3 わるいこ

 お風呂から上がったら、私は救急箱を棚から探し出し、月奏の虐待痕に手当てをしていった。身体のいたるところに散りばめられているせいで、月奏は終わるまで裸のままにされている。それがかわいそうで、できるだけ素早く手を動かす。


「……」


 傷口たちに軟膏やガーゼ、絆創膏を施していると、月奏が黙って興味深そうに私の手を眺めていた。


「……なに」

「ううん。なんか、こういうの初めてだから」

「初めて……? 手当てが? 転んだときとか、どうしてるの?」

「ツバつけてた。それで治るって言われたから」


 虐待痕がそのままにされている時点でなんとなく予想はしていたけれど、その徹底っぷりはひどいものだ。子どもならすぐ傷も塞がるかもしれないけれど、それと同じくらいケガも病気もしやすいのに。もしかしたら、今までそのまま死んでしまいかねないようなこともあったんじゃないだろうか。


「ツバじゃ治んないよ、むしろ汚くなっちゃう。ちゃんと手当てして。言ってくれたら私がするから」

「いいの?」

「当たり前でしょ」


 その当たり前すらしてもらえなかった月奏には、辛い言葉だったなと言ってから気づいた。それでも月奏は嬉しそうだったから……まあいいか。


 時間がかかってしまったけれど、なんとか見つけられた傷全部に手当てをし、くしゃみをしないうちに服を着せたら、私は月奏の細い首に手を回した。


「?」


 なにをされているのかわからず、されるがままの月奏にそれを無心で着ける。


 犬用の首輪。先ほどバスタオルや着替えを探すときと同時になにか使えるものがないか見繕っていた時、これを見つけた。なぜこんなものが家にあるのかはわからない。学生時代の学園祭か、はたまた忘年会か、私自身は羽目を外すタイプではないけれど、誰かのふざけた跡がなにかしらでこちらに流れ着いたのかもしれない。しかしこの子だって犬よりは知性あるだろうし、手先も使えるだろうから、それのバックルと穴に無理矢理南京錠を通し、一人じゃ開けられないものを作った。リードの持ち手の部分はベッドの足に通して括り、ベッドを浮かせない限りは離れられないようにした。おそらく、月奏のほぼ骨と変わらない細い腕じゃ持ち上げられない。


「絶対外そうとしたり、この場所からどっか行こうとしたりしたらダメだからね。もしやったら……わかるよね?」


 それでも何処かに行ってしまうかもしれない不安が拭えなかった私は、最後に言葉で釘を刺した。なんとなくこれがいいものじゃないと理解し始めたのか、段々と月奏の怯えに占領されていく表情が胸をチクチクとくすぐる。


「それじゃ、いい子でね」


 私はそう告げると、背中に月奏の視線を感じながら、少しだけ焦ったような感覚を手汗とともに握りしめ、家を出た。





 時間は昼を過ぎ、太陽がすぐ眠くなる冬の今はもう陽が傾きかけていた。私はそれを見てさらに焦りに背中を押された。


 車に乗りながら、必要なものを頭の中でできる限りあげていく。計画性もなく誘拐してしまったせいで、必要なものが家に揃っていない。家から出られないようにするような仕掛けすらないから、今から調達してくるしかなかった。先ほど月奏に首輪をつけたのは、そのための応急処置。


 食料、監禁するための道具、月奏の着替え、家を出なくても済むような生活を頭に思い浮かべながら、早く帰らなければ月奏が逃げ出してしまうかもしれないと焦る手は粗暴にカゴへとアイテムをかき入れていく。


 いくつもの店を回った後、人生で一番アクセルを深く踏み込んだ車は、ようやく家へとたどり着いた。焦りすぎていたのか、太陽は家を出るときにいた場所からそこまで動いてはいなかった。


 私は鍵を開け、家の扉を開く。玄関に私のものではない、子ども靴がおいてあり、私は一度胸を撫でおろした。けれど裸足で逃げた可能性だってあるから、この目で見ない限りは安心できなかった。私は早足でベッドの方へと赴く。


「あ……」

「ひっ……ご、ごめんなさい……!」


 そこには、ちゃんとおりこうさんな月奏はいた。その光景はようやく私に安らぎを齎した。けれど、その床にはおりこうさんになりきれず粗相をした証が広がっていた。私がそれを見つけた途端、月奏の目からぽろぽろと涙が零れてきた。悪いことをしたのは自分でもわかっているらしい。


(トイレ……考えてなかったな……まあいいや)


