、それあたしが意地悪してるみたいでしょー?」

「あはは……」


 それは私が怒ることができないからだ。初めて先生として子どもたちと接したとき、瀬戸物よりも脆く思えたその子たちにどう叱ればいいかわからずにいたら、そのまま叱ることができず軟弱なままの女になった。けれどそれは怒るイコール怖いに変換される単純な子どもたちから見たら、「やさしい」先生らしい。私から見れば、先輩の方がよっぽどいい先生だ。子どもたちと距離も近くて、私よりもちゃんと見ていて、叱っている時だって、その子のためって思いが目に見えてわかって、傷つく言葉は絶対に投げかけない。憧れが凝縮したような人だった。それでも私に好意的で、思ったものが飾らずナイフになる子どもたちの言葉は、止まらずに投げられた。


 授業が楽しい、字が綺麗、ピアノがうまい、美人……全部先輩にだって当てはまるだろうことなのに、私だけを持ち上げる。


「ああ……あたし、ダメな先生なのかなぁ……」


 その日の放課後、職員室で先輩はものすごく傷ついていた。歯に衣着せぬ評価は、温情すらなく突き刺さる。


「そんなことないですよ。先輩のこと嫌いって言う子が一人もいなかったことが、証拠じゃないですか」


 本当に心から泣きそうな顔をしている先輩に、私は精いっぱいのエールを送った。蛇足にしかならない、拙いもの。励ます言葉一つまともに出てこない私に、それでも元気をもらったと言った先輩は優しかった。


「はぁ……死にたい」


 学校から離れ先生じゃなくなった途端、先輩の嘆きよりも明確で、暗い言葉が衝いて出た。人生で何度そう呟いただろうか。呟くたび、それを実行することのできない自分に腹が立つ。


 子どもたちのナイフが刺さったのは先輩だけじゃない。あの褒め言葉すべて、私には非難に聞こえた。憧れの塊である先輩は、今では嫉妬で、羨みの権化。その差を一つ一つ、抉り取られているみたいで。


「せんせぇ。なにかるのんがおてつだいできることない?」


 家の中でうなだれていると、月奏がそんな親切心を持ち寄ってきた。今の私には、鬱陶しい。


「……ない」

「えーでも……」

「ないって」

「お皿洗いくらいなら、できるよ?」

「……どうしてそこまでして手伝いたいの」

「だってせんせぇ、疲れてるみたいだから……お顔暗いよ?」

「……」


 今日浴びたばかりなのに、子どもの純粋さを忘れていた。こんな露骨にしなくても、私の落ち込みなんてすぐに感じ取ってしまうくらい感受性は敏感なんだ。俯きながら覗いた、月奏の悲しそうな表情が痛かった。そんな表情のままにはしたくなくて、私は折れた。


「……じゃあやり方教えるから、やってくれる?」

「うん!」


 それだけで月奏は笑顔に戻った。私はそのまま悲しい感情に置き去りにされていた。


 皿洗いくらいならすぐに教えられたし、月奏も理解が早かった。とはいっても、使う洗剤とスポンジ、洗ったら皿を置く場所さえ教えれば、あとは綺麗に洗ってねと釘を刺すだけで良かった。それだけで、疲れた身体に案外追い打ちをかける家事が一つ潰えた。月奏には少し悪いけど、今後もやってもらおうかな。


「あっ……」


 けれどそんなのうのうとした考えはパリン、となにかが割れる音が遮った。あの子のいる、台所からだった。


 私は台所へと足を運ぶ。すると流しに皿だったものを散乱させて、固まる月奏がいた。


「えっ、あ……ごめん、なさい、ごめんなさい……!」


 やってしまったという後悔か、それとも皿を割ってしまってどうすればいいのかわからないのか、片手にスポンジを持ったまま固まっている。


 けれど私の顔を見た瞬間、恐怖にそのかんばせを歪ませた。それでも私と目を合わせ続けるのは、もしかしたら助けてくれるかも、指切ってない? とかって心配してくれるかも、なんて縋っているのだろうか。お茶を溢したときもそうだった、どうしてそんな儚い望みを抱くの。身体の傷をつけた張本人が、そんなことするわけない。


