8 光を失った道の先
スタンガンを突きつけたあの日から、たびたび夢を見るようになった。
「せんせぇ、嫌い。もう二度と、近づかないで」
それは決まって、月奏が私を捨てて何処かに行ってしまうものだった。それは私にとって望んでいることであり、そうすれば、月奏も幸せになって、この関係も終わる。そのために、嫌われるために、私は月奏を何度も虐げた。なのに。
「待って……待って月奏……!」
夢の中では、感情の制御が効かない。むき出しになった脆弱な私が、月奏が消えてしまうのを拒絶し、取り戻そうと去り行く背中に手を伸ばす。
何度も見ているのに、見るたびこれが夢だということも忘れて、月奏を醜く追いかける。
「る、のんっ……!」
まるで水を浴びせられたように、ビクリと布団の中で跳ねる。視界が真っ暗で、なにがなんだかわからない。月奏を追いかけている時より頭が鮮明になっていることに気がついて、ようやく夢と現実の区別がつく、そんな風に、夜中に起きることが何度もあった。
「せんせぇ……? よんだ……?」
時々、月奏も起こしてしまうことがあった。それが罪悪感を一番掻き立てた。呼んでない、寝てなさい、そう言いながら手のひらで月奏の目を覆い隠して、その夢からも目を背けた。
*
「せんせぇ、三つ編み教えて!」
「は……?」
そんな夢を見たのも何度目かの日曜日、休日なのに寝不足の頭を抱えていると、月奏が突拍子もないことを言い出した。そして先ほどまで月奏が観ていたアニメを思い出して、納得した。
「……もしかして、ピュアリィ?」
月奏は恥ずかしげもなくこくりと頷いた。ピュアリィの主人公は、腰まで届きそうな長い髪を後ろに三つ編みで一本に纏めている。大方それに憧れたのだろう。まあ、三つ編みくらいならしてあげるけれど。
私はそれを承諾して、座布団の上に座った私の前に月奏を背中向けで座らせた。月奏の真っ直ぐ垂れ下がった髪を、後ろから一本の三つ編みにしていく。最初出逢った時はボサボサだったのに、やっぱり若い、手入れをすれば艶々で、その手触りにずっと触っていたくなる。
「終わったよ」
私は月奏の髪を編み終えて、月奏の肩を軽く叩く。するとおもむろに振り返った月奏の頬は、今にもはち切れそうな風船になって膨らんでいた。
「もー! 教えてって言ったのに!」
「え、えぇ? して欲しかったんじゃないの?」
「して欲しいのはして欲しいけど……それよりもやり方教えてほしかったの!」
自分が髪型を真似したいから訊いたのかと思い親切でやってあげたけど、なんだか見当違いだったようだ。
とは言ってもどう教えたものか。三つ編みなんて人生でどう習得したか憶えてない。数秒唸ったのち、私は月奏の首を絞めた麻縄を取り出した。それを見て少しだけ萎縮する月奏を感じながら、少し長めに三本切り取った。
「これで練習しようか」
自分に危害を加えるものじゃないとわかると、月奏はどこか安心した様子だった。
デモンストレーションとして私が端っこを編み込んで、やり方を教える。それに続いて、月奏が拙い指先で真似をする。野球のボールすら握り込めなさそうなほど小さい手で、それでも一生懸命立ち向かっていた。やっぱり月奏はできない子。習得まで数時間かかって、もうすぐお昼ご飯といった時間になって、ようやく満足いくぐらいの出来になった。
「やった! 綺麗にできるようになったよ!」
「うん。よかったね」
「よぉし、それじゃせんせぇ、後ろ向いて!」
「……はい?」
それじゃあになんで繋がるのか理解できなくて、人形のようにぽかりと首を傾げてしまった。
「だからせんせぇに三つ編みするの! だから後ろ向いて!」
「……なんで?」
「絶対似合うからー!」
「似合わないって。ただでさえ芋の塊なんだから」
「せんせぇ、美人なのに」
「びじ……なに言ってんの、そんなわけないでしょ」
「えー。絶対似合うよー。お願い、一回だけだから!」
過去に類を見ないほど月奏が引き下がってくるから、私は渋々受け入れた。どうせ家の中、誰も見やしない、減るものでもなし。
私は月奏に背中を向けて、どことなく悶々としながらじっとする。先ほどまで麻縄に向けられていた拙さを、身をもって感じる。可愛らしいけれど、時々不器用に引っ張られて痛い。
「できた!」
