4 息のできない

「これで、真ん中のボタン押せば温めてくれるから、あとは待つだけ」


 日付が変わって、生きた心地がしない休日を過ぎた私は、月曜日を迎えていた。平日である今日は仕事があるから、朝一に私は月奏にお留守番をさせるためレンジの使い方を教えていた。


「できそう?」

「うん」

「そう。一応使い方書いたメモ貼っておくから、わかんなくなったらこれ見て」


 私はノートの切れ端を一枚、レンジの端に貼り付けた。それは昨日寝る前に用意したもので、面白みもない黒字が羅列されていた。けれどこれで、月奏がお昼ご飯を抜かないで済む。


「ありがとう」

「どういたしまして。ちゃんと十二時を過ぎたら食べるんだよ。時計、読める?」


 私は壁にかかった時計を指差して、月奏の顔を見る。長針、短針をそれぞれ追いかけるような目線は、しばらくしたら追うのをあきらめた。


「読めない」

「そっか。うーん……あ、目覚まし時計見て」


 それならとベッドのそばに置いていたデジタルの目覚まし時計を取ってきた。そこには数字で時刻が表示されていて、それなら読めそうといった様子で月奏は首を縦に振った。いつか時計の読み方も教えないといけないな。


「あとは……トイレはいつでも、何回でも好きなようにしていいから。ストーブも、寒かったら上げていいけど、あまり近づきすぎないようにね。物も近くに置かない。それと、ストーブ以外の火は使わないで。わかった?」

「うん!」

「よし。それくらい、かな。私帰るの遅いから、なにしててもいいよ。寝ててもいいし、勉強しててもいい。……そうだ」


 私はテーブルの上に置いてある、昨日レンジのメモと同時に作った切れ端を月奏に手渡した。


「……九九?」


 それは一の段から九の段まで整頓されて並べられ、覚えるための語呂合わせまで書いた表。それを見て、月奏は首を傾げた。


「九九はできるよ?」

「そう? それじゃあ、全部百回間違えずに自信もって言える?」

「えっと……どうだろ……」


 意地悪な質問をしているのを理解しながら、それでも私は月奏に厳しさを伝えた。正直、これくらいの基盤からやり直さないと月奏は勉強を始められそうにもなかった。


「自信ない? 九九はね、それくらい自信もって言えるようにならないと後で困っちゃうよ。だからこれ、私が帰ってくるまでの間、もう一回暗記し直してみて」

「わかった」

「よし。それじゃあ、行ってくるね」

「うん。行ってらっしゃい」


 私は月奏の見送りを受けながら、軽くもう一度家を見渡す。テレビのカードは抜いた。外に繋がるような電子機器もない。鍵もすべてに取り付けた。一つ一つを再確認したのち、それでも不安が残るけれど、できることはやったはずとそれを喉奥に閉じ込めた。


 誰かに見送られて家を出るなんて学生時代ぶりだろうか。なんとなく、悪い気分じゃない。





 学校に着くと、今までと変わらない疲労の重圧が私を苦しめた。昨日で生活は大きく変わったけれど、考えてみれば月奏が来ただけだ、学校になにも変化はない。


 むしろ、月奏が足枷になることが多々あった。今頃なにしているのだろうか、大変なことになっていないだろうな、と気が気じゃなかった。なにより月奏と同い年のクラスを持っている以上、その子たちと接していると何度も月奏が脳裏をよぎる。そのたび、私は外面ではこんな人畜無害そうに接しているけれど、家では同じくらいの少女を痛めつけている、そんな罪悪感に苛まれ続けた。私はその一日、ゲームのオート操作みたいに、感情を失くし自動で自分を動かすことでなんとか保った。


 放課後、クラスの子たちが誰もいなくなり、ようやく私は解放された。けれど安らぎが戻ってきたわけじゃない、足枷を引きずりながら、私は職員室へと向かった。


「大丈夫ー? 天見あまみちゃん、今日元気ないよ?」

「あ……先輩」


 そこで作業をしていると、この学校の中で一番見慣れた顔の人が私にちょっかいを掛けに来た。高校生以来の先輩で、狙ったわけじゃないのに、大学、職場と腐れ縁のように同じ道を辿ってきた京家きょうか先生。この学校に配属された時、驚くことに先輩はそこにいた。


「いつもですよ、こんなの」

「んなことないってー。そんな暗い顔してたら、かわいいかわいい天見ちゃんのお顔が台無しだぞー!」

「こら、京家先生。天見先生の邪魔しないの」


 ぐりぐりと私の頬を人差し指でめり込ませ、厄介な絡み方をしてくる。それを憂いた他の先生が、先輩を諭す。


「別に……もう慣れてますよ」

「付き合い長いしねぇ」

「お二人って、高校からのお知り合いなのよね」

「そうです、同じ吹部だったんですよ」


 高校一年の頃、中学もやっていたからという理由でなんとなく入った吹奏楽部。その時にはもう、数多の後輩に好かれる三年生として、先輩はそこにいた。クラリネットを持つ私と、トランペットを持つ先輩は、楽器が違うのに、同じパートの子よりも隣にいる時間が多かった。それくらい、馴れ馴れしい人だった。