 私は自分の失態を嘆きながらも、それを悪びれもせず月奏に突きつける。ちょうど虐げられる理由のあるチャンスなんだ、責めてしまおう。


「これ、なに?」

「ごめ、ごめん……なさい……!」

「いい子でいてって、言ったよね?」

「ごめんなさい……ごめんなさい……!」

「うるさいよ」


 バチン、と、私の手によって容赦なく硬く張り詰めた音が月奏の頬から鳴った。すると驚いた月奏は一瞬だけ涙を止めて、それからさっきよりも大粒な涙を静かに溢れさせた。


「っぐ……ひっぐ……」


 私は反対側の綺麗な頬もバチン、と平手で大きな音を鳴らした。さらに涙の量を増し、両頬を赤く腫らせた月奏を見て、私は充足感に似た感覚が胸の内で膨らんでいくのを感じた。


「ねぇ、もう二度としない?」


 リードを引っ張り、折れそうなほど細い月奏の首を乱暴に手繰る。恐怖に表情を支配された月奏はふるふると、弱々しく首を横に振った。


「しません、しないです……!」

「破ったら、わかってるよね?」


 目を瞑りながら懸命に首を縦に振って訴える月奏。それに免じて私はリードを手放す。床に打ち捨てられた月奏を見て、私はため息を吐いてから頭を掻いた。


「……お風呂、もう一回入ってきなさい。包帯とか、全部外していいから」


 首輪を外しながらそういうと、暗い顔のまま目を合わせずとぼとぼと月奏は去った。私はそれを見届けてから掃除道具を取りに行った。





 お風呂の扉前に新しく買ってきた着替えを置いたのち、私は玄関と家の中身を仕切る扉にホームセンターで買ってきた鍵を取り付けた。これで内側から月奏が扉を開けられなくなって、脱走することもできなくなった。幸い、この扉の内側にトイレはあるから、閉め切ってしまっても問題はなかった。同じように開けられる窓にも鍵を取り付け、数年過ごしてきたこの部屋が監禁するための牢獄へと姿を変えた。


 お風呂に向かいもう一度月奏を洗いすぐさま上がらせて、私はドライヤーを取り出し髪を乾かす。


「せんせぇ、るのんもうそろそろおうちに帰らないといけないよ?」


 そう言われて、ドライヤーを動かす手が止まってしまった。「あちっ」と、一ヶ所に熱風を当てられ跳ねる月奏の声が聴こえて、ハッとしてもう一度手を動かした。


 夕方になれば、家に帰る、それは普通だ。月奏からそんな疑問が出てくることだって当たり前。私はしばらく黙ってから、ドライヤーを止めた。


「……月奏は、お父さんとお母さんのこと好き?」

「えっ?」


 突然の脈絡もない質問に月奏はこちらを振り返った。


「……うーん……」


 即答はしなかった。好きでも嫌いでも、この年代の子ならなにも考えずに口から出るものなのに。


「わかんない」


 しばらくの唸り声からではのはそんなパッとしない答えだった。けれど、今の私に一番欲しかった言葉だった。


「そう。それじゃあ帰らなくていい」

「どうして?」

「家は、お父さんとお母さんが大好きな子が帰る場所だから」


 その答えに月奏は納得していない様子だった。けれど意味を問うでもなく、前を向きなおした。なにも言わないから、ここで暮らすことを受け入れたんだろうか。私は後ろめたい気持ちが自分の中に在るのをわかっていながら、もう一度ドライヤーを起動させた。


 髪が乾いたのち、興味本位で身長を計ってみた。計測用の器具なんてないから、油性ペンとティッシュ箱と壁で作る、古典的なもの。支柱のあるいい感じの場所に月奏を真っ直ぐと立たせ、その頭にティッシュ箱を乗せたのちペンでその位置に印を付ける。床と印までの距離を巻尺で計ると、おおよそ一二六センチだった。この身長は大体二年生の平均くらい。平均より小さい子は珍しくないとしても、月奏だとろくに栄養が取れてないことの方が大きそうだ。


 夕飯までまだ少し時間があったから、私は買ってきた荷物の中からいくつかの冊子を取り出して、テーブルの上に広げた。


「なぁに、これ?」

「ドリル。これで勉強するの」


 教科書と同じくらいの大きさで、それよりも少しだけ厚さが薄いいくつかのドリル。月奏と同い年の四年生用のそれは、実際に学校で使う教科書準拠で単元ごとに内容が並べられていて、使い方さえ工夫すれば学校と大差ないくらいの勉強はできる。けれどいきなりそんなものを出された月奏は疑問が止まらないようだった。