眠ってしまいそうなほど長い時間じっとしてもうすぐ寝そう、というタイミングで月奏が大声を出し、びくりと肩が跳ねた。
叫ぶや否や、月奏は背中から私を押し上げ洗面台の鏡まで移動させた。
「ほら!」
月奏が両腕を鏡に向けて自信満々に視線を誘導する。
そこにはいつもの黒を纏った私とは違う、陽の当たる顔はあった。
「せんせぇ、本物のピュアリィみたい!」
「そんなわけないでしょ」
月奏が抱きついて来ながらそんなことを言う。そんな、世界を救うヒーローみたいな、キラキラなものとは別物なくらい、見たらわかるのに。
「これはね、ピュアリィが友達に教えてもらった髪型で、これがあると勇気が湧いてくるの!」
その勇気が湧くのは私じゃない。それに、今私が欲しいのは、勇気なんかじゃなくて、平穏だ。
私は後ろ髪引く重さにもう一度鏡を見る。鏡に無頓着だし、いつもは顔を隠すように前髪を下ろしていたから、自分の顔をまじまじと見ることなんてないけれど……意外と、童顔だ。
その日は何処かに出かける用事もなかったから、ずっとそのままの髪型で過ごしていた。なにかにつけて月奏がかわいいかわいいと囃し立てて困った。けれど、髪が後ろにある便利さには感心した。今日一日だけのもので、明日になれば跡形もなく解くつもりだったけれど、月奏がこの姿なだけでいつもよりずっと明るい顔になるから、なんだかんだ気に入ってしまった。
*
そのお気に入りはずるずると翌日まで引き摺って、自分から三つ編みにしてまでその髪型を学校まで持って行った。自分からこの姿になっておいて指摘されるのは当たり前なのに、触れられるのが怖かった。
「おー! かわいいじゃん!」
最初に反応したのは先輩だった。出勤して三秒足らずで予想通りの反応を予想以上の騒々しさで返してくる姿に少し呆れた。
「元々清楚なお嬢様系だったのに、その髪型だともっと雰囲気増すね」
「私のことそんな風に思ってたんですか」
「褒め言葉だって。まあでも、なんて言うかあれだね。ただでさえ身長低いのにこの髪型だともっと小学生っぽく見えるね」
「喧嘩売ってます……?」
デリカシーを捨てコンプレックスを的確に抉ってくる先輩に憎悪が向く。平均より小さい私は、クラスの子達にも数人身長を抜かされている。ただでさえ威厳がなくて嫌だったのに……もうこの髪型やめようかな。冗談まじりにそう思っても、月奏の顔が脳裏を過ぎると、そんな気もすぐに失せた。
けれど、こんな髪型を変えて気分転換をした日にも、私を追い詰めるものは無くならなかった。変わったことをすると必ず悪いことが起きる、私の悪いクセだ。
小学生は授業でどこに行くにも必ず整列して集団で行動する。私はこれが大の苦手だった。言うことの聞かない動物たちを綺麗にまとめ、同じ行動をさせないといけないから。そんなの、怒ることのできない私には無理に決まっていた。今日もそんな苦難を強いる場面があった。
私のクラスはどこのクラスよりも一段と騒がしい。私が怒らないから、水を得たように喋り倒すのだろう。一組である私たちのクラスが出発しないと、先輩が持つ後ろの二組が動こうにも動けない。いつもはそのせいで遅れが生じてしまう。けれど、今日の私は、子どもたちが美味しそうに啜る水を枯らした。後ろ髪に宿った勇気に、背中を押されてしまった。
「うるさい。ずっとここで立ってるつもり?」
強い口調で放たれたその言葉は、廊下に飛び交っていた児童たちの声を一瞬で地面に落とした。
一言、ただの注意の言葉。それだけなのに、感情の死んだ声に乗ったものは、言葉の意味よりも多くを乗せて廊下に響いた。
気づけば児童たちは私に視線を集めており、そこにあった表情が怒られたことによる恐怖というよりは、どうしてしまったんだ、という驚きに似た冷たいものだった。向こうで同じように私を見つめる先輩の視線に気づいて、今の自分を理解した。
月奏の時のような、暴力的な中身が漏れ出ていた。いつもの優しい「天見先生」じゃなくて、無慈悲に上からねじ伏せる「せんせぇ」。
「……行きますよ」
私は逃げるように生徒たちから目を逸らして、進行方向へと進んだ。戸惑いながらも、児童たちはぞろぞろと、バラバラの足音を鳴らし後ろをついてきていた。初めて、一言も喋らずに移動ができた。
*
「天見ちゃん!」