「新入部員入って来たとき、クラにかわいい子がいるぞっ! って見つけて、猛アプローチしかけました!」

「鬱陶しいったらなかったですけどね」

「天見ちゃん辛辣ッ!」

「あはは。でもそんな二人が、同じ学年のクラス持つなんて、奇跡ね」

「……」


 愛想よく返す言葉が浮かばす、黙った。それは私にとって重荷の一つで、私を苦しめるもので最も大きいものだった。フレンドリーで、子どもたちに好かれる先輩。それに対して、子どもに疲れ果て、壁を作ってしまった私。歴でも技術でも人柄でも、勝てるものはなに一つなくて、私が真似できるものも一つたりとなかった。


 そんな当たりのクラスと外れのクラスが明確に分かれてしまった学年。私のクラスになった子たちが、私の罪そのものとなって責め立てる。


「なんか言ってよ天見ちゃーん。無反応は先輩悲しいぞー! ……また、うちのクラスの子が迷惑かけちゃったりした?」

「……いえ」


 声色が一段優しくなった先輩の声が、私の耳を撫でる。そうやって、また私の弱い部分を目ざとく見つけて手を伸ばしてくる。爛れた心の目の前に、安らぎを差し出してくる。優しく情に厚い先輩は、昔からそうだった。


 先輩は、この場所では気心の知れた唯一の人だから、安心できる人ではあるのだけど……最近は、その安らぎすら、私には重く、痛い。


「それじゃあ、私はお先に……あ、先生」


 会話をぶつ切りにしてこの場から逃げ出そうとすると、先ほど私たちの会話に入ってきた先生の机の上にあったものに目線が行った。


「……それ、お借りしてもいいですか」

「え、これ? 天見先生の学年で使うことありますかね?」

「まあ……ちょっと思いついたことがあって、試したいことが」


 適当な誤魔化し方をしていると、もう今年は使わないのでという理由で、返すのを条件に貸してもらった。





 車に乗り、今日起きたネガティブなことすべてを引きずりながらアクセルを踏む。それらは擦り減るどころか、どんどんと膨らんでいき、家に着く頃には、月奏を痛めつけたいその一心が、私を支配していた。


 逃げ込むように、家の扉を開け駆け込む。するとそこにはちょうどよく、わるいこになっている月奏がいた。


 冷蔵庫を開けっぱなしにしたまま、あわあわと床を見下ろしどうにもできないでいる。その目線の先には、蓋が空き、横倒れながらお茶を撒く二リットルのペットボトルがあった。月奏の身長より少し高い冷蔵庫、そこから飲み物を取ろうとして、零したんだろう。


「なにやってるの」

「ひっ……ごめんなさい……」

「もう聞き飽きたよ、それ」


 私は頭を掻きながら罪悪感に圧し潰されそうになっている月奏に近づく。邪魔モノを押しのけるように開きっぱなしの扉を閉め、へたり込む月奏にしゃがんで目線を合わせる。その瞳は怒られることを確信した裏に、少しだけ、どうにかしてくれないだろうかと私に助けを求めるような光があった。……今の私が、そんなわけ、ないのに。


「あ……がっ……やめ……!」


 数瞬考えた後、私は月奏の喉元に手をかけ、そのまま小さな身体を背中からお茶の広がった床に叩きつけた。反対の手で水溜まりを作った張本人である二リットルペットボトルに入ったお茶を持ち上げる。元々ほぼ満タンまであったはずのそれは、ペットボトルの半分くらいまで水位が下がっている。


「開けたばっかだったのに……もったいない」


 首にかかっている私の手に両手で抵抗する月奏の無防備な口に、私はペットボトルの口を押し込んだ。乱暴に入れたせいで歯に当たりガッ、と音が鳴った。


「ん、んんー!」


 コポ、コポ、と逆さまになったペットボトルから水が流れ出る音が聞こえる。それはすべて月奏の喉へと容赦なく流し込まれる。


 突然準備もなくお茶が入って驚いた月奏は、ペットボトルをくわえたままむせる。その空気はすべてペットボトルの中に入って、その反動でさらに喉へとお茶が入って苦しそうにもがいている。息もできてないんだろう。


「ちゃんと飲みなって」


 その様子に身体の内の邪悪がくすぐられた私は、ペットボトルをぎゅっと指で押し込んだ。するとペットボトルにまだまだ残っているお茶が月奏に追い打ちをかけた。ほっぺたが膨らんで許容量を超えた月奏は、口の端からお茶を噴き出した。


「なにしてんの」


 さらに追い詰められる悪事を見つけた私は、ねちっこくそれに対して月奏を責め立てる。首にかけていた手にさらに力を込めると、月奏は呻く声も出せなくなって、涙だけで私に苦しみを訴えていた。


 やがて一分くらいそのままでいると、月奏の様子がおかしくなった。胸とお腹がまるでシーソーのように交互に浮かんで、沈んでを繰り返していた。それが生物に備わった呼吸を求めての反応だとすぐに気づいた私は、流石に焦りを覚えてすぐにペットボトルを月奏の口から離した。