「勉強なら学校でするよ?」

「……ランドセルもないのに?」


 私が意地悪くそう言うと、月奏は困った様子になり、やがて下を向いてしまった。言葉の裏にある、学校に行けないという意味を月奏なりに汲み取ったんだろう。


「……別に、勉強は学校じゃないとできないわけじゃないよ。先生なら、ここにいるし」

「せんせぇが、教えてくれるの?」

「うん。だから学校は行かなくていい」

「そっか……」


 月奏は呑み込めないといった様子でドリルを見て固まってしまった。それはそうだろう。家に帰らなくていい、学校にも行かなくていい、そんな今までの義務がすべて消え失せた環境に前触れもなく連れ去られたんだ。


「それとも、学校行きたかった? お友達と会いたい?」

「ううん」


 戸惑っているように見えた月奏は案外即答で、私は驚いた。未練も、なにもないように見える。


「友達いないもん」


 そう月奏が表情一つ変えず口にする。見かけだけじゃなく中身にも未練はないようだった。悲しいくらいに。


「……どうして?」

「るのんには『るのん菌』がついてるんだって。だからみんなるのんに近づかないし、るのんのこと嫌いなの」


 さらっと、重々しい答えを月奏は放った。それは、残酷にも小学校の中で生活しているとよく見る光景だった。いじめの類。最初は、好きではないと感じた子を突き放すための防衛的な行為。冗談が混じってるものだってあるだろう。けれどそれが加害者も被害者も、傍観者も私たち教師も知らないうちにいじめになっていく。それの対象に、月奏はなってしまったんだ。家に連れ込んだ時の身なりを考えれば、汚物と扱われる理由なんていくらでもあるんだろう。なおさら、この子を学校に行かせられなくなった。


「……そう。月奏に菌なんて、ついてるように見えないけど」

「でも、みんな言うよ?」

「ここにみんなはいないよ」


 言葉で外界への視界を遮る。もう、親や学校のことを月奏に思い起こさせるのは、私が辛くなってきた。


「それに、大人の言うこと信じられない?」


 また、意地の悪い言葉だ。月奏は、本当は大人なんて信じられない立場のはずなんだ。けれどその純粋さで、全部信じてしまっている。自分が間違っていると。


「ううん」

「よし。それじゃ、話してても進まないし、勉強始めようか」


 もう二度と外へ目線を向けなくて済むように、私は月奏の目をテーブルに広げられたドリルへと誘導し、殻に籠るための勉強を始めた。


 とりあえず、月奏が今どのくらいできるのかを確かめるために、ドリルのさわりだけやらせてみた。が、正直、あまり出来は良くなかった。今は冬だから、ドリルの半分以上の範囲を学校で習い終わっているはずだけれど、月奏はまるで初めて見るような反応ばかりしていた。


 それだけならまだいいものの、二つ下の学年がやるような範囲でも、ときどき躓いてしまう。掛け算と割り算すらたまに怪しい。二桁にもなれば、間違えることの方が多く感じられる。


 月奏にはこの教材たちはまだ早いと理解した私は、他の教材なんて買ってないから、ノートを切り取り、手製で百マス計算を作り月奏にやらせた。ランダムに散りばめた数字たちに向かって、月奏は一言もしゃべらずに真剣に向かい合った。


 足し算、引き算、掛け算、割り算、すべてのパターンを順番にやらせたけれど、どれも普通の子が解くよりも時間がかかった。そして丸付けをしていくと、大体全体の二割程度間違えていた。


「そっか……」

「……ごめんなさい、るのん、わるいこで……」


 小さく零してしまった私の言葉を聞き取ってしまったらしい月奏は、今にも泣きそうな顔になりながら自らそう言った。責めるつもりなんてなかった私は驚いて目を見開いてしまった。