その授業が終わった休憩時間に、周りに誰もいないタイミングを見計らって先輩が私の後ろから手を掴んできた。
「……なんですか」
「なんでって……なにかあったの? 最近、どんどん顔暗くなってってるよ?」
先輩の握る力が強くなる。ずっと心配してくれていた、馬鹿みたいに。自分になにかあるわけでもないのに。それが鬱陶しかった。
「なんでもないです」
「ないわけないでしょ」
「放してください!」
乱暴に先輩の手を突き飛ばした。絶望に暮れた、先ほど私が児童を一喝した時と同じような表情を先輩がした。胸が抉られる。
「っ……先輩には、解決できないことですよ……」
先輩は情に負ける人だ。もし月奏のことを知ったなら、絶対共犯者になると言い出すだろう。そんなこと、させられるわけなかった。
*
今日の私はおかしくて、せめて弛んだ精神を締めるためにも顔を洗いにお手洗いへと行った。そこの鏡に、私の顔が写った。
こんな精神の幼さが露呈したような醜い顔。それを曝け出すこの髪型は、私への罰そのものだ。この世のなによりも穢れて見えたその顔を、蛇口から掬った水で潰した。その瞬間、私が、せめて子どもたちの前でだけはとなんとか保ってきたはずの天見先生像すら崩れてしまったことを悟った。
*
自暴自棄になりたかった。それこそ、あの月奏の手首を切った日のように、死にたかった。
けれど、こんなにボロボロに自分をくしゃくしゃにしてもそんな勇気は私にはなかった。だから、自分を月奏のように痛めつけたかった。
帰り道、コンビニに行って、お酒とタバコとライターを買った。私はお酒に弱くてほぼ飲めないし、タバコなんて人生で一度も吸ったことはなかった。どれを買えばいいかわからなかったから、とりあえずスマホで調べて一番上に出てきたものをなにも考えず買った。自分の身体を滅ぼせれば、なんだってよかったから。
「あ……灰皿考えてなかった……まあ、皿でいいか」
食器棚の下側に追いやられていた使用頻度の少ない皿を引っ張り出して、それを犠牲にすることにした。とりあえず思いつくものを全部用意して、夜ご飯さえまだなのに、私はお酒の缶を開けた。私の気も知らないで、爽やかな炭酸の音を弾けさせる。
先にお酒を飲んでから、タバコを吸うことにした。もしタバコを先に吸って、想像以上に辛かったら、一度体験したことのあるお酒の辛さに、足踏みしてしまうかもしれないから。
それに成人ぶりか口をつけて、目をぎゅっと瞑りながら喉奥に流し込む。自分がもう飲めない、無理、と思った一歩先まで。
「……っはっ、うえっ……あぁ……」
液体に奪われた呼吸と、身体の中に侵食する毒にやられる。お酒なんて、私にはただ苦いだけで、好んで飲めそうにないことを今再確認した。けれどこれで終わりじゃない。
「はぁ……ふぅ……」
まるでバンジージャンプを飛ぶ直前のような、緊張に震える深呼吸を繰り返しながら、私はタバコの箱を開ける。すでにお酒で頭を打たれたような感覚が滲んできている。意識を手放す前に、早くしなきゃ。
一本タバコを利き手で取り出して、その先をもう片方の手で点けたライターの火に炙る。
「ん……つかない……」
どれだけ先を炙っても、想像する線香花火のような赤みは一向に灯らない。それはやめておけという暗示だったのかもしれない。けれど毒の回った頭じゃ、そんなサインで止まる考えはなかった。
「ああ……吸いながらじゃないとつかないんだ……」
私は何度も打ち間違えながらスマホで検索をかけ、一生知らないでいたはずの仕掛けを知る。頭で整理できないから逐一声に漏れ出て、それを司令塔に身体を動かす。
タバコを口に咥え、吸いながら、先端にライターの火を近づける。ちりちりと、赤い灯りが伝播していくのが見えた。
点いた、と思った瞬間、準備もさせてくれずに喉奥へと一気に煙が駆け込んできた。
「げほっ、げほけほっ、えほっ……」
反射でむせて、それに手から飛びかけたタバコをいけない、となんとか本能で捕まえる。火事にはならなかったけど、そんな安心できそうもなかった。
吸えた? 吸えたかわからないけど、酷く重たい頭痛。内側から直接脳を鈍器で殴られている。前が明滅してよくわからない。息もまともにできてるかすら確認できない。ただ危険信号を心臓がうるさく鳴らしている。