 私に上ってきたものはそんなのとはかけ離れた、嗜虐心。そうだ、今日の憂いだって、この子を傷つければ解決する話だった。そのために、攫ってきたのだから。


「なにしてるの」

「ごめんなさい……! もう落としません、から……!」

「こっち来て」


 私は乱暴に手からスポンジを引き剥がし、その腕を引っ張った。その強引さに次に自分へ来るのが痛みだとわかってたのか、月奏の目に涙が浮かんできた。私はリビングに来ると、月奏を膝に乗っけるように座った。そして横のテーブルにあるペン立てから、カッターを取り出す。


「なにするの……?」


 月奏の左腕をがっちりと掴み、私の腕に沿うように伸ばす。私の腕と重なったその腕が、私よりも一回りも二回りも小さくてそのか弱さに、傷つけたくなる。


 私は月奏が逃げ出さないように捕まえながら、ゆっくりとカッターの刃を出していく。


「いやっ、怖い……やめて……!」


 自分にはできなかった、行動に移せなかったものを、すべてぶつけるように、長く露出させたカッターの刃を、月奏の左手首に添える。そしてゆっくりと刃を食い込ませ、横に引いた。


「っ――! 痛い! やだ! やめて!」


 すぐさま手首から赤が溢れ出てきた。想像以上に流れ出てくるその血に、少しだけたじろぐ。


 じたばたと暴れる月奏を押さえつけながら、もう一度、今度は肩側に一センチほどずらしてもう一本の傷を入れる。


「ぁ――! っあ……やだ……!」


 声にならない悲鳴をあげながら、涙を流す月奏。刻まれたのと反対の腕で私の身体を叩いて苦悶を訴える。それに私の心は逆さまに撫でられた。


 人を叩く悪い腕にも、罰を刻まなければならない。その腕を捕まえて、怒りに任せ勢いよく横線を切り込んだ。


「あぁぁっ! いた……痛い、よ……!」


 さらに鋭い痛みに襲われ、今度は足をバタバタとさせる。それに苛立った私はカッターを逆さに持って振り上げて見せた。


「暴れないで、足まで切られたいの?」


 ひっ、と小さく息を漏らして、月奏はぴたりと動きを止めた。それでも痛みは止まらない、むしろ動きを止めてすべておとなしく受け入れているのだから、さらに痛むだろう。それを示すように身体が震え、肩で息をしている。


 月奏はすべてを諦め、目を瞑り次の痛みを待っている。それを見て、振り下ろす気だった私の右手から、冷めたように力が抜けた。


 カッターを床に置いて立ち上がる。すると私に寄りかかっていた月奏がよろめき後ろに倒れた。


「動かないで。血で汚れたらどうするの」


 私は棚に手を伸ばしながら月奏に忠告する。健気にもそれを守ろうとして、寝そべった月奏は腕を天井にピンと伸ばしてそのまま固まっていた。時々痺れる手首の痛みに顔を顰めて。


「いいから、そこまでしなくても」


 私は救急箱を取り出して、少しだけ早足で月奏のそばに駆け寄った。そのまま傷口にティッシュを当ててから月奏の上半身を起こして、両脇に手を回しそのまま持ち上げ洗面台まで持って行った。散乱したままの皿の破片を見た月奏は、申し訳なさに染まった表情で目を瞑った。自分の傷口よりも見たくないようだった。


 月奏の左腕を掴んで蛇口下に差し出し、無慈悲にそこへ冷水を流した。


「いたい……」


 水が傷口に染み月奏が目を瞑ったまま顔を顰める。それでも先ほど暴れないで、と言ったのを律儀にまだ守っているのか、小さく漏らしたその声以外なにもなかった。今は必要以上に痛めつける気はないし、さっさと両方の傷口を洗い流し、そのまま救急箱の元へと戻った。


「……えへへ」


 傷口に薬を塗って包帯を巻いていると、月奏が嬉しそうに私の手を眺めていた。


「……なに」

「せんせぇに手当てされるの、好き」


 私は呆れて溜め息を吐きそうだった。その傷をつけているのは目の前の人物なのに、なにを言っているの。


「せんせぇ、一生懸命やってくれるから、大好き」

「はぁ……命係わってるんだから、当たり前でしょ。そんなことより、あまり身体動かさないで」


 結局漏れ出た溜め息をそのままに、月奏に包帯を巻いていく。そのまま口元までぐるぐる巻きにして、黙らせてやりたかった。

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