「どうして、自分が悪い子なの?」

「だって、ぜんぜんお勉強できないから……」

「別に、最初からできる子なんていないよ。それにここは学校じゃないから、みんなに合わせることもない。できるまでやればいいよ。焦る必要なんてない」

「……おこん……ないの……?」

「えっ?」


 そっ、か……さっきまでの私なら、ここは責め立てて虐げる部分なんだ。でも、それでも、教師としての未練を捨てきれていない私は、月奏を怒るような気にはなれなかった。


「怒るわけないよ。言ったでしょ? できるまでやればいいって。月奏ができるところから、やってこう」


 私がそう言うと、月奏は袖でごしごしと涙を拭って、こくりと縦に頷いた。

 その様子を見ながら、私の内側に今更、悪になり切ることを恥じる自分がいることに、憎しみが広がっていった。





「あー……どうしようかな……」


 勉強を終わらせた後に夜ご飯を食べると、すぐに良い子は寝る時間。そんな時に、私は寝床が一つしかないことに気づいた。


 うちにあるベッドはシングルベッド一つだけ。他に敷布団も掛布団もない。だからといって月奏のようなか弱い子どもを床で寝かせるわけにもいかないし、私だってそんな惨めな思いしたくない。となると、消去法で取れる方法は一つだけだった。


「月奏、こっちおいで」


 先に大人気なく布団へと入った私は、買ってきたパジャマに着替えた月奏を手招きで呼んだ。


「せんせぇもここで寝るの?」

「そりゃね。ベッド、一つしかないし」


 そう答えると、月奏は仄かに嬉しそうな顔になった気がした。自分を虐げた人間と一緒の布団で寝るなんて拒絶されると思ったが、まったくそんな素振りはない。


 布団を持ち上げる私に向かって月奏は真っ直ぐ突っ込んでくる。ぽふ、と布団を鳴らしたのち、私の腕の中から月奏は顔を出した。


「あったかぁい」

「布団だからね」


 月奏がはみ出てしまわないように布団をかけてから、枕元に置いてあるリモコンで電気を消す。枕は子どもとはいえ少しだけはみ出てしまうから、私の右腕を伸ばして枕代わりにしてあげた。電気を消してから、落っこちないように月奏を壁側にすればよかったな、と少し後悔する。暗闇の中、蕩けた表情が丸わかりの月奏に、ペットへ向ける類の、そんな愛おしさを少しだけ感じた。


「……」

「……っ!」


 ふいに私が月奏に手を伸ばすと、びくりと首をすくめた。ただ撫でようとしただけなのに、罪悪感が手のひらに広がっていく。あ……と、私から小さく声が漏れた。


「別になにもしないよ」


 そう言って、私はゆっくりと月奏の頭に手を乗せた。想像と全然違うやわらかいものだったからか、すぐに月奏から警戒心は溶けていった。


 今のは、月奏の防御本能が生きてくる上で会得してしまった反応なんだろう。今まで月奏を取り巻いていた環境は、私が思うより罪深いようだった。けれど、それをさらに増幅させている私がいるのも事実。


「なにもしないの? おこんないの?」


 されるがままに撫でられながら、月奏は心底不思議そうに今日何回目かのその質問をする。


「おこんないよ。怒ったって意味ないもん。それに寝るときとか、食べるときとか……人にとって必要なことしてるときくらいは、ゆっくりしたいでしょ」


 もっともらしいことを垂れているけれど、その中身はただの私のエゴだ。どす黒く染まっているクセ、人の道を外れきれない私は、月奏にとっての安全地帯を無意識のうちに作っている。そうすれば、本当に月奏が嫌がったとき、月奏も……私も、そこに逃げ込むことができるから。


 等間隔な速度で月奏の頭を繰り返し撫でながら、邪悪に身を堕とした今日のことを反芻する。いつまで、私は月奏と一緒にいられるのだろうか。もう捜索届とか、出されているんだろうか。それとも、月奏に一切執着のない親は、むしろ消えて嬉しいのだろうか。なんにせよ、この先の私にあるものは滅びのみで、それは未来のなかった今までにとっては、救いだった。終われるのなら、その先を私は望む。


 今日一日だけで、月奏がどんな子なのか大体わかった気がした。月奏は……誰からも愛されなかった子だ。攫いはしたけれど、元々、この子に行く場所なんてどこにもなかったんだ。


 月奏は、静かに泣く。殴られてる最中すら、声を殺して。それは私にも憶えがあった。怒られて泣いて、泣いたら「うるさい、泣くな」とさらに責められる。だからやがて、うるさくならないように静かに泣くようになる。いつかは人前で涙すら見せなくなるけれど、まだ子どもの月奏は涙を抑え切れるほど我慢強いわけではないらしい。


 それと、月奏は自分のことをダメな子とか、できない子ではなくわるいこと言った。そう、言われ続けたんだろう、いくつもの場所で、数々の大人に、お前は悪い子だと。


「すぅ、すぅ……」


 先に眠りへと入った月奏を、夢の中くらいは少しでも休めるようにと、おまじないをするように、やさしく抱き寄せた。

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