「せんせぇ……大丈夫……?」
そんな荒んだ私の様子に気づいたらしい月奏が、私の横へと近づいてきた。月奏に影響のある場所で吸うなんて、配慮のかけらもない、今更気づいた。けれどその身体を傷つけるのなんて今更だ。
「……うるさい。今はあっち行って」
「でもせんせぇ、すごく苦しそう」
「言うこと聞けないわけ!?」
私は月奏に向かって容赦なく手を振り上げた。それは月奏の頬を大きく鳴らして、月奏はテーブルの角に頭をぶつけながら床に打ちつけられた。そんなの、私には関係なかった。
「いた……せんせぇ……どうし、たの……?」
恐怖と、心配と、不安がないまぜになった表情で月奏は私の目を捉える。やめてよ、そんな目で見ないでよ。合わさる目に憎悪が宿って、私は月奏に手を伸ばす。
何処か脳奥の深い場所から、警鐘がガンガンとなった気がした。これ以上はやめておけ、と。言うことを聞くように、私の手は竦んだ。
いや、どうだっていい。そんな警告に、手を止める必要なんてない。私はまた、編みこまれた髪に宿った勇気に、底なし沼へと背中を押されてしまった。
理解できずに私の顔を見つめる月奏の袖を捲り、リストカットの痕が未だ残る手首を露出させた。私はタバコを右手に持ち、その痛々しい傷跡に向かって、怨念と共に擦りつけた。
「ああぁ! 熱い!」
ジュッ、と、わかりやすく音がした。それは朦朧とする頭にこだまして、永遠と脳裏に染みついてしまいそう。
楽しいのか、苦しいのか、もうわかんない。ただ、月奏を痛めつければ私は自分を保てる。それだけは知っている。
「せ、ん、せぇ……くる、し……」
逃げないように、月奏の首を掴んで床に縛りつける。涙を浮かべながら、状況も理解できてないだろうに、それでも一心に見つめてくるその顔が私の視界をすべて奪う。
かわいい顔。あなたの褒める、私なんかより、ずっと。その顔を、もっとくしゃくしゃにしてしまえば、月奏は歪んだ表情を見せてくれるんだろうか。その綺麗な顔を、壊してしまえば。
ぐしゃりと先の潰れたタバコを捨て、酔いの回った手でもう一本取り出し火を点けた。覚束ない手を、月奏への嗜虐心だけで操作する。火の灯ったことを知らせるように、辛みが煙とともに口の中に駆け巡り、完全に私は壊された。
「こわい……や、めて……せんせ……!」
さらに月奏を押さえつける手に力がこもる。今ある全部の嫌な感情を、無防備で小さな体躯に殴りつける。
邪悪を持った手が、自然と月奏の頬辺りに伸びて、その赤くなった先で、純粋に満ちたその顔を、潰す。
「ああぁぁぁぁ!」
恐怖、苦しみ、哀しみ、子どもが持てるだけの悲観的な感情を全部詰め込んだ、絶叫。泣く時すら声を押し殺す月奏からこんなにも大声が出てくるなんて。まるで痛み分けとでも言うように頭痛に劈いて、激痛だ。
「あつい、いたい……せんせぇ……! やめて……!」
その、いつもより悲痛な声にどこか違和感を覚え、眩暈が薄まり、目の前の光景がようやく理解できるようになると、私は愕然とした。
ほっぺたらへんを狙ったはずなのに、酔いに狂った手の先は、月奏の左目を容赦なく刺し潰していた。閉じきれなかった瞼の合間に入って、その瞳を容赦なく踏み躙っている。
「……っ! 月奏!」
眩暈も酔いもなにもかも吹き飛んだ。私は一目散にタバコを灰皿に捨て、月奏を持ち上げ洗面台へと駆けた。蛇口から勢いよく流れる水を乱暴に掬って、月奏の左目へ何度も打ちつけ灰を必死に流そうとする。手が震えて、うまく掬えない。冬の水道から流れる水の冷たさが痛い。
一通り洗い終えて、私は月奏の顔を正面から見た。
爛れて、未だ端々に灰の欠片が散っている、曇った瞳。光を失ったその宝石に、私は一縷の望みをかけて、反対の目を手のひらで覆い月奏に訊く。
「……月奏、見える?」
月奏はゆっくり、首を横に振った。それは、私の心を、存在を、大きく揺さぶった。
月奏を痛めつけて保ったその心の形が、月奏を壊してしまえば、砂のように脆く、簡単に崩れていった。
その隙間から、今まで見ないふりをしていた私の罪が濁流のように流れてきて、息ができなくなった。
私は、月奏から、光を奪った。
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