「ぉえ……ぁ、がっ、はっ……」


 解放された月奏は、四つん這いになるよう腕と足を床に立て、呼吸を奪う水を吐き出していた。それでもうまく呼吸できてない様子に、私は後ろから月奏を抱きかかえ、お腹のあたりで手を結んでそのままぐっと腹を圧迫した。


「ごほっ、げほっ……はぁ……はぁ……」

「……大丈夫?」

「だい、じょうぶ……」


 ようやく息を吸えた月奏は、肩を上下させながら深く呼吸をしている。


 自分でやっておいてかなり焦ってしまった。けれど、口を閉じることもままならず、よだれとお茶が口の端からだらしなく滴り落ちる月奏を見ていると、どこか安心感に似た充足を胸の奥に感じた。





「月奏、九九ちゃんと憶えた?」


 虐待の跡を綺麗にしたのち、そんなことなんて忘れてしまったように、悪びれもせず私は月奏にそう訊く。


「うん、バッチリ!」

「そっか。それじゃ……はいこれ」


 食卓に座る月奏の横にもう一つ椅子を近づけながら、今日帰り際に他の先生から借りてきたグッズを取り出す。スマートフォンより一回り大きいくらいのカード、それが八十一枚、九枚ごとに分けられ輪ゴムで止められている。それらには、一枚につき一つ、九九が書かれていた。


 掛け算を習う時、これをフラッシュ暗算のような要領で見せる、すぐ答える、といった風に憶えたか確認する。


「今から全部一秒で答えてね」

「一秒で!?」

「そう。驚いてちゃダメだよ。憶えるのもそうだけど、すぐ答えられるのだって、大事なんだから。ほら、いくよ」


 必要以上に緊張している月奏に、私は段ごとに分けられた束を一の段から解いて、月奏に見せていく。月奏は少し強張った声色で、それでも昼間自習した成果を出していた。


 六の段までは良かった。けれど七の段になると、月奏の表情が少しだけ怪しくなっていくのを感じた。


「しちさんにじゅういち、しちしにじゅうし……」

「ストップ。間違えてるね」

「え、うそ!?」


 やってしまったという風に月奏が頭を抱える。そんなしなくていいから、と月奏の頭を軽くぽんぽんと叩く。


 パッパとカードをめくっていたからこんがらがっただけかもしれないし、一応七の段の他も訊いてみることにした。


「それじゃあ、七掛ける六は?」

「しちろく……四十九?」

「四十二ね。よし、そうしたら、七の段完璧にしようか」


 そんな感じの練習を夜ご飯の時間になるまで続けた。全部の段を一から順に答えていくのを完璧にしたら、今度は数枚無作為に選んだのち、トランプのようにカードを切ってみたり。やがて咄嗟にどのカードを出そうが自信を持った顔で正解するようになっていた。


「よし! 完璧になったね、月奏」

「ほんと……!?」

「うん。これでバッチリ! よくできました」


 月奏の頭を撫でると、それに蕩けるように月奏がへにゃりとした笑顔になる。人として当たり前のことができるようになっただけ、それなのに、一つ憶えられると、月奏の歓喜が伝播するように私も嬉しくなった。こんな感覚、先生になったばかりの頃以来だ。




 夜ご飯の時間になって、カードたちを片付けた。月奏と一緒にさっと作った料理を食べながらテレビをつけた。するとニュース番組がやっていて、そこには見覚えのある内容が映っていた。


『――市にて十歳の女の子が行方不明になる事件が――』


 その言葉を聴いた途端、耳の奥が重く唸った。咄嗟にチャンネルを変えて、なんとかバラエティ番組へと逃げることができた。


 動機が止まらない、覚悟していたことのはずなのに、目の前で悪事を形にされると、これから私は死にゆくんだと言われているみたいだった。


「……せんせぇ?」


 月奏の声にハッとして、その声の方向に目を合わせる。月奏は私以外なにも気にしていない様子だった。というより、あのニュースが自分のことを指しているのだと理解していないのだろう。未だ私のことをいい人だと勘違いしている月奏にバレていないことがわかって、安堵してしまった。


「……なんでもない。早く食べな、冷めちゃうよ」


 そう言う私の箸を持つ手は、一向に動きそうになかった。まさかテレビにまで映るほど大事になるとは。まあそれを警戒して、朝出ていく時カードを抜いたわけだけど。退屈になってしまうからテレビを制限する気はないけれど、私と一緒の時以外は見られないようにした方が良さそうだ。


 行方不明……誰からも愛されていない子を、誰が、なんのために探しているのだろう。月奏の関わってきた人たちにとって、この子はいらない子のはずだ、そのままにしておいてよ。そもそも、自分から目を離しておいてなにが行方不明だ、とあの母親の姿を思い出しては悪態をつきたくなる。けれどどれだけ吠えても悪いのは私側であって。


 一応、逃げる準備だけはしておこうか。

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